山形の温泉で撮影された動画が投稿された翌朝、撮影者のスマートフォンには、見たこともない数の通知が届いていた。
最初はSNSの反応だけだった。コメント、共有、フォロー、知らない人間からのメッセージ。夜のうちに動画が広がったことは分かっていたものの、朝になれば多少は落ち着くだろうと思っていた。ところが実際には逆で、時間が経つほど再生数は増え、昼前になると性質の違う連絡まで混ざり始めた。
ウェブメディア、新聞社、テレビ局。その多くが、山形県内で撮影された黒い恐竜について話を聞きたいというものだった。
撮影者としては、山奥の温泉へ行ったら巨大な肉食恐竜が湯に浸かっていたという、あまりにも現実離れした体験を誰かに見せたかっただけである。全国へ向けて何かを発信するつもりなどなかったし、ましてテレビへ出るなど考えてもいなかった。
しかし、動画はもう自分の手を離れていた。
夕方、撮影者はそのうち一社からの取材を受けることになった。
◇
「撮影された正確な場所については、こちらでも放送しない方針です」
取材前、テレビ局のスタッフは最初にそう説明した。危険な動物である可能性が高く、映像を見た人間が探しに行けば事故につながる。背景の山容や登山道など、場所の特定につながりそうな部分にも必要に応じて処理を施すという。
「あ、それはお願いします。本当に行かないほうがいいです」
撮影者はすぐに答えた。
「自分も今になって考えると、撮影してる場合じゃなかったと思ってるので」
そこだけは強く言っておきたかった。
ネットではすでに「温泉恐竜かわいい」という扱いになっている。岩へ顎を載せ、湯気の中でくつろいでいる姿だけを見れば、そう感じるのも分からなくはない。
けれども現地で見た印象は違った。
大きかった。
湯から上がった姿は自分よりはるかに大きく、長い尾まで含めれば、画面越しに見るのとはまるで印象が違った。しかも、あの身体で自分の荷物を回収し、そのまま森へ入っていったのである。もしあれがこちらへ向かってきていたら、逃げ切れたとは思えない。
「かわいいっていうのは、画面越しだから言えるんだと思います」
撮影者はカメラへ向かってそう言った。
「現地にいたら、まず怖いですよ。あれはちゃんと、怖い生き物でした」
◇
その日の夜、映像は全国向けの情報番組で取り上げられた。
番組が最初に流したのは、すでにネット上で何百万回も再生されている短い動画だった。山の中に白い湯気が立ち、その奥に岩で囲まれた露天風呂がある。そして湯船の中央には、黒い肉食恐竜が頭だけを水面から出し、身体の大部分を湯へ沈めていた。
画面下には、大きな文字が表示されている。
『山形の山中に“温泉恐竜”? 謎の黒い個体を撮影』
「これ、本当に入っていますね」
「水を飲んでいる感じじゃないですよね」
「思ったより大きくないですか?」
スタジオから次々に声が上がるなか、司会者は映像を一度止めた。
「ネットではすでに“温泉恐竜”という名前で呼ばれているそうですが、まず大前提として、この個体は大型の肉食恐竜です。番組では撮影場所につながる情報を伏せています。映像を見て探しに行くことは絶対にやめてください」
そこで映像が切り替わり、撮影者へのインタビューが始まった。
「最初は岩だと思ったんです」
撮影者は答えた。
「湯気もありましたし、黒いものが温泉の中にあるな、くらいで。でも動いたんですよ。それで頭の形が見えて、恐竜だって分かりました」
「そのとき、すぐ逃げようとは思わなかった?」
「思ったはずなんですけど……理解が追いつかなかったんですよ。山奥の温泉へ行ったら恐竜がいるって、それだけでも意味が分からないじゃないですか。しかも襲ってくるとか、獲物を食べてるとかじゃなくて、普通に温泉に入ってるんですよ」
映像が再び流れる。
黒い恐竜は暴れていない。水を飲んでいる様子もなく、岩へ身体を預け、湯気の中でじっとしている。
「やっぱり、温泉に入っているように見えました?」
記者が尋ねると、撮影者は迷わず頷いた。
「見えました。たまたま温泉の中に入ったというより、明らかに落ち着いていたというか……」
そこで少し言葉を探し、苦笑した。
「気持ちよさそうだったんですよ」
◇
番組には、御門優子もオンラインで出演していた。
司会者から見解を求められると、御門はまず「映像だけから感情を断定することはできません」と前置きした。
「野生動物が地熱による温水を利用すること自体は、それほど不自然ではありません。体温調節、皮膚表面の状態、疲労や外傷への反応、単純な温熱刺激への嗜好など、いくつかの可能性が考えられます。ただ、この映像だけを見る限り、偶然水へ入った個体には見えません。少なくとも、この個体が自発的に温水の中へ入り、そこで一定時間休息していた可能性は高いと思います」
