あの魔法少女に恋はしない 作:毎日残業
撮影用に借りた古着店には、大きな窓から午後の日差しが差し込み、並べられた古着の色を柔らかく浮かび上がらせていた。
店内の一角ではスタッフがレフ板を構え、その少し先で玲央が首から提げたカメラへ手を添えている。
今回玲央が演じているのは、古着店で働きながら、休日にはカメラを持って街を歩くことを趣味にしている青年だった。
写真を撮ること自体が物語の中心にあるわけではない。それでも日常的にカメラを持ち歩く人物なのだから、構えるたびに手元がぎこちなければ、その瞬間だけ役ではなく、それを演じている人間の存在が前へ出てしまう。
玲央が自分のカメラを買ったのは、それが嫌だったからだ。
「じゃあ、お願い」
共演者の女性が店先へ立ち、スタッフの指示に合わせて身体の向きを変える。
玲央はすぐにはカメラを構えず、まず相手とその背後へ目を向けた。
ガラス越しに差し込む外の光が思っていたより強く、そのまま正面から撮れば顔の片側ばかりが明るくなってしまう。半歩横へずれて光の当たり方を確かめてからファインダーを覗き、背景に余計なものが入り込んでいることに気づいて、もう一度だけ位置を変えた。
「そこ、そのままで」
役として台詞を口にしながら、相手の表情が落ち着くのを待ってシャッターを切る。
以前なら、カメラをきちんと構えるだけで頭の中がいっぱいになっていた。けれど今は、押す前に何を見るべきなのかくらいなら考えられる。
撮った直後にカメラを下ろして背面の画面へ目を落とすと、玲央は画面の端まで確認してから、今度は少し膝を曲げて身体を落とした。
「もう一枚」
先ほどとは高さを変え、背景との重なりをずらして二度目のシャッターを切る。
共演者がその姿勢を保ったまま待っていると、少し離れた場所から監督の声が飛んだ。
「カット!」
緊張が解けるように周囲の空気が動き出し、玲央もカメラを下ろした。
スタッフが次々とセットへ入り、照明や小道具を動かし始める。その邪魔にならない場所まで退いてから、玲央は撮影用のカメラを小道具担当へ返した。
そのまま次の指示を待っていると、モニターを確認していた監督がこちらへ顔を向ける。
「オーケー。今のでいこう」
「ありがとうございます」
頭を下げる玲央を見ながら、監督は先ほどの映像をもう一度だけ確かめた。
「最初の頃より、だいぶ扱い慣れたね」
撮影が始まったばかりの頃は、カメラを構えることばかりに意識が向いていた。
ファインダーを覗く前に被写体を見る余裕もなければ、光がどこから当たっているかを気にする余裕もない。とにかくそれらしく持とうとして、何を撮ろうとしているのか自分でも曖昧なままシャッターを切ることさえあった。
心寿に写真を見てもらうようになってから、その辺りは随分変わった。
上手く撮れるようになったとはまだ思わないが、少なくとも何も考えずに構えることは減っている。
「最近、詳しい人にちょっと教えてもらってて」
「役作りで?」
監督が少し意外そうに眉を上げたので、玲央は首から外したストラップの跡を軽く直しながら頷く。
「はい。俺、カメラ全然知らなかったんで」
「そこまでやってくれるなら助かるよ」
演技に直接関係する部分だけ覚える役者もいれば、設定として書かれている趣味まで実際に触れてみる役者もいる。そのどちらが正しいという話でもないのだろうが、監督の表情を見る限り、少なくとも今回は悪い方向には働かなかったらしい。
「ありがとうございます」
玲央は改めて軽く頭を下げた。
本人としては、大したことをした感覚はない。
知らないままそれらしく見せようと気を張り続けるより、必要なところくらい覚えてしまった方が演じる自分も楽になる。ただそれだけの話だった。
撮影はその後も続き、最後に残っていた数カットを撮り終える頃には、窓から差し込む光も随分と弱くなっていた。
外の色は少しずつ夕方へ近づき、店内では人工の照明の方が目立ち始めている。
玲央が次の指示を待ちながらスタッフの動きを眺めていると、少し離れた場所にいた一人が声を張った。
