冬が終わろうとしていた。
ある朝、ゼルダが言った。
「ルカ、剣の修練は?」
ルカは、息をのんだ。
ゼルダが戻ってきて以来、つきっきりで世話をしてきたから、ルカは一年ほど、道場に行くことも、剣を握ることもなかった。
答えられずにいると、ゼルダは、ルカの目を強く見据えた。
「ルカ。稽古に、行って」
ルカは、信じられない思いで、ゼルダを見た。
今のゼルダは片時もルカのそばを離れられず、少しでも姿が見えなくなると、半狂乱で家中を探し回るような状態だ。
そんなゼルダを置いて、道場になど行けるはずがない。そう言うと、
「じゃあ、わたしも、道場に行く」
また、思いがけない言葉だった。
一歩も家から出られず、ルカ以外の誰とも会えないというのに。
だから、口ではそう言っても、いざ外に出る段になれば、きっと無理だろう――ルカは、そう思った。
そう思って、放っておいたのだが、ゼルダが何度もいつ道場に行くのか、と繰り返し聞いてきた。
仕方ないので、以前に通っていた道場へ行き、師匠に事情を話し、ゼルダを連れてきてもいいかたずねた。
師匠は快諾してくれた——ルカは、半分断られることを期待していた。そうしたら、稽古に行かなくてもいいのに……。
道場に戻る日が来た。
ゼルダは、戸口の前で、立ち止まった。
体が、固くなっている。ルカは、その横顔を見守った。
本当に、大丈夫なのか。何度目かの問いに、ゼルダは、唇を結んだまま、小さくうなずく。そして、片足を敷居の外へ、踏み出した。
次の一歩までに、少し、かかった。けれど、ゼルダは、出た。屋敷から戻って以来、初めて、自分の意思で、外へ。
ルカのほうが、内心、慌てていた。残ると思っていたゼルダが、ついてくる。いったい、どうなってしまうのか。ゼルダ以上に、ルカの胸が、緊張で速くなっていた。
ルカとゼルダが道場に姿を現すと、師匠はゼルダが本当に来るとは思っていなかったらしく、目を見はった。
ほかの弟子たちは、好奇の目でじろじろと眺め、中でもルカと同年代か年下の者は、「女連れで来てやがる」と、はやしたてた。
ルカは気にしなかったが、案じてゼルダを見ると、その表情は、変わっていなかった。
ゼルダを道場の片隅に座らせ、ルカは、稽古に加わった。
久々に振る剣。一年あまりの空白がある。相当に鈍っているだろうと、覚悟していた。
だが、体は、剣を忘れていなかった。考えるより先に、体が動く。相手の剣を受け、かわす。頭が追いつく前に、手が、勝手に応じている。
その合間に、折に触れて、ゼルダを確かめた。
彼女は、静かに、道場の隅に座って、ルカを見ている。
その顔に、心なしか、生気が戻っているように見えた。
最初は、短い稽古を、週に一度行ければいいほうだった。
だが、ゼルダが、もっと頻繁に通うよう求めた。
ルカは気が進まなかったが、彼女に促されるように、回数も時間も増えていった。
「久しぶりだな」
ルカが道場へ戻って、数回通ったあと——稽古を終え、帰る支度をしていたときに、後ろから声をかけられた。
振り返ってみると、白金の髪に、水色の目をした、長身の細身の男が立っていた。ゼルダと同じぐらいの年齢にみえる。
ルカが必死に記憶を手繰り寄せようとしていると、
「前に何回か、組手をしたことがある……お互い、変わったからな。俺も髪と目の色で、お前だとわかった」
そう言われて、ぼんやりと白金の髪に見覚えがあるような気がしてきた。
「シヴァだ。戻ってきてくれてよかった」
その名前にも聞き覚えがあった。
道場に戻ってきて以来、遠巻きで好奇の目でじろじろ見られたり、はやし立てられたりはするものの、師匠以外はこれまで誰にも話しかけられたことはなかった。
なので、シヴァの温かい言葉がルカにはありがたかった。
それ以来、自由に組手を選んでもいいときは、ルカはシヴァと打ち合いをした。
ルカにとって、ゼルダ以外に話す相手というのが、師匠の他にはシヴァぐらいしかいなかった。
「……大丈夫なのか?」
道場の片隅に座るゼルダを見て、シヴァがルカにたずねる。
「……ああ、だいぶよくなっているんだ。こうして家の外に出られるまでになって」
他の人がゼルダを案じるのは、シヴァの口からでたこの言葉が、ルカにとっては初めてかもしれなかった。
「本当に、一年なにもやってなかったのか」
道場に戻って、シヴァと最初に組手をして言われたのがこの言葉だった。
黙って頷いたルカを、シヴァは信じられないような顔で見ていた。
