大会が終わり、日常が戻ってきた。
いや、戻ってはこなかった。
道場に弟子入りを求める少年たちと、他の道場から移りたいという男たちが殺到した。
師匠に恩を返せたのは嬉しかったが、彼らが一様に自分を見る目には、戸惑った。
村で用事をしていても、シヴァと酒場にいても、知らない者から声をかけられる。
以前は遠巻きに眺められるだけだったのが、向こうから来るようになった。
娘たちは、話しかけてはこない。ゼルダのことは、誰もが知っている。
だから視線だけが残る。振り返ると、慌てて立ち去る背中が見える。
ルカ自身は、さして気にならなかった。ゼルダが、それを気にしていた。
稽古が終わり、夕方家へ向かう道を歩いていると、家のそばになにかがいるのが見えた。
近づいてみると馬が軒先につながれていた。
驚いて中へ入ると、ゼルダに説明される。
ルカがいない間に、当主イライアスからの使いの者が、大会の優勝の褒賞として持ってきたのだという。
全く予期していなかった贈り物だった。
馬自体、喜ばしい驚きだったが、当主のこの行動自体が意外だった。
決勝のあと、当主は席を立ち、広場を出ていった。
あのときの背中を、ルカは覚えている。
彼にとって、ルカの勝利が気に食わなかったことは、明らかだった。
優勝のあと、多くの男から祝福を受けた。だが、当主に近い者たちからは、あからさまなやっかみを受けていた。
疎まれているとばかり思っていた。
その相手から、馬が来た。
ゼルダの家には馬小屋はあった。
しかし、ゼルダの父が亡くなって以来、馬はおらず、そのまま長らく放置されていた。
イライアスからの使いは馬を持ってきたとき、馬小屋を整えるまで、しばらく彼の家で馬を預かるとも言ってくれた。
「でも、まずあなたに見せてあげたかったの……驚かせたかったし」
ゼルダは笑顔でそう言った。
ルカは喜びと興奮を隠せなかった。
とりあえず馬を預かってもらいに行くときに、当主にお礼をしようと思った。
ゼルダとともに再び外に出ると、馬はルカの方へと近づき、顔を寄せた。
「まあ……早速、好かれたわね」
栗毛で、顔に白い流星のある美しい牝馬だった。
カイが戦果の褒賞として帝国軍から賜った名馬の子孫とのことだった。
ゼルダは慣れているかのように、馬を引き、そして鞍にまたがった。
驚くルカに、
「……嫁いだばかりのとき、習ったの」
目をそらし、低い声で答えた。
なんと答えてよいか迷っているルカに、
「乗り方を教えるわ。すぐに乗れるようになるはず……遠くまででかけられるようになれる」
遠くまで——。その言葉はとても、魅力的に響いた。
その日、ルカはゼルダから簡単に馬の扱い方を習い、手綱を引いて、イライアスの所へ行った。
名はブルナだと告げられ、預かってもらっている間、毎日のように様子を見に行った。
ほどなく、ゼルダ宅の馬小屋がようやく整い、ブルナを迎える準備ができた。
これから始まる馬との生活への期待に胸を躍らしながら、ルカは当主の家へと向かった。
預けていたブルナに会いに行く度に、お礼を言おうとしていた。
しかしどういうわけか、ルカが訪ねるとき、イライアスはいつも不在だった。
今日、ついにブルナを引き取るという段階で、ようやく会うことができた。
「……すまないな、何度も会いに来てくれたそうだが」
執務中の彼の部屋に通されて、ルカはにこやかに迎えられた。
これまでずっと会えなかったので、正直、ルカは避けられているのではないかと思いかけていたが、どうやらそうではないようだった。
「とんでもないです……。馬を贈ってくださって、本当にありがとうございます。とても嬉しいです」
ルカは頭を下げた。イライアスの真意はわからずも、本心から感謝していたのだ。
「それは見事な剣さばきだったからな……なにか報わなくてはと」
細身で、鋭い目つきの彼は冷たい印象があるが、今はルカに向かって微笑んでいる。
だが、彼の本心をうかがい知ることは、できなかった。
「血は争えない、ということか……」
言われることをある程度、予期していた台詞だった。
ルカはどう答えようか、それまでに幾度となく思いめぐらせていたが、この瞬間に、頭は真っ白になってしまっていた。
この人は、剣で当主になったのではない。
従軍の経験はある。だが、武勇で名を残した人ではなかった。
かわりに、遠征のあいだに帝国側との人脈を築いた。戦士を出す以外の方法で、一族に金を入れる道を探した男だ。
カイの起こした事件のあと、帝国との関係を繕う役を負ったのも、そのためだった。
一族はいまも困窮している。かつての繁栄は戻らない。
だが、この人がいなければ、もっとひどいことになっていたはずだ——ルカは、そう思っている。
剣ではなく、実務で当主をしていることを、正当だと思っている。
その人が今、目の前で、血のことを言った。
