朝、ルカがシーツから抜け出し、ベッドの端に座る。
その背中を見ていられるのが、どれくらいの時間か、ゼルダは一度だけ数えたことがある。20を数える前に、彼は立ち上がってしまった。
毎日同じ顔を見ていれば、どれほど整っていても慣れるはずだ。理屈の上では、そのはずだった。
そうならなかった。
毎朝、前の日より深くなる。理由は、説明がつかない。
説明のつかないことを、ゼルダは自分にひとつだけ許していた。
ほかのことは、たいてい説明できたから。
いつもは、ベッドから立って身支度をするルカを見守るのだが、今朝はその背中にすがりついてしまう。
「やっぱり、行かせたくない……三日間なんて耐えられない」
「……」
毎年恒例の三日三晩の秋の初めの山狩り——今年、成人したルカに行くようにすすめたのは、ゼルダだった。
ルカはあきらかに、気が進まないようだった。
しかし、ただでさえ、ルカは一族の者たちと、ほとんど付き合いをしていない。
成人した今となっては、少しずつでも人の中に戻っていくべきで……。
そのきっかけに、一族の成人男性が一堂に会する山狩りに参加するのは、よい機会だと思ったのだ。
「……じゃあ、行くのやめる」
そう言って、ルカはゼルダを抱き寄せて、シーツの下に再び滑り込む。
「ルカ……」
抵抗しようとするも、ゼルダの声はかすれる。
ルカの滑らかで締まった肌の感触に、自分の体が熱を帯びて、離れることができない。
唇が重なれば、もう何も考えることができなかった。
溢れる快楽と、どうしようもない愛おしさに、ただ流されていく。
幸せの絶頂を味わいながらも、それが失われることに対する、とてつもない、足元をすくわれるような恐怖が同時にわいてくる。
二人の吐息が重なり、ゼルダは、うっすらと汗が滲んだルカの胸に顔を寄せる。
「……でも、行ってきて」
「どっちなんだ?」
ルカは笑って、でも少し怒ったようにゼルダを見つめた。
その眼差しに、抗い難くひきこまれてしまう。
計算が合わない、とゼルダは思う。この男が、なぜここにいるのか。
「俺は、最初から行きたくないって言っているのに……」
拗ねている。20歳の男が。
可愛い、と思ってしまう自分を、ゼルダは正確に把握していた。
五つ年上の女が、そう思う。それがどういうことかも、わかっている。
わかっていて、止められなかった。
「わたしだって、行かせたくない……でもね、狩りはとってもおもしろいと思うの。きっと気にいるはずよ。あなたになにか楽しいことをしてきてほしいの」
ルカの首に腕を回し、口づける。
「だから、どうか楽しんできて」
「……三日間も、本当に大丈夫?」
「……平気よ。なんとか我慢するわ」
ルカは黙ってゼルダをしばらく見つめたあと、ベッドから出て身支度をし始めた。
ゼルダも服を着て、ルカが山狩りへ出かける荷物をまとめるのを手伝う。
涙が滲みそうになるのをなんとかこらえ、つとめて、平静を保つようにして。ルカが安心して出かけられるように。
そうして、ゼルダは不安そうに自分の方を振り返るルカを、笑顔でなんとか送り出したのだった。
村へ戻ってきてから、四年たった。
帰ってきた直後は、ひどかった——思い出したくもない……。
いっそ、すべて忘れることができたら、どんなにいいだろう。
だが、そうすることはできなかった。
阿片の禁断症状にのたうちまわり、これ以上ないぐらいの醜態をさらしていた。
ルカが自分の世話をしてくれなかったら——自分は、文字通り死んでいたはずだ。
それが、彼にとってどんなに大変だっただろうかは……考えたくなかった。
阿片を求めて、叫んで暴れまわり、たくさん汚い思いをルカにさせてしまったはずだ。
それだというのに、そんな自分を見捨てずに、ただ一人世話をしてくれたのだった。
16歳の少年に、どれだけ過酷な思いをさせてしまったかと思うと……。
その事実の重さに押し潰されそうになってしまう。
そうはっきりと思うようになったきっかけは、ルカがシヴァを初めて家に連れてきた夜だった。
それは、ルカとゼルダの二人以外の人間が、初めて家に入って来た瞬間だった。
シヴァのことは、よく知っていた。道場で、いつもルカが組手をする相手で、ルカもゼルダに彼のことを時おり口にしていた。
ゼルダと同じぐらいの年で、この一族らしからぬ物静かで、他の者たちと群れない男。剣の腕はずば抜けていて、道場一の使い手。
そんなシヴァがここへ来るということは、何かあったのだ——だが、悪いことではないようだった。
ルカの表情は柔らかいし、シヴァもにこやかにゼルダに話しかけてくる。
