先頭の白い子 作:Lagavulin
宝塚記念の朝、ハナビは三木先生と会った。
松浦から場所を聞いて来てくれたらしい。いつもの鞄を肩に掛け、出走者の通る場所から少し離れて待っていた。
「先生」
ハナビが声をかけると、三木が顔を上げた。
「似合ってるね、その服」
「何度も見てますよね」
「近くで見るのは、また違うの」
三木はハナビの前へ来て、髪を結んでいるすみれ色のゴムを見た。
以前と同じものだった。今日は結び直さなくても、きちんとまとまっていた。
「緊張してる?」
「少し」
「去年より?」
ハナビはうなずいた。
「去年、あそこまで行ったので」
三木も、うんとうなずいた。松浦へ向き直り、今日までの礼を言う。松浦は、まだ今日のレースがあるのでと答えた。
ハナビは2人の間で、コースへ続く通路を見た。
「今日、勝ちたいです」
言うと、2人ともこちらを向いた。
「うん。見てる」
三木が答えた。
松浦は時計を確かめ、そろそろ準備へ行こうと言った。ハナビは三木へ手を振り、松浦の隣へ戻った。
いつもどおり身体を動かし、脚の具合を確かめた。
周囲にも、準備をしているウマ娘がいた。立って話している2人の向こうへ行くため、ハナビは少し横へ回った。その間から、オグリがこちらを見つけた。
「ハナビ」
近づいてくるオグリへ、顔を上げる。
すみれ色の勝負服のハナビと並ぶと、やはり大きい。去年、ゴールの手前で肩が前へ出た時も、こんなふうに見えた。
「去年の、最後より先まで行きます」
ハナビが言うと、オグリはうなずいた。
「私も、去年のつもりでは走らない」
そこで呼ばれ、オグリは自分のトレーナーの方へ戻った。
ハナビも松浦のところへ行き、水をひと口飲んだ。
「ちゃんと、来るそうです」
「そうだろうね」
松浦が水筒を受け取った。
「最後に、何か確認したい?」
ハナビは考えた。
最初の入りも、後ろに来られた時のことも、何度も話していた。ここで新しく覚えることはなかった。
「大丈夫です」
松浦はうなずいた。
ハナビが通路へ向かうと、後ろから名前を呼ばれた。
「ハナビ。勝ちに行こう」
振り返り、ハナビは大きくうなずいた。
*
客席の父親は、娘と一緒に出走者を見ていた。
すみれ色の旗は今日も持ってきた。周りにはハナビの名前の入ったタオルが多く、オグリキャップやタマモクロスを応援する人もいた。
少し離れた席に、去年パネルの前で会った2人がいた。
目が合い、女性の方が会釈した。父親も頭を下げると、娘が気づいて手を振った。
「今年も来たんですね」
「今度こそ、と思って」
女性はそう答え、手にしたタオルを見せた。
去年は持っていなかったものだった。隣の男性は、出走表へ目を落としていた。
「オグリも、仕上がってそうなんですよね」
「来ますよねえ」
父親が答えると、娘が旗の持ち手を握り直した。
「ハナビだって、速いよ」
「うん。だから見に来た」
男性が答えた。
出走者がコースへ向かう。父親は娘の帽子を直し、前を向いた。
*
ハナビはゲートの中で、正面を見ていた。
客席の方から何か聞こえたが、言葉までは分からなかった。足の位置を確かめ、息を吐く。
ゲートが開いた。
ハナビは踏み出した。
隣にいた相手より前へ出る。外にも足音はあったが、やがて後ろへ遠ざかった。視界が開け、正面には芝が続いていた。
そこで腕の振りを落ち着かせた。
今日はよく動く。だからといって、さらに速くする必要はなかった。前へ出るために使った力を、そのままずっと使い続けない。
『シロハナビが先頭! 今年も前から、後続を離していきます!』
客席の前を過ぎた。
白い文字の入ったすみれ色のものが、視界の端で動いた。ハナビは正面を向いたまま、最初のコーナーを回った。
足音が遠ざかった。大歓声も徐々に小さくなっていく。
呼吸はまだ落ち着いている。力を抜こうとして遅くなった練習の日とは違い、脚は一定の速さで戻ってきた。
向こう正面へ出る。
誰も前にいない。去年もここまでは同じだった。ハナビは遠くに見える曲がり角を確かめた。
まだ上げない。
後ろで、音が変わった。
足音が重なり、少しずつ近づき始めた。早い。そう思ったが、腕は大きくしなかった。ここから離し直したら、最後まで持たない。
『後続も動きました! シロハナビを追って、差を詰めていきます!』
次のコーナーへ入った。
足音が戻ってくるたびに、すぐ後ろを確かめたくなった。ハナビは顔を前に向けたまま走った。まだ、誰も横にはいない。
曲がり終わりが近づく。
脚を少しずつ速めた。急に地面を押しつけるようにはしない。走ってきた勢いを途切れさせず、腕の振りを広げていく。
後ろの音も速くなった。
前は、まだ空いていた。
*
松浦は、ハナビが直線へ入るところを見ていた。
手元の時計を確かめる。去年と全く同じ流れではなかった。追ってくる相手の位置も違う。
それでも、ハナビは肩を上げずに曲がり終えた。
外からオグリが来る。その近くにはタマモもいた。2人とも、もう追っていた。ハナビの走りがよくても、それだけで勝てるとは言えなかった。