「何も役に立たない血です」
気が付けば、そう口に出ていた。
意外そうにルカを見るイライアスに向かい、そのまま続ける。
「従軍できないのなら、どれだけ剣の腕がたとうが無意味です……そうさせた血、ですから」
驚いた表情のまま、イライアスはルカに耳を傾けている。
「皆さんに迷惑をおかけして……親族として申し訳ないと思っています」
ルカは不思議な気持ちとなっていた。おそらく、彼はルカのことを疎んでいるのだろう。
しかし、彼とシヴァの二人にだけ——ルカは安心して、カイへの批判を口にすることができるのだ。
ゼルダの前でもできないというのに。
おべっかでなく、ルカの心からの言葉だとわかったのか、イライアスは神妙な顔になって、
「いや、そういうものでもない……先代は、いまだに我々の誇りだ。どんな人でも、過ちを犯すことはある」
常識的な、世渡りに長けた人間の答えだな、とルカは思った。
「その馬も、先代の武勲によるものだ……ルカ、お前が乗るのにふさわしい。今後も、なにか必要なものがあれば、いつでも頼んでくれればいい」
ルカは再び、頭を下げて礼をした。そして、顔をあげると、
「それでは、首領……ひとつ、お願いしたいことがあります」
当主は自分でそう言ったものの、ルカがさっそく頼み事を言ってきたのに、多少驚いているような表情をした。
「今年、成人しました。ゼルダとはまだ、祝言をあげていません。もし、よろしかったら、首領に立ち会っていただけたらと……」
予想はしていたが、当主は眉を寄せ、即答はしない。
「父上の、ニル殿は……」
「父は反対していますし……それに、何年も会っていません」
祝言は、家の家長が取り仕切るものだった。
証人が二人いれば式そのものはあげられる。
だが、家長の承認がなければ、一族は正式な夫婦とは認めない。
ルカには、頼める家長がいなかった。
「……一緒になってから、もうどれぐらいたつ?」
「四年です」
黙り込み、イライアスは視線を遠くに移した。
その沈黙の意味は、ルカにはかりかねた。
「一族の若い娘たちは、皆お前に夢中になっている……わたしの娘も含めて」
イライアスが、わずかに開いた戸の方へ目をやる。誰かが慌てて立ち去る気配がした。
カリナ、と呼ぶ声がしたが、返事はなかった。
ルカはイライアスの言葉になんと答えてよいか、わからなかった。
「子ができなくても、構わないのか?」
ようやく、イライアスの問いの意味がわかった。
「構いません」
即答した。
考える必要が、なかった。
「わかった。予定が入ってなければ、いつでも立ち会える。祝言をあげたいときに、また言ってくれ」
「ありがとうございます」
ルカは頭を下げて、執務室をあとにした。
よかった、とほっとする気持ちと、胸の奥がふさぐような気持ちを両方感じながら、ルカはブルナを引いて、ゼルダの待つ家へと向かった。
ブルナを迎えてからの一月に、いくつものことがあった。
村を見渡すことのできる小高い丘。頂には、草原が広がっていて、さえぎるものは何もなかった。
厳しい冬に入るその前——ルカはゼルダと一緒にブルナの背にまたがり、誰もいない草原を駆け抜けていた。
顔に吹きつける風が、冷たいが、心地よい。
ゼルダはしっかりとルカにしがみついているが、その顔は興奮で輝いていた。
ゼルダが予想した通り、ルカはすぐに馬の乗り方のこつをつかみ、今では駆け足もできるようになっていた。
「怖い?」
速度をあげると、ゼルダがぎゅっとルカに体を寄せた。のぞき込むと、少し怯えているような表情をしていた。
「お屋敷の庭の中で、ゆっくり乗るだけだったから……こんなに速く駆けるのにのったことなかったの」
そう言ったものの、すぐに慣れたようで、嬉しそうにしている。それを見て、ルカの口元も緩んだ。
雪が降り積もる前に、今日こうして遠乗りにこれてよかった。
ゼルダが明るい表情をしているのを見るのは、久しぶりのような気がした。
イライアスが祝言に立ち会ってくれると、ゼルダに告げたところ——ゼルダは一瞬、黙りこくった。
そして目を伏せると、涙がこぼれている。嬉し涙だというが、そうとは見えずに、ルカは戸惑った。
ゼルダはいつも、ルカが離れていってしまう。他の女性にとられてしまうのでは、といった不安を口にする。
ルカを自分だけのものにしたい、と言葉にも行動にも示す。
だから、正式に結婚をするとなれば、さぞかし安心するのだろう、とばかり思っていた。
確かに、人は感極まれば涙することはあるが、ゼルダが見せた涙はどこか違う、とルカは感じてならなかった。
そのことを、酒場でシヴァに話した。シヴァは、しばらく考えるように黙ってから、
「……やはり、気にしてるんじゃないか。年上だとか、従姉弟同士であることを。何よりも、帝国人と結婚してた、というのを周りがとやかく言うし」
