あの魔法少女に恋はしない 作:毎日残業
土曜日の午後、紗寿叶が待ち合わせ場所へ着くと、玲央は駅前の案内板から少し離れたところに立っていた。
黒いキャップを深く被り、スマートフォンへ目を落としている。初めて会った頃なら人混みに紛れた姿を探すのにもう少し時間が掛かったかもしれないが、何度か顔を合わせた今では遠目でもすぐに分かった。
向こうも紗寿叶に気づいたらしく、画面から顔を上げて軽く手を挙げる。
「こんにちは」
「待った?」
「いや、俺も今来たところ」
玲央はスマートフォンをポケットへしまうと、紗寿叶の後ろへ一度だけ視線を向けた。
「今日は心寿さんいないんだ」
「今日は私があんたに用があって来たんだから、心寿までついてくる必要ないでしょ」
「それはそうだけど……いつも一緒だったから、ちょっと意外で」
そう言われて初めて、紗寿叶も気づいた。
玲央と会うときには、いつも心寿が隣にいた。最初こそ妹が知らない男と会うことへの警戒だったが、その後も写真を教えるのは心寿の役目だったため、三人で顔を合わせることがいつの間にか当たり前になっていた。
けれど今日は違う。聞きたいことがあって連絡したのも、会おうと言ったのも自分だ。
つまり、玲央と二人だけで会うのはこれが初めてだった。
「……何?」
「いや、何でもない」
考えていたことを見透かされたような気がして、紗寿叶は先に歩き出した玲央の隣へ少し遅れて並ぶ。
話ができれば場所にはこだわらなかったため、駅から近い喫茶店へ入った。休日らしく家族連れや学生の声が重なっていたものの、奥にはちょうど二人掛けの席が一つ空いている。
注文を済ませて向かい合うと、紗寿叶は早速鞄から一冊の漫画を取り出した。
「これなんだけど」
表紙を上にしてテーブルへ置く。
玲央はタイトルを確認すると、初めて見るものを確かめるような反応ではなく、小さく頷いた。
「これ、面白かった」
「……もう読んだの?」
「そうだけど?」
待ち合わせを決めた翌日、何の作品について相談したいのかとメッセージが来たのでタイトルだけは教えていた。
だから何となく概要くらいは調べてくるかもしれないと思っていたが、今の言い方には嫌な予感がする。
「どこまで?」
「十二巻」
「全部?」
「今出てるの十二巻までだろ?」
思わず顔を見ると、玲央もこちらを見返した。どうして驚かれているのか本気で分かっていないらしい。
「いつ読んだのよ」
「タイトル教えてもらってから。電子で読んだ」
「私、そこまでしてって言ってないんだけど」
「言われてないよ」
玲央は当然のように答えて、テーブルの漫画へ目を落とす。
頼まれたから仕方なく読んだわけでも、恩を売ろうとしているわけでもなさそうなのが余計に理解できない。
「じゃあ何で全部読むのよ」
「だってキャラの表情について聞きたいんだろ? その場面だけ見せられても、それまで何があったのか分かんないじゃん」
「だからって十二巻全部?」
「そんな長くないし」
軽く言われて、紗寿叶は呆れた目を向けた。
「十二巻はそれなりに長いわよ」
「漫画だし読めるだろ」
役者なら自分とは違うところを見るかもしれない。そう思ったからこそ相談しようと考えたのだが、そのためだけに作品そのものを一巻から追うとは思っていなかった。
「……あんた、そういうところ無駄に真面目よね」
「無駄って何だよ」
「悪い意味で言ってるんじゃないわよ」
玲央は納得していない顔のままテーブルへ片肘をつきかけ、店内だからと思い直したのか途中で腕を戻す。
「じゃあ普通に真面目でいいだろ」
「そこまで素直に褒めるのも癪なの」
「知らないよ」
以前なら、こういう返し方はしなかった気がする。
初めて会った頃の玲央は、こちらの反応を確かめながら感じのいい答えを選んでいた。それが最近では、気に入らなければこうして雑に返されることも増えている。
なのに、不思議とその方が話しやすかった。
「それで、どの場面?」
玲央が本題へ戻すように漫画を指す。
「十一巻。終盤のここ」
紗寿叶は目的のページを開き、玲央へ向けた。
普段は気が強く、自分が苦しくても簡単には弱音を吐かない少女が、親しい相手から心配される場面だ。
本人の中にも不安は残っている。それでも相手へ「大丈夫」と告げて笑う。コマだけを切り取れば、ごく普通の笑顔にも見える。
「ここね」
「私が迷ってるのは、この子がどのくらい無理して笑ってるように見せるかってところなの」