ルカが席を外したとき、シヴァがゼルダに向いた。
「いつか、この時がくると思ってたが……とうとう、あいつに抜かれた」
シヴァの表情は、沈んで、かすかな悔しさが滲んではいたが、それ以上にどこかすっきりしているように見えた。
「あいつを、祝ってやろうと思って」
そう聞いて、ゼルダの胸がつまった。
きっとシヴァは、稽古の帰りにルカを酒場にでも連れていこうと思ったのだ。
だが、そのかわり、ルカがここへ連れてきた——自分がいるからだ。ルカが自分を、心配したから……。
それまでも、うっすら心に引っかかっていた。自分がどれだけ、ルカを縛ってしまっているか。
自分がいるせいで、これまでルカが同世代の青年たちとつきあったり、楽しむ機会を失ってきたのか——。
そう、思って眩暈を覚えるほどだった。
ルカとシヴァを酒場に送り出したあと、ゼルダは罪悪感に苛まれて涙した。
あの子は優しい。たとえようもなく。
だが、その優しさの出どころを、ゼルダは知っている。
壊れた自分を見て、放っておけなかった。それだけだ。16の少年に、ほかの選択肢はなかった。
順序は、はっきりしている。わたしが求めた。あの子が応えた。逆ではない。
だから、終わらせるのも、わたしからでなければならない。
そう結論を出してから、息が、うまく吸えなくなった。
ルカが山狩りに行っているこの三日間は、ルカへの依存から抜け出すためのとっかかりにしよう、とゼルダは決めた。
思えば、この四年間、一日たりとも離れたときはなかったはずだ。尋常ではない……。
少しずつでも、普通に戻していかなければ。
ゼルダは多忙になることにつとめ、ありとあらゆる家事をこなしたり、本を読み返したりした。
だが少しでも油断すると、頭に浮かんでくるのはルカのことばかりだった。
優しい笑顔。ゼルダを呼ぶ声。抱きしめたときの、かたい胸の感触。髪の甘い匂い——。
それらをすべて、失うと思うと、とても耐えられなかった。
他のことを考えようとするが、結局はルカを思うことにいきついてしまう。
自分にとって彼が全てなのだと思い知って、ゼルダは愕然とした。
そうやって三日間をどうやり過ごしたかは、よくおぼえてはいない。
だが、気が付けばルカが戻ってくる日の朝になっていた。
日がまだ上っていない薄暗いうちから、ゼルダは目が覚め、落ち着かなかった。玄関の方を何度も、見てしまう。
日がのぼり、家の外で洗濯ものを干していても、つい山の方を向いてしまう。
ルカと離れたら——自分は、こうして一生、戻ってこないルカを、それでも待ちわびてしまうことになるのだろうか……。
午後になり、洗濯ものを取りこんでいるときに、ゼルダは家からのびる道の先に気配を感じた。
人影が近づいてくる。その途端、ゼルダの全身の血が脈打つのを感じた。
抑えようとする前に、体がルカに反応してしまっている。
体だけでなく、心も——今のゼルダはただ、帰ってくるルカへ近づくことしか考えられない。
ルカに向かって足が勝手に動き——ふいに、止まる。
——叔父さま……。
そこにゼルダが見たのは、ルカではなく、カイだった。
すらっとした長身に、するどい視線。北方一族の、精悍で美しい青年がいる。
頭ではルカだとわかっている……だが、ゼルダが思い描いていたのは、まだ少年の面影が残る、少し前のルカの姿だった。
「……背、こんなに高かった?」
見上げないと、視線が合わせられないことに気づかなかった。
笑いながら、家の中へ入っていくルカの背中を追う。
均整の取れた体躯を見て、ああ、いつの間にかこんなに立派になって……と、思わずにはいられなかった。
荷物を置くと、ルカは振り返り、ゼルダは抱きしめられる。
体中の力が抜けてしまう。
ゼルダに話しかけてくる黒い瞳は、決して変わらない——昔からのどこまでも優しいルカに他ならなかった。
ルカにそのまま抱き上げられて、抵抗しようとするも、心も体もともに裏切る。
こうして求められることに、体中に喜びが駆け巡っていく。
「ゼルダ」
ルカに覗き込まれ、その瞳にただ吸い込まれる。それで、降参だった。
離れるだとか、手放すといったことが、すべて頭から抜け出していき、ただルカに溺れてしまう。
「……子供、何色の髪になると思う?」
夢見心地の中、ふいにルカのこの言葉が落ちてきた。
ゼルダの心が縮む。なんていうことだろう……。
ルカはただ自分を今、愛してくれているだけでなく、将来のことをこうして考えてくれている。
これからも自分と一緒にいようとしてくれている……。
嬉しい気持ちがありながら、それ以上に罪悪感と申し訳なさが、湧き出てくる。
