え?嫁さんがガルガル期でしんどい?ふーん……じゃあさ──なっちゃえばいいじゃん。お前も、アレにさ。

なろうカクヨムにもマルチ

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がるるるる

 ◆

 

 ああ、そうだ。

 

 これが僕の本当の姿なんだ。

 

 僕はグワアーッと叫んで、リビングのテーブルにがぶりと噛みついてやった。ばきりばきりばきりと音を立てて、ン万円もする木製のテーブルがバラバラになっていく。わはは、まるでポテトチップスみたいだ。

 

「やめて!! やめて、あなた!!」

 

 玲奈が叫んでいるけど、やめるつもりはない。だって僕だって君にやめてほしかったんだ。やめてほしかったから、僕なりに出来ることをしようとしたんだ。でも君は僕をまるでしゃべるサンドバッグのように扱ったよね。

 

 だから僕はやめないんだ──こ(・)れ(・)を。

 

 ・

 ・

 ・

 

『ガルガル期』というものを、僕はあくまでネットの、まあ、うん──誇張された表現の一種だと思っていた。ただ、全くのでっちあげだとも思っていなかった。グーグル先生はガルガル期についてこう説明してくれている。

 

『産後の母親が赤ちゃんを本能的に守ろうとするあまり、夫や周囲の人に対して強いイライラや警戒心、攻撃的な態度を抱いてしまう一時的な精神的・身体的状態』だと。

 

 僕の理解としては、これはあくまでホルモンバランスや慣れない育児による精神の変調であり、母親本人の人間性が不可逆的に変わってしまったわけではないというものだ。

 

 確かにぴりぴりもするかもしれないが、だからなんだ? 夫婦っていうのは結婚する時、病める時も健やかなるときも云々とある。どちらかが辛い時だからこそ、よりしっかり支えられるようにもう片方の妻なり夫は尽力すべきじゃないのか? 

 

 ──と、まあ、そう思っていた事もあった。

 

 ◆

 

 現実は違うのだ。

 

 ネットは都合のいい要約しか書かない。ホルモンバランスなどという生ぬるい言葉で括っていい現象ではなかった。そこに現れたのは病める妻ではなく、僕という存在を有害物質と同等に見なす凶暴な歩哨だったのだ。

 

 産院から玲奈と娘の琴葉が帰ってきた初日から、我が家のパワーバランスは一変した。玄関のドアを開けた瞬間から、僕は人間ではなく病原体のキャリアとして扱われた。

 

「ちょっと、手洗った? アルコールは? 服を着替える前にリビングに入ってこないでって言ったよね」

 

 仕事から帰って即座に洗面所へ直行し薬用石鹸で入念に洗った手を掲げて見せても、玲奈の眉間から深い溝が消えることはない。僕の皮膚の常在菌すべてが娘の命を脅かす猛毒であるかのように、彼女は赤ん坊を抱え込んで睨みつけてくる。

 

「息を吹きかけないで。今、吐いた息が琴葉にかかった」

 

 抱っこどころか、ベビーベッドの柵から五十センチ離れた位置から覗き込んだだけでこの宣告である。呼吸すら許されない。僕は息を止め、胸ポケットから取り出した除菌シートで自分の顔と首筋を拭き清める生活を余儀なくされた。

 

 生活音のすべてが犯罪になった。忍者のように摺り足で廊下を歩き冷蔵庫のドアを蝶の羽ばたきより静かに閉めても、彼女の耳は僕の足首が鳴るわずかな軋みすら拾い上げて弾劾した。

 

「うるさい! やっと寝かしつけたのに起きたらどうするの!」

 

 寝不足で血走った玲奈の目は、完全に僕を有害な外敵として捉えていた。それならと育児を分担しようと手を伸ばせば、さらなる理不尽の扉が開く。

 

「お湯の温度が二度高い! 火傷させる気?!」

 

「おむつのテープが左右対称じゃない。漏れたらあなたがシーツ洗うの?!」

 

 言われた通りにやろうとすればすべて怒声で撥ねつけられ、ひったくるように娘を奪われる。かといって恐縮して指示を待っていれば、今度は侮蔑を煮詰めたような溜息が飛んでくるのだ。

 

「なんで言われないと動けないわけ? 指示待ち人間? 自分の子どもでしょ?」

 

 動けば「触るな」と罵られ、引けば「何もしない」と蔑まれる。詰みである。チェスならとっくにキングを倒して投了している局面だが、現実の家庭にはリセットボタンも投了規定も存在しなかった。

 

 ・

 ・

 ・

 

 終わりの見えないそんな日々にさすがに僕も大分参ってきた。子供が大きくなれば落ち着くというが、大きくとはなんだ? 

 

 何歳までだ? 

 

 あと何年? 何日? 何秒なのだ? 