玲央がページを追っていた指を止め、紗寿叶の説明へ意識を向ける。
「相手を安心させたいから笑ってるんだとは思う。でも、自分が弱ってるのを見せたくない気持ちもあるでしょ。普通に明るく笑うだけだと違うし、かといって悲しそうにしすぎたら、安心させるために笑ってる意味がなくなるのよ」
「なるほど」
玲央はすぐには答えず、前後の台詞をもう一度読み返した。
紗寿叶も急かさず待つ。漫画を読む横顔は普段と変わらないのに、視線だけが一つ一つのコマを拾うように動いていた。
「六巻のときとは違うんだよな」
しばらくして出てきた言葉に、紗寿叶が顔を上げる。
「六巻?」
「ほら、怪我したの隠して、一人で平気な顔してたところ」
「ああ……」
言われて思い出す。
六巻では戦いの後に負った怪我を周囲へ隠し、何でもないように振る舞う場面があった。状況だけを見れば確かに似ている。
「でも、あのときはほとんど意地だと思う」
玲央はページを見たまま続ける。
「弱ってるって思われたくないから隠してるだけで、相手を安心させたいわけじゃない」
「……そうね」
「今回は一回相手の顔を見てから笑ってる。そこが違うんじゃない?」
改めて該当するコマを見る。
六巻では何を言われても自分の都合で「平気」と押し通していた。それに対して今回は、相手の不安そうな顔を見たあとで初めて笑っている。
「そこまで見てたの?」
「何が?」
「前の場面と比べるところまで」
「読んだんだから比べるだろ」
特別なことでもないという顔で返される。
十二巻全部読んできた人間に言われると、それ以上何も言えなかった。
「俺なら、今回はちゃんと相手を安心させようとして笑うと思う」
「でも、普通に明るく笑うのは違うじゃない」
「そう」
玲央はほとんど間を置かず首を横へ振った。
「この子、自分が不安なのまで消えたわけじゃないだろ」
「そうなのよ」
「なら完全に自然な笑顔にはならないと思う」
そこで結局、紗寿叶が最初から悩んでいた場所へ戻ってくる。
「でも不安そうにしすぎたら、相手を安心させるために笑う意味がなくなるでしょ?」
「うん。だから難しいんじゃない?」
「他人事みたいに言わないでよ。相談されてる側でしょ」
睨むと、玲央は少しだけ口元を緩めた。
「俺が決めることじゃないし」
玲央は一度漫画を閉じかける。しかし何か引っ掛かったらしく、すぐに同じページを開き直した。
「俺だったら、笑顔そのものより笑うまでの方を気にするかな」
「笑うまで?」
「芝居ならだけどね」
玲央は指先で自分の頬を示した。
「本当に楽しいときって、いちいち『今から笑おう』って考えないだろ。でもこの子は、多分相手の顔を見てから『大丈夫だって思わせないと』って考えて、それで笑ってる」
「……そうね」
「だったら、笑う前にほんの少し間があったり、相手の顔を見てから表情が変わったりすると思う」
紗寿叶はその場面を頭の中で動かしてみる。
確かに芝居なら分かりやすい。けれど自分が残そうとしているのは、一連の動きではなく一枚の写真だ。
「でも写真じゃ、その前の間は写らないわよ」
「そう。だから俺のやり方をそのまま持っていっても駄目」
玲央はあっさり認めた。
「写真としてどこを残すかは、心寿さんの方が分かると思う。俺が言えるのは、このキャラならその瞬間に何を考えてそうかって話だけ」
「それを聞きに来たのよ」
「なら役には立ってる?」
「今のところは、ね」
少し意地悪く返すと、玲央が苦笑する。
「今のところか」
「最後まで聞いてから決めるわ」
「厳しいな」
そこへ注文していた飲み物が運ばれてきた。
二人とも店員が離れるまで話を止め、紗寿叶はカップへ口をつける。玲央はストローの袋を指先で折りながら、先ほどまで見ていた漫画へもう一度目をやった。
「紗寿叶さん、今はどういう顔でやろうとしてるの?」
「どういうって?」
「実際の表情」
「ここでやるの?」
思わず周囲を見回す。
奥の席なので多少は人目を避けられるものの、撮影スタジオでも自宅でもない。休日の、ごく普通の喫茶店だ。
「嫌ならいいけど」
「嫌っていうか……」
玲央はそれ以上勧めず、飲み物へ手を伸ばした。
「じゃあ説明だけでもいいよ」
「……一回だけよ」
「やるんだ」
無理にやらせようとされなかったせいで、かえって断るほどでもない気がしてきた。
「そんなじっと見ないで」
「見ないと分かんないだろ」
「そうだけど」