自分はおそらく、子供は産めない。
もう四年も愛しあっているのに、身ごもらないのが何よりの証拠だ。
月のものも、来たり来なかったりで、老貴族からの虐待や、阿片のせいで自分の体はきっと壊されてしまっている。
ルカは子供はいなくてもいいと言う。
だが、こんな壊れた自分といるべきではない……。
ルカにふさわしいのは、汚れていない、若く美しい、ルカの子を産んであげられる女性だ。
ルカがそんな女性を選ぶのを、自分は耐えることができるのだろうか。
ゼルダは自問する。耐えられるわけがない。
——だが、そうするしかない。
三年に一度の剣の大会の日がやってきた。
ルカを出場させるために——ゼルダは、図ったわけではないが、シヴァと連携して、気の進まないルカをなんとか出させることに成功した。
もうだいぶ長いこと、ルカが自分の実力を隠していることにゼルダは気づいていた。
稽古をしているのを見ると、注意深く、わざとには見えないように勝たないようにしているのだ。
もちろん、シヴァもずいぶん前に見抜いていて、本気を出せ、と常に言うのにルカはきかない。
なぜルカがそのように遠慮しているかは、ゼルダにはなんとなくわかっていた。叔父のカイに重ねられたくないからだ。
ルカは、ゼルダが、そして一族の多くの者がいまだに崇拝しているカイに似ていることを疎んでいる。
生涯、カイに劣等感を抱いていたルカの父が、カイの面影のあるルカを嫌ったからだった。そのせいで、母親も去ってしまったのだと思っている。
ルカの気持ちも確かにわかる——だが、そのため天から授けられた優れた資質を、隠してしまうのはとてつもなく惜しいことのように思える。
ルカがカイに似ているのはただ顔だけで、剣の腕は大したことないなどと、一部の男たちが吹聴している。
さらに、ゼルダと一緒にいることにも絡めて、あることないこと揶揄されていたので、忸怩たる思いだった。
そんな者たちに、そうではないと見せつけてやりたい。
それとは別に、ルカが大きな舞台で剣を振るのをただみてみたい、という願望もあった。
幼い頃、大会に出ていた叔父の姿。圧倒的に強く、軍神そのもののように、勇猛で美しかったのを覚えている。
試合が終わると、叔父は誰にでも声をかけた。負けた相手にも、その父親にも、見物に来ていた老人にも。名前を、みんな覚えていた。
あの人に一度でも名を呼ばれた者は、いまでもその話をする。
ルカもどれだけ素晴らしく見えるだろうか、と思うのだ。
ルカの最初の対戦が始まる。
会場の空気が、ルカが現れた途端、動いたのを感じた。
年長者たちが、ルカをいっせいに見つめている。
この数年、ルカはほぼ人目につかぬように暮らしていた。ほとんどの人が、しばらくルカの姿を見ていなかったので、まるでカイが甦ったかのように、見えているのだろう。
対戦が続いていく中、年長者たちだけではなく、若い娘たちの視線もルカに注がれていく。
彼女たちはカイを見たことはない。
カイの影響のない真っ新な状態でも、いかにルカが女性を惹きつけるかを目の当たりにして、ゼルダの胸の奥がつかえる。
これから、ルカが表舞台に戻っていくなら、こうしてさらに多くの視線にさらされていくことになるのだ。
もう、自分だけのものにはしておけないのだ……。
ついに、ルカとシヴァの最終決戦となった。
二人の組手は稽古場で何度も見ている。
今日、この大会という舞台で、二人はいつもとは違う戦い方をするのだろうか。それとも変わらないのか。
ルカは淡々と表情を変えずに、位置についたが、シヴァはその前にしっかりと、ゼルダの方を見た。
その表情は何かゼルダに宣言するかのようだったが、それがはっきり何を意味しているかは、わからなかった。
二人が剣を交える。剣同士が激しく、ぶつかる音。
その鋭さ、速さがあきらかにこれまでの対戦とは違い、観客たちが息をのむ。ゼルダにとっては、見慣れたいつもの二人の稽古だった。
だが、彼らはその技術の高さに魅せられ、どんどんと引き込まれているようだった。
二人の対戦は、互角に進み、勝敗の行方はどちらともつかずだった。
その剣さばきは、緊張感がありつつも、流れるように美しく、いつまでもずっと見ていたいと思えるほどだった。
ゼルダを含め、誰もが二人の勝負に没入していたとき——突然、シヴァが距離を詰め、刃先がルカの喉元へと向かう。
危ない!——ゼルダの息が止まる。
動きは一瞬であったはずだった。
だが、ゼルダにはあたかも止まっているかのように見えた。
ルカが別のものに変わった。