 

 病み病み病み病み病み病み──そんな僕を見かねたか、話きこか? と声をかけてくれた人がいた。

 

 職場の先輩である。

 

 ◆

 

「あー辛いよな、わかるわかる。俺も大変だったよ。まああの大変な時期があって今があるっていうかさ、成長できた気がするんだけどね」

 

「うんうん、分かるよ。めっちゃ分かる。しんどいよな、でも嫁さんだって……え? 赤ん坊を殺すつもりかと言われた? そりゃあ傷つくよなあ……」

 

「そっかそっか、もう我慢できないのか。家にも帰りたくないのか。そっかぁ……」

 

「ふーん……じゃあさ──なっちゃえばいいじゃん。お前もア(・)レ(・)にさ」

 

 アレとはなんだ? 

 

 いや、それよりも、心なしかにたりと笑ったその口元に牙のようなモノが見えないだろうか? なんだか先輩が怖く見える。

 

「知ってるか? 男だってなれるんだぜ、ア(・)レ(・)にさ」

 

 だからアレって何? 

 

 思わせぶりな事を言う先輩に、僕はちょっと苛々してしまった。だがすぐにそんな気持ちは吹き飛ぶことになる。なぜなら──

 

「だからさぁぁぁあああ──こ(・)れ(・)だよ」

 

 は

 く

 あ

 き

 さ

 

 先輩の喉仏が尋常ならざる速度で上下したかと思うと、低周波の地鳴りのような唸りが喉の奥から這い出してきた。ネクタイを緩める指先が痙攣し顎がメリメリと前方に突き出していく。唇が裂けて剥き出しになった歯茎から、人間の切歯を押し退けるように反り返ったステーキナイフめいた鋸歯がずらりと生え揃っていく。

 

 安物のビジネススーツの背中がばりばりと! 布地を引き裂いて隆起したのは、人間の倍以上に太い脊柱である。ネクタイピンが弾け飛んで床を転がり、肩幅が恐ろしい勢いで膨張していく。ワイシャツの繊維が限界を迎えて千切れ飛ぶ中、皮膚は角質化を起こして深緑の硬質な鱗に覆い尽くされていった。

 

 たくましかったはずの腕は急速に縮み、申し訳程度に二本指の鉤爪を生やした矮小な前肢へと退化していく。しかしそれとは真逆に、スラックスの下で太ももの筋肉が丸太めいた質量を獲得して爆発的に膨れ上がった。腰骨の奥から突き破り出た巨大な尾が、床を薙ぎ払って重々しくドスンと叩きつける。

 

 顔面はすでに人間の造形を留めていなかった。巨大な頭蓋は骨の槌と化し、横に張り出した眼窩で琥珀色の瞳が縦に細く裂けている。見慣れた先輩の面影など、首元にワイシャツの襟巻きがへばりついている以外どこにも残っていない。

 

「グルルルルルル……」

 

 喉の奥から吐き出された呼気が、僕の前髪をふるりと揺らした。

 

 それはまぎれもなく、六千六百万年前に絶滅したはずの暴君竜──ティラノサウルスだった。

 

 ◆

 

 声が出なかった。僕の喉は完全に凍りつき床へと腰から崩れ落ちた。股間のあたりがじわりと温かくなり、薄手のスラックスにみっともない濃い染みが広がっていく。人間、本物の食物連鎖の頂点と目が合えば失禁くらいは嗜むものなのだ。

 

 だが恐怖の絶頂は数秒しか続かなかった。ティラノサウルスはフシューッと蒸気機関車のような排気音を立てると、みるみるうちに肉量を減じ元の猫背なくたびれた三十代男性へと縮んでいったのである。破れたスーツの切れ端を情けなくぶら下げた先輩は、僕の股間を一瞥して気まずそうに苦笑した。

 

「あー……わりぃ。ちょっと脅かしすぎたな。コンビニでファブリーズと替えのパンツ買ってやるからさ」

 

 先輩はビリビリになった胸ポケットから歪んだハイライトを取り出し、慣れた手つきでライターの火をつけた。僕が失禁したまま呆然と見上げる中、先輩は煙を天井へ吹き上げて笑う。

 

「ビビったろ。でもこれ、手品でもなんでもないぜ」

 

「な、なんですか……それ……」

 

「なんですかって、言っただろ。『白亜紀』だよ」

 

 先輩の言葉を脳が処理しきれず、僕は口を半開きにして聞き返した。白亜紀。恐竜たちが地上を闊歩していたあの時代である。それがなぜ現代日本のしがないサラリーマンの肉体から立ち現れるのか。

 

「嫁のやつが産後に突入するだろ。あの理不尽極まりないガルガル期にな。ありゃあ生物学的な防衛本能の暴走なんだが、やられる側の男はたまったもんじゃない。精神を病んで首を吊るか蒸発するかの二択になっちまう」

 

 先輩は破れたスーツの袖をパタパタと払った。その仕草だけは、普段のオフィスで見せるくたびれた課長補佐そのものだった。

 

「だから男の肉体にも備わったんだよ。あの理不尽な攻撃性に耐え抜き、家庭を崩壊させずに己の精神を保つためのカウンター進化がな。ガルガル期に対抗するんだから、そりゃあ白亜紀になるしかねぇだろ」

 

「は、白亜紀……」

 

