ジン「現在も、書いてる途中か、だ!」ドン「書き終わったから帰ってきたぞ」 作:笑嘲嗤
その日。
まだ誰も、それを『貧者の薔薇』とは呼んでいなかった。
少なくとも、ドン=フリークスは知らなかった。
後世では、安価で、小型で、大量生産が容易で、それでいて恐ろしく多くの人間を殺す兵器として知られることになる。
だが。
最初の一発には、歴史なんてない。
症例もない。
教科書もない。
対処法もない。
何が起こるのかを知っている人間さえ、ほとんどいなかった。
だから。
空に黒い薔薇が咲いた時。
ドンはただ。
「……なんだ、あれ」
そう呟いた。
◇
その頃のドン=フリークスは、ハンターではなかった。
旅行家でもない。
もちろん、『新大陸紀行』の著者でもない。
徴集された。
ただの一兵卒だった。
銃を持たされ。
荷物を背負わされ。
言われた場所へ歩き。
言われた場所で眠り。
撃たれたくないので伏せ。
腹が減ったので食べ。
眠れる時に眠った。
それだけだった。
「フリークス!」
「はい!」
「水!」
「あります!」
「どれだけだ!」
「半分!」
「昨日も半分って言ってなかったか!?」
「節約しました!( ˙ω˙ )」
「お前だけ妙に元気だな!」
「死にたくないので!」
「全員そうだ!!」
怒鳴られて。
走って。
泥に足を取られて転んだ。
「痛っ」
「フリークス!」
「大丈夫です!」
「銃は!?」
「大丈夫!」
「お前じゃねえ! 銃だ!」
「俺も心配してください!?」
そんな兵士だった。
戦争がいつ始まったのか。
誰が最初に撃ったのか。
誰が正しいのか。
一兵卒のドンには、もうよく分からなくなっていた。
敵が撃つ。
こちらも撃つ。
昨日までいた奴がいなくなる。
新しい奴が来る。
飯を食う。
眠る。
また歩く。
それでも最近は、戦争も終わるらしいという噂があった。
「終わったら何する?」
夜。
誰かが聞いた。
「帰る」
「どこに?」
「故郷」
「その後だよ」
「旅行したい」
「このご時世に?」
「戦争終わるんだろ?」
「まあな」
「じゃあ行けるじゃん」
「どこへ?」
「知らないところ( ˙ω˙ )」
笑われた。
「雑だなあ、お前」
「知らないから行くんだろ?」
「普通は目的地決めるんだよ」
「そうなの?」
「お前、絶対遭難するぞ」
実際。
後に三百年間くらい帰ってこなくなる。
この時は、まだ誰も知らない。
◇
翌日。
空が光った。
一瞬だった。
何かが落ちた。
そう認識するより先に。
世界が白くなった。
「伏せろ!!」
誰かが叫んだ。
ドンは塹壕へ飛び込んだ。
遅れて。
音が来た。
轟音。
地面が揺れた。
身体が浮いたような気がした。
耳が聞こえなくなった。
「――――!」
誰かが何か叫んでいる。
聞こえない。
ドンは口を開けた。
耳を押さえた。
何秒経ったのか。
何分だったのか。
分からない。
やがて。
音が戻ってきた。
「……っ、つ……」
身体を起こす。
手がある。
足もある。
血も出ているが、動く。
「生きてる」
顔を上げた。
そして。
見た。
「…………」
空に。
巨大な黒いものが咲いていた。
雲だった。
だが。
花に見えた。
「……薔薇」
隣にいた兵士が呟いた。
「黒い薔薇だ」
綺麗だった。
だからこそ。
ドンは怖いと思った。
こんなものが。
綺麗に見えてはいけない気がした。
◇
情報が錯綜した。
新型爆弾。
弾薬庫の誘爆。
特殊兵器。
誰も分からない。
命令は単純だった。
近づくな。
待機。
状況を確認する。
ドンたちは待った。
そして。
負傷者がいるという情報が入った。
「生きてる人がいるんですか?」
「確認中だ!」
「救助は?」
「待機しろ!」
「でも」
「フリークス!」
上官が怒鳴った。
「何が起きたか分からん! 次が来る可能性もある!」