猛々しく、激しくも、神々しい——誰を、わたしは今みているのか。
身をかわし、剣をはらう。シヴァの剣が地に落ち、転がり、止まる。
そこで、ようやくゼルダは我にかえり——何が起こったかを、どうにか理解しようとする。
拍手が徐々に始まり、やがて会場いっぱいの歓声となっていく。
シヴァに腕を高く掲げられるルカを、ただ憑かれたかのように、見つめるしかできなかった。
ルカが当惑した表情で、自分の方を見ている。
いつもルカにもどっている……だが、ゼルダはどうしても、先ほど見たものが、脳裏から離れずにいた。
夕方——。どうやって自分が家へ戻ってきたのか、よく覚えていない。
ルカとシヴァの勝負がついたあと、師匠からも興奮したように話しかけられるものの、会場いっぱいの割れるような歓声にさえぎられて、聞こえない。
皆が沸き立っているなか——一番、高揚していてもいいはずのゼルダが、身も心も固まったまま動けないでいた。
あのルカの姿をみて——まるで、猛獣に睨まれた獲物のように、身動きが取れなくなってしまっていた。
気が付くと、ルカの姿がシヴァの横から消えている。
ルカはどこなのか、と口々に聞かれるが、その声はどこか遠くから聞こえるようで、ゼルダは白昼夢の中にいるように感じていた。
シヴァも、ルカを追うのか、会場を離れていく。
話しかけられて、適当に返すのも億劫になってきたので、ゼルダもそっと会場をあとにし、気づけば自宅に戻っていた。
あれから数時間がたつはずだが——ゼルダは、まだ現実との接点をしっかりとつなげられないままだった。
試合でのルカの姿と、幼い頃みた叔父の姿が重なり、混然一体となっている。
剣をふる姿——それはルカなのか、叔父なのか……。
小さい頃の思い出が、そこから先へと延びていく。
幼いルカと兄弟のように過ごした日々。母の死。
そして、貴族の家に嫁ぐ日——。
ゼルダの悪夢は、ずっと戻ってきてからの苦しい禁断症状や後遺症に苦しんでいた時期がほとんどで、その前の記憶が出てくることは、ほぼなかった。
だが今日、一瞬だがあまりにも激しく、猛々しいルカの姿をみて——。
叔父を思い出すだけでなく、ゼルダの奥深くに閉じ込められている記憶が引き出される。
自分の中の激しさ……。
それは、永遠のように繰り返される老貴族からの虐待で、すべてなくなってしまったのではないか、と思っていた。
——痛い。もうどれほど、日の光を目にしていないのか……。
肌にあたる刃先、うっすらと流れ続ける血。押し付けられる体の重み。顔にあたり続ける、濁った息。
もう何もかも、見たくない。感じたくない。
終わらせてしまいたい。でも、どうやって?
いつも固く閉じている目を、うっすらと開ける。
枯れ枝のような手に握られているナイフ。
奪って、自分の胸を突こう。
手を伸ばそうとする。動かない。ずっと恐怖に麻痺している。
どうか、力を。
——『ほら、おいで、さくらんぼ』
抱き上げられる。見上げると、いたずらっぽく笑う、黒い瞳。
軍神のように、剣を振る雄姿。
体の奥に、力が、満ちてくる。
この力さえあれば。
柄に、視線を移そうとしたとき——皺にまみれた喉元に、目が留まった。
手を、伸ばす。
次に気がついたときには、聞きなれない話し声で目が覚めた。
『……いつか、こうなると思っていたが、本当に起こってしまうとはな』
『自分の嗜癖の果て、若い娘の腹の上で死ねて、父上も本望だろう』
いつもは固く閉ざされている、あの奥の部屋の戸が開かれ、老貴族の息子たち、そして使用人たちが動き回っているようだった。
『この娘……どうする?』
『美しいが、こうまで痛めつけられていてはな……。惜しいが、いちおう父上の「妻」だったから、下手には扱えん』
『財産分与はすでに済ませていて、助かった。宝石や金貨をもたせて、里に返してやればいいだろう』
気が遠くなりながら、話を聞いていた。
あの老人は死んだのか。
そして、自分が手を下したとは疑われていないのか——。
ここから離れられる……嬉しいという実感はなかった。
ゼルダの内にわいたのは、止まらない阿片への疼き。
そして、指に残った皺の寄った喉の感覚だった。
今、思えば——あの日、求めていたのは、終わらせるための力だった。
だが、カイの力は、決して、内には収まらない。
招き入れただけで、意図を超えて、外側へ向かってしまう。
それに、感謝すべきなのか、それとも……。
そして今日、自分はルカの中に、再びその力を見てしまった。
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