先頭の白い子 作:Lagavulin
「もう1枚、お願いします」
シロハナビが柵の前から離れかけると、カメラを持った職員が片手を上げた。隣のベンチに置いた荷物を取りに行くつもりだったが、もう一度、元の位置へ戻る。
今日は地元のレース場で、デビューするウマ娘の紹介が行われていた。名前を言い、これからの目標を話し、写真を撮る。説明ではそれだけだったはずなのに、ハナビの順番はなかなか終わらない。
身長138cmのハナビに合わせ、職員は片膝をついてカメラを構え直した。ハナビも姿勢を正し、手首で折り返していたジャージの袖を直す。一番小さいサイズを選んでも、袖は少し長かった。
「今度は、尻尾が見えるように少し横を向いてもらえる?」
「こうですか」
「そうそう。あ、髪が風で」
肩までの髪を押さえた拍子に、白い耳が倒れた。職員がまたシャッターを切る。ハナビは手を離してから、撮り直しになるのかと顔を上げた。
「今の、いいね」
「耳、寝ちゃいましたけど」
「そこもいいですね」
何をもってよい写真とするのか、ハナビにはよく分からなかった。すみれ色のゴムで髪を結び直し、今度こそ荷物を取る。ベンチの向こうに、父親と手をつないだ小さな女の子がいた。
「お姉ちゃん、しっぽも白い」
ハナビは後ろへ目をやった。手入れは朝に済ませている。今の撮影で変なところが跳ねたのかと思ったが、女の子はただ、楽しそうに尻尾を見ていた。
「髪も白いよ」
「触ってもいい?」
「それは駄目だよ」
父親が娘の手を引いた。ハナビに頭を下げてから、胸に付いた番号を確かめる。
「シロハナビさん、6番で明日のレースに出るんですね」
「はい。初めてです」
「見に来ます。頑張ってください」
女の子も父親の真似をして頭を下げた。ハナビが手を振ると、大きく振り返してから、次のウマ娘が紹介されている方へ走っていった。
付き添いの三木先生は、少し離れた日陰で、その様子を眺めていた。地方のトレセン学園に入ってから、ずっと世話になっているトレーナーだ。
「よかったじゃない。初めてのレースから応援してもらえて」
「まだ何も見せてないですけど」
「写真は見せたでしょ」
「走る方も見てほしいです」
ハナビが答えると、三木は持ってきた水筒を渡してくれた。
「じゃあ明日。見てて分かりやすい走りにはなると思うよ」
翌日のダート1600mには、10人が出走する。
作戦は前へ出てゴールまで逃げることだった。
最後の直線まで力を残しておく走り方も練習したが、そこから急に速く走ろうとしても、ハナビの脚はうまく応じなかった。初めから速さを上げ、落としすぎずに走る方が、最後までのタイムはよかった。
「最初のコーナーで力まない。先頭に出ても、もうひと押ししない」
「はい」
「誰も来なくても、そこで速くする必要はないからね」
三木が付け加えたのは、練習で何度かそれをやってしまったからだ。広く空いた前方を見ると、もう少し速く行ける気がする。実際、その時は行ける。困るのは、あとになってからだった。
ハナビはうなずき、水を飲んだ。明日は勝ちたい。最後に前へ出るのが苦手なら、追いつかれなければいい。
*
ゲートが開いた。
ハナビはすぐに前へ出た。
隣にいた栗色の髪が、横目に見えなくなる。コーナーへ入る手前で、前はすっかり空いていた。後ろの足音が遠ざかっても、三木に言われたとおり腕を振る幅を変えずに走る。
砂を踏む音が軽い。練習より身体が動く。
向こう正面へ出た時、ハナビは前を向いたまま少しずつ速くなっていた。苦しさはまだない。これだけ動くなら大丈夫だと、そのまま脚を回した。
『シロハナビが大きく離しました! 2番手との差はさらに広がっています!』
実況の声が聞こえた。名前を呼ばれると、先頭にいるのだと改めて分かる。ハナビは唇を結び、次のコーナーへ入った。
そこで初めて、脚が重いと感じた。
いつもならもう少し先まで持つ。練習で覚えた苦しさが、今日は早く来ていた。向こう正面で速くしすぎたのかもしれないが、考えたところで使った力は戻らない。
前方に、直線の入口が見える。あそこを曲がって、ゴールまで。
