先頭の白い子 作:Lagavulin
中央での2戦目も、芝1800mだった。
最後の直線へ入ったハナビは、後ろから近づいてくる足音を聞いていた。前のレースと違い、相手はまだ横まで来ていない。残り100mの標識を過ぎても、視界にはゴール板だけがあった。
ここから誰かが来るかもしれない。
ハナビは腕を振り続けた。足音が近くなり、歓声が大きくなる。それでも、ゴールするまで隣に別の肩は現れなかった。
『シロハナビ、逃げ切りました! 中央移籍2戦目で初勝利です!』
速度を落としながら振り返ると、2着のウマ娘がすぐ後ろにいた。あと少し長ければ分からなかった。ハナビは呼吸を整え、掲示板へ顔を向けた。
1着の欄に自分の番号がある。それを確かめてから客席を見ると、すみれ色の旗のほかにも、手を上げている人が何人もいた。
松浦のところへ戻るまで、顔が緩むのを止められなかった。
「勝ちました」
「見てた。よく持たせたな」
差し出されたタオルを受け取っても、ハナビはすぐに使わず、松浦の顔を見ていた。
「中央でも、勝てました」
「うん」
松浦も笑っていた。ハナビはようやくタオルで顔を拭き、渡された水を飲んだ。少しこぼしたが、今日はあまり気にならなかった。
取材では、前回と同じ記者に声をかけられた。
「前から行って、そのまま勝ちたいと話していましたが」
「はい。今日は、できました」
話しているうちに、また笑ってしまった。隣に立つ松浦が肩を揺らしたので、ハナビはそちらを見た。
「何ですか」
「いや。さっきからずっと嬉しそうだなと思って」
「嬉しいですよ」
記者も笑い、続きを尋ねた。最後は苦しかったか、次に目指すレースは何か。記者はハナビへ向ける時だけマイクを低く下げ、松浦に話を振ると持ち上げた。ハナビと松浦が話すあいだ、カメラは画角に苦労しているようだった。
*
一段落ついて地元の三木に電話をかけられたのは、ライブが終わってからだった。
『見たよ。おめでとう』
「ありがとうございます」
『最後、よく動いてた。芝にも慣れてきたね』
ハナビは椅子に座り、靴を脱いだ。両足を前へ伸ばすと、ようやく今日のレースが終わった気がした。
「前より、コーナーで楽に走れました。松浦さんにも、そこはよかったって」
『うん。そっちでちゃんとやってるの、分かった』
三木の向こうで、誰かが声をかけている。次の練習が始まるところらしかった。
『今度、映像を見ながら聞かせて。あと、食堂の人が写真を待ってる』
「今日のですか?」
『今日の。勝ったところ、飾りたいって』
ハナビは少し胸を張った。
「送ります。ちゃんと1着の写真を」
電話を切ると、松浦が入口から手招きしていた。もう1件、話があるらしい。
待っていたのは、地域の話題を扱う番組の制作担当者だった。地方から移ったウマ娘として、ハナビを紹介したいのだという。
「今日の走りも、勝ったあとの表情も、とてもよかったので。地元で練習していた場所や、よく行っていたお店も取材できればと思っています」
ハナビは、食堂の写真が増えることになったと話した。
担当者はすぐに手帳を開いた。店の人へ連絡してよいかと聞かれ、ハナビはうなずいた。
「それから、地方時代のレース映像を探していまして」
「最後に勝ったレースなら、学園にあると思います」
「デビュー戦もありますか?」
ハナビは松浦を見た。松浦も、なぜ自分を見るのか分からないという顔をした。
「ありますけど、2着です」
「はい。その頃から見ていた方にも、お話を聞きたいんです」
ハナビは親子のことを伝えた。会場で知り合ったばかりの人へ、女の子が旗の文字を見せていた姿を思い出す。
昔から知っている人、と言われれば、確かにあの子だった。
*
取材の日は、レース後の休みを使って地元へ戻った。
食堂に入ると、中央初勝利の写真はもう額に入っていた。ハナビが想像していたより大きく、席からでもゴールの瞬間がよく見えた。
「送ってもらった次の日に、写真屋で大きくしてもらったんだ。こんなに嬉しそうに戻ってくるなら、こっちも飾らないとな」
