先頭の白い子   作:Lagavulin

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白い先頭の不在

 宝塚記念の翌日、ハナビは松浦と検査結果を聞いていた。

 

 レース後のケアで、右足首の後ろに腫れが見つかった。押されると痛みもあり、詳しく調べたところ、腱の一部を傷めていると言われた。

 

「走る練習は休みましょう。痛みが引いても、すぐに全力で走れる状態に戻るわけではありません」

 

 医師が検査の画像を示した。

 ハナビは説明を聞きながら、自分の右脚を見た。走り終えた時は全身が疲れていて、痛みどころではなかった。どこまでがいつもの疲れだったのか、今になって考えても分からなかった。

 

 患部を保護し、経過を見ながらリハビリを進めることになった。普段の生活で気をつけることを聞き、次の診察の日を確かめる。競走へ戻るまでの話になったところで、松浦が予定表を出した。

 

「秋のレースを目指していたんですが、間に合いそうですか」

 

 医師の返事を聞くうちに、ハナビは予定表を見るのをやめた。

 

 数日休み、疲れが取れれば戻れるというレベルの話では全くなかった。秋に間に合わせることを前提に練習を組める状態でもない。

 

「天皇賞も、難しいですか」

 

 同じことを聞き直した。答えは変わらなかった。

 

 説明が終わっても、ハナビはすぐに席を立てなかった。

 松浦が予定表を畳もうとするのを見て、秋のレース名へ目を戻した。さっきまでは、そこへ向けて練習を続けるつもりでいた。

 

「昨日、勝っておきたかったです」

 

 松浦がハナビを見た。

 

「負けたあと、こんなに次が遠くなると思わなかった」

 

 ハナビは鞄の持ち手を握り直した。

 秋には、またオグリたちと走れるつもりでいた。最後に抜かれたあの差を、今度はなくしたかった。

 

「俺も、秋で取り返すつもりだった」

 

 松浦は予定表を鞄へ戻した。

 

「今の予定は組み直そう。戻るところから、ちゃんと考える」

 

 ハナビはうなずいた。返事をするための声が出なかった。

 

  *

 

 傷めた腱を保護するため、しばらくは右足首に装具を着けて過ごした。

 いつもなら走っている時間に走らずにいるだけで、1日が長く感じられた。練習着を出しかけて、今日は着替えなくていいのだと思い出した朝もあった。

 

 松浦のところへ行くと、机には今後の予定が置かれていた。

 診察の日と、身体の状態を確かめる日。それ以外には、まだ空いたところが多い。天皇賞へ向けた練習の予定は、別の紙に挟まれていた。

 

「それ、捨てないんですか」

 

 ハナビが聞くと、松浦は紙へ目をやった。

 

「どういうつもりだったか、残しておく。次に組む時、そのまま使うわけじゃないけど」

「私も、持っていていいですか」

「いいよ」

 

 ハナビは自分の分を受け取り、鞄の奥へ入れた。代わりに新しい予定表を出し、次の診察へ丸を付ける。

 すぐに書き終わってしまった。

 

 故障による休養と、次の出走が未定であることを、学園から発表することになった。

 松浦と一緒に文面を確かめる。復帰する月は、書かなかった。

 

「今は、戻る時期も書けないんですね」

「経過を見てからだな」

 

 ハナビはもう一度読んだ。

 出走すると知らせる時には、日時も場所も決まっていた。今回は、楽しみにしてくれている人へ伝えられることが少ない。

 

「戻れたら、またお知らせしますって、入れてもいいですか」

「入れよう」

 

 短い1文が加わった。ハナビはそこまで読み、「お願いします」と言った。その日のうちに、お知らせが出た。

 

 母親と三木先生には、発表より先に連絡していた。

 三木は診察で言われたことを聞き、松浦とも話した。母親はすぐに来ようとしたので、ハナビは慌てて、今すぐ何かを持ってきてもらう必要はないと伝えた。

 

『必要がないなら、来ちゃいけないの?』

「そういうことじゃないけど」

『じゃあ、週末に行くね』

 

 週末に母親が来た。

 着替えなどを詰めた小さな鞄のほかに、お菓子の箱を持っていた。部屋へ入ると、すみれ色の勝負服を掛けたハンガーを見て、久しぶりに近くで見ると言った。

 

「これ、やっぱり小さいわね」

「私のだからね」

 

 手に取った母親が、裾をそっと伸ばした。母親の服よりずっと短い。ハナビは隣から、飾りを引っかけない場所を教えた。

 

「テレビだと、走ってるから大きく見えるの」

「走っても、背は伸びないよ」

「そういうことじゃなくて」

 

 母親が笑い、服を元へ戻した。

 近くに掛けてあった、袖を折ったジャージも、ハナビの目に入った。どちらも今日は着ない。

 

