本文は完結まで執筆済みなので、それを適宜追記修正してから投稿しています。
句読点、改行その他読みやすくするための指摘があればよろしくお願いいたします。
その朝、右手がなかった。
気づいたのは、目を覚ましてしばらく経ってからだ。
最初に感じたのは、土の冷たさだった。湿った落ち葉が頬に張りつき、鼻の奥へ、むせ返るほど濃い土と植物の匂いが流れ込んでくる。昨夜に雨でも降ったのか、地面はまだたっぷりと水を含んでいた。
だが、匂いが多すぎた。
濡れた樹皮、苔、腐りかけた落ち葉、ほのかな血液、人間の体臭、遠くを流れる水。土の下を這う虫の気配まで嗅ぎ取れそうなほど鮮明で、その向こうには小さな動物が残した獣臭まで混じっている。男は半ば眠ったまま顔をしかめ、それからようやく、自分が屋外で寝ていること自体がおかしいと気づいた。
寒い。全身を打ち付けたように痛い。何より、こんな場所で眠った覚えがない。
(いてて……どこだ、ここ)
身体を起こそうとして、右手を地面についた。
ついた、はずだった。
返ってきた感触がまるで違う。地面へ触れている位置も、指先に伝わる土の硬さも、自分の知っている手のものではない。寝ぼけているのかと思いながら目を開けると、薄暗い森が広がっていた。枝葉の隙間から朝の光が細く差し込み、遠くで鳥が鳴いている。景色そのものに、おかしなところは何もない。
おかしいのは、地面についた手のほうだった。
黒い前肢。
皮膚なのか細かな鱗なのか分からないものに覆われ、先には数本の指と、どう見ても人間のものではない湾曲した爪が生えている。右腕があるはずの場所から、それが伸びていた。
右手を持ち上げるつもりで力を入れると、黒い前肢が動いた。指を曲げれば爪が湿った土を掻き、左手を動かそうとすれば、反対側で同じ形の前肢が持ち上がる。錯覚でも、何かが身体の上に乗っているのでもない。
それは、自分の身体だった。
「なんだよ、これ」
そう言ったつもりだった。
「グァ……ァ」
耳へ届いたのは、喉の奥から押し出された、掠れた低い鳴き声だった。
男は凍りついた。
もう一度、今度は舌と口の動きを意識しながら声を出してみる。
「俺は――」
「グ、ァ……」
やはり言葉にならない。
頭の中では間違いなく日本語を組み立てられている。それなのに、舌の形も口の動きも記憶しているものとは違い、発声しようとした文章が喉を通った途端、意味のない鳴き声へ変わってしまう。
急激に鼓動が速くなった。
呼吸まで荒くなり、男は反射的に立ち上がろうとした。しかし身体は、頭の中にある「立ち上がる」という命令とはまったく違う動きをした。脚の位置も重心も違ううえ、腰の後ろには大きな重量がある。勢いよく上体を起こした途端、それに引かれるように横へ倒れ、落ち葉を巻き上げながら斜面になっている地面を五メートルほど転がった。
「ギャッ!」
木の根に脇腹をぶつけ、今度は考えるまでもなく鳴き声が飛び出した。
痛い。そこだけは分かりやすかった。
脇腹から伝わる鈍い痛みは、人間だったころとそれほど変わらない。男は地面へ伏せたまま呼吸を整え、恐る恐る身体の後ろを振り返った。
黒く長い尾があった。
根元を辿れば、自分の腰から直接続いている。意識を向けると右へ動き、左へ動かそうとすればその通りに動いた。奇妙なことに、一度動かし方を意識したあとは、どの筋肉を使っているのか考えなくても自在に振ることができた。
(嘘だろ……)
男はその場へ伏せたまま目を閉じた。