「では、本当に温泉を楽しんでいた可能性もある?」
「“楽しんでいる”というのは、人間側の言葉です。ただし、快適だからそこにいた、という可能性まで否定する理由もありません」
「つまり、本人に聞かないと分からない?」
出演者の一人が冗談めかして言う。
御門は真面目に考えるような顔をしたあと、肩まで伸びた黒髪を耳へ掛け直した。
「本人に聞けるなら、それが一番確実ですね」
司会者が笑った。
「それができれば、この番組としてもぜひお願いしたいところですが……残念ながら今のところ取材交渉の方法がありません」
スタジオに軽い笑いが広がり、そのまま次の映像へ切り替わった。
「そして今回、専門家が注目しているのは温泉だけではありません。こちらをご覧ください」
画面が二つに分かれた。
左には山形の温泉。右には、青森で親子と肉食恐竜の間へ割って入った黒い個体が映っている。青森の個体は現在より明らかに小さい。それでも黒い体色、頭部の輪郭、長く発達した前肢、尾の形には共通点があった。
「さらに数日前、宮城県が大型肉食恐竜への注意喚起を目的として公開した監視映像にも、似た黒い個体が記録されています」
映像が切り替わった。
資材置き場で六メートル級の肉食恐竜と対峙する黒い個体。その戦闘の一部と、相手が去ったあとにスポーツバッグと青い防水シートを回収する姿が映る。
そして山形の映像にも、同じようなスポーツバッグと青いシートがある。
「御門さん。これは同じ個体なのでしょうか」
「現時点で百パーセントとは言えません。ただ、私は同一個体である可能性がかなり高いと考えています」
それまで慎重な言葉を選び続けていた御門が、そこでは一歩踏み込んだ。
「体色や形態だけなら、似た個体が存在する可能性はあります。しかし携行している物まで一致しています。青森で確認された個体との比較には成長による形態変化を考慮する必要がありますが、少なくとも宮城と山形については、別個体と考えるほうが不自然です」
「携行、ですか?」
「はい。私はそこが重要だと思っています。バッグが身体へ偶然引っ掛かったまま移動しているわけではありません。宮城では戦闘後に置いてあった場所へ戻り、自分で回収している。今回の映像でも、撮影者が到着した時点で荷物は湯から離れた場所に置かれていたそうです」
司会者が映像を見直した。
「つまり……荷物を置いて、温泉に入った?」
「確認できる事実だけを並べれば、そうなります」
「急に旅行者みたいな話になってきましたね」
御門はその表現には乗らず、画面の黒い個体を見ながら答えた。
「だから面白いんです。こちらが予想していた行動と違うなら、予想のほうを疑わないといけませんから」
司会者は頷き、視聴者への注意喚起をもう一度挟んで次の話題へ進んだ。
◇
行政にとっては、面白いで済む問題ではなかった。
番組の放送中から、山形県や周辺自治体には問い合わせが入り始めていた。温泉恐竜はどこにいるのか、危険なのか、捕獲するのか、見に行ってもいいのか。中には「餌を持っていけば懐くのではないか」という問い合わせまであり、担当者を頭痛に追い込んだ。
翌朝には注意喚起が出された。
黒い大型人工恐竜を発見しても近づかない。餌を与えない。撮影目的で追跡しない。位置情報をSNSへ投稿しない。自治体や警察の指示に従う。
一方で、ただちに駆除対象とする判断も出なかった。
青森の親子との接触では人間への攻撃が確認されていない。宮城でも大型肉食恐竜との戦闘後、人間の生活圏へ向かわず離脱している。山形では旅行者二人に発見されたあとも追跡していない。
だが、危険性がないわけでもなかった。
三メートルを超える肉食恐竜であり、六メートル級の個体を退けるだけの戦闘能力を持つ。もし人間へ敵意を向ければ、一般人が対処できる相手ではない。
会議では当然、捕獲を優先すべきだという意見も出た。
「今は人間を襲っていない。それだけでしょう」
対策部門の一人が言った。
「体格はさらに大きくなる可能性があります。これだけ注目されれば、接触しようとする一般人も必ず出る。事故が起きてからでは遅い」
オンラインで参加していた御門は、その意見を否定しなかった。
「その懸念は正しいと思います」
「では捕獲に賛成ですか?」
「いいえ。捕獲しないほうがいいとも言っていません」
御門は資料を画面へ表示した。