「…………」
「命令だ。待て」
「はい」
ドンは待った。
一分。
二分。
五分。
遠くから。
誰かの声が聞こえた気がした。
「…………」
ドンは立った。
「おい」
「ちょっと見てきます」
「馬鹿野郎、待て!」
「すぐ戻ります!」
「それを待機とは言わねえ!!」
走った。
この時。
ドンには知識がなかった。
上官にも。
医者にも。
おそらく、この戦場にいたほとんどの人間にも。
後世なら。
絶対に入ってはいけない場所だった。
だが。
この日にはまだ。
入ってはいけない理由に、名前すらなかった。
◇
地獄だった。
ドンは後に暗黒大陸を歩く。
巨大な生物を見る。
理解できない生態を見る。
人間を簡単に殺すものにも出会う。
それでも。
この日の光景を忘れることはなかった。
「誰か!」
建物だったもの。
道路だったもの。
人間だったもの。
「生きてる人!」
返事。
ない。
走る。
また叫ぶ。
「誰か!」
咳。
ドンが止まった。
「……おい」
小さな声だった。
「いるの!?」
「ここ……」
瓦礫。
手が見えた。
「待ってろ!」
掘った。
石をどける。
木材を引っ張る。
手袋が裂けた。
爪が割れた。
「痛っ」
血が出た。
構わず掘った。
「もうちょっと!」
「……逃げろ」
「なんで?」
「また……来るかもしれない」
「じゃあ急ぐ!( ˙ω˙ )」
「そうじゃ……」
瓦礫をどけた。
一人。
男。
ひどい怪我だった。
だが、生きている。
「立てる?」
男は首を横に振った。
「じゃあ背負う」
「待て……」
「何?」
「向こうにも……いる」
「どこ?」
男が震える指を動かした。
少し離れた場所。
「……分かった」
もう一人いた。
こちらも生きていた。
だが歩けない。
「二人か」
ドンは考えた。
「一人ずつ運ぶ」
「置いてけ」
「やだ」
「お前まで死ぬぞ」
「それもやだ」
「なら――」
「だから三人で帰ろう( ˙ω˙ )」
「…………」
最初の一人を背負う。
もう一人を引きずる。
少し進む。
休む。
入れ替える。
また歩く。
途中で何度も転んだ。
「重い」
「……悪かったな」
「痩せた方がいいぞ」
「生きて帰れたらな……」
「じゃあ生きて帰ろう」
「お前……」
「何?」
「兵士か?」
「うん」
「階級は?」
「一番下の方」
「……そうか」
「そっちは?」
「音楽家」
「へえ」
「反応薄いな」
「今は音楽より水が欲しい( ˙ω˙ )」
背中で。
男が笑った。
◇
三人とも生きて帰った。
ドンは喜んだ。
助かった。
そう思った。
怪我はひどい。
火傷もある。
でも。
病院まで来た。
医者もいる。
水もある。
食事もある。
もう大丈夫だ。
――数日後。
ドンは倒れた。
◇
「……おかしい」
医者が言った。
熱。
嘔吐。
痛み。
身体のあちこちに異常が出る。
あの日。
爆心地周辺へ入った者たちに。
似た症状が現れ始めた。
誰も原因を知らなかった。
「感染症か?」
「分からない」
「毒?」
「分からない」
「爆弾と関係あるのか?」
「分からない」
分からない。
分からない。
分からない。
ドンは病床で天井を見た。
「分かんないことだらけだな( ˙ω˙ )」
隣から声がした。
「お前……なんでちょっと嬉しそうなんだよ」
もう一人の生存者だった。
「嬉しくはないぞ。痛いし」
「俺もだよ」
「なんか同じもの食ったっけ?」
「食中毒じゃねえよ」
「じゃあ変な虫?」
「お前、虫食うのか?」
「食べられそうなら」
「お前と一緒にするな」
「まだ食べてないぞ」
「『まだ』って言うな……」
二人で笑った。
「痛っ」
「笑わせんな……」
「そっちが笑ったんだろ」
向かい側。
音楽家も笑っていた。
だが。
三人の中で。
彼の症状が一番重かった。
◇