夢だと思いたかった。悪夢なら目を覚ませばいい。だが、濡れた土の冷たさも、木の根にぶつけた脇腹の痛みも、鼻へ押し寄せる無数の匂いも、夢として処理するにはあまりに鮮明だった。
何より、頭の中は異様なほどはっきりしている。
自分は人間だった、そこには確信がある。
日本人で、東京に住んでいる。実家は八王子にあり、父親と母親、それから妹がいる。玄関から入ったところにある廊下も、階段を上がった先の自分の部屋も、冷蔵庫の位置も、近所のコンビニも思い出せた。最寄り駅までどの道を通れば早いか、妹が冷蔵庫のプリンを勝手に食べると怒ることまで覚えている。
記憶喪失ではない。では、昨日は何をしていた。
そこへ手を伸ばした瞬間、それまで滑らかにつながっていた記憶が途切れた。
仕事のことは思い出せる。学生だったころのことも、友人の顔も、家族と交わした会話も覚えている。ところが、ここへ来る直前だけが不自然なほど抜け落ちていた。
男は記憶の切れ目を探った。
暗い。最初に浮かんだのは、それだけだった。
夜だったのか、それとも屋内だったのか。白っぽい光が揺れ、その下に車らしきものがある。誰かが話している。ひどく焦っていたような気がするのに、何を言っていたのか聞き取れない。
そして最後に強烈な衝撃が全身を貫いた。まるで雷に打たれたらこうなるとでもいうような衝撃と明滅が全身を支配している。
次の瞬間、まったく別の像が割り込んだ。
狭い。低い位置から、何本もの金属棒のようなものが見えている。鼻を刺す消毒薬と油の匂い。身体のどこかを締めつける硬い感触。
(……え?)
男は目を開けた。森がある。金属も車もない。
それなのに一瞬だけ、そこにいたような感覚が残っていた。
人間だった自分が、そんな場所にいた記憶はない。
もう一度思い出そうとした途端、頭の奥へ鋭い不快感が走った。痛みというほど強くはないが、考えることそのものを拒むような感覚に、男は反射的に首を振った。
像が消える。代わりに、自分が別の違和感を覚えていることに気づいた。転がり落ちてきた斜面の上のほうだけが、妙に気持ち悪い。
音でも匂いでもない。そこに猛獣が潜んでいると感じているわけでもなかった。頭の奥から首筋にかけて、ごく弱い力で一定方向へ引かれているような、あるいは身体の中にある方位磁針がずれているような、言葉にしにくい落ち着かなさがある。
無意識に顔を背けると、その感覚が薄れた。
(……なんだ?)
試しに元の方向へ戻してみる。また感じる。右へ向けば弱くなり、さらに身体ごと向きを変えると、ほとんど気にならなくなった。
理由は思いつかなかった。目覚めたばかりで混乱しているうえ、身体そのものが人間ではなくなっている。平衡感覚がおかしくなっているのかもしれないし、人間には存在しない何かの感覚器官が反応している可能性だってある。
今は考えても仕方がない。それより、自分の姿を確かめたかった。喉も渇いている。
水が欲しいと思った途端、今度は不思議なことに、水のある方向が分かった。
先ほどの奇妙な感覚とは違う。
これは匂いだった。
鼻を動かしてみると、湿った空気に混じって流水の匂いが届いている。人間だったころなら絶対に気づかなかった距離だった。
男は慎重に身体を起こした。
今度は二本脚で立とうとせず、前肢も地面につけて四肢で体重を支える。すると先ほどの苦戦が嘘だったかのように身体が安定した。
一歩進む。右の前肢を出すと、意識するより早く左の後肢が動いた。
次の一歩では反対側。方向を変えると、尾が自然に振れて重心を打ち消した。
(こう……か?)