ルカ自身も、剣をもった体が、空白がなかったかのように動くことに驚いていた。
そして、以前はうまくできなかった動きも、練習をしていないにもかかわらず、できるようになってもいた。
道場でいちばんの使い手は、シヴァだった。
道場へ戻って半年ほどで、ルカはシヴァに追いついた。
気づいたのは、ある朝の組手だった。シヴァの剣が、わずかに遅れる。
そこが、空く。手が、勝手に動きかけて——ルカは、止めた。
半歩、下がる。受けにまわる。シヴァの剣が、決まる。
シヴァは、誰よりも早く道場に来て、誰よりも遅く帰っていた。ルカは、それを知っていた。ルカは、シヴァの矜持を傷つけたくなかった。
また、別にためらう理由もあった。
物心ついたときから、言われ続けている。あの人に似ている、と。
北方の一族に、肖像画はない。だから、どれだけ似ているのかは、ルカにも確かめようがなかった。
顔の話で済んでいるうちは、まだよかった。
それから一年あまり、ルカは隠し続けた。
「おい、本気を出せ」
組手が終わったあと、シヴァが近寄ってきて、ルカの耳元にそうささやいた。
——見抜かれてしまった……。ずっと隠し通せるとは思っていなかった。
だが、ルカが思っていたよりも早くシヴァに、わざと勝たないようにしていたことを、気づかれてしまった。
何も言えず、きまり悪くしているルカの肩に、シヴァがそっと手を置いた。
見上げると、シヴァの少し難しそうな、だが温かみもある複雑な表情の顔があった。
「このあと、つきあえるか?」
稽古が終わったときに、シヴァにきかれて、再びルカは返答につまった。
本心としては、シヴァの誘いに乗りたい。だが、家ではゼルダが待っている。
ルカが稽古を再開してから、二年目になっていた。
季節がひと巡りする頃には、ゼルダは毎回道場についてくることもなくなっていた。
ときたま稽古を見に来ることはあっても、たいていは家で待っていた。
ルカが必死に思いを巡らせていると、断られると思ったのか、シヴァが残念そうな顔になる。それをみて、
「……もし、家に来てくれてもいいなら」
とルカが、とっさに思いついて言う。
シヴァは一瞬、この意外な申し出に驚いたそぶりをしたが、応じた。
自分で言い出したものの、ルカ本人がいったいどうしたものだろうか、と不安になってくる。
ゼルダの家に、人が来ることはまずない。シヴァのことは知っているとはいえ、いきなり何も言わずにつれてきてしまったら、ゼルダはどんな反応をするだろうか……。
ルカが心配しながらも、シヴァと二人で家に着くと、ゼルダの驚いた顔に迎えられた。
しかし、ゼルダはすぐに笑顔になり、シヴァを案内したので、ルカの方が逆に面食らってしまった。
「さあ、シヴァ、どうぞこちらに座って」
シヴァを食卓に座らせ、二人分に用意された食事を三人分に、分けなおしながら、シヴァと言葉を交わしている。
——シヴァの名前をおぼえている……。
あれだけ、ルカ以外とは誰にも会いたがらずに、家にこもっていたゼルダからしたら、思いもしないような光景が目の前にあった。
だが、それはルカの記憶の遠くにある、老貴族に嫁ぐ前のゼルダ。さらには、彼女の母のシグリッドの姿を思い起こさせるのだった。
夕食は、思いのほか、和やかにすすんだ。
剣のこと。道場のこと。ゼルダが問い、シヴァが短く答える。
ときどき、ゼルダが笑った。
ルカは、皿から目を上げられずにいた。
ゼルダの声が、自分ではない誰かに向かっている。
それを聞いているのが、慣れなかった。
「ちょっと疲れてきちゃったわ……わたしは、そろそろ休むわね」
しばらくしたあと、ゼルダがそう言うと、シヴァがあわてて席からたちあがる。それをゼルダは優しく制して、
「まだまだ二人で話したりないことがあるでしょう」
シヴァの方を向く。
「シヴァ、ルカに男同士のつきあいを教えてあげて」
ルカもシヴァも目を見開いてゼルダを見る。
ゼルダは立ち上がると、ルカに近づき、しなだれかかった。
「……楽しんでくるのよ。でも、他の女の人についていっちゃだめよ」
そう言って、茫然としている二人を残し、寝室へ行ってしまった。
しばらく考えたあと、ルカとシヴァは酒場に行くことにした。
「仲いいな……」
「……」
シヴァにそう言われ、ルカは顔を赤くしながら、視線を落とす。
ゼルダのいつも通りの行動だったが、シヴァの前でだと気恥ずかしさを感じる。