ある夜。
「ドン」
「……ん」
「起きてるか」
「痛くて寝られない」
「俺もだ」
「そうか」
暗い病室。
戦争中だった。
薬も。
人手も。
何もかも足りない。
「ドン」
「なに」
「頼みがある」
「水?」
「違う」
「トイレ?」
「違う」
「じゃあ何?」
「書いてほしい」
「手紙?」
「曲だ」
ドンは横を向いた。
「曲?」
「頭の中にある」
「じゃあ治ってから書けばいいじゃん」
返事がなかった。
「…………」
ドンは男を見る。
分かってしまった。
「明日にしない?」
男は笑った。
「明日は」
呼吸する。
それだけで苦しそうだった。
「たぶん、無理だ」
◇
紙。
鉛筆。
五線。
ドンは身体を起こした。
「俺、楽譜なんて書けないぞ」
「教える」
「字なら書ける」
「それでいい」
「間違えると思う」
「直す」
「俺も手震えてるぞ」
「俺はもう」
音楽家が自分の手を見る。
「持てない」
「…………」
ドンは鉛筆を握った。
「分かった」
音を教わる。
書く。
「違う」
「ここ?」
「もう少し下」
「これ?」
「そう」
「次」
「休符」
「どれ?」
「それじゃない」
「難しいな、音楽( ˙ω˙ )」
「お前に才能がないだけだ」
「病人に悪口言われた」
「俺も病人だ」
「そうだった」
書く。
また書く。
何度も間違える。
何度も直す。
途中で鉛筆を落とした。
「……ごめん」
「休むか」
「そっちが待てるなら」
「五分だけだ」
「分かった」
二人で目を閉じた。
五分後。
本当に再開した。
◇
「人間って」
音楽家が言った。
「酷いな」
ドンの鉛筆が止まった。
「……うん」
「否定しないのか」
「あれ見たからな」
黒い薔薇。
人間が作った。
人間を殺すために。
「俺もさ」
ドンが言った。
「ちょっと嫌になったよ」
「人間が?」
「うん」
音楽家は目を閉じた。
「そうか」
「でも」
ドンが次の音符を書く。
「俺、あんた助けたぞ」
音楽家が目を開けた。
「…………」
「人間だけど( ˙ω˙ )」
しばらく。
沈黙。
それから。
音楽家が笑った。
「それを俺が言おうと思ってた」
「そうなの?」
「ああ」
「先に言っちゃった」
「そういうところだよ、お前は」
「?」
「いい。次を書くぞ」
「うん」
音楽家は。
それ以上、何も言わなかった。
◇
最後の音符。
「これ?」
「ああ」
「終わり?」
「終わりだ」
「完成?」
「ああ」
ドンは笑った。
「よかった」
これで休める。
そう思った。
だが。
音楽家は言った。
「間に合った」
「何に?」
「演奏に」
「…………誰が?」
「俺たち」
ドンは眉を寄せた。
「あんたたち死にかけてるぞ」
「知ってる」
「立てないじゃん」
「座ればいい」
「指揮できる?」
「右腕はまだ動く」
「途中で動かなくなったら?」
「そこまでだ」
「…………」
「ドン」
「なに」
「最後くらい」
男は言った。
「音楽家で死なせてくれ」
◇
病院の小さな礼拝堂。
椅子が並べられた。
楽器が集められた。
ヴァイオリン。
ヴィオラ。
チェロ。
管楽器。
鍵盤。
演奏者たちは皆。
あの日。
黒い薔薇の近くにいた音楽家だった。
誰も健康ではない。
包帯。
痩せた身体。
震える指。
咳。
立つことさえできない者もいる。
それでも。
全員が楽器を持った。
ドンは客席に座った。
見回す。
「……俺しかいないぞ( ˙ω˙ )」
ヴァイオリンを構えた男が笑った。
「一人いれば充分だ」
「途中で帰るなよ」
「俺も入院患者だから帰れないよ」
「寝るなよ」
「努力する」
「そこは絶対寝ないって言え」
笑い声。
咳。
また笑い声。
正面。
作曲者が椅子に座った。
右手に指揮棒。
左には。
ドンが書いた総譜。
「ドン」
「なに?」
「ちゃんと聴けよ」
「うん」
