先頭の白い子 作:Lagavulin
天皇賞秋のあと、ハナビは少し休みを取った。
地元へ帰ると、食堂の壁にまた写真が増えていた。今回は勝っていないと先に言っておいたが、店主は、G1を走ったのだから飾ると答えた。
冬は学園で練習を続けた。
春にはもう一度、G1に出る。松浦とそう決め、大阪杯を目標にした。最初のレースには、同じ2000mの金鯱賞を選んだ。
その予定を知ったツインターボが、練習を終えたハナビのところへ来た。
「ハナビも金鯱賞?」
「はい」
「ターボも出る!」
ターボは自分を指した。学園では何度も見かけていたが、同じレースを走ったことはなかった。
「ターボが先頭だからね!」
ハナビはタオルで首を拭きながら、ターボの顔を見た。
「私も、前に行くつもりです」
「じゃあ、勝負!」
もう決まったことのように、ターボはうなずいた。
ハナビが返事をする前に、コースの方からターボを呼ぶ声がした。ターボは大きく手を振り、自分のトレーナーのところへ戻っていった。
松浦が、ハナビの隣へ来た。
「宣戦布告?」
「先頭はターボさんだって」
「映像、見ただろ。あの速さで来るよ」
ハナビはうなずいた。
ターボも、最初から大きく離すことがある。そこを一緒に走ったらどうなるのか、まだ実感はなかった。
「先に行かれても、無理に取り返さない。最後まで走れる速さで」
「はい」
欲しいのは先頭ではなく、一着だ。
*
金鯱賞のゲートが開いた。
ハナビが加速すると、外からターボが出てきた。青い髪がすぐ横に見え、次の数歩で前へ出る。
速い。
ハナビは、いつもならそこで保つはずの速さから、もう少しだけ脚を速めた。すぐにターボへ並べたので、そのまま半歩前へ出た。
コーナーへ入る前に、ターボがまた来た。
ハナビの前へ出ても、あまり速度を落とさない。隣に並んでいたはずの肩が離れていく。ハナビは腕を振った。
『ツインターボ、シロハナビ! この2人が前へ行きます!』
実況が聞こえた。
後ろの集団は、もう離れていた。けれど、ハナビの前にはターボがいた。
ここで抑える。
松浦と話したことを思い出した。それでも、すぐ前に見える白い靴が遠ざかると、ハナビの脚も速くなった。
並べた。前へ出た。
息を戻そうとしたところへ、また青い髪が来た。
ハナビはターボと並んだまま走った。ターボもこちらを見なかった。2人とも前だけを見て、相手の足音が近づくたびに速くなった。
『今度はシロハナビが先頭! ツインターボもすぐ外、譲りません! ハナビとターボのデッドヒート!』
次のコーナーが来る前に、ハナビの脚が重くなった。
まだ、こんなところだ。
ゴールははるか先だった。いつもなら呼吸を整えられる区間なのに、今日はもう、吸った息をすぐに吐いていた。
ターボが少し前へ出た。
ハナビは追おうとしたが、さっきまでのように並べなかった。腕を振っても、脚がついてこない。
後ろから別の足音が来た。
1人がハナビを抜き、少し先にいたターボへ迫った。続けてもう1人、さらに何人も来る。直線へ入った時には、前に何人いるのか分からなくなっていた。
ハナビはゴール板を見た。
ここまで来たからには、最後まで走るしかなかった。追い抜いていく相手の背中を見失いながら、それでも腕を動かした。
12着だった。
14人のうち、後ろにいたのは2人だけ。そのうちの1人がターボだった。
ハナビはしばらく歩き、呼吸が戻ってから掲示板を見た。上の方に自分の番号はない。
勝ったマチカネタンホイザが客席へ手を振っていた。ハナビはそちらを見て、自分もあの場所に戻るつもりでいたことを思い出した。
少し離れたところで、ターボが膝に手を当てていた。
ハナビが近づくと、ターボは顔を上げた。
「最後、動かなかった」
「私もです」
2人とも、すぐに次の言葉が出なかった。
ターボはもう一度息を吐いてから、コースを振り返った。