「それでは、久世レオさん、本日でオールアップです!」
一拍遅れて、店内いっぱいに拍手が広がる。
「お疲れ様でした!」
近くにいた共演者からも声が飛び、玲央は拍手の中で何度か頭を下げた。
「ありがとうございました」
スタッフから渡された花束を受け取ると、甘い花の香りがふっと鼻先へ届く。
そのまま監督やスタッフ、今日まで一緒に撮影してきた共演者へ順番に頭を下げていった。
何か月も通った現場が終わるとなれば、やはり多少の寂しさはある。
明日になっても同じ場所へ来るような気がするのに、もうその必要はない。
ただ、こうして一つの仕事が終わること自体は、子供の頃から何度も経験してきた。
寂しさを抱えたまま次の作品へ行くことも、新しい役を覚えているうちに前の現場が遠くなっていくことも珍しくない。
何人かの共演者と改めて挨拶を交わしてから控室へ戻り、衣装を脱いで私服へ着替える。
衣装として着ていた服がハンガーへ戻されていくのを横目に、玲央は自分の荷物を一つずつ鞄へ収めていった。
財布、台本、充電器。
その途中で、奥に入れていた自分のカメラが目に入る。
今日は使う予定がなかったため、朝から一度も取り出していない。
そもそも役作りのために買ったものだ。その役は今日で終わり、明日から練習する必要もなくなった。
玲央はファスナーへ伸ばしていた手を止め、少しだけカメラを見つめた。
もう少し撮ってみるかもしれないし、このまま使わなくなるかもしれない。
少なくとも役のために持つ理由はなくなったが、それだけで今日すぐ手放す理由にもならない。
今決めなくてもいいかと考え、玲央はそのまま鞄を閉じた。
控室を出て廊下を歩き始めたところで、ふと心寿の顔を思い出す。
写真を見てもらい、構え方だけでなく、何を撮りたいのかを考えるよう何度も言われた。今日監督に褒められた部分のいくらかは、間違いなく心寿から教わったものだった。
しかし心寿とは連絡先を交換していない。
玲央は足を止めないままスマートフォンを取り出し、紗寿叶とのやり取りを開いた。
『今日、無事クランクアップした』
そこまで入力して送信しかけたところで、親指を止める。
今回伝えたいのはそれだけではない。
『心寿さんにも、カメラ教えてくれてありがとうって伝えておいて』
二つまとめて送ると、玲央はスマートフォンを片手に廊下の端へ寄った。
まだ撤収作業の続く現場ではスタッフが慌ただしく行き来しており、最後まで邪魔をするわけにもいかない。
しばらくして画面に既読が付き、そのすぐ後に返信が表示された。
『分かった。伝えとく』
『撮影お疲れ様』
紗寿叶の文章はいつも通り簡潔だったが、わざわざ二通に分けて返してくれたことに玲央は少し口元を緩める。
『ありがとう』
そう返したあと、スマートフォンをしまいかけて、もう一度だけ指を止めた。
心寿から写真を教わるとき、紗寿叶は毎回付き添っていた。
本人からすれば妹についてきただけなのかもしれないが、玲央の都合に付き合わせていたことに変わりはない。
『紗寿叶さんも毎回付き合ってくれてありがとう』
送信してから少しだけ時間が空く。
既読は付いているので、何と返すか考えているのだろう。
『私は心寿について行ってただけよ』
予想していたよりも、ずっと紗寿叶らしい返事だった。
玲央は思わず小さく笑い、立ち止まったまま短く打ち返す。
『それでも』
説明を足すほどのことでもなく、それだけ送る。
また少し間を置いてから、画面に新しい文章が現れた。
『じゃあ、どういたしまして』
今度こそそこで会話は途切れた。
玲央も続きを送ろうとはせず、スマートフォンをポケットへ戻す。
最後まで残っていたスタッフへもう一度挨拶を済ませると、何か月も通った現場を後にした。
◇ ◇ ◇
それから三日が経った。
紗寿叶の生活は、それまでと何も変わらなかった。
朝になれば学校へ行き、授業を受け、帰宅すれば夕食を食べる。時間が空けば衣装やウィッグを確認し、次にやるコスプレについて調べる。