ルカが顔を上げると、シヴァは神妙な顔をしていた。ルカの視線にシヴァが気づくと、
「……子供の頃、彼女をみかけたかもしれない」
とシヴァは思いに沈むかのように言う。
子供たちが集まる行事に、親が迎えにきた。
そこにカイが現れた。真っ赤な髪をした女の子を抱き上げる姿を、子供も大人たちも誰もが見ていたというのだ。
「……あの人のこと、見たことあるのか?」
シヴァはうなずく。少し緊張しながら、ルカはたずねる。
「……俺と、似ていた?」
ずっときいてみたいと思っていたことだった。
ただ、それをよく知るはずのゼルダに対しては、きくことができない問いであった。
記憶を手繰り寄せているかのように、シヴァは目を閉じた。
「……そうだな。はっきりとは、思い出せない……だが、立っている姿や髪がお前みたいだった」
シヴァの答えに、ルカは黙り込む。
果たしてどれほど、自分はあの男に似ているのだろうか、と思う。
年配の人から向けられる視線。
そしてゼルダが時々見せる、自分を見ているのに、まるで別の人をみているような眼差し。
それらが最近増えてきているような気がするのだった。
そうやって見られることは、ルカをたまらなく、落ち着かなくさせた。
二人は、酒場についた。何人かの男たちが、生気のない顔をして酒をのんでいた。
かつて、ここは戦場帰りの報奨を手にした男たちで、活気に賑わっていたという。
席に着き、シヴァが酒を注文した。
酒が来るまでの間、周囲をざっと見まわす。
席はまばらで、二人連れなのはルカとシヴァたちだけだった。
ルカが酒を飲むのは初めてだった。
酒が持ってこられると、おそるおそる口にする。
喉に、強烈な焼けるような感覚が走った——だが、それは決して不快ではなかった。
シヴァが、おもしろそうに、ルカの様子をみている。
「おまえは、酒を飲むよりも女が先だったんだな」
そう言われて、酒のせいではなく、ルカの顔が紅潮する。
酒が入ったせいだろうか——シヴァの表情がいつもよりも柔らかい。
そして、普段は口数が少なく、物静かな彼が、饒舌になっている。
ルカは黙って、シヴァを見返す。
ルカの発せられなかった問いに答えるかのように、
「俺は酒の方が先だった。親父に10歳の時に飲まされた」
とシヴァは懐かしむように言う。
親父——。その言葉に、ルカは、鈍い痛みを感じた。
父親とは、もう、どれぐらい会っていないだろうか。
どんな顔をしていたのかも、はっきりとは、思い出せない。
黙り込んだルカに、シヴァは、何も言わず、カップに酒を注ぎ足した。
しばらく、二人とも、黙っていた。酒が喉を、焼いていく。
「……俺は」
ルカは、カップを見つめたまま、口を開いた。
「一度も、飲まされたことがない。親父に、何かを、してもらったことが」
シヴァは、何も言わず、ルカを見ていた。
「あの人とずっと、比べられてきたらしい。できのいい弟の方ばかり、皆が見て。女たちも、みんな、そっちばかりに夢中で……親父は、それが、嫌で。だから、従軍したとき立ち寄った沿海州で、あの人のことを知らない女と一緒になった」
ルカは、カップを、指でなぞる。
「それが、俺の母親だ」
シヴァは、静かに、耳を傾けている。
「なのに——生まれたのが、俺だった。あの人と、同じ、髪と目の色をした」
ルカは、一度、目を閉じた。
「親父は、それを、見て——母親が、裏切ったんだと、思い込んだ。他の女たちと、同じように。自分より、カイを選んだんだ、と。母親が初めてあの人に会ったのは、もうお腹が大きくなったあとだったのに」
「……お前の父親は、金褐色の髪に、青い目だったな」
シヴァが、低く、言った。
「筋が、通らない」
「通らない。母も、周りの人間も、そう言った。だが……親父は、聞かなかった。頑なに」
ルカは、笑おうとして、うまく、笑えなかった。
「たぶん、そう信じたかったんだと思う。俺が——母が裏切って、あの人とのあいだにできた、子供なんだと。じゃないと、説明が、つかなかったんだろう。この顔の理由が」
カップの中の酒を、ルカは、見つめる。
「母は、出ていった。俺を、置いて」
それきり、ルカは、口をつぐんだ。
シヴァは、何も、聞かなかった。ただ、ルカのカップに、もう一度、酒を注いだ。
ルカは父の記憶から気分をそらして、シヴァにきく。
「酒の方が先だったって……じゃあ、女の方は……」
若干遠慮がちにそうたずねたルカの問いに、一瞬シヴァは考え込んだようになった。