「ハナビ」
松浦は声を出した。
周りの人も、同じように誰かの名前を呼んでいた。ハナビの小さな姿が、直線の先で腕を振る。
時計を持つ手に汗がたまった。
松浦はそこから、もう数字を見なかった。
*
ゴールが見えた。
ハナビは坂へ向かって走った。脚が重くなってきたが、まだ地面を押せた。去年より楽だとは思わない。息は苦しく、喉の奥が熱かった。
『先頭シロハナビ! オグリキャップが追う! タマモクロスも来ている!』
オグリの足音が近づいた。
ハナビは腕を振った。これ以上どこかのために残す必要はない。ゴールまで、使い切っていい。
「ハナビ、頑張れ!」
「いける、ハナビ!」
大きな声がした。
ハナビはゴール板を見た。そこへ行く。振り返らず、前へ脚を出した。
視界の端に、芦毛が入った。
オグリが来ていた。去年はここから肩が並び、前へ出られた。今日はまだ、すぐ横に顔は見えなかった。
脚を動かした。
速くしようとしても、もう大きくは変わらない。けれど、足が出なくなったわけでもなかった。今の速さを、次の1歩へつなぐ。
足音がさらに近づいた。
後ろにいたはずのオグリの呼吸が聞こえた。横に影が伸びた。
ハナビは、ゴールだけを見た。
あと少し。
腕を振り、もう1歩踏み出す。
前には誰もいなかった。
そのまま、ゴールを通り過ぎた。
『シロハナビ、逃げ切った! 阪神に大輪の花火が打ち上がった! シロハナビ、G1初制覇です!』
全身が震えるような大歓声の中、わずかに実況が聞こえた。
ハナビはまだ走っていた。速度を落とそうとしても、脚が続いていた。少しずつ緩め、ようやく歩き始める。
オグリが、すぐ近くにいた。
タマモもその後ろで、息を整えていた。
ハナビは掲示板へ顔を向けた。
一番上に、自分の番号があった。
もう一度見た。
オグリの番号は、その下だった。
勝ったと聞こえているのに、まだ最後の足音が耳に残っていた。これから抜かれることは、もうない。そう思っても、すぐには掲示板から目を離せなかった。
「……勝った」
声に出すと、オグリがこちらを見た。
少し待ってから、息を吐いてうなずく。
「追いつけなかった」
ハナビはオグリの顔を見た。
相手の額にも汗が流れていた。笑っているわけではなかった。オグリも勝とうとして、最後まで追ってきた。
「おめでとう、ハナビ」
そう言われて、ようやく返事が出た。
「ありがとうございます」
声がうまく続かなかった。
ハナビは息を吸い、もう一度掲示板を見た。何も変わっていない。自分の番号が一番上にある。
客席の方から、名前を呼ぶ声がした。
振り向くと、白いタオルがいくつも動いていた。立っている人がいた。両手を上げている人もいた。どこを見ても、誰かがこちらへ手を振っていた。
ハナビも腕を上げた。笑って手を振り返そうとした途端、涙がこぼれた。
慌てて頬を拭いたが、客席の声が聞こえると、また出てきた。うれしかった。顔を上げたまま、何度も手を振った。
*
松浦を見つけると、ハナビは呼びかけようとした。
声が出るより先に、喉が詰まった。松浦がこちらへ来て、手を差し出す。ハナビはその手を、両手で強く握った。
「勝ったな」
うなずいた途端、また涙が出た。
客席へは何とか手を振れたのに、松浦の顔を見ると止まらなかった。
「私、勝ちました」
「うん。最後まで先頭だった」
「オグリさんが、また来て。でも、今日は」
続けようとして、声が震えた。
松浦が空いた手をハナビの両手へ重ね、何度もうなずいた。
「今日は、先にゴールした」
ハナビは笑った。涙が出ているのに、口元も勝手に緩んだ。
「ずっと、勝ちたかったです」
「知ってる」
松浦の声も、いつもより少し詰まっていた。
ハナビはその手を握ったまま、笑って、泣いて、何度もうなずいた。少し落ち着くまで、松浦も手を離さなかった。
脚の具合を聞かれ、痛いところはないと答えた。
水を飲み、渡されたタオルで顔を拭く。客席からまた名前を呼ばれると、ハナビは顔を上げた。
「トレーナーさん、見てください」
タオルを下げ、空いた手で客席を指した。
「みんな、喜んでます」
松浦が隣へ来た。ハナビは笑顔で、客席へ大きく手を振った。
取材へ呼ばれ、スタッフの方へ歩きかけたところで、三木の姿が見えた。
松浦のところまで来ていたらしい。ハナビが足を止めると、三木は大きくうなずいた。
「おめでとう」
ハナビは笑おうとしたが、三木の声を聞くと、また涙が出た。
「先生。今度は、1着です」
「うん。見てたよ」
「1着のお祝いに、してください」
三木は口元へ手を当て、何度もうなずいた。
「任せて。とびきりのを、お願いしておく」
ハナビは涙を拭き、笑って返事をした。
待ってくれているスタッフの方へ行くと、マイクが口元まで下がってきた。今の気持ちを聞かれ、答えようとして、少し息を整えた。
「うれしいです。ずっと、ここで勝ちたくて」
そこで言葉が止まった。うれしいでは足りないのに、ほかの言葉が出てこなかった。
ハナビは客席の方を見て、涙の残った顔で笑った。