先頭の白い子 作:Lagavulin
中央トレセン学園の食堂は、最初に見学した時より混んでいた。
シロハナビは両手でトレーを持ち、空いた席を探していた。大きな丼にご飯、皿には鶏肉と野菜。汁物を載せる場所が足りなかったので、それはあとから取りに行くつもりだった。
「そこ、空いているぞ」
呼ばれた方を見ると、オグリキャップが向かいの席を示していた。
ハナビでも顔と名前を知っている。中央のレース映像で何度も見た。地方から転入し、数多のレースでその実力を示している。
今はハナビのトレーより多くの食器が、その前に並んでいる。
「座ってもいいですか」
「ああ。君は、転入してきた子だな」
「シロハナビです。よろしくお願いします」
椅子に座り、トレーを置く。オグリは軽くうなずくと、自分のご飯をひと口食べた。
ハナビも手を合わせてから食べ始めた。肉には甘辛い味が付いていて、ご飯がよく進む。地元の食堂とは違う味付けだったが、こちらもおいしかった。
「足りそうか?」
しばらくして、オグリが聞いた。
「おかわりしようと思ってます」
「あの列は、向こうから並ぶと早い。ご飯だけの列だから」
「ありがとうございます」
ハナビが教わった方へ顔を向けると、オグリは立ち上がった。空の丼を持っている。
「私も行く。汁物も要るんじゃないか?」
「あ、それもまだでした」
一緒に列へ並ぶと、オグリの顔を見るにはかなり顎を上げる必要があった。腕も肩もハナビよりひと回り大きい。それなのに、2人が差し出した丼は同じ大きさだった。
席へ戻ると、オグリはご飯を食べながら、地元ではどのくらい走っていたのかと聞いた。
「5回です。3回勝ちました」
「そうか。最初のレースは?」
「2着でした」
「惜しかったな」
その言い方が、地元の人とあまり変わらなかったので、ハナビは少し話しやすくなった。
「前に行って、最後に抜かれました。こっちでも、前から走るつもりです」
「逃げるのか」
「はい。後ろで待っても、最後だけ速く走るのは苦手で」
オグリは箸を止めて、ハナビを見た。
「同じレースになったら、早く追いかけないとな」
ハナビの手が止まる。冗談を言われたのかと思ったが、オグリは普通に続きを食べていた。
「……追いつかれないようにします」
「ああ。楽しみにしている」
昼休みが終わる前に、2人は食器を返した。
別れる時、オグリは夕食にはカレーもあると教えてくれた。ハナビは礼を言い、教室へ向かった。階段を上がりながら、さっきの言葉を思い出す。
あのオグリキャップが後ろから来るレースは、まだずっと先だと思いたかった。けれど、ここではいつか出走表に一緒に載るのだ。
*
中央での初戦は、芝1800mのオープン競走に決まった。
それまでの数週間、ハナビは練習と授業と寮の暮らしに慣れるので忙しかった。松浦との打ち合わせでは、芝のコーナーに身体を合わせながら、どのくらいの速さを保てるかを確かめた。
試しに集団の後ろを走った日もあった。最後まで余力は残ったのに、前のウマ娘たちが加速すると、追いつく前に練習の区間が終わってしまった。
「温存できても、使い切る前にゴールが来ます」
ハナビが言うと、松浦も記録を見ながらうなずいた。
「今は、先に使った方がいい。最初から少しずつ差を作ろう。ただ、芝だから走りやすいと思って上げすぎないように」
「それ、三木先生にも言われました」
「引き継いでいます」
松浦が手帳を閉じた。何をどこまで話されているのか気になったが、向こう正面で速くしすぎたことは、確かに何度もあった。
「外から見ていると、かなり飛ばして見えると思う。でも、周りとの距離を見てさらに上げる必要はない。練習した自分の速さで」
「はい」
レースの週になると、出走者を紹介する記事が届いた。