さらに進む。今度は転ばない。
少し速度を上げても問題なかった。木の根を越え、低い枝を避けるうちに動作は急速に滑らかになり、ほんの数分前までまともに立つことさえできなかったとは思えないほど自然に森を進めるようになった。
それが、かえって不気味だった。自分はこの身体を初めて使っているはずだ。
頭では尾の動かし方など知らない。四本の肢をどの順番で動かせば効率よく走れるかを習った覚えもない。
なのに身体は知っている。新しく覚えているというより、ずっと前から知っていた動きを、頭のほうが後から思い出しているような感覚だった。
男はその違和感をうまく言葉にできないまま、水の匂いを追った。
数分ほど森を進むと、木々の間に細い沢が現れた。幅は二メートルほどで、澄んだ水が岩の間を流れている。男は喉の渇きを覚えながら岸辺へ近づき、そこで水面に映っている黒い生き物に気づいた。
反射的に身構えると、相手も動いた。こちらが止まれば、向こうも止まる。数秒遅れて、その意味を理解した。男はゆっくりと水面へ顔を近づけた。
細長い頭部を黒い皮膚が覆い、黄色みを帯びた眼がこちらを見返している。口をわずかに開けば、まだ小さいながらも鋭い歯が何本も並んでいた。人間ではないのはもちろん、哺乳類ですらない。
だが、まったく知らない生物ではなかった。
(人工恐竜……)
ニュースや動画で何度も見たことがある。
現在、世界各地で「恐竜」と呼ばれている生物は、厳密には太古の恐竜をそのまま蘇らせたものではない。残された古代DNAは不完全で、その欠損部分を近縁生物や現生動物の遺伝情報、推定された配列などで補いながら作られた人工生命だった。今では野生化した個体群まで存在し、人間社会のほうが彼らの存在を前提にハンターなどの安全保障の制度面や人々の生活を変えつつある。
水面の姿には、その中でも嫌なほど見覚えがあった。
(ラプトル……系か?)
ただし、単純な復元種には見えない。黒い体色。妙に発達した前肢。身体の輪郭にも、テレビで見た一般的なラプトルとは異なる特徴がある。
人工交雑種。その可能性が頭をよぎった。もしそうなら、かなり危険な種類かもしれない。男は水面に映る自分を見つめ直した。もっとも、今はまだ小さい。頭部から尾の先まで含めても一メートルあるかどうかで、ニュース映像に登場する成体とは比較にならない。
(俺……子供なのか?)
あまりの状況に、少しだけ笑いそうになった。もちろん、今の顔で笑えば牙を剥き出しにするだけだろう。男は水へ口をつけた。冷たい水が喉を通り、身体の奥へ染み込んでいく。驚くほど美味く、何度も飲んでから顔を上げるころには、ようやく状況を順番に整理できる程度には落ち着いていた。
自分は生きている。ただし、人間の身体ではない。なぜこうなったのかも、ここがどこなのかも分からないが、人間だった記憶と思考能力は残っている。
そして、もう一つ無視できない問題があった。腹が減っている。
時間が経つほど、空腹は急速に切実なものになっていた。胃のあたりから押し寄せる飢餓感は人間だったころよりずっと強く、米や肉、ラーメン、コンビニ弁当といった食べ物が次々と頭に浮かぶ。
しかし周囲にあるのは森だけだった。財布どころか服さえ持っていない。そのとき、対岸の草むらがわずかに揺れた。考えるより早く顔がそちらを向くと、草の奥に鼠がいる。
人間だったころなら、存在に気づくことさえできなかった距離だ。それなのに今は姿だけでなく匂いまで捉えられ、どちらへ逃げようとしているのかさえ何となく分かる。
さらに困ったことに、その小さな生き物を見た瞬間、空腹とは別の反応が身体の奥から湧き上がった。
(……美味そう)
自分でそう思ったことに驚き、男は思わず一歩後ろへ下がった。その動きに反応して鼠が走り出す。同時に、後肢へ勝手に力が入った。
この速度なら追える。飛びかかれば届くだろう。頭で考えるより先に、身体のどこかがそう判断していた。