「途中まではターボが前だった」
「私の方が前にいたところもありました」
「そのあと、ターボが抜いた」
「その前は私が抜きました」
言い返したところで、ハナビは掲示板を見た。
ターボも同じ方を向いた。
「ゴールでは、違いましたね」
ハナビが言うと、ターボは口を尖らせた。
「次は最後まで走る!」
「私も、最後まで走ります」
2人で戻り始めると、それぞれのトレーナーが待っていた。
ハナビは松浦の前で立ち止まり、先に「すみません」と頭を下げた。
*
松浦は、まず脚の具合を確かめた。
痛いところはなく、疲れ方がいつもより強かった。水を飲んで休み、ようやく落ち着いてから、ハナビはレースの映像を見た。
2人とも、驚くほど前にいた。
後ろの集団まで映すと、画面の端と端になった。実況が2人の名前を交互に呼び、コーナーへ入っても先頭争いが続いている。
「ここで、1回戻せたと思う」
松浦が止めたのは、ハナビが最初に前へ出たあとだった。
「はい」
「何が気になった?」
ハナビは画面を見た。すぐ外に、ターボがいる。
「抜かれたくなかったです」
しばらくして、そう答えた。
「もうゴールなら、よかったんですけど」
「うん。まだ、かなりあったな」
松浦は続きを流した。ハナビがもう一度前へ出て、ターボが追いついてくる。
この時は、先頭に戻れたことしか考えていなかった。
「ターボさんが来たから、というより」
ハナビは膝の上で手を組んだ。
「私も、競ってました」
「そう見えた」
松浦は記録を閉じ、ハナビへ顔を向けた。
「次は、先に行かれたところからも考えよう。あの速さについていって、最後まで持つわけじゃないから」
ハナビはうなずいた。後ろでずっと待つことと、目の前の相手をすぐに抜き返さないことは、同じではなかった。
翌日、母親から連絡が来た。
身体は大丈夫かと聞かれ、ハナビは疲れているけれど痛いところはないと答えた。母親は安心したようだったが、あとで食堂の人にも連絡しておくようにと言った。
電話をかけると、店主は最初に「飛ばしたねえ」と言った。
「飛ばしすぎました」
『見てるこっちも、途中で分かったよ』
店主の声の向こうで、別の人が笑っていた。
『最初は、2人でそのまま行くかと思ったんだけどなあ』
「全然、持ちませんでした」
『次は頼むよ。またあの青い子と走るのかい?』
ハナビは、まだ決まっていないと答えた。
あんなに負けたのに、もう一度一緒に走るところを見たいらしい。電話を切ってから公開されたレース映像を見ると、そこにも同じような感想があった。
飛ばしすぎだった、今度はどちらか残ってほしい、また2人の名前が並んだら見る。
最後まで順位を確かめている人もいる。それでも映像の最初へ戻り、先頭が入れ替わるところを見直している人がいた。
ハナビは松浦に、その話をした。
「また見たいそうです」
「見ていて、目は離せなかったからな」
「止めたくなりませんでした?」
「なったよ。途中から、かなり」
ハナビは少し笑ってから、スマートフォンを伏せた。
「次は、直します」
*
疲れが抜けるまで、練習は軽くした。
大阪杯へ向けて本格的に走り始めてからは、出だしで相手に先へ行ってもらう練習もした。自分の走りたい速さを保ち、並ぶ場所が来てから前へ出る。
最初は、つい足が速くなった。
前の背中を追うのをやめようとして、逆に必要以上に遅くなった日もあった。松浦と時計を確かめ、相手の位置より自分の呼吸を目安にする。
次第に、前に誰かがいても、自分の速さで走れる区間が長くなった。
最後の練習を終えると、松浦が今日の記録を見せた。
「これなら、先に行かれても戻せる」
「レースでも、できるようにします」
ハナビはコースを見た。練習では、ターボほど何度も抜き返してくる相手はいない。それでも、前の姿につられて脚を使っていると分かるようにはなっていた。
*
