先頭の白い子 作:Lagavulin
オールカマーの出走表を、ハナビは松浦の机で見ていた。
自分の名前から少し離れたところに、ナイスネイチャの名前がある。七夕賞以来の対戦だ。
「ネイチャさん、夏の間も練習してました」
「同じ学園だからな。見かけるだろ」
「そうなんですけど」
食事をしている時は、米やカレーの話ばかりしていた。けれどコースで見かけるネイチャは、ハナビに手を振ったあと、自分のトレーナーのところへ戻っていった。
ハナビの取材に付き合っているあいだも、次のレースの準備をしていたのだ。
松浦が七夕賞の映像を出した。
「今回は、あの時より早く来るかもしれない」
「言われました」
「だろうな。こっちは距離も伸びる。来たからって、そのたびに速くするわけにはいかない」
ハナビは画面の自分を見た。後ろの動きを気にしすぎず、決めた速さで走る。それはこれまでも練習してきた。
ただ、追ってくる相手が誰なのか、前よりはっきりするようになっていた。
*
当日、ハナビは紹介を受けて客席の前へ出た。
地元のすみれ色の旗を探していると、その手前で手を振る人に気づいた。食事の番組を見て、定食屋で声をかけてきた2人だった。
「ハナビちゃん、頑張って!」
今度は名前で呼ばれた。
ハナビが会釈すると、2人は隣に立っていたネイチャにも手を振った。ネイチャが軽く手を上げ、そのままハナビへ顔を寄せる。
「ちゃんと覚えてもらえたみたいね」
「来てくれましたね」
「うん。こりゃ、いいとこ見せないと」
ネイチャは客席を見ながら、そう言った。
ハナビも、もう一度手を振ってから戻った。2人とも応援してくれるのは嬉しかったが、並んで1着になるわけにもいかない。
ゲートが開いた。
ハナビは先頭へ出た。
最初は後ろの足音が近かった。自分が走りやすい速さへ上げていくと、少しずつ遠ざかっていく。コーナーを回り、白い尻尾が背中の動きについてきた。
向こう正面で、ハナビは呼吸を整えた。
七夕賞より長い2200m。ここでは、まだ力を使い切れない。松浦と決めた走りを続け、後ろへ目を向けずに進んだ。
*
ネイチャは、前の白い姿を見ていた。
また離れている。けれど、七夕賞の時ほど、好きには行かせていなかった。
あの時は、ほかの相手が動くのを待った。
前のウマ娘が追い始めるのを見て、その後ろについた。無駄に脚を使わず、直線で抜くつもりだった。終わってみれば、その相手にもハナビにも届かなかった。
ネイチャは、前を走るウマ娘の外へ出た。
その相手がこちらを見た。ネイチャの動きに合わせて速くなる。後ろからも足音が近づいた。
来るよね。
分かっていても、脚を緩めなかった。目の前の相手だけを抜けばよいなら、ここまで早く動く必要はない。今日は、その先にいるハナビへ届かなければ意味がなかった。
白い姿が少しずつ近くなる。
ハナビはまだ、無理に速くしていない。追われたからといって、自分から崩れてはくれなかった。
ネイチャは腕を振った。コーナーへ入っても前との距離を詰め、外へ膨らみすぎないように足を運ぶ。追ってきた相手の気配は、すぐ後ろに残っている。
直線が見えた。
ハナビの白い耳が、さっきよりずっと近い。
ネイチャは残していた力を使った。ここから先のために取っておく分は、もうなかった。
*
直線に入ったハナビは、後ろの足音が思ったより近いことに気づいた。
まだ先頭ではある。前回のようにゴールまで持たせればいい。そう思って腕を振った時、外にネイチャの姿が見えた。
『シロハナビ先頭! ナイスネイチャが追ってくる!』
今度は、ゴールより先に肩が並んだ。
ハナビは脚を速めた。数歩は一緒に走れた。けれどネイチャは、そこからさらに前へ出ていく。
追いかけたいのに、ハナビの脚にはその速さが残っていなかった。
ネイチャの肩が前へ出て、背中が見える。ハナビはその背中を見たまま、残った力で走った。
ゴールのあと、ネイチャが右手を上げた。
ハナビは2着だった。後ろから来ていた相手には先着したが、掲示板の1着の欄にはネイチャの番号が出た。
歩けるようになるまで速度を落とすと、前にいたネイチャが振り返った。口元が緩んでいたが、ハナビと目が合うと、一度唇を結んだ。
それでも、笑顔は消えなかった。
「おめでとうございます」
ハナビは先に言った。
「……ありがと」
ネイチャが答えた。少し離れたところで、ネイチャのトレーナーが大きく手を上げている。
ネイチャはそちらへ向き直り、今度は自分から手を振った。
「よし」
短い声が、ハナビにも聞こえた。
ハナビは自分の両手を腰に当てた。息を整えているうちに、悔しさが戻ってくる。七夕賞の時は、あちらがこの位置から掲示板を見ていたのだ。
ネイチャが客席へ一礼したあと、ハナビの方へ戻ってきた。
「やっと捕まえた」
「早かったです。来るのも、そのあとも」
「前と同じじゃ、届かないからね」
ハナビはネイチャの顔を見た。嬉しそうだった。自分が七夕賞のあとにどんな顔をしていたのか、少し分かった気がした。
「次は、もう少し離しておきたいです」
「まだ離すつもり?」
「抜かれたくないので」
ネイチャが笑った。
「じゃ、また追いかけるわ」
*
ウイニングライブでは、ネイチャが真ん中に立った。