「感想も聞かせろ」
「分かった」
指揮棒が上がる。
そして。
世界で初めて。
その曲が演奏された。
◇
ドンには。
音楽のことなんて分からなかった。
ただ。
綺麗だと思った。
そして。
悲しいと思った。
目を閉じる。
黒い薔薇が見えた。
人間は。
あんなものを作れる。
街を消して。
人を焼いて。
助かったと思った人間まで。
何日もかけて殺していくものを。
人間は。
あんなものを作れる。
音楽が続く。
目を開く。
震える手でヴァイオリンを弾いている。
息をすることすら苦しい人間が、管楽器へ息を吹き込んでいる。
力の入らない指で鍵盤を押している。
指揮者が。
上がらなくなりつつある腕を上げている。
ドンの目から。
涙が出た。
「……?」
自分でも驚いた。
悲しいのか。
怖いのか。
綺麗だからなのか。
分からない。
ただ。
思った。
人間は。
こんなものも作れる。
◇
一人。
音が止まった。
演奏者が、静かに目を閉じた。
それでも曲は続いた。
また一人。
最後の音を出して。
楽器を抱いたまま眠った。
曲は続いた。
一人。
また一人。
音が減っていく。
それでも。
誰も演奏を止めなかった。
苦しそうな顔は。
いつの間にか消えていた。
長い間。
ずっと苦しかった。
眠れなかった。
痛かった。
怖かった。
死にたくなかった。
それでも最後は。
音楽家だった。
作曲者の腕が震える。
指揮棒が上がる。
最後の一音。
礼拝堂に響く。
伸びる。
そして。
消えた。
指揮棒が下りた。
静寂。
ドンは。
拍手した。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
一人だけの拍手。
だから。
とても小さかった。
それでも。
力いっぱい叩いた。
「すごかった」
返事はない。
「俺、音楽分かんないけど」
拍手を続ける。
「すごかったぞ」
返事はない。
「……なあ」
ドンは立ち上がった。
ヴァイオリンを持った男は。
微笑んだまま目を閉じていた。
鍵盤に手を置いた女も。
チェロを抱えた男も。
みんな。
眠っているようだった。
「…………」
正面へ歩く。
作曲者は。
椅子に座ったまま。
指揮棒を握っていた。
「終わったぞ」
返事はない。
「ちゃんと最後まで聴いた」
返事はない。
「寝なかったぞ」
ドンが肩に触れる。
まだ温かい。
でも。
呼吸はなかった。
「…………」
ドンの顔が歪んだ。
「ずるいだろ」
涙が落ちる。
「感想聞くって言ったじゃん」
総譜に。
一滴。
また一滴。
「俺、音楽のこと分かんないんだから」
拭う。
でも。
止まらない。
「ちゃんと伝わったか聞けよ」
誰も答えない。
「なあ」
あの黒い薔薇の下で。
死体を見ても。
瓦礫を掘っても。
泣かなかった一兵卒が。
泣いた。
声を震わせて。
子供みたいに。
「感想くらい聞いてけよ……」
答えはなかった。
ただ。
演奏を終えた音楽家たちは。
みんな。
安らかな顔をしていた。
◇
後世。
その曲は。
演奏した者と、それを聴いた者へ恐ろしい災いをもたらす曲として知られることになる。
人々は、その作曲者を人間ではないものへ変えた。
魔王。
呪い。
闇。
そして。
曲に名前をつけた。
――『闇のソナタ』。
だが。
その最初の演奏を聴いた人間だけは知っていた。
最初から。
誰かを呪うために書かれた曲ではなかった。
人間が作った地獄を見た男が。
それでも。
最後まで人間に絶望しきれずに残した曲だった。
そして。
世界で最初にその曲へ拍手を送ったのは。
まだハンターですらなかった。
名もない一兵卒。
ドン=フリークスだった。
闇のソナタってどういうアイテムなのかなって想像した結果ここに落ち着きました。
相反する念を込められた曲だったという形にしました。