ルカは眉を寄せる。——そんなことは、何度もゼルダに言っている。気にするな、と。
従姉弟同士で夫婦になることは許されているし、たった五つ年上なだけだ。
ゼルダは好きで帝国の貴族に嫁いだわけではない。一族のために、身も心も犠牲にしただけだというのに。
シヴァは口にしない。だが、一部の者たちから、どれだけ無責任なことを言われているかは、知っている。
壊れた、傷もののゼルダが、自分を抑えられずに年下の従弟を誘惑したのだと。
よく、そんなことを言えたものだ、と思う。
確かにゼルダは壊れていた。
どんなひどい目に彼女があったか——彼らは知らないし、想像もつかないだろう。
ルカには言わないが、ゼルダがそんな無神経な言われようを、気に病んでいることが、ルカの心を痛める。
なので、いっそう彼女を愛し、守っていきたいという気持ちが高まるのだった。
「……だから、とっととお前が当主になって、そいつらを黙らせることだな」
「また、そうやってすぐ、その話にもってく」
ルカは険しい表情のまま、シヴァに言う。
大会以来、何かとシヴァは当主になる話をルカにもちかけ、いくら否定しようとも、やめることはなかった。
シヴァはルカが睨んでいても、気にせずに続ける。
「お前が先代のようになりたくない、というのはわかる。だが、なぜ当主になりたくないんだ?」
「何度も言ってるだろ。俺はそんな器じゃないし、興味がない。顔が似てるってだけで、へんな期待をされたくない」
「実力があると、この前、証明された。この一族に嫌気がさしてて、何もしたくないというのもわかる……だが、当主になればそれを変えることができる」
「……」
「……彼女や、他の娘たちに起こったことを、止めようとは思わないのか?」
そう言われて、ルカは考え込んでしまった。
他の娘……それは、シヴァの恋人のことも指しているのだろうか……。
シヴァから投げかけられた問いに対して、ルカはしばらく思いを巡らしていた。
今夜は席が埋まっていて、誰もこちらを見ていなかった。
大会のあと、酒場で絡まれることが増えていたから、それがありがたかった。
「そういえば……」
思い出したかのように、シヴァが切り出す。
「ようやく、返事が来たぞ」
ルカは、伏せていた顔をシヴァの方に向ける。何の返事なのだろうか。
シヴァはルカの目を覗き込こんだあと、一瞬だけ目をそらした。
何か、言いづらそうにしている。
ルカは、シヴァが口を開くのを待った。
観念したように、シヴァは息を吸ってから、こう言った。
「お前の母親のことだ」
「ああ……」
正直、それはすっかりルカの頭から抜け落ちていた。
しばらく前に、シヴァがルカの母の名前がわかったので、出身の村を探し当て、ルカの代わりに手紙を出してくれていた。
ルカとしては、返事があればいいにこしたことはなかったが、さほど期待はしていなかった。
大会の前後のことに気をとらわれて、今に至るまで思い出すことはなかったのだ。
シヴァは沈んだ表情で、いつもよりいっそう低い、静かな声で言う。
「……残念だが、数年前、病で倒れて亡くなってしまったそうだ」
そう聞いて、やはり、という気持ちしか浮かんでこなかった。
ルカにとって、母は顔すら思い出せず、その存在は、はるか昔に失われた遠いものだった。
「だが彼女の弟が……お前の叔父だな……返事をくれた。お前の母は、死ぬまでずっとお前のことを気にかけてたそうだ」
そう聞いて、ルカの心がきしんだ。
自分は彼女のことを、まったく考えることはなかった。だが、彼女は——。
「親族として、お前をいつでも歓迎する、と言ってくれている。どうだ……お前も返事を出したらどうか」
「……そうだな」
ルカにとって『叔父』とは、会ったことはないのに、常に重くのしかかり、自分の存在を制限してしまうような存在だった。
だが、今日、もう一人の叔父がいることを知った。同じ言葉で呼ばれる、まったく別の人間が。
ルカはまだ見ぬ叔父の姿を思い浮かべようとしたが、具体的な像を結ぶことはできなかった。
日がだいぶ傾いてきて、空気が冷え込んできた。
ゆっくりとブルナを歩かせながら、ルカはゼルダを引き寄せる。
お互いの体温が心地よい。
あの後、ルカは沿海州の叔父に手紙を書き、シヴァに託した。
手紙を届けてくれた者によると——母の故郷は、北の海とは違う、淡い色の穏やかな海のほとりにある村だという。
ゼルダには、まだ話していない。
祝言は春になってから、とゼルダは言っている。
それなら、冬のあいだに一度、馬で行ってみればいい。受け入れてくれるはずだ。
だが、ゼルダはなんと言うだろう。
ルカはその答えがわからなかった。どういうわけか、きくのが、ためらわれた。
ゼルダがさらに身を寄せる。すっかり安心しきった重さだった。
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