(待て待て待て)
男は必死に踏みとどまった。鼠が草むらの奥へ消える。追いかけたいという衝動も少しずつ薄れていった。自分は人間だった。鼠を捕まえて生で食べた経験など当然ないし、そんなことをしたいと思ったこともない。しかし今の身体は明らかに肉食で、空腹も本物だった。
人間の頭と、人間ではない身体。
どうやら、これからはその両方と付き合っていかなければならないらしい。男は沢のほとりでしばらく悩んだ。
十分ほどして別の小動物を見つけた。今度は蛙だった。さらに二十分後には、人生で初めて生きた蛙を食べることになった。味については、深く考えないことにした。
◇
昼近くになると、森の向こうから人工的な音が聞こえてきた。
かなり遠いにもかかわらず、車のエンジン音だと分かる。人間がいる。男は反射的に身体を低くした。
そのまま隠れるべきか、助けを求めるべきか迷った。頭の中身は人間なのだから、事情さえ説明できれば警察なり病院なりへ連れていってもらえるかもしれない。少なくとも八王子へ帰る方法は見つかる。
だが、目の前にある黒い前肢を見たところで、その期待は急速に萎んだ。喋れない。服もない。身分証もない。そして人間から見れば、自分はどう考えても人工肉食恐竜である。
現在の日本では人工恐竜そのものは珍しい存在ではなくなっているが、危険な肉食種が人間の生活圏へ侵入すれば話は別だ。自治体によっては警察だけでなく、専門資格を持ったハンターまで出動する。
その言葉から、以前ニュースで見た映像を思い出した。東京都内で起きた大型人工恐竜の事件だった。
複数のハンターから銃撃を受けた巨大な肉食種が、それでも突進を続ける。映像の終盤では弾薬を使い果たした一人のハンターがマチェットを手に接近し、すでに銃撃で深手を負っていた個体を至近距離で仕留めていた。
切り抜かれた映像だけが世界中へ拡散され、本人が迷惑しているとしか思えない、ふざけたような異名までついた。
リアル・ドラゴンバスター。
「東京」ドラゴンスレイヤー。
そして自分の帰る場所も東京だった。
正確には八王子だが、今の状況では区市の違いなど誤差に思える。
(帰りたいけど……あれには絶対会いたくないな)
我ながらひどい矛盾だった。
男は車の音が遠ざかるまで森の中から出なかった。やがてエンジン音が小さくなり、その直前、風向きが変わったことで車内のラジオらしき声が断片的に耳へ届いた。
『――以前、太平洋北部で発生した海底火山の噴火について、気象当局は――』
雑音が入り、途中が聞き取れなくなる。
『――一部観測機器で一時的な異常値が記録されましたが、噴火活動との直接的な関係は不明です。また、地磁気観測網でも同時期に短時間の乱れが――』
車が遠ざかり、そこから先は聞こえなくなった。男は森の奥で顔を上げた。
海底火山。
そういえば、人間だったころにもニュースで見たような気がする。海上に変色した水域が広がり、噴煙の写真が何度もテレビに映っていた。もっとも、東京で暮らしていた自分にとっては、夕食を食べながら聞き流す程度のニュースだった。
今も事情は似たようなものだった。
自分が恐竜になってどこぞの森に放り出されていることに比べれば、遠い海の火山など優先順位は低すぎる。男はすぐにその話を意識から外した。
ただ、立ち上がろうと身体の向きを変えたとき、朝から感じていたあの奇妙な不快感が一瞬だけ強くなった。
偶然だと思った。実際、それ以外に考えようがなかった。
◇
午後になると、男は森の中で古びた案内板を見つけた。文字を見た瞬間、思わず足が止まった。日本語が読める。
当然のことのはずなのに、それだけでひどく安心した。身体がどれほど変わっていても、自分の中に人間だったころのものが残っていると確認できた気がした。
案内板には周辺の山道と地名が記されていた。その一角にある文字を見て、男はしばらく動かなかった。
青森県。
(青森……?)