大阪杯の日、ハナビはいつもどおりすみれ色の勝負服を着た。
出走前の取材では、前走の大敗についても聞かれた。ハナビは自分も競り合ってしまったと答え、今回は最後まで走ると付け加えた。
「今日も前から?」
「はい。前から行きます」
そこは、松浦とも話してあった。
ゲートが開いた。
隣のウマ娘が先に出た。
ハナビも加速したが、相手に並ぶためだけに脚を速めることはしなかった。最初のコーナーは、すぐ後ろから入る。
前のウマ娘が、少し速度を落とした。
ハナビは自分の速さのまま外へ出た。並んだ時、相手もわずかに速くなったが、そこからさらに上げようとはしなかった。ハナビは徐々に前へ出て、先頭へ立った。
向こう正面に出る頃には、後ろとの差ができた。
ハナビは呼吸を整えた。ターボと走った時には、ここですでに苦しかった。今日はまだ、足が思った場所へ出る。
『先頭はシロハナビ! 後続を離して、直線へ向かいます!』
コーナーを回ると、客席から大きな声がした。
ハナビはゴール板を見た。ここまで残した力を、今度こそ全部使ってよかった。
外からオグリが来た。
その後ろにはネイチャがいた。2人とも、直線に入る前から差を詰めていた。ハナビが速度を上げても、足音が遠ざからない。
オグリの肩が並び、前へ出た。
ハナビは腕を振った。ネイチャとも横に並んだが、ゴールの少し手前で先へ行かれた。
3着だった。
ハナビは走り抜けたあとも、しばらく前の2人を見ていた。オグリが勝ち、ネイチャが2着。ハナビは誰より前でゴールしたかったが、今日は最後までそのために脚を使えた。
戻ってくる途中、ネイチャが横に並んだ。
「オグリさん、速かったねえ」
「ネイチャさんも、速かったです」
「そりゃ、勝ちたかったからね」
ネイチャは先を歩くオグリを見た。ハナビも同じ方を見た。
少し前を行く背中は、食堂で一緒に並んでいる時よりも遠く感じた。
松浦のところへ戻ると、最初に「走れました」と伝えた。
「うん。最初に先へ行かれても、自分の速さで前へ出られたな」
「最後は、2人に抜かれました」
「そこはまた考えよう。今日は、最初から自分で苦しくしたわけじゃない」
ハナビはうなずき、水を飲んだ。ゴール前の2人を思い出すと悔しかったが、松浦と映像を見るのが嫌だとは思わなかった。
*
学園へ戻ると、ターボが食堂で手を振ってきた。
ハナビがトレーを置く前に、ターボは隣の椅子を引いた。
「大阪杯、見た!」
「ありがとうございます」
「最初、前じゃなかった」
「はい」
ハナビは座り、ご飯の丼を手前へ寄せた。
「でも、途中からは前でした」
「ターボなら最初から行く」
「だと思います」
ターボは大きくうなずいた。ハナビは味噌汁をひと口飲み、それからターボを見た。
「次、一緒に走っても、ずっと並んでは走りませんからね」
「じゃあターボが先!」
「先に行ったら、あとで追いかけます」
「追いつかれないもん!」
ターボが声を上げたので、近くの席にいたネイチャがこちらを向いた。
「ご飯の前に何の勝負してんの」
「次のレース!」
「また2人で?」
ネイチャがトレーを持って来た。ターボの向かいへ座り、ハナビの顔も見る。
「今度は、ちゃんと最後まで来てよね」
「行きます」
ハナビが答えたところへ、ターボの声が重なった。
「ターボが1着!」
「それはアタシも欲しいんですけど」
ネイチャが箸を取り、ハナビも手を合わせた。ターボはまだ出走予定の話をしていたが、料理が冷めると言われると、自分の皿を引き寄せた。
食べ始めてしばらくしてから、ターボがハナビの丼をのぞき込んだ。
「ハナビ、ご飯は速いな」
「先に食べ始めたので」
ハナビは空になった丼を持って立った。
ネイチャが、何か言いかけたターボの方へ顔を向ける。
「こっちは競わなくていいからね」
ターボは自分のまだ半分ほど残っているご飯を見て、箸を動かした。