先頭の白い子 作:Lagavulin
中山記念の出走予定を知らせた日の夜、ハナビのスマートフォンは何度も光った。
母親、三木先生、地元の食堂。返事を書いている間に、別の連絡が届く。母親からは、知っている人へもう知らせていいかと聞かれた。
「もう、学園から出ています」
そう返してから、おそらく何人かには伝えたあとだろうと思った。
すぐに届いた返事には、みんな楽しみにしていると書いてあった。
冬の間、練習の距離も速さも少しずつ戻してきた。
走った翌日の状態を確かめ、診察を受け、また練習する。以前と同じ内容まで進んでからも、松浦は何度か経過を見た。1度速く走れたことだけでは、出走は決まらなかった。
中山記念を目指そうと言われた時、ハナビはカレンダーを開いた。
宝塚記念から、およそ8か月半になる。
「1800mですね」
「中央へ来た時にも走った距離だ」
松浦が出したコースの図を見た。中山は、オールカマーで走ったことがある。ただし今回は、出発する場所も距離も違う。
どこまでに前へ出たいか。最初に競られたらどうするか。図に指を置いて話しているうちに、ハナビは口数が増えていた。
「ここで離れていたら、前みたいに行けます」
「後ろの位置を気にしすぎない。久しぶりでも、そこは同じ」
「はい」
松浦が出走を予定している相手の名前を見せた。
ナイスネイチャ。マチカネタンホイザ。イクノディクタス。ほかにも、速い相手がそろっている。
「勝つなら、この人たちより前ですね」
「そうだね」
松浦の返事を聞き、ハナビはもう一度コースの図を見た。
*
最終的に出走が決まってから、久しぶりにすみれ色の勝負服を着た。
鏡の前で腕を上げ、肩や腰が動くか確かめる。少し手直しをしてもらったが、丈を伸ばす必要はなかった。
隣で準備をしていたネイチャが、鏡越しに顔を向けた。
「いよいよだね」
「はい」
「また最初から、あんなに離すつもり?」
「離せたら」
ハナビは腰の飾りを直した。
「できれば、追いつかないでほしいです」
「それはちょっと、聞けないお願いですな」
ネイチャが笑った。ハナビも笑ってから、鏡の中の相手を見る。
「ネイチャさん、最近も速いですよね」
「見ててくれたんだ」
「見てました。出てないので」
レースを待つ間、映像を見る時間はたくさんあった。
ネイチャは少し肩をすくめた。
「じゃあ、休んでた子に負けてられませんね」
「私も、負けるつもりでは出ません」
言うと、ネイチャが顔をこちらへ向けた。
「うん。そっちの方が、やりやすい」
名前を呼ばれ、2人で部屋を出た。並んで歩くと、ネイチャの肩よりもハナビの肩はかなり低い。通路の先で待っていたスタッフが2人を順に確かめ、ハナビへ話しかける時には少し腰をかがめた。
「お待ちしていました」
ハナビは礼を言った。久しぶりの挨拶は、朝から何度もしていた。
*
中山の客席で、父親は娘の持ってきた旗を確かめた。
白い文字で「ハナビ」と書かれた、最初から使っているすみれ色の旗だった。隅の花火は少しかすれ、角もほつれている。持ち手の付け根には、新しい糸が縫われていた。
「直してもらったんだ」
娘が言った。
鞄からは、ぬいぐるみの白い耳も少し出ている。外へ出すと落とすかもしれないと言われたので、今日はそこが居場所になった。
周囲を見渡すと、シロハナビの名前の入ったタオルがいくつもあった。
娘が最初の旗を作った時には、同じ名前を持っている人はいなかった。今は、隣の席でも、その向こうでも、ハナビがどこにいるかを探していた。
出走者が姿を見せた。
娘が旗を上げ、父親も身を乗り出す。白い髪は見つかったが、人が重なって、すみれ色の服はまだ半分ほどしか見えなかった。
「あっ、いた!」
周りでも声が上がった。
小さなハナビが列から離れ、こちらへ顔を向ける。それだけで、拍手が広がった。
「ハナビ、おかえり!」
父親も声を出した。娘が続いて叫ぶ。
向こうでハナビが手を上げた。誰へ振っているのかは分からなかったが、娘は旗を大きく振り返していた。
*
ハナビは客席から手を下ろした。
出てきたところで、こんなに名前を呼ばれるとは思っていなかった。まだ芝の上を少し歩いただけだった。
「トレーナーさん」
「うん」
「まだ、走ってないです」
松浦も客席を見ていた。
「見れば分かると思うよ」
「分かってますけど」
笑いかけて、ハナビはもう一度スタンドを見た。
「おかえり」と書かれた紙もあった。出走を決めたという知らせを見て、今日ここまで来てくれた人がいる。手紙にあった、名前を見つけたいという言葉を思い出した。
ハナビは肩を回した。
走る前の身体は温まっていた。治療した右脚にも、痛みはない。ここまで準備をしてきた。あとはレースだった。
「行ってきます」
松浦がうなずいた。
「行っておいで」
ゲートの中へ入ると、客席の声が少し遠くなった。
隣のウマ娘は、まっすぐ正面を見ていた。ハナビも足を置く位置を確かめ、身体を構えた。左右の肩の高さが自分とは違う。その間から前を見ると、走る場所は広く空いていた。
ゲートが開いた。
ハナビは前へ出た。
