温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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第10章 温泉恐竜

 結局、男は翌日に出発しなかった。

 

 朝の冷たい空気の中で目を覚ましたとき、最初に考えたのは福島までの経路ではなく、昨夜入った温泉のことだった。岩陰から少し顔を出せば、木々の向こうでは白い湯気がまだ静かに立ち上っている。夜中に一度入ったのだから十分だろうという理性はあったが、周囲に人間の匂いはなく、人工音も聞こえず、上空を飛ぶ機械の気配もない。

 

(……朝風呂ってあるしな)

 

 誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。

 

 男は岩陰にスポーツバッグを置き、青い防水シートを被せた。念のため周囲を一周してから戻り、湯の温度を前肢で確かめる。昨夜より朝の空気が冷えているぶん、湯へ入った瞬間の温かさが際立った。

 前肢を入れ、後肢を沈め、腹から胸までゆっくり湯へ浸ける。三メートルを超えた身体が自然の湯だまりへ収まると、夜のあいだに少し戻っていた疲労がまた緩んでいった。

 

(最高だな)

 

 昨夜と同じ感想しか出てこなかった。

 岩へ顎を預け、湯気の向こうに朝の山を見る。休日を丸一日使って温泉へ行く人の気持ちを、以前は深く考えたことなどなかったが、今なら分かる気がした。わざわざ時間を使って来るだけの価値がある。

 

 問題があるとすれば、自分の場合は電車にも車にも乗れず、青森から歩いて来ていることくらいだった。

 

◇

 

 さすがに温泉へ浸かっているだけで一日を終えるつもりはなかった。

 

 朝風呂から上がると、男は周辺を調べた。数日滞在できる場所なのかを確認しておきたかった。

 飲み水は少し離れた沢で確保できた。上流まで匂いを確かめても目立った汚染源はなく、流量も十分にある。二本のペットボトルの水を入れ替え、寝床には温泉から百メートルほど離れた岩壁の張り出しを選んだ。完全な洞窟ではないものの、雨風はある程度避けられ、防水シートを使えば十分だった。

 

 食料についても問題はなかった。鼻を使えば、小動物や鳥だけでなく、山中を移動する草食恐竜の匂いも拾える。さらに遠くにはもう少し大きな動物の気配があり、今の身体なら一度狩りに成功すれば何日かは食べられる。

 水があり、食料があり、雨を避けられる寝床もある。人間の気配はなく、監視カメラらしいものも見当たらない。そして何より、歩いて数分のところに温泉がある。

 

(数日いよう)

 

 決断は早かった。

 宮城であれだけ派手な戦いをして、ドローンにまで姿を撮られた直後である。突然西へ消えたあと数日動かなければ、追跡されていたとしても足取りはさらに分かりにくくなる。身体の疲労を抜く時間にもなり、急速に成長している身体を落ち着いて確認することもできる。

 合理的な理由はいくらでもあった。

 

(毎日温泉入れるし)

 

 最後の理由が一番大きいような気もしたが、男は考えないことにした。

 

◇

 

 山形の山中で、男は久しぶりに急ぐ必要のない時間を過ごした。

 食料確保は、青森にいたころとは比べものにならないほど楽になっている。二日目の昼には自分よりかなり小さな草食恐竜を見つけ、風下へ回って木々を利用しながら距離を詰めた。十分な位置で身体を止めれば、黒かった皮膚が十数秒かけて周囲の色調へ馴染んでいく。

 

 獲物が近づいたところで一気に加速した。草食恐竜もすぐ逃げたが、以前なら必死に追いかけていた距離が、今では数歩で消える。側面へ回って前肢で姿勢を崩し、首へ噛みつけば、狩りは短時間で終わった。

 

(……楽になったな)

 

 強くなった、というだけではなかった。

 

 身体そのものが成長しているうえ、どう動けばいいのかが少しずつ分かってきている。宮城で大型肉食恐竜と戦ったときにも感じたことだった。短い距離なら驚くほど速く、静止状態からの加速も鋭い。方向を変えるときには重い尾が自然に反対側へ動き、後肢が地面を掴んで身体を支える。

 

 試しに河原の開けた場所で何度か走ってみると、その特徴はさらにはっきりした。長い距離を全力で走り続けるのは苦しいが、短距離なら数歩でかなりの速度へ達する。木を目印に左右へ切り返してみれば、頭で尾の動きを細かく考えるより、行きたい方向だけを意識したほうが身体は滑らかに反応した。

 

(身体に任せたほうがいいのか)

 