玲央から連絡が来ないのも、おかしなことではない。
そもそも毎日のように連絡を取り合っていたわけではない。
頻繁に顔を合わせていたのも、心寿が玲央へ写真を教えていたからだ。
そのための撮影はもう終わっている。
なら、会わなくなるのも連絡が減るのも自然なことだと、紗寿叶は自分の中で簡単に結論をつけた。
夕食を終えて自室へ戻ると、机の上へ次にコスプレする予定の作品を広げる。
以前から好きだったキャラクターで、衣装についてはすでにある程度目処が立っていた。生地の質感や小物についても確認しており、残っている作業量も把握している。
ただ、一つだけ決めきれないものがあった。
撮影するときの表情だ。
紗寿叶は原作の一場面を開き、何度目か分からないほど見返しているページへ目を落とす。
そのキャラクターは普段から気が強く、誰かに弱いところを見せることを嫌う人物だった。
そんな彼女が物語の終盤、親しい相手へ向けて笑っている。
一見すれば、何の変哲もない笑顔だ。
しかしそこへ至るまでの流れを知っていれば、心の底から楽しいから笑っているわけではないことくらいは分かる。
本人も不安を抱えている。
それでも目の前の相手を心配させたくなくて、自分の方から笑ってみせているようにも見えた。
紗寿叶は椅子に座ったまま鏡へ顔を向け、その場面を思い浮かべながら一度表情を作ってみる。
口元を上げ、少しだけ目を細めた。
「……違うわね」
鏡に映る自分を数秒見たあと、すぐに力を抜く。
明るすぎる。
これでは何も抱えていない人間が、ただ楽しそうに笑っているだけに見えた。
だからといって、悲しそうに見せればいいわけでもない。
相手を安心させるために笑っているのなら、少なくとも本人は不安を表へ出そうとはしていないはずだ。
紗寿叶はもう一度ページへ目を落とし、キャラクターの目元と口元を交互に見てから鏡へ向き直る。
今度は口元だけをわずかに上げ、目にはあまり力を入れない。
数秒そのまま保ってみるが、今度は自分でもすぐに違和感が分かった。
表情を作っていることが見えすぎる。
わざとらしく弱々しくしているだけで、相手を安心させようとしている人物には見えない。
「難しいわね……」
紗寿叶は息を吐いて椅子へ座り直し、原作をもう一度開く。
心寿にも聞いてみたが、返ってきた答えは紗寿叶とほとんど同じだった。
無理をして笑っているようには見える。
けれど、悲しい顔になりすぎても違う。
写真としてどう見えるかなら、心寿に相談できる。
光の当て方や顔の角度、画面に収めたときにどこへ目が行くのかなら、自分より心寿の方がずっと詳しい。
ただ、今引っ掛かっているのはその前だった。
このキャラクターが何を考えて、どういう気持ちで笑ったのか。
そこが自分の中で決まらないまま、原作の絵だけを頼りに表情を真似しても、納得できるものにはなりそうにない。
ページをめくろうとしたところで、紗寿叶の指が止まる。
数日前、玲央と電話をしたときのことを思い出した。
榊原湊の話をしたとき、玲央は視線をどこへ置くかという細かいところまで、その役の性格から考えていた。
相手の感情よりも話の内容を優先する人物だから、必要以上に相手の顔を見ない。
台本や演出を踏まえて、自分なりにそう考えたのだと玲央は話していた。
その翌日には、ジュジュの写真を見ながら、キャラクターによって立ち方や笑い方まで変えていることにもすぐ気づいている。
紗寿叶は開いていた本から顔を上げた。
「……朝比奈なら、どう考えるのかしら」
声に出してから、机の端に置かれたスマートフォンへ目を向ける。
役者だからといって、キャラクターの感情に唯一の正解を持っているわけではないだろう。
むしろ同じ場面でも、役者によって解釈が変わることくらいは紗寿叶にも分かる。
それでも、自分や心寿とは違う見方くらいはするかもしれない。
スマートフォンを手に取り、玲央とのやり取りを開く。
一番下には三日前の『じゃあ、どういたしまして』が残っていた。
