先頭の白い子 作:Lagavulin
2戦目では、抜かれなかった。
向こう正面で走りやすくなっても、ハナビは速くしなかった。最後のコーナーを回ってからも足が前へ出て、迫ってくる足音を後ろに置いたままゴールした。
掲示板の一番上に自分の番号が出た時は、三木を探すより先に笑ってしまった。
その日のウイニングライブでは、練習してきた立ち位置が役に立った。真ん中から見る客席は、両隣に並ぶ仲間に隠れず、よく見えた。
前の方で、すみれ色の旗が振られていた。女の子が持てる大きさの布に、白い文字で「ハナビ」と書いてある。端には、短い線と点で描いた小さな花火があった。文字も花火も少し不揃いだったが、自分のための旗だとはすぐに分かった。
3戦目も勝った。
4戦目は、いつもより早く後ろが追ってきた。離そうとして脚を使ったところ、直線では3人に抜かれてしまった。
「来たら来たで、速くしちゃうねえ」
三木に言われ、ハナビは練習の記録へ自分で丸を付けた。同じように前へ出ても、同じ走り方で済むわけではないことが分かった。
その後は三木に頼み、後ろから追われる練習を増やした。足音が近づいてきても、すぐに離そうとしない。並ばれた時に動くのか、もう少し待てるのか。最初のうちは、決めていた場所より早く腕に力が入った。
5戦目は冬だった。
地元の大きな競走が行われる日で、学園の生徒も、いつもの食堂の人も見に来ると言っていた。ハナビの母親からは、出走表を3枚もらって帰ってきたと連絡があった。
「1枚でいいのに」
「人にあげるんじゃない?」
三木はそう答え、ハナビのシューズを確認した。
今日はダート1800m。前のレースでハナビを抜いた3人のうち、2人も出ている。紹介を待つ列では、前に立つウマ娘の背中で客席が隠れていた。自分の番が来て脇へ出ると、名前が読まれる前からすみれ色の旗が見えた。
ゲートが開いた。
ハナビはいつものように先頭へ出た。
最初のコーナーを回り、後ろの足音を聞く。離れてはいるが、前に勝った時ほどではない。向こう正面に入ると、その音が少しずつ大きくなった。
もう来た。
ハナビは一度、肩の力を抜いた。ここでまた速くすれば、前のレースと同じになる。追ってきた相手の影が見えるまで待ち、自分の脚がまだ動くことを確かめてから、徐々に歩幅を広げた。
コーナーの手前で、後ろとの差が再び開く。
今度はそのまま押し続けなかった。曲がり終えるまでは腕を小さく振り、直線に入ってから脚を前へ運ぶ。
『シロハナビ、まだ先頭! 後続が追い込んでくる!』
声のすぐあとに、足音が近づいた。ハナビは前を向いた。ゴール板の手前に、白いタオルがいくつも見える。
「ハナビ!」
呼ぶ声が重なった。誰が呼んだのか分からないまま、脚を動かす。
横にはまだ、誰もいなかった。ゴール板がすぐそばへ来ても、隣に別の肩は見えない。
ハナビが先に、ゴールを通った。
振り向くと、2着のウマ娘が少し後ろで減速していた。ハナビも速度を落とし、今度こそ客席を見た。
母親が立っていた。いつもの親子もいる。その隣では、見覚えのない人も白いタオルを振っていた。
*
レースの数日後、ハナビは学園の応接室に呼ばれた。
待っていたのは三木と、見覚えのない男性だった。机の上には先日のレースの出走表があり、隣に、中央トレセン学園の案内が置いてある。
「松浦祥平です。中央でトレーナーをしています」
名刺を差し出され、ハナビは名刺の受け取り方を知らないことに気が付いた。いちかばちか両手で受け取ったところ、特に変には思われなかったようだ。中央のトレーナーと話すのは初めてだ。
「この前のレース、見ました。向こう正面で追われた時も落ち着いていましたね」
「前は、それで負けたので」
「4着のレースも見ました」
先に言われて、ハナビは少し驚いた。勝った映像だけを見ている人ではないらしい。
「芝では、走ったことがありますか?」
「練習なら、少し。ちゃんとタイムを測ったことはないです」
松浦は三木へ目を向けた。三木がうなずき、机の上の案内をハナビの方へ寄せる。
「一度、向こうの設備で見てもらおうと思ってる。どう?」
「中央に行くんですか」
「まずは見学と試走。移るかどうかは、それから」
案内の写真には、芝のコースが何本も写っていた。いつも見ているレース場より広く、その向こうにも別の練習施設がある。
ハナビは写真を見てから、松浦へ顔を上げた。
「中央でも、前に行っていいんですか」
「前へ行って勝てるようにしたいと思っています」
松浦は、ハナビが持っていた名刺に視線を落とした。
「先に言っておきますけど、今のままで何でも勝てる、という話ではないです。最後に追ってくる相手は、もっと速い」
「はい」
「それでも、勝ち方を考えたい。まず走ってみてもらえますか」