腕を振り、身体を起こしすぎないように走った。後ろにいたウマ娘の足音が聞こえ始める。ここまで静かだったぶん、その近さが気になった。
「ハナビ、頑張れ! あと少し!」
柵の向こうで誰かが叫んだ。
ハナビはゴール板を見た。まだ遠い。客席を確かめる余裕はなく、前だけを見て脚を動かし続ける。
『シロハナビ先頭! 外から追ってくる!』
すぐ隣で、別の呼吸が聞こえた。
栗色の髪のウマ娘だった。最初のコーナーへ入る前に後ろへ消えた相手が、今度はハナビの横を通り過ぎようとしている。ハナビも脚を速めようとしたが、足先が思った場所へ出なかった。
ゴールの手前で、相手の肩が前へ出た。そのまま半歩、さらに半歩と差が開く。
ハナビは2着でゴールした。
速度を落とし、歩けるようになってから腰に手を当てた。息を吸うたび、喉の奥が熱い。掲示板の1着の欄には別の番号があり、自分の6番はその下だった。
「あぶなかった」
勝ったウマ娘が声をかけてきた。相手も肩で息をしている。
「全然、追いつかないかと思った」
「……おめでとうございます」
「ありがとう」
笑って返されると、ハナビはもう一度、掲示板を見た。ついさっきまで、1着の欄に自分の番号が入るつもりで走っていた。
2着でも速かったと言ってもらえるかもしれない。けれど、あのまま先にゴールしたかった。
*
「向こう正面」
レース後、三木が映像を止めた。休憩室の画面には、後続を離して走るハナビが映っていた。
「ここから、予定より上がってる」
「動けたので」
「その時はね」
ハナビはタオルを首にかけたまま、止まった自分を見つめた。後ろとの差は大きい。これ以上離さなくても、先頭のままコーナーへ入れたはずだった。
「次は、ここで上げません」
「うん。最後まで持たせよう。初めてでこれだけ走れたんだから、そこは自信を持っていいよ」
差されるところも、もう一度見た。ゴールするまで先頭でいたかった。
三木が画面を閉じた頃、前日の撮影を担当した職員が、部屋の入口から顔を出した。
「お疲れさま。あとで、外の交流スペースに少しだけ顔を出せる?」
「ハナビに?」
「昨日、写真を撮っていた親子。直接、頑張ったねって言いたいんだって」
三木がハナビを見る。ハナビは残っていた水を飲み、タオルで顔を拭いた。
交流スペースへ行くと、昨日の女の子が、父親のスマートフォンを両手で持って待っていた。画面いっぱいに白い耳が映っている。風に髪を押さえていた時の写真だった。
「昨日の写真、公式の紹介に出ていました。娘がずっと見ていまして」
父親が言い終わる前に、女の子が画面を差し出した。
「いちばん前にいたね」
「最後、抜かれちゃった」
「うん。でも、すぐ分かった」
女の子は画面から目を上げ、ハナビの耳を見た。
「ずっと見てたよ」
ハナビは「ありがとう」と答えた。小さな声になったので、もう一度、少し大きく言った。
父親が、今度はレースの映像を開いた。後ろと離れた白い姿が、向こう正面を駆けている。
「ここ、勝てると思いました。最後はつい声が出ましたよ」
「私も、勝てると思ったんですけど」
「次も同じように前へ行くんですか?」
ハナビは隣の三木を見た。三木は答えず、ハナビの言葉を待っている。
「前には行きます。もうちょっと、最後まで走れるようにして」
「また見に来る!」
女の子が言った。父親は予定を確認するように三木へ顔を向ける。
「次のレースは、もう決まっていますか」
三木が、身体の戻りを見てから決めることと、決まれば出走予定が公開されることを説明した。父親は案内のページを開き、娘に画面を見せていた。
ハナビは、まだ自分の走っている映像が見たかった。抜かれる直前、何歩くらい余分に頑張れればよかったのか。それを考えかけて、スマートフォンが親子の物だったと思い出した。
「あの。もう1回、見てもいいですか」
「いいですよ。最初から?」
「最後の直線から、お願いします」
父親が映像を戻し、女の子にも見える高さへスマートフォンを下げた。ハナビも少し屈み、隣から画面をのぞいた。