それから、言葉を選ぶかのように、ゆっくり話し始める。
「今のお前と同じぐらいのときだった。一緒になろうと思ってた……」
シヴァが遠い目になる。
「彼女の父親が帝都の商人に借金をつくって……一族の誰もが助けることが出来なくて、彼女がその商人のところへ奉公にだされることになった。三年で帰ってこれるはずだったんだが……。その商人の妾にされてしまって、戻らなかった」
シヴァは視線を落とした。ルカは思わずにはいられなかった。
どちらが残酷なのだろうかと。
ゼルダは切り刻まれて、壊れかけてしまったが、戻ってくることができて、今こうして自分と一緒にいる。
シヴァの恋人はゼルダのように傷つけられなかったのかもしれない——だが、シヴァのところへ戻ることはなかったのだ。
シヴァが向きなおると、笑顔になっていた。
まるで、さっきまでの暗い空気を払拭させるかのように、カップをかかげる。
「——次の当主へ」
「……何、言って……」
シヴァは微笑んでいたが、目は真剣だった。
「……自分で言うのもなんだが、これまでは俺が一番強かった。最も剣の腕がある男が当主になる——それが、この一族の決まりだ」
「……たまたまだ。俺はまだまだだ」
そういうルカを何も言わず、シヴァは見つめている。
その目は、そうではない、と言っていた。
シヴァと酒場で別れ、夜も深まったころに、ルカは家に戻った。
灯りはすべて落とされている中、ルカは静かに寝室へと行く。
ゼルダは扉に背を向けて、ベッドに横になっていた。
だが、起きているとわかったのでルカは近づきながら、声をかける。
「ただいま」
そっとベッドに入ると、泣きはらしていたようにみえるゼルダの顔があった。
「……遅くなって、ごめん」
ゼルダは答えず、抱き寄せられてルカの胸に顔を埋める。
「もう、帰ってこないんじゃないかと思ったの……」
「そんなわけないだろ」
ゼルダの目から涙が流れ、ルカの胸に落ちる。
酒場できいた、シヴァの恋人の話が頭をよぎり、ルカはゼルダを強く抱きしめる。
「どこにも行かないし……離さない」
——来年、成人したら……。子供ができても、できなくても、ゼルダと祝言をあげよう、とルカは決意する。
今の二人の生活は、ゼルダが貴族の屋敷から持ち帰ったドレスや宝石などを売って、細々とまかなわれていた。
成人したからには、自分で稼ぎたい……しかし、何をすればいいのかが、浮かんではこなかった。
ゼルダがさみしさの反動で、狂おしくルカを求めてくる。
腕がルカの首にまわされ、唇が合わさる。
それに応えるように、ルカも熱をもった体を重ねた。
翌朝、軽い頭痛を感じながら稽古に戻ると、シヴァはいつも通りの涼し気な顔で待っており、組手が始まった。
相変わらず、お互い余計なことは話さず、昨夜の夕食や酒場での、二人の間に流れた親密さはなかった。
だが以降、折に触れてシヴァは、稽古の帰りにルカの家に寄ったり、酒場に誘ったりした。
ゼルダもあの夜以来、積極的にルカがシヴァと出かけることを歓迎し、自身も買い物以外でも、一人で外へ出かけることが増えてきた。
回復している——ルカは、その変化を素直に嬉しく思った。
気が付けば、二人で出かけるときも、以前ほど、濃密には触れなくなった。
なぜだろう、と思ったが、正直、照れくさくもあったから、ルカにとっては悪いことではなかった。
そのかわり——家で二人でいるときは、ゼルダはルカから離れようとしなかったので、思いはますます深まりつつ、気持ちの表し方がかわったのだと思った。
それから、さらに一年、時が過ぎていった。
ゼルダの回復は、目に見えて進んだ。
ルカも、剣の腕を上げながら、日に日に、体つきが変わっていった。少年の名残りが、消えていく。
ゼルダが道場に顔を出すのは、もう珍しいことではなくなっていた。
最初のうちこそ、事情を知らない若い弟子たちは、はやしたてた。
けれど、緊張のほぐれてきたゼルダの口から、師匠も顔負けの、剣についての的確な指摘が飛び出すようになると、彼らは、すっかり大人しくなった。
稽古場の縁に座って、男たちの剣を見ている。ルカがまだ木剣を握っていた頃、そこにいたのと、同じ場所だった。
そうして——ルカは、一族で成人と見なされる年齢に、なっていた。
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