 机でお菓子の箱を開けると、母親は夕食の時間を聞いた。あとで一緒に食べようと話し、そのあともしばらく、地元であったことを聞いた。

 駅前の店が移転したこと。食堂の壁に宝塚記念の写真が増えたこと。

 

「2着でも、もう貼ったんだ」

「あなた、写ってるかどうかが大事なんじゃない?」

 

 母親が送られてきた写真を見せてくれた。

 ハナビは画面へ顔を近づけた。ゴールの直前、自分とオグリが並んでいる。店主が、額の横へ小さくレース名を書いていた。

 

「これ、私が前に見える」

「そのあと抜かれるところだもの」

 

 ハナビは少し笑った。

 写真を自分にも送ってもらい、お菓子をもう1つ取った。

 

  *

 

 夏のレースが始まっても、ハナビの予定には出走が入らなかった。

 七夕賞の日は、トレーナーと映像を見た。去年の自分が勝ったレースを、今年は別のウマ娘が走っていた。

 

 早い段階で前へ出たウマ娘が、少しずつ後ろを離す。

 ハナビは画面を見ながら、自分ならここでもう少し息を入れると思った。最後まで見ていると、先頭が入れ替わり、別の勝負服が真っ先にゴールした。

 

「私が出ても、あそこから来られましたかね」

「今日の走りなら、追ってきたと思う」

 

 松浦は記録を書きながら答えた。

 ハナビは自分の去年のタイムを思い出そうとした。松浦へ聞きかけてから、今比べても、今日は走れないのだと思った。

 

「見てるだけって、難しいですね」

「休む?」

「最後まで見ます」

 

 表彰が始まった。

 優勝したウマ娘は、トロフィーを高く掲げて笑っていた。ハナビも去年、あれを持った。自分のトロフィーは、松浦の部屋の棚に置いてある。

 

 夕方、食堂でタマモと会った。

 ハナビがトレーを運んでいると、手前の席を空けてくれた。向かいではオグリが、ご飯を食べていた。

 

「脚、どないや」

「診てもらってます。まだ走れません」

「そうか」

 

 タマモは椅子を戻した。ハナビが座ると、すぐに別の話を始める。今日の七夕賞の勝ち方がよかったと、オグリと話していたらしい。

 

「あれ、最後の入り口で詰めてたやろ」

「はい。私も見てました」

 

 3人でレースの話をした。

 途中でオグリが立ち上がり、ご飯を足しに行った。タマモはその背中を見送りながら、自分の秋の予定を話した。

 

「天皇賞、またオグリとやれそうやねん」

 

 言ってから、一瞬ハナビの方を見た。

 ハナビは箸を止め、それからうなずいた。

 

「見ます。タマモさん、今度はオグリさんより前ですね」

「そのつもりや。あいつ、聞いても負けへんしか言わんけどな」

 

 戻ってきたオグリが、ちょうど最後のところを聞いた。

 

「負けるつもりはないからな」

「ほらな」

 

 ハナビは笑った。

 一緒に出たかったとは思う。それでも、2人がどちらも勝つつもりでいる話は聞いていたかった。復帰できる日を待つために。

 

  *

 

 夏の終わり、ハナビ宛ての手紙を、松浦がまとめて持ってきた。

 それまでも何通か受け取っていたが、今日は紙袋に入っていた。レースを休んでいると知り、送ってくれた人が多いらしい。

 

 ハナビは机へ並べてみた。

 全部は置けなかったので、まず半分を袋へ戻した。地元の住所もあれば、行ったことのない県から来た封筒もあった。

 

「これ、返事を書ける用紙はありますか」

「用意できるけど、一度に全部は大変だぞ」

「読むのも、今日中は無理そうです」

 

 松浦に言われるまでもなく、枚数を見れば分かった。

 ハナビは、今日は何通読むか決めた。最初に開いた封筒には、宝塚記念を見たという手紙が入っていた。

 

 家族で初めてレース場へ行ったこと。帰り道に、次はどのレースを見ようかと話したこと。ハナビが休む間も、レースを見に行くつもりだということ。

 最後に、また出走表で名前を見つけたいと書かれていた。

 

「この人、宝塚で初めて見たそうです」

 

 松浦へ言うと、向かいからうなずかれた。

 

「1回だけでも、覚えてくれたんだな」

 

 ハナビは封筒の日付を確かめた。

 自分が走った日から、ずいぶん経っていた。その間に、夏のレースはいくつも終わっている。

 

 続けて開いた封筒から、白とすみれ色で描かれた絵が出てきた。小さなハナビが、大きな丼の向こうで箸を持っていた。

 添えられた手紙を読む。休んでいる間も、おいしいものを食べてほしいそうだった。

 

「食べてます」

 

 声に出すと、松浦が顔を上げた。

 ハナビは絵を見せた。松浦は少し笑い、実物よりご飯が少ないなと言った。

 

「私より、丼が大きいんですけど」

 

 ハナビは絵を机に立てかけ、次の封筒を手元へ引き寄せた。

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