先頭の白い子 作:Lagavulin
「バス?」
ハナビは、母親から届いた写真を拡大した。大きな窓のついた車体の前に、顔見知りが並んでいる。食堂の店主も、写真係の職員も、いつもの親子もいた。
白い紙にすみれ色で書かれた「シロハナビ応援」の文字が、フロントガラスの内側に貼ってある。
「地元から来るのか」
松浦がのぞき込み、人数を数えかけて諦めた。
「それぞれ車で行く話をしてたら、まとまった方がいいってなったそうです」
「何人?」
「32人」
松浦はもう一度、画面を見た。ハナビも写真の端まで指で動かした。知らない顔がいくつもある。
「親戚も入ってる?」
「母だけです」
少し前まで、誰が見に来るのかは大体分かっていた。母親へ確認するつもりで返信を打ちかけると、続けてもう1枚届いた。今度は、車内で白いタオルを広げている写真だった。
添えられた母親の説明では、女の子の旗を見本に、応援に行く人たちで作ったという。白いタオルの片端に、すみれ色の花火と「ハナビ」の文字が入っていた。広い余白の隅で、光の粒が表現されている。
初めての中央重賞は、七夕賞。福島の芝2000mだった。
これまでより200m長いが、松浦の心配は距離だけではなかった。コーナーで余分な力を使わず、途中で呼吸を整えられれば十分に走れると、練習の時にも話していた。
「いつもの1800mを走って、最後に200m足すわけじゃない。最初から、2000mを走るつもりで」
「はい」
ハナビはスマートフォンを鞄へしまった。濃いすみれ色の勝負服の裾を確かめ、靴を履き直す。
母親への返信は「着いたら教えて」にした。勝つと先に書くのは、少し気恥ずかしい。
*
出走者紹介のあと、ハナビはほかのウマ娘たちと一緒に控え室へ戻った。
同じ列を歩いていたナイスネイチャが、客席の方へ顎を向ける。
「あの白いタオルの人たち、ハナビさんの応援?」
「はい。地元からバスで来てくれました」
「へえ。すごいねえ」
ネイチャとは、学園で顔を合わせたことはあったが、ゆっくり話すのは初めてだった。ハナビが見ていたレース映像では、終盤に後ろから伸びてくることが多かった。
「ネイチャさんの映像、見ました」
「そりゃどうも。アタシも見たよ。前に勝ったやつ」
「追いつかれないようにします」
ネイチャがハナビの顔を見た。少し笑い、それから自分のゼッケンを押さえた。
「こっちも、そのために見てきたんだけどね」
控え室の入口で別れ、ハナビは松浦のところへ行った。
窓からコースを見ると、客席の上の方まで人がいた。地元の32人はその中の一部で、ほかは誰を見に来た人なのか分からない。けれど、母親たちが白いタオルを広げている場所は、すぐに見つかった。
「見えた?」
「はい」
松浦がハナビの肩を軽くたたいた。
「じゃあ、準備しよう」
ゲートが開いた。
ハナビは先頭へ出た。後ろからすぐに追ってくる相手はいない。最初のコーナーを回り、決めていた速さまで上げていく。
練習で覚えた呼吸のまま、前へ進めた。向こう正面に出る頃には、後ろの足音が遠くなっていた。
ハナビは速くしなかった。
芝を蹴る感触を確かめ、腕に入っていた力を抜く。まだ先はある。客席のざわめきが聞こえたが、誰も隣に来なければ、自分の走りを続ければよかった。
*
ネイチャは、前を走る2人の間から、白い耳を見ていた。
シロハナビは離れている。思った以上に遠いが、ここから追うには、まだ距離がある。
自分だけが動けば、前の2人にも追われる。先に脚を使ったところへ、直線で来られるかもしれない。
それでも、このまま待っていてよい差なのか。
ネイチャは前へ出る場所を探した。すぐ前のウマ娘が、わずかに外へ動く。追い始めるのだと分かり、その後ろについた。
白い姿との間が縮まり始める。だが、急には近くならない。
ネイチャは腕を振り、前の相手と一緒に速度を上げた。追う側も楽ではなかった。ハナビはコーナーへ入っても、あまり勢いを失っていない。
もう、待てない。