 人間が歩くとき、右脚を何度上げるか逐一考えないのと同じなのだろう。

 その感覚が面白くなり、何度か木の間を走っているうちに、男は自分が遊んでいることに気づいた。獲物を追っているわけでも、敵から逃げているわけでもない。ただ走り、曲がり、止まり、また加速する。

 

(スポーツみたいだな)

 

 山で目覚めたころなら考えもしなかった。

 

 生き延びるためではなく、自分の身体を動かすこと自体を楽しんでいた。

 夕方になると沢で水を飲み、食事を済ませ、それから温泉へ戻る。身体を沈めれば、一日動き回った後肢から疲労が抜けていくように感じられた。三日目もほとんど同じように過ごし、四日目には、食べる、水を確保する、周囲を確認する、身体を動かす、温泉へ入るという流れが完全に日課になっていた。

 

(ここ、住めるな)

 

 一瞬だけ本気でそう思った。

 

 けれども、湯気の向こうに山々を眺めているうちに、その考えは自然に消えた。山形は悪くないし、温泉は文句なしに気に入った。それでも父親も母親も妹もここにはいない。

 

 八王子へ帰る。

 

 その目的だけは変わらなかった。

 

◇

 

 そのころ、青森では別の異変が小さな話題になり始めていた。

 

 最初は地域ニュースだった。小型の草食恐竜が住宅地近くへ入り込み、停車中の軽トラックへ何度も体当たりしたという。別の日には、普段なら人間が近づけば逃げる種類が農作業中の男性を追いかけ、柵へ繰り返し身体をぶつけたという投稿もあった。

 

 怪我人はいずれも軽傷で、映像も断片的だった。それでもネット上では、少し前に死亡した配信者を襲った小型種の群れと結びつける者が現れた。

 

『最近青森の恐竜おかしくない?』

 

『草食まで暴れてるって本当?』

 

『配信者の件もあるだろ』

 

『地震とか関係ある?』

 

『地磁気じゃね? 動物って磁場分かる種類いるらしいし』

 

『またネット探偵始まった』

 

 根拠のない説も混じっていた。

 

 ただし、地磁気という単語そのものが完全な思いつきだったわけでもない。東北北部では少し前から、地磁気観測の一部に通常とは異なる変動が記録された時期があるとして、研究者の間ではデータの確認が進められていた。地下構造や太陽活動、観測機器側の要因まで候補はいくつもあり、その時点で恐竜の行動と結びつける根拠は何もなかった。

 

 御門優子のもとにも、その資料は届いていた。

 

「先生、青森の件です」

 

 オンライン会議の画面に、複数の記録が並ぶ。小型草食種による車両への体当たり、人間への追跡、配信者を襲った小型雑食種、そして地域の地磁気観測データ。御門はしばらく黙って資料を読み、最後にグラフを拡大した。

 

「同じ時期に起きている、というだけですね」

 

「関連はなし?」

 

「それもまだ言えません。あるとも言えないし、ないとも言えません。ただ、行動異常が本当に増えているのかは調べたいです。SNSの投稿だけだと母数が分かりません。普段から年間何件くらい同じ行動が起きているのか、種、年齢、性別、飼育由来か野生繁殖か、可能なら孵化地点まで――」

 

「先生」

 

「はい?」

 

「項目増やすの、ちょっと待ってください。今メモしてます」

 

「あ、ごめんなさい」

 

 御門は素直に止まった。

 

 三秒ほどだった。

 

「あと血縁関係も分かれば欲しいです」

 

「待ってって言いましたよね?」

 

「これは重要なので」

 

 画面の向こうで担当者が額を押さえた。それでも手は止まっていなかった。

 青森で何かが起きているのか、それとも無関係な出来事が注目されたことで一つの現象に見えているだけなのか。その時点では、御門にも判断できなかった。

 

◇

 

 山形で六日目の朝を迎えたころには、男の疲労は完全に抜けていた。

 身体の状態もいい。食料は残っており、水も補給できる。宮城で残した痕跡からは十分な時間と距離を稼いだはずだった。

 

(そろそろ行くか)

 

 朝風呂へ入ってから、そう決めた。

 

 福島へ向かう。山形から南へ下り、できるだけ人の少ない山地を使う。その先は栃木で、さらに進めば関東へ入る。八王子まではまだ遠いが、青森にいたころと比べれば確実に近づいている。

 男は最後にもう一度温泉を眺めた。

 

(また入りたいな)

 

 同じ場所へ戻ってくるつもりはなかった。ただ、この旅の途中に別の温泉があったなら、少しくらい寄ってもいい。六日前なら、そんな発想自体がなかった。

 スポーツバッグを身体へ掛け、防水シートを身体へ緩く固定する。地図を確認してから、男は山を下り始めた。

 