脚を運び、腕を振る。隣の足音が一緒に進んできたが、最初のコーナーまでに少し離れた。
芝を踏む音が続く。
練習でも何度も聞いた音だった。それでも、後ろに何人もいて、客席から名前を呼ばれながら走ると、同じ速さが違って感じられた。
ハナビは息を吐いた。
前へ出られたからといって、もうひと押しする必要はない。松浦と話した速さへ落ち着かせる。後ろを見なくても、音が少しずつ離れていくのが分かった。
『シロハナビが行きます! 復帰初戦も先頭、後続との差を広げています!』
向こう正面に入った。
前には誰もいなかった。レース場の広さを思い出す。白い髪が首の後ろで揺れ、まとめたゴムが小さく当たった。
まだ走れる。
もう少し速くしたくなるのを抑え、同じように腕を振った。
次のコーナーへ近づくと、背後の音が戻ってきた。
聞こえ始めると、思っていたより近かった。ハナビは決めていた場所から速度を上げた。脚は動いたが、後ろの音も一緒に速くなる。
『シロハナビ先頭! ナイスネイチャが差を詰めて、最後の直線!』
ハナビはゴールを見た。
客席が近かった。声が大きくなり、その中から自分の名前が何度も聞こえる。
「ハナビ、いける!」
「頑張れ、ハナビ!」
休んでいた間は、テレビ越しに聞いていた歓声だった。今は客席から、自分の名前が何度も届く。手紙の中で待っていると言ってくれた人たちの前を、本当に走っている。
また、この中で走れている。うれしくて顔が緩みかけたが、すぐに唇を結び直した。ゴールはまだ前にあった。
ネイチャが外から来た。
ハナビもペースを上げ、並ばれる前にもう少し進みたかったが、横に茶色い髪が見えた。次の数歩で、ネイチャの肩が前へ出る。
ハナビはその背中を追った。
脚が重くなっていた。コーナーで上げたつもりの速さが、少しずつ落ちていた。ネイチャが前へ出てからも、後ろの足音は途切れなかった。
マチカネタンホイザが来た。さらに、外からイクノディクタスが並んだ。
ハナビは歯を食いしばり、ゴールまで脚を動かした。前の3人との距離が、少しずつ開いた。
4着だった。
走り終えると、息を吸う音ばかりが自分の耳に響いた。
ゆっくり速度を落とす。傷めた腱のあたりに痛みはない。いつものレースのあとのように、両脚が重かった。
顔を上げたところへ、拍手が届いた。
ハナビは少し先を見た。勝ったネイチャが手を上げていたが、そのあとも、自分の名前が聞こえていた。
客席の方へ向き直ると、すみれ色の旗が動いた。小さな手作りのものが、白いタオルの間に見えた。
「ハナビ、また来るよ!」
ハナビも手を上げた。
声を出そうとしたが、まだ呼吸が整わず、うなずく方が先になった。
*
松浦の前へ戻ると、まず脚の具合を聞かれた。
ハナビは痛いところはないと答え、水を受け取った。少しずつ飲み、息を整えてから、ゴールの方を振り返る。
「3人に抜かれました」
「見てた」
「ネイチャさん、早かったです。来るのも、そのあとも」
松浦がうなずいた。すぐに原因を決めつけることはせず、まずは戻って身体を確かめようと言った。
もう一度、客席から声がした。
ハナビがそちらを見ると、松浦も顔を向けた。勝った日みたいだと思ったが、掲示板の自分の番号は4番目にある。
「負けたんですけどね」
「うん」
「うれしそうです」
ハナビが言うと、松浦はしばらく客席を見ていた。
「俺も、走って帰ってきたのはうれしいよ」
ハナビは松浦を見上げた。
言われると、自分もそうだった。出走表に名前が入り、今日また先頭へ出た。そのことまで、4着だったからなくなるわけではなかった。
「私もです。でも、もう少し前がよかったです」
「それも同じ」
ハナビは笑って、タオルを首へ掛けた。
戻る途中、ネイチャに追いついた。
おめでとうと言うと、ありがとうと返ってきた。ネイチャもまだ、汗を拭いていた。
「結構、離したねえ」
「離したのに、来ましたね」
「だから、来るって言ったでしょ」
ネイチャが笑った。取材へ呼ばれ、その前にもう一度ハナビを見た。
「おかえり。次もよろしく」
「はい。次もお願いします」
ハナビは頭を下げた。
ネイチャが向かった先には、優勝者用の取材の場所があった。そちらを見てから、自分の戻る通路へ足を向ける。
*
学園へ帰って数日後、ハナビは松浦の机で、次の予定を見ていた。
レース後の脚の状態を確かめ、疲れが抜けるまでは軽い内容にする。問題なく進めば、その先にまたレースを置ける。
机の隅には、届いたばかりの手紙があった。
中山で見たという封筒もある。今日はあとで読もうと話し、ハナビはまずレースの映像を開いてもらった。
「どこから見る?」
「ネイチャさんが、動き始めたところから」
画面の中では、ハナビが離れた先頭にいた。
そこから後ろへ目を移す。ネイチャは、足音が近いとハナビが感じた時よりも前から、少しずつ差を詰めていた。
「ここですね」
ハナビが指を伸ばすと、松浦が映像を止めた。
椅子から少し身を乗り出していたので、差し出されたタブレットを自分の前へ引き寄せる。これなら、端まで手が届いた。
「もう1回、最初からお願いします」
松浦がうなずき、映像を戻した。