ハナビは案内を手元へ引き寄せた。
「お願いします」
*
芝での試走は、1度で終わらなかった。
最初はコーナーで踏み込みすぎ、身体が外へ流れた。松浦に映像を見せてもらい、翌日は力のかけ方を変えて走った。砂と違って足が沈まない。慣れてくると、いつもより脚が戻ってくるのが早かった。
最後の日、同じ距離を走り終えたハナビに、松浦が時計を見せた。
「昨日より、最後の失速が小さい」
「今日は曲がる時、あまり踏ん張らなくて済みました」
「これなら芝でもやっていけると思う。中距離で、段階を踏んで」
ハナビはコースを振り返った。
向こうでは、別のウマ娘たちが並んで走っていた。3人が直線へ入ったところで、そのうちの1人が前へ出る。さっきまでと明らかに速さが違い、ハナビは思わず最後まで見てしまった。
「あれで追ってくるんですよね」
「レースならね」
松浦は笑わずに答えた。
ハナビはもう一度、自分のタイムを見た。あの子に追いかけられたら、どこまで先頭でいられるのだろう。
地元へ戻る列車では、三木の隣で学園の案内を読み返した。寮の部屋、授業、練習の設備。生活のほとんどが変わる。近所の食堂へいつでも行ける距離でもなくなる。
「ご飯、おかわりできるって」
三木が横から指を差した。
「そこはもう読みました」
「だと思った」
ハナビは案内を閉じ、膝の上に置いた。窓に映った自分の隣で、三木が鞄から飴を出していた。
「先生は、こっちに残るんですよね」
「うん。新しく担当する子もいるから」
差し出された飴を受け取る。包みを開けて口に入れたあとも、ハナビは案内の表紙を見ていた。
「向こうで、全然勝てなかったら」
「その時は松浦さんと考えなさい。私にも電話していいけど、隣で見てるのは向こうのトレーナーだからね」
三木は自分の分の飴を出し、包みを畳んだ。
「ここで走りたいなら、それもいい。残ったらもう勝てなくなるわけじゃないし、ここにも勝ちたいレースはある。でも、中央の子と走ってみたいんでしょう」
ハナビはうなずいた。試走のあとに見た、あの直線が頭に残っている。
「行ってみたいです」
「じゃあ、そう松浦さんに伝えよう」
地元へ着く前に、ハナビは自分で電話をかけた。声が聞こえると、用意していた挨拶より先に「中央で走りたいです」と言ってしまった。
*
転入の手続きが済み、寮に入る日が決まった。
地元の食堂へ挨拶に行くと、壁にハナビの写真が増えていた。初勝利の写真と、冬の競走でゴールした写真。その脇には、デビューの日の写真まで貼られている。
「これ、2着の時ですよ」
ハナビが指を差すと、店主は大きな丼を置きながらうなずいた。
「そう。初めて見に行った日」
写真には、先頭で直線を走るハナビと、後ろから迫る栗色の髪が写っていた。
「このあと、抜かれます」
「知ってるよ。見てたんだから」
店主は笑い、いつもの小鉢を2つ並べた。ハナビは写真から目を戻し、手を合わせた。
出発の日は、三木と母親が駅まで送ってくれた。
改札の前に、見覚えのあるすみれ色の旗がある。近づくと、女の子が父親の後ろから顔を出した。その隣には食堂の店主と、写真係の職員もいる。
「お店は?」
「昼は家内がやってる。まだ開店前だしな」
ほかにも学園でよく会う人や、レース場で声をかけられた人がいた。母親が事前に知らせていたらしい。
ハナビは鞄を足元に置き、1人ずつ挨拶した。女の子は旗を握ったまま、ハナビの横に寄ってきた。
「もう、こっちでは走らないの?」
「しばらくは。次は、向こうのレース」
「テレビに出る?」
ハナビが三木を見ると、三木は父親に中継の見方を説明していた。
女の子はその話を聞いてから、持っていた旗を差し出した。
「これ、持っていって」
ハナビが受け取ろうとすると、父親が娘の肩に手を置いた。
「それは見に行く時に使うんじゃなかった?」
「向こうまで来るんですか」
「毎回は難しいですけど、最初のレースくらいは。日が決まったら、宿を取ります」
ハナビは父親と娘を見比べた。地方のレース場へ来るのとは、かかる時間もお金も違う。
「遠いですよ」
「ハナビさんも行くでしょう」
そう言われると、そうだった。ハナビは少し笑い、旗を女の子の手に戻した。
「じゃあ、それ、振ってて。見つけるから」
写真係がカメラを構え、三木がハナビの鞄を持ち上げた。先に全員で1枚撮ることになった。
ハナビは真ん中に呼ばれた。周りに人が並んで見えなくなりそうだったので、女の子と一緒に一歩前へ出る。
「ハナビちゃん、もうちょっと笑って」
「笑ってます」
「うん、今の方がいい」
シャッターが切られた。三木が時計を見て、そろそろだと言う。
鞄を受け取って改札を抜けると、ハナビは振り返った。すみれ色の旗が、頭の上で大きく動いていた。