店主が指したのは、勝った直後の写真だった。松浦からタオルを受け取っている。口を閉じていたつもりなのに、写真の中ではずいぶん笑っていた。
「それも送ったんですか」
隣の松浦に尋ねると、彼はうなずいた。
「どっちもよかったから」
番組の担当者は、壁を順に撮っていた。デビュー2着、初勝利、冬の地元の競走、中央初勝利。店主がそれぞれの日のことを話すたび、ハナビは何となく落ち着かなくなった。
「初めて負けた日はね、食べるのが遅かったんだよ」
「そんなこと、覚えてるんですか」
「いつもなら、こっちがご飯をよそう前からおかわりを頼むから」
松浦がこちらを見る。ハナビは「今はそんなに急ぎません」と答えてから、誰にも聞かれていなかったことに気づいた。
取材には、いつもの親子も来ていた。
父親がスマートフォンでデビュー戦の映像を開くと、娘がすぐに画面の端を指した。
「ここにいるの」
指していたのは走るハナビではなく、柵のそばにいた自分たちだった。白い先頭が通り過ぎると、父親が大きく口を開ける。
「パパ、叫んでた」
「あの時は勝つと思ったから」
娘が笑い、制作担当者も画面をのぞいた。ハナビは後ろから近づいてくる栗色の髪を見た。何度見ても、ここから抜かれる。
「今なら、あそこでそんなに上げないです」
ハナビが言うと、松浦はうなずいた。
「今のハナビならな。でも、あの日はあれで走ったんだろ」
再生が終わると、制作担当者が父親に尋ねた。
「これ、どちらで見られるんですか?」
「地元のレース場の記録です。ただ、古いページが少し探しづらくて」
ちょうどその話をしていた時、写真係の職員が店へ入ってきた。撮影した写真を取材で使いたいと、事前に連絡を受けていたのだという。
映像のことを聞くと、職員は「5戦ともありますよ」と答えた。
「最近、同じ問い合わせが来るんです。紹介のページから、レースの記録へ飛べるようにしようかと」
「5戦とも?」
ハナビは聞き返した。
「最初のと、4着のもですか」
「そう。順番に見たいそうで」
ハナビは自分の走ったレースを数えた。勝ったのは3回。どうせ紹介してもらうなら、その3本を見てほしかった。
けれど女の子は、職員が持ってきた写真を並べながら、デビュー前の1枚を先に取った。
「これ、お部屋にあるのと一緒」
髪を押さえ、耳が倒れている写真だった。
*
番組が公開されたあと、地元のレース場のサイトに、ハナビの5戦をまとめたページができた。
順番どおりに写真が並び、日付と着順が書かれていた。ハナビは練習のあと、松浦の部屋でその画面を見せてもらった。
「写真、ちゃんと新しくなりました」
「よかったな」
紹介の一番上には、中央で勝ったあとの笑顔が使われている。その下に、前の写真も小さく残っていた。
公開の知らせには、見た人の感想が付いていた。初勝利のゴールを見た人も、冬の競走を見た人もいる。デビュー戦から見て、次のレースで初めて残るところまで続けて見た、と書いている人もいた。
「こっち、今日初めて見た人なのに、もう5戦見てます」
ハナビが指すと、松浦が画面を近づけた。
「中央の分も見てるみたいだ。7戦全部だな」
「私も、7戦続けては見たことないです」
「俺も全部見たけど」
「松浦さんは、仕事で」
言いかけたところで、松浦が地元の5戦目の映像を開いた。
「これ、取材の時に聞かれたんだけどさ。早めに来られた時、どこで動こうと決めた?」
ハナビは椅子を寄せた。映像では向こう正面に入ったところだった。追ってくる足音を我慢した時の感じは、まだ覚えている。
「もう少し先です。影が見えてから」
松浦が再生を止め、ハナビが指した場所を確かめた。そのまま、次のコーナーまで進める。
後ろから来た相手を離したところで、ハナビは続きを早送りしようとする手を止めた。
「最後まで見ましょう」
「結果は知ってるだろ」
「何回見ても、ここから勝つので」
松浦は手を離した。画面の中のハナビが、すみれ色の旗の前を先頭で通り過ぎた。