「そう。世界中の既婚男性はな、全員この力に目覚める資格を持ってる。ただ社会生活があるから普段は隠してるし、女どもに知られたら余計にややこしくなるから他言無用が鉄の掟だ。だけどさ、お前みたいに今にも壊れそうなやつを見つけたら、こうして教えてやるのが先輩の義務なんだよ。まあ人によってはジュラ紀だったり三畳紀だったりするんだが……それはまあケースバイケースだな……」

 

 なり方を教えてもらうまでもなかった。

 

 先輩の言葉を聞くまでもなく、僕の内側で眠っていた太古の記憶がすでに鍵を外していたのだ。根拠などない。だが自転車の乗り方と同じで、一度知ってしまえば身体が勝手にやり方を理解していた。

 

「しんどくなったら遠慮なくなっちまえ。男のメンタルを守るための合法的な脱皮みたいなもんだからさ。でも気を付けろよ。白亜紀はあくまでも自分の心を守るためにしかたなくなるもんさ。目的意識が大事なんだ。それを見失うと……身も心も、な(・)っ(・)ち(・)ま(・)う(・)ぜ」

 

 ◆

 

 先輩から替えのパンツと消臭スプレーを押し付けられ、僕は夜道を歩いて帰宅した。玄関のドアを開けた瞬間、冷え切った声が鼓膜を突き刺す。

 

「遅い。どこ行ってたの? アルコールスプレーの残量が減ってるんだけど、無駄遣いしないでって言ったよね」

 

 靴を脱ぐ間もなく浴びせられる糾弾。カバンを置いただけで怒鳴られ、スーツの上着を脱ごうとすれば雑菌をまき散らすなと叫ばれる。いつもの日常だった。だが今夜の僕の胃袋の奥底では、何かがゴトリと音を立てて転がった。

 

 ああ、そうだ。

 

 これが僕の本当の姿なんだ。

 

 僕はグワアーッと叫び、リビングのテーブルにがぶりと噛みついてやった。ばきりばきりばきりと音を立てて、ン万円もする木製のテーブルがバラバラになっていく。まるでポテトチップスみたいだ。

 

「やめて!! やめて、あなた!!」

 

 玲奈が耳をつんざく悲鳴を上げて後ずさる。彼女の顔は恐怖に歪み、唇を真っ青に震わせていた。

 

 でもやめる気はない。

 

 君がガルガル期なら、僕は白亜紀だ。

 

 君が僕をそうさせたんだ。

 

 君が僕を解き放ってくれたんだ。

 

 君が──あれ? 君ってだれだっけ。

 

 まあいい。

 

 このままこの女も頭から呑み込んでしまおうか。噛み砕いてしまえば二度と理不尽に怯えることもない。そんなことをおもっていると──寝室から泣き声が届いた。

 

 娘の泣き声だった。

 

 手足をばたつかせる娘がわんわんと泣いている──そう思った瞬間、頭の芯が急激に冷え、肺胞の奥に溜まっていた熱い煙が抜けていくのを感じた。

 

 フシューッと音をたて。骨が縮み筋肉が収縮し、数秒後には破れたスーツを纏ったただの情けない僕が床に立っていた。床には噛み砕かれた木屑が散乱し、その向こうで玲奈が尻餅をついたまま僕を見ている。

 

 夫を見る目をしていない。化け物を見る目で僕をみている。まあ当たり前か。僕は白亜紀なんだしね。

 

 僕は何も言わず、転がっていたビジネスバッグを拾い上げ、静かに玄関へと踵を返した。背後から叫び声が聞こえていたが、振り返る気は起きなかった。

 

 ◆

 

 夜風。街灯の下を僕は走っていた。破れたスーツの裾を翻し、アスファルトを蹴ってただ前へ進む。足取りは羽毛のように軽く、どこまでも駆けていけそうな全能感で涙すら出てくる。果たして僕は人間なのか、白亜紀なのか。もしかしたらジュラ紀とかかもしれない。手や足を見れば分かるのだろうけど、僕はもう前しか見たくない。それに、僕が何であろうともうどうでもいい。だって僕は自由なのだから!

 

 そうして暫く走っていると、ドシン、ドシンと地響きが並走してくるではないか。横を見れば角を生やしたトリケラトプスが、深夜の国道を巨体を揺らして疾走していた。首元にはネクタイが千切れかけて巻き付いている。上空を見上げればプテラノドンが悠然と翼を広げていた。眼鏡をかけたままの嘴を鳴らし、僕に向かって短く鳴き声を投げてくる。

 

 仲間だ! 

 

 前にも後ろにも大小さまざまな恐竜たちがいた。

 

 首の長いブラキオサウルスが歩道橋を跨ぎ、俊敏なヴェロキラプトルの群れがガードレールを軽やかに跳び越えていく。彼らもまた、どこかの家庭で理不尽な嵐を耐え抜き己の白亜紀を解き放った男たちなのだろう。

 

 最高の気分だった。素敵な気分だった。僕らは街の灯りを背にして走り続ける。このまま彼らと楽園へ向かうのだ。理不尽な目に一切遭わない、僕らの楽園へ。

 

 それがどこにあるのかはわからないが、僕らならどこにでも──そして、どこまでも行ける気がした。

 

(了)

 


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