ネイチャは前のウマ娘の外へ出た。横に並ぶと、相手も速くなった。2人で競りながら直線を向く。
その先で、白い尻尾が揺れていた。
*
『シロハナビ、先頭で直線! 後ろが迫ってきています!』
ハナビには、後続が何人で来ているのか分からなかった。
脚は重くなっていた。2000mを走るつもりで始めても、最後はやはり苦しい。少し前まで遠かった足音が、はっきり聞こえるようになる。
ゴール板を見た。
まだ横には誰もいない。そこだけを確かめ、ハナビは腕を振った。
「ハナビ、いける!」
「あと少し、頑張れ!」
客席から、いくつもの声が飛んだが、歓声に紛れてほとんどが聞こえなかった。
ハナビは、もう速くならなかった。それでも、前へ出す足を止めなかった。息を吐くたびに喉が痛み、ゴール板が近づく。
すぐ外に、人の気配がした。
肩が並ぶ前にゴールが来た。
ハナビはそのまま走り抜けた。後ろから来たウマ娘も、横で少し先まで走っていた。どちらが先だったのかを確かめたくて、速度を落としながら振り返る。
『シロハナビ、逃げ切りました! 重賞初挑戦で初制覇!』
場内が揺れるような歓声の中、わずかに聞こえたのは確かに自分の名前だった。
ハナビは顔を上げた。掲示板の一番上にも、自分の番号が出ている。
両手を上げかけたが、まだ息が整わなかった。片手を胸に当てて歩き、もう一度、1着の欄を見た。
そこでようやく、笑えた。
客席では、白いタオルがいくつも動いていた。知らない人まで立ち上がっている。ハナビが手を振ると、歓声がまた大きくなった。
「あー……届かなかったかあ」
近くでネイチャの声がした。腰に手を当てて、掲示板を見ている。ネイチャは3着だった。
「おめでと。最後まで、ちゃんと走ってたね」
「ありがとうございます」
ハナビが答えると、ネイチャは自分の膝を両手で押さえ、ひとつ長く息を吐いた。
「もうちょい早く行くんだった」
誰に言うでもなくこぼしてから、ネイチャはハナビへ顔を向けた。
「次は、あんなに離さないから」
「また、前に行きます」
「でしょうね。見てれば分かりますよ、それは」
ネイチャが笑ったので、ハナビも笑った。2着のウマ娘も加わり、3人で戻る通路へ向かった。
*
松浦は、ハナビを見つけると近づいてきた。
いつもなら先にタオルを渡すのに、今日は右手が上がった。ハナビも、汗で濡れた手をその掌に打ち合わせた。
「よくやった」
松浦の声が、いつもより大きかった。
「勝ちました」
「ああ。勝った」
ハナビは松浦の顔を見た。まだ笑っている。自分の方も、口元が緩んだままだった。
差し出されたタオルで汗を拭き、水を飲む。松浦が脚の具合を尋ねると、ハナビは痛いところはないと答えた。
「最後、すぐそこまで来てました」
「来てたな。でも先だった」
「残りました」
自分で言って、また嬉しくなった。松浦はうなずき、ハナビの頭に残っていた芝の切れ端を取った。
取材のあと、表彰のために客席の前へ出た。
地元の親子が見えた。父親は何か叫んでいたが、声がかすれていた。女の子は旗を振る手を止め、ハナビへ両手で大きな丸を作った。
ハナビも、胸の前で小さく丸を作った。
旗を持ち直した女の子が、父親の袖を引いた。その拍子に旗が父親の顔へ当たり、父親が笑いながら避けた。
カップを受け取ると、思ったより大きかった。胸の前へ持ち上げると、すみれ色の勝負服の正面がほとんど隠れてしまう。少し下げて顔を上げると、カメラの向こうでまた、白いタオルが振られた。
表彰が終わってから、ハナビは松浦にもカップを渡した。
「ちょっと持ってください」
「重い?」
「一緒に撮りたいので」
松浦がカップを受け取り、ハナビの隣に立つ。撮影する職員にもう少し寄るよう言われ、松浦がかがみかけた。
「かがまなくて大丈夫です。2人とも入りますから」
そう言われて、松浦が姿勢を戻す。ハナビはその横で笑っていた。
職員がシャッターを切ったあと、もう1枚と言った。ハナビはカップへ片手を添え、そのままカメラを見た。