山形へ向かって歩き始めてから数時間、男はあの夜の判断を何度も思い返していた。
撮られると分かったうえで、地図と水を選んだ。そのこと自体を悔やんではいない。それでも歩くうちに頭が冷えてくると、上空のドローンへ何を見せたのかがはっきりしてくる。鞄を背負い、青いシートまで回収して歩き去る肉食恐竜など、野生動物には見えない。どう見ても、目的地のある旅行者だった。
(やりすぎたな)
◇
夜半を過ぎたころ、男は沢沿いの林で足を止めた。周囲の匂いを確かめ、大型の動物も人間もいないこと、上空に機械音がないことを確認してからバッグを下ろす。水を飲んで地面へ伏せ、後肢に残る重い疲労を抜きながら、立場を入れ替えて考えてみた。
自分が人間の側なら、どうするか。
正体の分からない黒い肉食恐竜がいる。青森では親子を襲わず、むしろ助けたように見える映像が残った。町の近くでは影や足跡が見つかり、災害警戒区域では倍の大きさの相手を、資材や車を使って退けた。そして戦いが終わると、置いてあった鞄を自分で身につけて去っていく。
(……調べるな。絶対に)
映像を保存し、過去の目撃情報を集め、同じ個体かどうかを比べる。それが済めば、確認された場所を地図へ落としていくだろう。点が増えれば、線になる。
そこまで考えて、男は顔を上げた。
青森から宮城まで、細かな迂回はあっても、自分はほとんど一貫して南へ進んできた。目撃情報が同じ個体のものだと判断されれば、進行方向を読むのは難しくない。その延長線の先で、ドローンか、警察か、ハンターか、何かが待っている可能性がある。人間を襲っていない以上、いきなり撃たれるとは思いたくないが、鞄を持った正体不明の肉食恐竜が人の多い土地へ近づいていくのを、行政が放っておくとも思えなかった。
(南へ向かってるって読まれるのが、一番まずい)
進路を読まれたままでは、八王子へ近づくほど危険になる。
男はバッグから東北広域観光マップを出し、ペットボトルを重しにして地面へ広げた。駅で山形行きを決めたのは、人の多い太平洋側を離れるためだった。しかし改めて見ると、この進路にはもう一つ意味がある。南へ向かっていた個体が、宮城で突然西へ折れる。延長線の先を見張っている側からすれば、そこで足取りが消えたように見えるはずだった。
(追ってる側からしたら、意味分からないよな)
一度その線を崩してしまえば、あとは無理に進路を曲げ続ける必要はない。山形へ出たら監視の薄い山地を選んで南へ下り、福島の内陸側を抜けて栃木へ入る。最短距離ではなく、かなりの遠回りになるが、山は今の自分に向いていた。舗装路を歩く必要がなく、多少の斜面なら登れる。夜目が利き、水は沢で足りる。食料も町より山のほうが手に入りやすく、青いシートさえ外せば擬態も森のほうがよく効く。大型の恐竜や崖、増水した川といった危険はあるものの、人間に見つかるよりは対処のしようがあった。
一直線に八王子を目指す必要はない。これからは、足取りを読まれにくい道を選ぶことのほうが大事になる。
地図を畳みながら、男は少し可笑しくなった。
(何と戦ってるんだ、俺)
目覚めたころは、水を探して蛙を食べ、今夜を生き延びることしか考えていなかった。それが今では地図を広げ、追跡を想定して進路をごまかそうとしている。考えていることは完全に逃亡者だった。
悪いことをした覚えはない。人間を襲っていないし、食料は自分で狩っている。店の商品には手を出さず、使っているのは無料の地図と、捨てられていた鞄だけだ。
(コーラだって金払ったし)
百六十円、きちんと払った。そこは譲れない。ただ、そんな事情を人間の側が知るはずもなく、こちらから説明する方法もない。だから今は、見つからないように進むしかなかった。
◇
そこからの三日間、男は道路を基準にするのをやめた。