◇

 

 その日の夕方、予定していた経路から少し外れたところで、男はまた硫黄の匂いを嗅いだ。

 

 足が止まった。

 

(……まさか)

 

 鼻を上げる。間違いない。沢の水や湿った土とは違う、ここ数日ですっかり覚えてしまった匂いだった。

 男は地図を取り出した。

 

 山形県観光マップには、この近くにも小さな温泉の印がある。今朝までいた野湯とは違い、昔は簡素な共同浴場として使われていたらしい。ただ、土砂災害で接続道路の一部が傷んだあと利用が減り、現在は山道側から徒歩で入る人が時折いる程度だと、地図の隅の説明書きには書かれていた。

 福島へ向かう道からは、それほど外れない。

 

(……一回だけ)

 

 男は地図を畳んだ。

 

 この判断が驚くほど速くなっていることには、自分でも気づいていた。

 

 日が完全に落ちるまで待ち、人間の匂いがないことを何度も確認してから近づいた。そこには小さな木造の脱衣小屋と、山肌に沿って作られた露天の湯船が残っていた。建物に明かりはなく、駐車場もない。沢の音以外に人工音は聞こえず、入口に料金箱も見当たらなかった。

 男は周囲を一周した。誰もいないことを確かめてからバッグと防水シートを木陰へ置き、湯へ近づく。

 

(山形、強いな)

 

 何に対して強いのか自分でもよく分からなかったが、温泉に関しては間違いなく高評価だった。

 

 前肢で湯を確かめると少し熱かったが、入れないほどではない。男は身体をゆっくり沈め、岩へ体重を預けた。今朝までの野湯より少し深く、尾を端へ逃がせば、三メートルを超えた身体でも意外なほど収まりがいい。

 

(こっちもいいな)

 

 完全に温泉の比較を始めていた。

 

 だから、普段ならもっと早く気づいていたはずの接近を見落とした。硫黄の強い臭気が鼻を鈍らせ、沢と湯の流れる音が山道から近づく足音を覆っていたうえ、身体もすっかり温まっている。そのあいだに、二人の旅行者が湯船から百メートルほどのところまで来ていた。

 

「まだ入れるかな」

 

「暗いし、見るだけにしようよ。道も悪いし」

 

 日中に別の温泉へ寄った帰り、地元でこの場所を聞いた二人だった。暗くなる前に着く予定が、途中で道を間違えたせいで遅れている。一人がスマートフォンのライトを点け、もう一人が湯気の立つ方向へ目を向けた。

 

「湯気、見えない?」

 

「ほんとだ」

 

 二人はそこから数十歩進み、同時に止まった。

 

 湯気の向こうに黒いものがいる。

 

 最初は岩に見えたが、よく見ればその岩が呼吸している。さらに目を凝らすと、長い尾が湯船の縁に沿って伸びていた。

 

「……恐竜?」

 

 囁くような声を拾って、男の頭が動いた。

 

 二人は凍りつき、男も動きを止めた。ようやく互いの存在を認識したまま、数秒間、どちらも次の行動を決められない。距離はまだあり、人間は二人で、少なくとも見える範囲に銃らしいものはなかった。

 

 逃げるなら今だ。

 

 そう判断したところで、一人の手にスマートフォンが握られていることに気づいた。

 

(うわ)

 

 最悪だった。

 

 男は湯から出ようとして、濡れた岩へ置いた後肢を少し滑らせた。慌てて尾で姿勢を支え、前肢を縁へ掛ける。

 

「待って、あれ……」

 

「何?」

 

「温泉入ってる」

 

「え?」

 

「恐竜が温泉入ってる」

 

 声には恐怖があったが、それ以上に困惑が滲んでいた。

 

 男は二人を見て、二人も男を見た。そのあいだにも、スマートフォンはしっかりこちらへ向けられている。

 

(撮ってるよな)

 

 撮っていた。

 

 男は刺激しないようゆっくり湯から上がった。旅行者たちも逃げずにいるが、近づいてくる様子はない。ならば余計なことはせず、荷物を回収して離れればいい。

 湯気をまとった黒い身体が露天風呂から現れ、首から胸へ湯が流れ、長い尾から水滴が落ちる。その姿だけなら、異様な野生動物の映像で終わったかもしれない。

 

 ところが黒い恐竜は木陰へ向かい、置いてあったスポーツバッグを前肢で引き寄せると、慣れた動きで身体へ掛けた。さらに青い防水シートまで回収する。

 

「……鞄?」

 