カメラの前で表情を作ること自体には慣れている。
ただし今は衣装もウィッグもなく、撮影ですらない。いつもの自分の姿のまま、目の前にいる玲央一人へ向かってキャラクターの顔を作るとなると、妙にやりづらかった。
紗寿叶は一度呼吸を整え、漫画の場面を頭へ浮かべる。
自分も不安を抱えている。それでも目の前の相手には心配を掛けたくない。だから何でもないように笑う。
そう意識しながら口元を上げ、僅かに目を細めた。
数秒その表情を保っていると、玲央が小さく首を傾げる。
「悲しそう」
「やっぱり?」
「うん。これだと『本当に大丈夫?』って余計聞かれると思う」
紗寿叶はすぐに顔を戻し、自分の頬へ触れた。
「私もそう思うのよ。でも明るくすると、今度は普通に笑ってるだけになるの」
「もう一回やってみて」
「変えても同じだと思うけど」
「じゃなくて」
玲央は漫画を自分の方へ引き寄せ、該当するコマと台詞を確かめた。
「俺が相手の台詞言うから」
「……相手役までやるつもり?」
「一人で顔作るより、その方が考えやすいだろ」
紗寿叶が周囲へ視線を向けると、玲央もつられるように店内を見る。
「こんなところで?」
「声小さくすれば平気じゃない?」
「……まあ、いいけど」
大袈裟に芝居をするつもりではないらしい。
玲央は一度だけ台詞を確認してから顔を上げた。
「ここからでいい?」
「いいわよ」
玲央に指定したコマを確認して、紗寿叶が頷く。
その直後、玲央の雰囲気がほんの僅かに変わった。
姿勢を大きく変えたわけではない。声色を作った様子もなく、さっきまでと同じ椅子に座ったままだ。
それなのに、こちらを見る目だけが違った。
「本当に大丈夫なのか?」
低くも強くもない声だった。
返事を急かしているわけではない。ただこちらが何か隠していることに気づいていて、それでも無理に暴こうとはせず、答えを待っている。
漫画について話していた朝比奈玲央が、そこから消えていた。
紗寿叶は返事をするのを忘れた。
「……紗寿叶さん?」
名前を呼ばれて、そこでようやく我に返る。
「ごめんなさい。もう一度お願い」
玲央は理由を聞かず、軽く頷いた。
今度は一人で笑顔を作るのではない。
目の前には、自分を心配している相手がいる。その人を安心させたい。同時に、自分の中にある不安までは悟られたくない。
「本当に大丈夫なのか?」
同じ台詞が向けられる。
紗寿叶は一度だけ玲央の目を見た。
「……大丈夫よ」
言葉と一緒に、自然と口元が持ち上がった。
先ほどより明るく笑えている気がする。それでも完全に気を抜くことはできず、言ったあとには玲央が信じてくれたのか気になって、その表情を確かめてしまう。
玲央は何も言わず、数秒ほど紗寿叶を見ていた。
「何よ」
「今の方がいいと思う」
「どこが?」
「ちゃんと『大丈夫だって思わせたい』顔に見えた」
紗寿叶は自分の頬へ触れる。
鏡があるわけではないので、今どんな顔をしていたのか自分では分からない。
「でも普通に笑ってなかった?」
「笑ってた」
「じゃあ同じじゃない」
怪訝な顔を向けると、玲央は少し考えたあと首を横へ振る。
「でも、俺の反応見てた」
「反応?」
「笑えてるかどうかじゃなくて、俺が安心したか確認してるみたいだった」
紗寿叶はすぐには答えなかった。
先ほどの感覚を思い返してみれば、確かに綺麗に笑うことそのものへ意識は向いていなかった。
大丈夫だと信じてほしかった。そして笑ったあとも、玲央がそれを信じたかどうかの方が気になっていた。
「……それなら、ありかもしれないわね」
「六巻のときとは違うだろ?」
「そうね。あのときなら相手がどう思ったかまで気にしないと思う」
「俺もそう思う」
自分が何度も読んできた作品について、数日前まで存在すら知らなかった玲央と、こうして当たり前のように解釈を交わしている。
考えてみれば妙な話だ。
「十二巻読んだ甲斐あった?」
玲央が少しだけ得意げに尋ねる。
「調子に乗らないで」
「さっき役に立ってるって言ったじゃん」
「少しはね」
素直に褒めるのも癪でそう返すと、玲央は分かりやすく肩を落とした。
「少しか」
「何よ。褒めてほしいの?」
「いや、別に」
「ならいいでしょ」
玲央は何とも言えない顔で飲み物へ口をつける。
紗寿叶も漫画へ視線を戻した。
本番でどうするかまで決まったわけではない。衣装を着てウィッグを被り、実際の場所でカメラを向けられれば、また感覚は変わるだろう。最後には心寿にも写真としてどう見えるか確認してもらう必要がある。