ハナビの欄には、地方での戦績と、芝でどこまで通用するかという短い文章が載っている。本命候補として大きく扱われているのは、別のウマ娘たちだった。
その記事の隣に、ハナビの写真だけが大きく使われていた。地元で初めて撮られた、髪を押さえている写真だ。
「最新の写真、なかったんですかね」
「色々送ってあるんだけどな」
松浦が首を傾げる。ハナビは、紹介文より写真の方を長く見た。この時はまだ、1度も走っていなかった。
*
レース当日、ハナビは新しい勝負服の留め具を確かめた。濃いすみれ色の短い上着に、白いインナー。襟や袖口には白銀の縁取りがあり、スカートのように重なったキュロットの片裾には、銀の花火が刺繍されていた。
身体に合わせた服は、いつものジャージのような余りがなく走りやすそうだ。すみれ色で縁取られた白い靴を履き、数歩動くと、裾が開いて銀の粒が光った。
客席へ顔を向けると、すぐにすみれ色の旗を見つけた。
約束どおり、地元の親子が来ていた。周囲には知らない人ばかりいて、父親は娘が見やすいように立つ位置をずらしている。
女の子がハナビに気づいた。旗が大きく動く。
ハナビが手を振ると、隣の席にいた男性まで、つられるように手を振った。
「知り合い?」
松浦に聞かれ、ハナビは親子の方を指した。
「デビューから見てくれてる人です。隣の人は、知らないです」
「そっか」
松浦も客席に軽く頭を下げた。そのあとハナビに向き直り、身体の具合を尋ねる。朝も確認されたが、脚に違和感はなかった。お腹も空いていない。
「最初は練習どおり。最後は?」
「残ってる力、全部使います」
「うん。行っておいで」
ゲートへ向かう途中、隣を歩くウマ娘がハナビを見た。視線が白い耳からゼッケンへ移る。
「地方から来た子?」
「はい」
「前に行くんだよね」
ハナビがうなずくと、相手は「そう」と答え、自分のゲートへ入った。走り方を見られている。相手も同じように、レース前に映像を確かめてきたのだろう。
ゲートの中で、ハナビは前を見た。
芝のコースが続いている。練習したのと同じように、最初の数歩から速くしていけばいい。
ゲートが開いた。
ハナビは脚を踏み出し、すぐに腕を振った。最初は横にいたウマ娘も、コーナーが近づく頃には少し後ろへ下がっていた。
前は空いている。自分の足音のほかには、後ろの集団が芝を踏む音が聞こえるだけになった。
コーナーへ入る。地元のダートで走る時より、内側の脚で強く踏ん張らずに曲がる。身体が外へ流れなかったのを確かめ、そのまま向こう正面へ出た。
『先頭は地方から移籍のシロハナビ! 後続を離していきます!』
ハナビは呼吸を整えた。走りやすくても、ここで上げない。後ろが離れていても、何度も確かめない。
松浦と決めた速さを保ち、芝を蹴って進んだ。
*
「あんなに行って、大丈夫?」
すみれ色の旗の隣に座った男性が、女の子の父親へ声をかけた。
父親は双眼鏡を下ろす。コースの向こうで、白い姿がぽつんと集団の前にある。出走者紹介では周りのウマ娘に埋もれそうに見えた小さな身体を、今は誰にも遮られず追えた。
「最後に捕まることもあります」
「ですよね」
「でも、残る時は残るんです」
男性はもう一度コースを見た。娘は椅子の前に立って、旗を握りしめている。
「どの子だっけ」と、男性の連れが尋ねた。
「ほら、先頭の白い子」
父親が説明する前に、男性が指を差した。
女の子も同じ方を指し、「ハナビ」と名前を教えた。
最後のコーナーで、後ろの集団が広がった。父親は双眼鏡を持ち上げかけ、すぐに下ろした。もう、そのままでも見える位置だった。
「来た」
隣の男性が身を乗り出した。すみれ色の旗が動く。
*
直線へ入ったハナビは、ゴールまでの長さを見た。
まだ脚は動く。デビュー戦の時より、はっきり余力があった。後ろから足音がしても、肩へ力を入れすぎないように走る。