 旅行者の一人が呟いた。

 男は聞こえなかったふりをした。

 

(見るな。頼むから見るな)

 

 無理な願いだった。

 

 二人は目を離せなくなっている。男は最後に相手の様子を確かめると、そのまま森へ入り、十分に距離を取ってから速度を上げた。

 

(やってしまった)

 

 ドローンどころではない。

 

 今度は真正面から撮られた。

 

◇

 

 映像が投稿されたのは、その夜だった。

 投稿した旅行者は撮影場所を詳しく書かなかった。危険な肉食恐竜を探しに来る人間が出ることを心配し、「山形県内」とだけ記した。

 タイトルも簡単だった。

 

『山の温泉に恐竜が入っていた』

 

 最初の数時間は、珍しい動物動画として広がった。

 

『CG?』

 

『いやこれ人工恐竜だろ』

 

『デカくない?』

 

『普通に風呂入ってて草』

 

『温泉好きなの?』

 

『出るとき滑ってるのかわいい』

 

 やがて、別の誰かが過去の映像との共通点に気づいた。

 

 青森で撮影された、親子と肉食恐竜の間へ割って入った黒い個体。そして数日前には、宮城県が大型肉食恐竜への注意喚起を目的として、監視ドローンが撮影した映像の一部を公開していた。そこには六メートル級の個体と争う黒い恐竜の姿だけでなく、戦闘後にスポーツバッグと青い防水シートを回収して山へ消える場面も含まれていた。

 

『これ宮城の黒いやつじゃない?』

 

『バッグ同じじゃね?』

 

『青いシートもある』

 

『あの黒いやつ山形まで行ってるの?』

 

『青森→宮城→山形?』

 

『旅行してるじゃん』

 

『しかも温泉入ってる』

 

 動画は急速に拡散された。

 

 体色や体格、頭部の形だけなら、似た個体という可能性も残る。しかしスポーツバッグと青い防水シートまで一致すると、偶然とは考えにくい。ニュース系のアカウントが拾い、地方メディアが取り上げ、翌朝にはテレビ局も映像の使用許可を求め始めた。

 

 その過程で、誰かが何気なく書いた。

 

『こいつもう温泉恐竜でいいだろ』

 

 最初は一つのコメントだった。それが引用され、別の投稿へ移り、動画の切り抜きと一緒に広がっていく。

 

『温泉恐竜、ちゃんと風呂上がりにバッグ背負って帰るの面白すぎる』

 

『温泉恐竜って名前ついてて草』

 

『人助け恐竜→温泉恐竜』

 

『温泉恐竜、山形満喫してるじゃん』

 

『本人は旅行のつもりなのでは』

 

 呼び名は、驚くほど簡単に定着した。

 危険な未登録人工恐竜であり、正体不明の黒い捕食者であり、六メートル級を退けた個体でもある。行政側から見れば、どれも間違いではない。

 

 けれども画面の中にいる黒い恐竜は、そんな物々しい言葉とはどうにも噛み合わなかった。湯気の中で岩へ顎を載せ、明らかにくつろいでいる。人間を見つけても襲わず、慌てて立ち上がろうとして少し滑り、最後には自分で鞄を背負って青いシートまで持って帰っていく。

 

 恐ろしい怪物というには、あまりにも生活感があった。

 翌朝には、検索欄へ「黒い恐竜」と入れるより、「温泉恐竜」と入れたほうが多くの映像や記事が出るようになっていた。

 

◇

 

「先生。例の黒い個体、見つかりました」

 

 その報告を受けた御門優子は、研究室で青森の行動異常について集まった資料を読んでいた。

 

「どこですか?」

 

「山形です」

 

 御門の手が止まった。

 

「山形?」

 

「はい」

 

 送られてきた動画を開く。

 

 再生すると、山中の露天風呂が映り、その湯気の向こうに黒い人工恐竜がいた。御門は黙ったまま十秒ほど眺め、さらに映像を進めた。

 

「先生?」

 

「……温泉ですね」

 

「温泉です」

 

「入ってますね」

 

「入ってます」

 

 御門は映像を巻き戻した。

 

「これ、入浴行動として解釈していいでしょうか」

 

「そこ慎重になるんですか?」

 

「当然です。体温調節、皮膚表面の寄生生物への対処、傷の疼痛軽減、単純な温熱刺激への嗜好、いろいろ考えられます」

 

「ネットではもう温泉恐竜って呼ばれてますけど」

 

「温泉恐竜」

 

 御門は初めてその呼び名を聞いたらしく、少しだけ笑った。

 

「分かりやすいですね」

 

