先頭の白い子 作:Lagavulin
宝塚記念の出走者を紹介する記事には、ハナビの名前の横にも、勝利を予想する印が付いていた。
松浦の机で雑誌を開き、名前を確かめる。昨秋、初めてG1へ出た時には、別のページまで探して自分の紹介を見つけた。今回はオグリと同じ見開きにいた。
「この人、私が勝つと思ってるんですか」
「そう書いてあるね」
ハナビは記事を読んだ。大阪杯の内容がよかったこと。途中で無駄に脚を使わなければ、2200mでも逃げ切る可能性があること。最後には、後続の追い出すタイミングが勝負を分けると書かれていた。
「あんまり早く来ないでほしいです」
「それは向こうが決めるからな」
「分かってます」
机のもう1冊を開くと、そちらはオグリが大きく載っていた。ハナビの名前はあったが、勝つという予想ではなかった。
読み比べていると、松浦が大阪杯の映像を出した。
「どこで来てもらいたくない?」
ハナビは画面へ顔を向けた。
直線でオグリに抜かれたところより、少し前へ戻してもらう。最後のコーナーに入る頃には、もう差が縮まっている。
「ここです。ここで来られると、速くしたくなります」
「実際に少し上がってる。宝塚は、ここからもう少し走る」
追いつかれたくなくて速度を上げ、そのあとで苦しくなる。金鯱賞ほどではなくても、似たことは起きていた。
ハナビは映像を最後まで見た。自分が先頭にいる時間は長い。ゴール前の短い時間を直したくても、そこだけ走り直せるわけではなかった。
翌週の練習では、後ろから来る足音を聞きながら、決めておいた場所まで待った。
相手が近づくと、腕に力が入った。松浦に言われる前に気づき、肩を少し下げる。追いつかれる前に走り終えられた日も、最後に並ばれた日もあった。
「もう1本、できます」
最後の練習が終わったあと、ハナビはコースを指さした。
松浦は時計を見てから首を振った。
「今日はここまで。さっきの走りを、疲れがない時にもう一度やろう」
ハナビは少しだけコースを見て、それから水筒を受け取った。
*
レース当日、地元から来た父親は、娘と一緒に出走者のパネルを見ていた。
等身大のシロハナビは、隣のオグリキャップより頭1つ近く低い。白い耳の先まで含めても、周囲のパネルの中ではすぐに見つかった。
「こんなに小さいの?」
隣で写真を撮っていた女性が言った。連れの男性はパンフレットを開き、身長の欄を探していた。
娘は持っていたすみれ色の旗を胸の前に下ろし、そちらを見た。
「最初のレースの時も、このくらいだったよ」
「見たことあるんだ」
「地元で。写真も撮った」
父親がスマートフォンで古い写真を出すと、女性は画面をのぞき込んだ。まだすみれ色の勝負服を持っていなかった頃の、袖を折ったジャージ姿だった。
「あ、この写真。紹介番組で見ました」
娘が父親を見上げた。父親も少し驚いた。何度も見ている写真が、知らない土地の、初めて会う人の記憶にもある。
「今日は勝てそうですよね」
男性がパンフレットを閉じた。
「オグリキャップは強いけど、大阪杯も惜しかったし」
「最後に来るんですよねえ」
父親が答えると、娘が旗を持ち直した。
「その前にゴールすればいいんだよ」
4人で笑ったあと、女性がハナビのパネルの横へ立った。
男性も隣へ並び、2人で写りたいと父親へスマートフォンを差し出した。父親は娘の旗が写真へ入り込まないよう少し離れ、カメラを構えた。
*
ハナビは待機室で、すみれ色の勝負服の留め具を確かめた。
仕立て直してもらった服は、肩にも腰にも余りがない。近くに座る出走者の膝より、自分の膝はずっと手前にあった。椅子に深く座ると足を置きにくいので、少し前へ腰をずらした。
オグリが入口から入ってきた。ハナビを見つけると、隣の空いた席まで来る。
「今日は、簡単には追いつかせません」
ハナビから言うと、オグリはうなずいた。
「大阪杯の時より、最後まで速そうだ」
「見たんですか。練習」
「同じコースを使っていた日があっただろう」
覚えはあった。自分が走り終えたあと、オグリが練習を始めていた。
ハナビは相手の顔を見上げた。
「じゃあ、もっと早く来ますか」
「それは、走ってみないと分からない」
そう言ってから、オグリは少し笑った。
「でも、追いつくつもりだ」
名前を呼ばれ、ハナビは立ち上がった。
通路を出ると、客席の色が広がった。白いタオルが何枚も上がり、その間から自分の名前が聞こえた。オグリを呼ぶ声も大きい。これから全員、同じレースを見る。
ハナビは軽く手を上げ、芝へ向かった。
ゲートが開いた。
最初の数歩で、前へ出た。