残り200mの標識が近づく頃、歓声が急に大きくなった。
自分へ向けられた声なのか、後ろへ向けられた声なのかは分からない。ハナビは腕を振った。ゴール板だけを見て、残った力を使う。
外から、足音が迫った。
ハナビの速度が大きく落ちたわけではない。それでも、後ろから来たウマ娘は速かった。隣に並ぶまでが、思っていたよりずっと短い。
『シロハナビ、粘る! しかし外から並んで、かわした!』
1人が前へ出た。
追おうとした時、もう1人がハナビの外へ迫っていた。ゲートへ入る前に話しかけてきた相手だった。
ハナビは脚を伸ばした。並ばれてもすぐには離されず、数歩のあいだ肩が横にあった。けれど、ゴールが来る前に、相手が前へ出た。
3着。
ハナビはゴールを抜け、しばらく走ってから速度を落とした。両脚は重く、使わずに残っていた力はなかった。
前で止まった2着のウマ娘が、胸を押さえて息を整えている。ハナビを見ると、顔を上げた。
「遠かった」
息の合間に、それだけ言った。
ハナビは返事をしようとして、先に呼吸を整えた。
「追いつかれました」
「追いつくために、走ったもの」
相手が笑った。ハナビも少しだけ笑い、掲示板へ顔を向けた。自分の番号は3番目にある。その上の2つを、順に確かめた。
*
戻ってきたハナビに、松浦がタオルを渡した。
「中央でも走れたな」
「2人、来ました」
「うん。速かった」
ハナビはタオルで顔を覆った。前へ行くなと言われなくてよかったと思ったあとで、まだ何も相談していないことに気づく。
「次、どうしますか」
「まず今日の映像を見よう。最後に抜かれたところだけじゃなく、その前も」
「はい」
「前へ行く形は、合っていると思う」
顔からタオルを外すと、松浦がうなずいた。
「今日は相手の方が、最後に速く走れた。ハナビがもう少し残せる場所がなかったか、探そう」
ハナビは水を受け取って飲んだ。空っぽになるほど走ったのに、負けたことが腹立たしかった。松浦が記録を取るあいだ、さっきの2人の脚の動きを思い返す。
そのあと、取材の担当者から短いコメントを求められた。
中央初戦の感想を聞かれ、3着だったことと、最後に追ってきた2人が速かったことを答える。カメラの横にいた記者がうなずいた。
「大きく離して、場内も盛り上がりましたね」
「ありがとうございます。逃げ切りたかったです」
「次も、あの走りを期待していいですか」
ハナビは松浦へ顔を向けかけ、自分で答えた。
「前から行くと思います。次は、そのまま勝ちたいです」
取材を終え、ライブの準備へ向かう途中で、客席に近い通路を通った。
すみれ色の旗が見えた。女の子が柵の向こうで大きく振っている。その横に、レース前には知らなかった男性が立っていた。
「ハナビ、惜しかった!」
呼ばれて、ハナビはそちらを見た。
男性が笑い、父親も隣で手を振る。女の子は旗を上げたまま、何か一生懸命話していた。
「あの人、知り合いじゃなかったんだよな」
松浦が小声で聞く。
「はい」
「名前、覚えてくれたみたいだ」
男性が今度は両手で丸を作った。よい走りだった、と言っているらしい。ハナビは立ち止まり、少し深く頭を下げた。
顔を上げると、女の子が隣の男性に向かって、また旗の文字を見せていた。
「最初のレースも、見たんだよ」
そこだけは、ハナビのところまで聞こえた。
「次のレースも来る?」
女の子が男性へ尋ねる。男性は連れと顔を見合わせ、それからコースの方を指した。
「ここで走るなら、見に来ようかな」
ハナビは松浦の袖を軽く引いた。
「次もここですか」
「まだ決めてない。疲れが抜けてから考えよう」
ハナビはうなずき、柵の向こうへもう一度手を振った。女の子と父親に加えて、今度は2人分、振り返す手が増えていた。