標識を読むのは山へ入るまでで、建物と街灯が途切れたところで舗装路を離れる。あとは沢と尾根、林道、送電線、遠くに見える道路の灯りを目印に、大まかな方角だけを合わせて進んだ。目覚めた朝から続いている例の不快感は、今は右の後ろあたりにある。それを背中側に置いている限り、少なくとも来た方向へ戻っていないことだけは分かった。
急な場所では四肢を使い、平坦になれば速度を上げる。大きな岩は回り込み、倒木は飛び越えた。舗装路ほど速くは進めないが、身体が育ったぶん、斜面を登ること自体は以前よりずっと楽になっている。途中で小型の草食恐竜を一頭仕留め、沢が多かったおかげで水にも困らなかった。人間には一度も出会わず、ドローンの音も聞いていない。
尾根の上で休んだ夜、遠くに町の明かりが見えた。災害警戒区域の方角なのか、別の町なのかはもう分からない。
(これなら撒けるか)
確証はなかった。そもそも誰も自分を追っていない可能性だってある。それでも、危険を先に想定して避けるというやり方で、ここまで生き延びてきた。考えすぎで済むなら、それが一番いい。
◇
同じころ、宮城県内の監視施設では、黒い個体の追加記録が途絶えていた。
職員たちがまず調べたのは南側だった。道路の監視カメラ、自治体へ寄せられた通報、無人機の映像、大型動物の目撃情報。資材置き場での戦闘のあと、黒い個体は鞄を回収して林へ入り、そこで映像は切れている。それまでの記録が南へ並んでいた以上、次の点も南に現れると考えるのが自然だった。
ところが、該当する記録が一つも出てこない。
「北へ戻ったんでしょうか」
「山へ入っただけかもしれません。監視網には隙間がいくらでもありますから、見つからないこと自体は不思議ではないです」
オンラインで報告を受けた御門優子は、そう答えるにとどめた。確認地点を示した地図には、数日前に自分で足した「移動方向」の欄がある。そこはまだ空白のままで、御門は何も書き込まなかった。記録がないことから読み取れるのは、記録がないということだけである。
◇
山形県へ入ったことを、男は県境の標識ではなく駅名で知った。
西へ進み始めて三日目の夕方、山の斜面から一本の線路が見えた。線路は人間の移動経路であり、列車が走り、駅があり、人がいる。以前ならそれだけで離れていただろう。しかし、しばらく眺めていても列車は来ず、レールには錆が浮いて、枕木の間からは草が伸びていた。
(使ってない?)
日が沈むのを待ってから近づく。人間の新しい匂いはなく、レールにも最近何かが通ったような気配がない。線路を横切った先には、ホームが一本と小さな待合室、それに駅名標があるだけの駅があった。周囲に集落は見当たらず、照明も点かない。休止されているのか、廃止されたのかは分からないが、少なくとも今は使われていないらしい。
(運いいな)
宮城の駅で地図を見つけて以来、駅は男にとって別の意味を持つ場所になっていた。
待合室の引き戸に爪を掛けて横へ動かすと、少し引っ掛かりながらも開いた。顔だけを入れて匂いを確かめる。小動物と埃、古い木材。危険なものは感じない。身体を低くして中へ入ると、今の体格にはかなり狭く、尾の先が戸口の外へ残った。
(また大きくなったな)
ベンチと古い時刻表の横に、小さなラックがあった。紙の扱いにも少しは慣れてきたので、前より手際よくできる。爪の先で端をずらし、旅館や観光施設、季節の催しの案内を一枚ずつ確かめていくと、その中に山形県の観光マップがあった。
(当たり)
床へ落として前肢で広げる。東北広域観光マップより一段詳しく、主要な道路と鉄道、市町村、山と川が載っていて、県の南へ抜ける道も読み取れた。駅名標の名前を地図の上で探し当てると、思っていたより西まで来ている。ここから進路を南へ変え、県内を下って福島へ入ればいい。二枚の地図を合わせれば、そこまでの経路はかなり具体的に考えられそうだった。
あとは畳んでバッグへ入れるだけ、のはずだった。
地図の端に、小さな記号を見つけるまでは。
◇
(ん?)