紗寿叶は入力欄へ指を置く。
『ちょっと聞きたいことあるんだけど』
そこまで打ってから止めた。
これだけ送られても、何の話なのか相手には分からない。
一度すべて消して、『役を演じるときって』まで打ち直す。
しかし、今度はそこで指が止まった。
これでは聞きたいことが広すぎる。
普段どうやって役作りをするのか知りたいわけではなく、一つの場面をどう読み取るかを聞きたいのだ。
「面倒ね……」
紗寿叶は眉間へわずかに皺を寄せ、入力した文章をまた消した。
文章だけで説明しようとすれば、まず原作の人物関係から書かなければならない。その上で、この場面までに何が起きて、なぜこの人物が笑ったのかを説明する必要がある。
それなら、実際にページを見せた方が早い。
自分が試している表情も、その場で見せた方が玲央には伝わるだろう。
そこまで考えたところで、紗寿叶の指が止まった。
会えばいい。答え自体は簡単だった。
けれど思いついてから、紗寿叶はしばらく画面を見つめたまま動かなかった。
今まで玲央と会うときには必ず心寿がいた。
きっかけを作っていたのも心寿で、紗寿叶はあくまで妹に付き添っていた側だ。
今回は違う。
聞きたいことがあるのは自分で、玲央に会おうとしているのも自分だった。
だからといって、それが何だという話でもないはずなのに、一度文章にしようとすると妙に意識してしまう。
紗寿叶は入力欄を空にしてから、余計な説明を付けずに新しく打ち直した。
『今度時間ある?』
今度は消さず、そのまま送信する。
送った直後に少しだけ画面を見ていたものの、すぐにスマートフォンを伏せて原作へ目を戻した。
返事が来るまで眺め続けている必要もない。
そう思ってページへ視線を戻したはずなのに、数分後に机の上でスマートフォンが震えると、ほとんど反射的に手が伸びた。
『あるけど、どうしたの?』
紗寿叶は画面を見ながら、すぐに返事を打つ。
『ちょっと役者として聞きたいことがある』
『俺に?』
そこだけ読むと、本気で自分を指しているのか確認しているようだった。
紗寿叶は少しだけ眉を寄せる。
『他に誰がいるのよ』
『いや、急だったから』
文字だけでも玲央がわずかに戸惑っている様子が想像でき、紗寿叶はこれ以上回りくどくする必要もないと考えて事情を続けた。
『次やるコスプレで、キャラの表情どうするか迷ってるの。演技する側ならどう考えるのか聞いてみたい』
今度は少し時間が空き、数十秒ほどして返信が来る。
『俺で分かることならいいけど』
断られたわけでも、変に理由を聞かれたわけでもない。
その返事を見て、紗寿叶は自分でも気づかないうちに入っていた肩の力をわずかに抜いた。
『原作見せながら説明した方が早いから、今度会える?』
『いいよ』
今度はほとんど間を置かずに返ってきた。
その後すぐ、もう一通続く。
『土曜なら空いてる』
紗寿叶は自分の予定を頭の中で確認する。
確認するといっても、土曜日には何も入っていなかったので時間はほとんど掛からない。
『じゃあ土曜でお願い』
『分かった。場所は?』
具体的な場所まではまだ何も考えていなかった。
ただ、お互いに一度使った場所なら迷うこともないだろう。
『前に会った駅でいいでしょ。詳しくはまた決める』
『了解』
そこでやり取りは終わった。
紗寿叶はしばらく画面を眺めてから、スマートフォンを机へ戻す。
開いたままになっていた原作へ目を落とせば、当然ながらキャラクターの表情は先ほどまでと何も変わっていない。
自分の中でも、まだ答えは出ていなかった。
それでも、同じページを何度も見返していたときより、少しだけ気持ちは軽くなっている。
玲央がカメラを始めた理由は、もうなくなった。
役は終わり、心寿が写真を教える必要もなくなったのだから、これまでと同じ理由で三人が顔を合わせることもなくなる。
それでも土曜日には、また玲央と会うことになった。
今度は心寿について行くのではない。
紗寿叶自身が用事を作り、紗寿叶自身から玲央に会おうと連絡した。