すぐ外にも足音があったが、ハナビは相手の位置を確かめるために速度を変えなかった。最初のコーナーに入る頃には、その音も後ろへ下がった。
前が空く。
大きく息を吐き、腕の振りを落ち着かせた。脚は軽かったが、自分からさらに差を広げようとはしなかった。
『シロハナビが先頭! 後続を離して、向こう正面へ向かいます!』
背後の音が遠い。
ハナビは正面を見た。草の色がわずかに変わるあたりを通り、次の曲がり角までの距離を確かめる。ここでは、まだ上げない。
後ろから足音が戻り始めた。
大阪杯より早い気がした。近づく音が1つではない。誰かが動けば、ほかの相手も来るのだろう。腕に力が入りかけ、ハナビは1度息を吐いた。
まだ、いつもの速さで走れる。
コーナーへ入った。後ろとの差を確かめたいが、振り返らなかった。前を向いたまま脚を速め、曲がり終わるところで、さらに強く地面を蹴った。誰かが来る前に、もう少し離しておきたかった。
直線へ出た。
正面にゴールが見えた。まだ誰も隣にはいない。ハナビは腕を振った。大阪杯より長く走ってきたのに、脚は思ったところへ出た。
『先頭はシロハナビ! 外からオグリキャップが追ってくる!』
聞こえた名前に、ハナビは奥歯を合わせた。
やっぱり来た。
足音が近づく。今度は我慢しなくてよかった。残してきた力を使い、坂を上がる。横に相手の影が伸びてきても、前を向いて走った。
「ハナビ、いける!」
「あと少し!」
客席の声が重なった。
白い髪が視界の端に入った。オグリの肩が見える。けれど、まだ自分の方が前だった。
ゴールまで、このまま行ける。
そう思った次の数歩で、肩の位置がそろった。
ハナビはもう一度脚を速めようとした。速くしたつもりだった。それでも、隣の腕が少しずつ前へ出る。
オグリの背中が見えきる前に、ゴールを通り過ぎた。
ハナビはしばらく速度をうまく落とせなかった。もう着順は変わらない。分かってから歩き出すと、急に息が苦しくなった。
少し先で、オグリも肩を上下させていた。
2着。
掲示板を確かめても、さっき隣で起きたことと同じだった。
「追いつくのが、ぎりぎりだった」
戻ってきたオグリが言った。
ハナビはまだ返事ができず、少し待ってもらった。息を整え、顔を上げる。
「追いつかなくてよかったのに」
口にしてから、ハナビは小さく首を振った。
「すみません。おめでとうございます」
「ありがとう。私も、負けたら同じことを思う」
オグリはそう答えた。呼ばれて客席の方へ向かう背中を、ハナビは見送った。
次に名前を呼ばれ、自分も手を上げる。大きな拍手が来た。応援してもらえたことはうれしかったが、笑おうとすると、先ほどのゴールが浮かんだ。
松浦の前まで戻ると、ハナビは最初に口を開いた。
「今日は、勝てると思いました」
「俺も思った」
松浦の額にも汗が浮いていた。渡されたタオルを受け取り、ハナビは顔を押さえた。
「最後、何が足りなかったですか」
「映像と記録を見よう。今ここで、何かのせいにはしたくない」
ハナビはうなずいた。
タオルの端から客席を見ると、すみれ色の旗が動いていた。地元で見た小さな旗の周りに、白いタオルや旗がいくつも上がっていた。
「次も、見に来てくれますかね」
「来ると思うよ」
「次は、先にゴールしたいです」
松浦は、今度はすぐにうなずいた。
*
その晩、三木先生から電話が来た。
ハナビが出ると、向こうはまだ地元の食堂にいるらしかった。食器の音に混じって、誰かが「惜しかったよ」と言っていた。
『店の人、2着のお祝いをしようって』
「ありがとうございます。でも、まだちょっと悔しいです」
『うん。私も』
ハナビはベッドへ腰を下ろした。
三木が、最後のコーナーで慌てなかったことを褒めた。あそこは練習したと答えると、見ていて分かったと言ってくれた。
『中央へ行く前、芝を試したでしょう』
「はい」
『あの時は、ここまで来たら私、手放しで喜ぶと思ってたんだけどね』
電話の向こうで三木が笑った。
『最後、思わず立っちゃった』
ハナビは空いている手で、シーツの皺を伸ばした。
「また、宝塚記念に出たいです」
『そうね』
「今度は、1着のお祝いにしてください」
三木が店主へ伝える声がした。すぐに、大きな返事が聞こえた。
電話を切ったあと、ハナビは松浦から送られていたレース映像を開いた。今日のうちに反省を全部しなくていいとは言われていたが、1度だけ見ておきたかった。
最後のコーナーを回る自分は、まだ先頭にいた。
すみれ色の勝負服を着た自分は、追いかけてくる誰より小さく見えた。画面の中では、その小さな姿とゴールの間に、誰もいなかった。
ハナビは枕を引き寄せ、スマートフォンを少し近づけた。