温泉の記号だった。山形に温泉が多いことくらいは知っているから、それ自体は珍しくない。気になったのは、横に添えられた小さな説明のほうだった。
山間部、登山道の先。古くから地元で使われてきた野湯で、あるのは簡素な湯船だけ。管理施設も常駐者もなく、冬は利用が難しい。車では近づけず、徒歩で向かうしかない。
見出しには、秘境温泉とあった。
男は地図を見たまま動かなくなった。
(……温泉か)
身体が少しだけ前へ傾く。
最後に湯へ浸かったのがいつなのか、正確には思い出せない。少なくとも、この身体になってからは一度もなかった。沢へ入ったことはあるし、雨には何度も濡れた。汚れれば水場で洗うことも覚えた。けれども、それは風呂ではない。湯気の立つ湯へ身体を沈め、肩まで浸かって息を吐く、あの時間とはまるで別のものだった。
青森の町で、窓越しに見た旅番組の露天風呂を思い出す。あのとき湧いた欲求は、贅沢な不満として胸の奥へしまったはずだった。
(入りたい)
場所は、予定していた南下の経路から少し外れている。往復すればそれなりに時間を使ううえ、山の中なので道の状態は分からない。土砂崩れで埋まっているかもしれないし、湯が涸れている可能性もある。理性のほうは、寄り道をしている場合かと言っていた。身体は日ごとに大きくなり、人間の側には探されているかもしれない。目的地は八王子で、温泉ではない。
その通りだった。
(でも、無人なんだよな)
普通の温泉旅館なら絶対に無理だ。恐竜が「一名です」と受付へ行くわけにはいかない。しかし野湯なら、人間が来ない時間を選べば入れる。料金のいる施設ではなく、誰かの物を使うわけでもない。山から湧いている湯へ浸かるだけだ。山奥なら監視カメラもないだろう。
待合室には誰もおらず、当然、止める者もいなかった。
「グルル……」
小さな声が出た。自分では、一回くらいいいだろ、と言ったつもりだった。
◇
男は温泉までの位置関係を何度も確かめた。駅、川、道路、登山道の分かれ目。現在地を画面で確かめながら歩くことはできないので、目印を順番に覚えておくしかない。それから地図を畳んでバッグへ収め、ほかのパンフレットには触れずに待合室を出て、引き戸を元通り閉めた。
線路脇から林へ入り、本来なら南へ向けるはずだった身体を、少しだけ別の方向へ向ける。
(今夜のうちに着けたら入る。明日は休んで、そのあと南だ)
長くても一日。完璧な計画だと思った。
歩いているうちに、男は少し楽しくなってきた。この旅で目指してきたのは、水や食料、安全な寝床、雨具、地図と、生き延びるために要るものばかりだった。必要だから探し、必要だから向かう。今回だけは違う。入らなくても死なないし、南へ進む役にも立たない。完全な娯楽である。
(旅行っぽいな)
恐竜の身体で青森から東京まで歩いている時点で、普通の旅行からはかなり離れている。それでも、寄り道をするという行為には妙に人間らしい楽しさがあった。早く帰りたい気持ちは変わらない。ただ、何週間も続く旅の途中で一度くらい湯に浸かってもいいと思える程度には、この暮らしにも慣れてきていた。
山へ入るほど道は細くなり、やがて舗装がなくなった。地図で覚えた川を見つけ、その流れに沿って進む。途中からは登山道らしい踏み跡が現れたが、今の身体には狭く、枝が肩や尾へ当たった。バッグを引っ掛けないよう気をつけながら、倒木をいくつか越える。
夜が深くなったころ、匂いが変わった。
男は立ち止まった。水と土と植物の匂いに、卵が腐ったような独特の臭気が混じっている。温泉地で嗅いだことのある、硫黄の匂いだった。
(ある)
歩調が速くなる。木々の間を抜けると、月明かりを映す水面が見えた。岩に囲まれた湯だまりから、白い湯気が静かに上がっている。建物はなく、人の姿もない。本当に、温泉だけがそこにあった。
すぐには近づかず、しばらく離れた場所から確かめた。人間の新しい匂いはなく、大型の動物の気配もない。上空にも音はなかった。
男はスポーツバッグを下ろし、青い防水シートをその上へ重ねた。身軽になってから湯へ近づき、前肢の先をそっと入れてみる。
熱いが、耐えられないほどではなかった。
(うわわわわ)
前肢を沈め、次に片方の後肢を入れる。人間用の浴槽なら、今の身体では到底入れなかっただろう。自然の湯だまりには、三メートルを超えた身体を沈めるだけの広さがあった。腹、胸、尾の付け根と、ゆっくり湯の中へ下ろしていく。
温かい湯が全身を包んだところで、男は動かなくなった。
(…………最高)
山越えの疲れも、六メートルの顎を避け続けた夜も、冷たい沢も、地面で眠る毎日も、湯の中へ溶けていくようだった。岩へ顎を預けると、湯気が黒い頭の周りをゆっくり流れていく。長い尾だけが、湯の中で小さく揺れた。
福島は明日でいい。八王子はまだ遠いが、今夜だけは急がない。
山形の山奥、誰もいない秘境の湯で、一頭の黒い人工恐竜が心の底から湯を楽しんでいた。よかったね。