 そのあと黒い個体が湯から上がり、木陰へ置いたバッグを回収するところまで見て、御門の表情が変わった。

 

「これ、宮城のバッグですね」

 

「比較班も同じ見解です」

 

「防水シートも一致しますか?」

 

「色と大きさは。個体識別も外見上はかなり高い確率で一致です」

 

 御門はすぐに地図を開いた。宮城県内の最終確認地点から山形県へ視線を移し、前回空白のまま残した「移動方向」の欄を見た。

 

「西へ行ったんだ……」

 

 呟いてから、自分で首を振る。

 

「違う。少なくとも、山形で確認された。宮城から直接西へ移動したとは限らない」

 

「先生、成長しましたね」

 

「私を何だと思ってるんですか」

 

「この前、自分で立てた仮説に興奮して、私たちに止められた人です」

 

 御門は聞こえなかったことにして、もう一度映像を再生した。

 

 宮城で大型個体と戦ったあとも移動を続けており、映像を見る限り大きな負傷はない。そして今回も人間に気づいたあと攻撃せず、自分から離れている。御門にとっては、温泉そのものより、そちらのほうが重要な情報だった。

 

「撮影者には、正確な場所を公開しないようお願いしてください。周辺自治体にも連絡を。見物目的で探しに行く人が出るほうが危険です」

 

「もうSNSでは場所当てが始まってます」

 

「早いなあ……」

 

「温泉恐竜、かなり人気出てますから」

 

 御門は画面の中で湯へ浸かっている黒い個体を見て、わずかに笑った。

 

◇

 

 八王子の家でも、その動画が再生された。

 

「お母さん、ちょっと来て」

 

 娘がスマートフォンを見ながら母親を呼んだ。

 

「何?」

 

「これ」

 

 差し出された画面では、黒い恐竜が温泉へ入っていた。

 

 母親は最初、何を見せられているのか分からなかった。娘が普段から恐竜動画を見るわけでもなく、まして家族はいま、行方不明になった息子の帰りを待っている。

 

「今ネットで話題なんだって。温泉恐竜」

 

「温泉恐竜?」

 

「青森で親子助けたっていう恐竜と同じらしいよ。宮城でも見つかって、今度は山形だって」

 

 娘は画面をスクロールした。

 

「鞄まで持ってる」

 

 母親は動画を見た。

 

 湯へ浸かっている黒い恐竜が人に気づいて立ち上がり、木陰へ行って鞄を身体へ掛ける。それから青いシートまで回収し、森へ消えていった。

 

「変な恐竜ね」

 

「ね。旅行してるみたい」

 

 その言葉に、母親は少しだけ黙った。

 

 息子も旅行へ行けば、予定になかった場所へ寄ることがあった。食べ物や景色より、妙なところで時間を使い、あとになって面白かったと話すこともあった。

 もちろん、何の関係もない。

 画面にいるのは恐竜だ。

 

 母親はスマートフォンを娘へ返した。

 

「お兄ちゃんに見せたら、絶対笑うよ」

 

「こういうの好きそうね」

 

「でしょ? 帰ってきたら見せるから、保存しとこ」

 

「そうしなさい」

 

 娘は動画を保存した。

 

 画面のタイトルには、大きく書かれていた。

 

『山形で撮影 話題の“温泉恐竜”か』

 

 家族はまだ知らない。

 

 その名前で呼ばれ始めた恐竜が、自分たちのところへ帰ろうとしていることを。

 

◇

 

 その夜、男は人里から十分に離れた山中で休んでいた。

 

 撮影されたことは分かっている。そのため予定より長く移動し、匂いと音を何度も確かめてから寝床を決めた。今ごろあの動画がどう扱われているのかは、想像したくなかった。

 

(またやったな)

 

 親子を助けたときも、町へ近づいたときも、災害警戒区域で戦ったときも、慎重に行動しているつもりだった。それなのに妙なところで人間に見つかり、今回はとうとう温泉から出て鞄を背負うところまで撮影されている。

 

(もう温泉はやめよう)

 

 かなり真剣に考えた。

 

 十秒ほどだった。

 

(……しばらくは)

 

 条件を少し緩め、男はバッグを枕代わりにして身体を伏せた。明日からは福島へ向かう。そこから栃木へ入り、その先はいよいよ関東だった。八王子はまだ遠いが、青森の山中で「あおもり」と「はちおうじ」だけを頼りに歩き始めたころより、確実に近づいている。

 

 山形の夜は静かだった。

 

 青森から名もなく歩いてきた黒い恐竜に、人間たちは初めて名前を与えた。

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