「……ルカ、お願い……」
胸に顔を埋めていたゼルダが、顔を上げる。その目は潤み、熱を帯びていた。
ルカは、胸元に濡れた感覚を覚えた。
見ると、ゼルダの血がついている。
さきほど刃を入れた傷が、まだかすかに滲んでいた。ルカはそっと身を離し、布を探して、傷口を押さえる。
「……あっ」
「ごめん」
痛がらせたかと思い、ゼルダの顔を見た。
けれど、彼女の頬は紅潮し、唇がかすかに開いて――刃で自分を切るときと、同じ表情だった。
「……ゼルダ?」
ゼルダの目から、涙がこぼれる。
恍惚と、苦痛と。その二つが、同じ顔の上にあった。
「……ルカ」
気づくと、唇を塞がれていた。
ルカの頬に、ゼルダの涙が当たる。塩の味がした。
長いのか短いのか、わからなかった。
ルカは、巻き込まれていく。
これが自分の望んだことなのか、ゼルダに望まれたことなのか、その境目が、もう曖昧だった。
ゼルダがひどく自分を求めているのは、わかる。
それと同じだけ、自分を恥じているのも。
その二つに引き裂かれている彼女を、どうにかしてやりたかった。
ただ、それだけだった――はずだった。
断片しか、思い出せない。
ゼルダの表情。途切れた息。
やがて二人とも、力尽きるように眠ってしまったらしい。
肩に、重みを感じて目が覚めた。
ゼルダが、頭を預けて眠っている。
静かな寝息。これまで見たことのない、穏やかな寝顔だった。
夜中なのだろう。窓から射す月明かりが、ゼルダの白い肌を照らしている。
シーツをかけようとして、ルカの手が止まった。
傷は、無数にあった。古いもの、新しいもの。手当てのたびに、何度も見てきたはずの傷だ。
けれど今、ルカの目に映ったのは、傷の数ではなかった。
その一つ一つが、誰かの手で、わざわざつけられたものだ、ということだった。
偶然ではない。事故でもない。この体に刻むことを、望んだ者がいる。
望んで、選んで、一つずつ。
痛がる顔を見るために。血の色を見るために。
ルカは、その男を知らない。顔も、声も。
もう死んだのだ、と聞いている。
それなのに――見たことのないその男への憎しみが、体の奥で、ゆっくりと固いものになっていく。
喉の奥が、熱くなる。もし生きていたら。
もしこの手が届くところにいたら。
ルカは、そっとシーツをかけた。
指が、傷痕の一つで止まる。
なぞるでもなく、ただ、そこに触れていた。
朝が来た。
ゼルダは、いつもより早く起きて、台所に立っていた。
ルカが入っていくと、おはよう、と言った。
それだけだった。
ルカも、何も言わなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。
昨夜のことに、二人とも触れなかった。
その日も、次の日も。
触れないまま、夜が、また来た。
いつのまにか、ゼルダの症状は、だいぶ治まっていた。
激しい痛みは引き、食事の量も増え、熱も震えもなくなった。
『薬』を乞うことも、なくなった。
――けれど、それが、ルカを求めることに変わっていた。
心も体も、ルカなしではいられなくなっていた。
姿が少しでも見えないと、ゼルダはわき目もふらずに探し、名を呼んだ。
そのたびに、取り乱した彼女を、なだめなければならない。
相変わらず、外には出たがらず、人に会うのも避けた。
夜は同じベッドで眠り、昼も、ずっとそばにいたがった。
そうなると、ルカは、ゼルダの家から離れられなくなっていった。
たまに父のいる家へ戻ることも、稽古場へ行くことも、止めた。
ゼルダが眠っているか、ひどく落ち着いているときに、辛うじて買い物に出るのが、せいぜいだった。
そんなとき、遠巻きにこちらを見る視線を感じた。
けれど、それが何を意味するのか、考える余裕は、なかった。
ある日、家に戻ると、話し声がした。
中に入ると、ゼルダと、ルカの家へ家事の手伝いに来ている女――メイヤが、向き合っていた。
ゼルダは、取り乱して泣いている。
「メイヤさん。どうして、ここに」
ルカはゼルダに駆け寄ってなだめ、それからメイヤを外へ連れ出した。
「……坊ちゃん、お父さまが」
メイヤの話は、こうだった。
ルカの父に頼まれて、様子を見てくるよう言われた。
一族のあいだで、ルカとゼルダのことが噂になっている。
みっともないから、何とかするように、と。
聞いているうちに、頭に血が上ってきた。
何とかしろ、とは何だ。みっともない、とは何だ。
ゼルダはあんたの姪だ。俺はあんたの息子だ。
自分は来ないで、手伝いの女をよこして、何を言っている。
父は、自分を、疎んできた。カイに似ているというだけで。
母を、疑って、追い出した男……。
父だけではない。一族の大人たち、みんなだ。
お前たちは、ゼルダが切り刻まれているあいだ、何をしていた。
ゼルダのおかげで奴隷にならずにすんで、のうのうと村にいられたあいだ、何をしていた。
腐りきっている。
だから――そんな連中に何を言われようと、どう思われようと、もう、どうでもいい。
ルカはメイヤに、父には「わかった」と伝えてくれと言って、帰ってもらった。
父が、自分のことを気にかけるはずがない。これまでも、これからも。
その証拠に、それきり、伝言を携えて誰かが来ることは、二度となかった。
それからルカは、ますますゼルダと二人の暮らしに、引きこもっていった。
いとこ同士で祝言もあげていない。ゼルダは傷もので、ルカは年下なのに。
そんな言葉のすべてが、どうでもよかった。
一族の習わしでは、従姉弟同士が夫婦になることは許されている。それなら、何の問題があるというのだ。
お前たちが何もしないから、自分がそばにいる。それだけだ。
二人は、ただ求めあった。
そうしているうちに、ルカは、わからなくなっていた。
この熱が、自分の欲望なのか、ゼルダのものなのか。
胸の奥に感じているこの痛みが、ゼルダのものなのか、自分のものなのか――その境目さえ、もう。
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