それでも、一人で鏡と睨み合っていたときより、自分が何を表現したいのかは随分はっきりした。
「そういえば」
玲央が漫画を指差した。
「七巻のあれ、結局何であいつ黙ってたの?」
「どれ?」
「主人公に昔のこと聞かれたとき。一回話そうとしてやめただろ」
「あれは十巻まで読めば分かるでしょ」
当然のように返すと、玲央は納得していない顔で首を傾げる。
「読んだけど、俺あれ完全に納得してないんだよね」
「何が?」
「別にあそこで黙る必要なくない?」
「あるわよ」
今度は紗寿叶が漫画へ手を伸ばし、記憶を辿りながらページをめくった。
「だってあの時点では、自分から話すようなことじゃないと思ってるもの」
「でも相手から聞かれてるじゃん」
「聞かれたからって何でも答えればいいわけじゃないでしょ」
玲央はそれでも腑に落ちないらしく、僅かに眉を寄せる。
「いや、あれは言った方が早いと思うけど」
「……あんた、榊原みたいなこと言うわね」
「それ悪口?」
「半分くらい」
紗寿叶は七巻を開いたまま少し身を乗り出し、問題の場面について説明を始めた。
玲央もすぐに自分の解釈を返す。
そこから先は、相談していた笑顔とはほとんど関係がなかった。
好きなキャラクターの話から始まり、原作では好きだったのに映像化されると印象が変わった場面、逆に声や動きがついたことで意味が伝わりやすくなった場面へと話題が移っていく。
玲央が漫画原作の作品へ出演するとき、どこまで原作へ寄せるのかという話になれば、今度は紗寿叶がコスプレするキャラクターを何で選ぶのかという話へ変わった。
「じゃあ見た目が好きでも、性格嫌いならやらない?」
「絶対じゃないけど、やりたいとは思わないわね」
「へえ」
「何よ」
紗寿叶が睨むと、玲央はグラスを指先で弄びながら答える。
「衣装が好きならやるとかじゃないんだなと思って」
「衣装が着たいだけなら、わざわざそのキャラのコスプレをする必要ないでしょ」
「まあ、それもそうか」
今度は紗寿叶が尋ねる。
「朝比奈は? 嫌いなキャラでも役ならやるんでしょ」
「仕事ならね」
「やっぱり変な感じ」
「何が?」
少し考えてから、紗寿叶は感じたことをそのまま口にした。
「私は好きだからやるけど、あんたは好きじゃなくてもその人になるところ」
「まあ、そこは全然違うよな」
玲央はどちらが正しいと言うでもなく頷いた。
紗寿叶もそれ以上は付け足さなかった。
ふと窓の外へ目を向けると、店へ入った頃より日差しが傾いている。テーブルの上では、いつの間にか二人の飲み物もほとんど空になっていた。
「……結構話したわね」
「そうだな」
「私、相談したら帰るつもりだったんだけど」
「俺も聞かれたこと答えたら終わりだと思ってた」
同じようなことを言いながら、どちらもすぐには席を立たなかった。
紗寿叶は残り少ない飲み物へ目を落とす。
「じゃあ何でまだいるのよ」
「紗寿叶さんもいるだろ」
「それはそうだけど」
言い返してから、自分でも妙なやり取りだと思った。
相談そのものは随分前に終わっている。それなのに七巻の話を始めたあたりから、帰る理由の方を忘れていた。
「そろそろ出る?」
「そうね」
二人で席を立ち、店を出る。
夕方へ向かい始めた駅前を並んで歩いていると、玲央が何かを思い出したように口を開いた。
「今日のやつ、撮ったら写真見せてよ」
「何で?」
「俺も考えたんだから、結局どうなったか気になる」
玲央は本当にそれだけの理由らしく、当然のような顔で紗寿叶を見る。
「……まあ、それはそうね」
「心寿さんが撮るんだろ?」
「当然でしょ」
「じゃあ楽しみにしてる」
何でもないことのように言われて、紗寿叶も短く「そう」とだけ返した。
今日ここへ来たのは、聞きたいことがあったからだ。
その用事自体はとっくに終わっていたのに、気づけば作品の話だけで随分長く店にいた。
隣を歩く玲央へ、紗寿叶はそっと視線を向ける。
自分が大事にしている作品を、相談を受けるためだけに十二巻全部読んできた男は、そんなことなど何でもないという顔で前を見ている。
頼んでもいないのに、わざわざそこまでした。
けれど本人にとっては、きっと「必要だと思ったから読んだ」というだけなのだろう。
そんな玲央の横顔が少しだけ可笑しく見えて、紗寿叶は口には出さないまま視線を前へ戻した。