八王子から、どうやってここまで来た。思い出そうとする。また暗い場所が浮かんだ。
車。
白い光。
誰かの声。
次いで、なぜか低い位置から見上げる金属の格子。
そこで記憶は途切れたが、男は無理にそれを追わなかった。それより現実の問題がある。
青森から八王子まで何百キロあるのか、正確な数字は思い出せない。それでも歩いて簡単に移動できる距離でないことくらいは分かる。しかも今の自分は道路を堂々と歩けない。街を避け、人間を避け、食料を確保しながら南下する必要がある。
途方もない。
それでも、他に行く場所はなかった。家族がいる。帰らなければならない。
そこで男は、ふと思いついて地面を見た。少し湿った土があり、近くには細い枝が落ちていた。
前肢で拾おうとすると、爪が邪魔をしてうまく掴めない。何度か転がした末に、どうにか二本の指の間へ挟み、地面へ先端を押しつける。
線を引こうとするが、枝を保持できず大きく曲がった。
もう一度。
今度は力が強すぎて枝が土へ食い込んだ。
それでも諦めず、何度も繰り返した。
人間の手なら数秒で済む作業に、ひどく時間がかかった。
日が傾き始めるころ、湿った土の上にようやく不格好な文字が残った。
『あおもり』
男は枝を置き、少し離れてそれを眺めた。読める。自分で書いた文字だ。
人間の手はない。人間の声も出せない。それでも日本語を理解し、考え、文字を書くことができる。
次に、もう一つ書いた。
『はちおうじ』
二つの地名が、土の上に並んだ。
青森と八王子。出発地点と目的地。
その間にどれほどの距離があるのかは分からない。それでも、今やるべきことは少しだけ明確になった。南へ向かい、水と食料を確保し、人間にはできるだけ見つからず、生きて八王子まで帰る。
森の奥で鳥が鳴いた。夕暮れが近い。男は枝を捨てようとして、ふと手を止めた。文字。自分は喋れない。だが、書くことはできる。
もし人間と接触しなければならなくなったとしても、最初から撃たれさえしなければ、意思を伝える方法は残っている。
ほんの少しだけ希望が見えた。男はもう一度、自分が書いた二つの地名を眺めた。
そこで奇妙なことに気づいた。
(……俺の名前は?)
家族のことは覚えている。
妹の顔も、父親の声も、母親の作る料理も思い出せる。
なのに自分の名前を地面へ書こうとすると、そこだけ霧がかかったように出てこなかった。
焦って探そうとすれば、また頭の奥に不快感が走る。おかしい。しかし、今はどうしようもない。男は枝を地面へ置いた。
名前は後でいい。
八王子へ帰れば、きっと分かる。男は自分のあいまいな記憶の中にある、根拠の薄い希望にすがるほかすべを知らなかった。
◇
日没が近づき、男は寝床を探すために歩き始めた。今度は転ばなかった。
尾が自然に動き、斜面では身体の傾きに合わせて重心を調整する。木の根を跨ぐときも、頭で考える前に後肢が適切な位置へ置かれた。
ほんの数時間前には立つことさえできなかった。それなのに身体は、急速に動き方を思い出している。
そこで男は足を止めた。
(……思い出す?)
自分で使った言葉に違和感があった。
覚えている、ではない。慣れてきた、でもない。思い出している。
自分はこの身体を初めて使っているはずなのに、どうしてそんな感覚になるのだろう。
その直後、遠くで何か大きな枝が折れた。
男は反射的に身体を低くした。考えるより早かった。
耳が音の方向を探り、鼻が風上の匂いを拾う。尾は地面すれすれまで下がり、後肢にはいつでも走り出せるよう力が入っている。
そこまで動いてから、自分が何をしたのか理解した。森の奥に何がいるのかは分からない。ただ、自分より大きな生き物の気配がする。
男は音のした方向から離れることにした。生き残る。まずはそれだ。
名前も、記憶も、この身体の正体も、帰ってから考えればいい。
男は南と思われる方向へ身体を向けた。
すると、目覚めたときから一方向にだけ感じていた説明のつかない不快感が、ほんの少し弱くなった。
今度は気づいた。だが、理由は分からない。疲れているだけかもしれない。知らない匂いを拾っているのかもしれない。あるいは人工恐竜の身体には、人間が知らない感覚が備わっているのかもしれない。
どれでも構わなかった。
目的地は反対側なのだから、わざわざ確かめに行く必要はない。男は森の中を進んだ。
人間の身体はない。スマートフォンも財布もなく、自分の名前すら今は思い出せない。それでも八王子の街並みは覚えているし、家族の顔も、帰るべき家も忘れていない。
ならば、帰ればいい。
どうして青森にいるのか。なぜ人工恐竜の身体になっているのか。あの金属の格子は何だったのか。そして、身体が自分より先に知っているものは何なのか。
答えは一つもなかったが、今すぐ必要な答えでもなかった。
夕暮れの森を、小さな黒い人工恐竜が南へ向かって歩いていく。
目指す場所は八王子。
そこで待っている家族に、もう一度会う。
そのために必要なのは、まず今夜を生き延びることだった。
主人公のイメージ画像は インドラプトル で検索してみてください。