舞台袖で出番を待つあいだ、ネイチャは振り付けを小さく確かめていた。自信がなさそうだったわけではない。ただ、いつも食事をしている時より、口数が少なかった。
ハナビは隣の立ち位置へ出た。
客席で白いタオルが動いている。ネイチャの名前が書かれた応援も、その向こうにいくつもあった。
音楽が始まると、ネイチャは前を向いて笑った。レースのあとより大きな笑顔だった。
ハナビも自分の振り付けに集中した。横目に入る真ん中の姿が、少しだけ羨ましかった。
終わって舞台を下りると、ネイチャが大きく息をついた。
「あー、終わった」
「よかったです」
「ありがと。そっちもね」
ネイチャはスタッフからタオルを受け取り、顔を拭いた。取材の担当者に呼ばれると、少し照れた顔でそちらへ向かう。
ハナビはその背中を見送ってから、松浦のところへ戻った。
「秋の天皇賞、出たいです」
松浦はうなずいた。もともと、秋の目標として話していたレースだった。
「登録は進める。今日の疲れを見て、調整しよう」
「はい」
ハナビはタオルを畳み、鞄へしまった。今日の映像は、先頭で走っているところから見直すつもりだった。
*
天皇賞秋の出走が決まると、学園の食堂でオグリに声をかけられた。
「今度は一緒だな」
ハナビはトレーを持ったままうなずいた。
出走表には、自分と同じレースにオグリの名前があった。初めて食堂で会った日に、いつか同じレースになると思った。その日が、もう来ていた。
「早く追いかけるって、言ってましたよね」
「ああ。七夕賞も、オールカマーも見た」
オグリは、自分の席の向かいを示した。ハナビはそこへトレーを置く。
「今度は、私も勝ちたい」
いつもと同じ声だった。ご飯を食べながら聞いているのに、ハナビは次のひと口まで少し間が空いた。
「そこはウチも譲らへんで」
トレーを持って通りかかったタマモが、オグリの向かいへ座った。ハナビの隣だった。
「ハナビ、今度はウチも後ろから行くからな」
「2人とも、来るんですね」
「当たり前や。オグリだけ見とったら、先にウチが行くで」
タマモはハナビに笑いかけ、それからオグリへ目を向けた。オグリも箸を置き、うなずいた。
*
G1の日の客席は、これまでより遠くまで人で埋まっていた。
紹介された名前に合わせ、あちこちから声が上がる。ハナビの番にも、予想していたより大きな声が返ってきた。名前の入った応援を探すと、地元のすみれ色の旗だけでなく、花火を描いた白い旗も見えた。
ゲートが開いた。
ハナビは前へ出た。
向こう正面では、いつものように後続との差ができた。けれど、コーナーへ近づいた頃には足音が戻ってきた。白い先頭の逃げを、誰も忘れてはいなかった。
ハナビは直線へ向いた。
まだ走れる。オールカマーより短い2000mに合わせて、途中の配分も変えてある。ゴールまで自分の脚を使い切ろうと、前へ進んだ。
『純白のシロハナビに、芦毛の2人が迫る! オグリキャップ、タマモクロス! 先頭争いは白い三つ巴だ!』
ハナビの外から、オグリキャップが来た。
並んだ瞬間、食堂で見慣れた顔が一瞬見えた。こちらを見てはいなかった。オグリはゴールだけを見て走り、そのままハナビの前へ出た。
続いてタマモクロスが追ってきた。ハナビが腕を振っている間に、その肩も前へ出る。
残りの距離が、短いのにとても長く感じられた。もう追いつけないと分かっても、後ろの相手には抜かれたくなかった。
ハナビは3着でゴールした。
1着はオグリキャップ、2着はタマモクロスだった。
戻る前に、オグリへおめでとうと言った。オグリは礼を言い、呼吸を整えながらハナビを見た。
「最後まで、遠かった」
「でも、来ました」
「ああ。間に合った」
タマモも近くで息を整えていた。ハナビは掲示板に並ぶオグリキャップ、タマモクロスの名前を見てから、2人へ顔を戻した。
「次は、2人より先にゴールしたいです」
「次はウチが勝つで。オグリ、覚悟しときや」
「私も、負けるつもりはないぞ」
オグリが答えると、タマモは笑って、もう一度掲示板を見た。
*
その夜、松浦の部屋で、ハナビは母親から届いた写真を見た。
地元の食堂に人が集まり、大きな画面でレースを見ていたらしい。ゴールの直前を撮った写真では、店主が両手を頭に当てていた。
「惜しかった、って」
ハナビが読み上げると、松浦も画面をのぞいた。
「あっちも、悔しかったんだろうな」
ほかにも連絡が来ていた。初めてG1を見たという人が、母親を通して感想を送ってくれた。最後まで先頭に残るかと思って、声が出たそうだった。
ハナビは礼の返信を打ってから、スマートフォンを机に置いた。
「勝ったら、もっと喜んでくれますかね」
「そりゃ、喜ぶだろ。今日だってこれだけ見てくれてる」
松浦が、レースの記録へ目を戻した。
「俺も嬉しいし」
「私もです」
そこはすぐに答えられた。
松浦がパソコンへ手を伸ばしかけたところで、ハナビはスマートフォンを取り直した。母親への返信に、1行だけ足す。
「食堂で見てたところ、動画もあったら送って」
すぐに、食堂の中で撮った動画が届いた。
白い先頭が直線を走ってくると、画面の手前で店主が立ち上がった。その拍子に、隣の人の顔が隠れる。
『見えないって!』
誰かが笑って言い、店主が慌てて座った。
ハナビは音量を少し上げた。後ろからオグリが来ても、店の人たちはまだハナビの名前を呼んでいた。