「いま必要なのは、捕獲するか放置するかを感情で選ぶことではありません。この個体が何を避け、何に近づき、どの条件で攻撃行動を取るのかを知ることです。現状では、人間との遭遇時に自分から距離を取った記録が複数あります。そこへ大人数と装備を投入して包囲すれば、その行動傾向そのものをこちらから壊す可能性があります」
「しかし、危険個体を自由に移動させ続けるわけにもいかない」
「その通りです」
御門は頷いた。
「だから観察します。準備もします。捕獲が必要になったとき、安全に実行できる方法も考える。ただ――」
そこで一度、言葉を切った。
「まだこちらを襲っていない相手に、こちらから『人間は敵だ』と教える必要はありません」
会議室が静かになった。
誰かがすぐに賛成したわけではない。
反論が消えたわけでもなかった。
◇
八王子の家では、父親が帰宅したところだった。
居間へ入ると、妻と娘がテレビを見ている。普段なら夕食の支度をしている時間だったが、二人とも画面へ意識を向けたままだった。
「何見てるんだ?」
「温泉恐竜」
娘が答えた。
「……何だそれ」
「昨日見せた黒い恐竜。全国ニュースになった」
父親が上着を脱ぎながら画面を見る。
ちょうど宮城の映像が流れていた。大型肉食恐竜と戦う黒い個体が、資材置き場の狭い空間を使って相手を退ける。その後、別の映像へ切り替わり、今度は同じような黒い恐竜が温泉へ浸かっていた。
落差が激しかった。
「同じやつなのか?」
「たぶんって」
「すごいよね。こんなのと戦えるのに温泉入るんだよ」
娘は妙に楽しそうだった。
父親は返事をせず、画面を見続けた。
温泉から上がった黒い恐竜が、木陰へ向かう。スポーツバッグを拾い、身体へ掛ける。
そこで父親の眉が少し動いた。
「これ、自分で持ってるのか」
「そうみたい。宮城でも拾ってたって」
「変なやつだな」
父親はそれだけ言った。
妻が横から小さく笑う。
「あなたと同じこと言ってる」
「何が」
「私も昨日、変な恐竜ねって言ったの」
娘が笑った。
「お兄ちゃんも絶対そう言うよ。『何やってんだこいつ』って」
「言いそうだな」
父親も少し笑った。
息子が行方不明になってから、家族三人でこんなふうに笑う時間は減っていた。食卓には一人分の空席があり、連絡のつかないスマートフォンがあり、警察から電話が来れば全員が一瞬だけ身構える。それでも息子の話をするときだけは、いつか帰ってきたあとのことが自然に会話へ混ざった。
「帰ってきたら見せるんだって」
妻が言う。
「ああ」
父親は迷わず答えた。
「そのころには、もっと有名になってるかもしれんな」
テレビの中では、黒い恐竜が山へ消えていくところだった。
父親は最後までその映像を見ていた。
◇
温泉恐竜という名前は、その日のうちに全国へ広がった。
ネットでは相変わらず冗談も多かった。頭に手拭いを載せた画像、湯呑みを持たせた加工、温泉旅館の広告風の合成写真。中には浴衣まで着せられたものがあり、元の映像からずいぶん遠いところまで行っている。
しかし、ふざけた投稿ばかりではなかった。
『見に行くなよ。本当に危ないから』
『撮影者が場所隠してるのは正解』
『親子助けた個体と同じなら、人間を襲わないように避けてる?』
『バッグ持って移動してるの意味分からん』
『誰かが飼ってた個体じゃないの?』
『飼育個体なら所有者どこだよ』
『温泉恐竜、何をしようとしてるんだろう』
最後の問いに、答えられる人間はいなかった。
青森から宮城、そして山形。地図上に確認地点を置けば、確かに移動している。けれども、どこへ向かっているのかは分からない。温泉が目的なのか、縄張りを探しているのか、人間の生活圏を避けながら移動しているだけなのか、あるいはまったく別の理由があるのか。
御門が「移動方向」の欄を空白にしていたのと同じように、ネット上の何万人もが黒い恐竜の行き先を推測し、それぞれ違う答えを書き込んでいた。
その中に、一件だけ、ほとんど反応されない投稿があった。
『これ、どこかへ行こうとしてるんじゃなくて、どこかへ帰ろうとしてるように見える』
根拠は何もなかった。投稿した本人も、ただ何となくそう感じただけだった。
数分後には大量の新しい投稿に押し流され、誰の目にも留まらなくなった。
◇
そのころ、温泉恐竜と呼ばれ始めた本人は、山形県内を南へ進んでいた。
夜の山林を歩き、沢を渡り、林道が現れれば人間の匂いを確かめてから横切る。身体の横ではスポーツバッグが揺れ、その中には二枚の地図とペットボトル、硬貨、予備の古いバッグが入っている。青い防水シートは邪魔にならないよう身体へ緩く固定していた。
山形で十分に休んだおかげで身体は軽かった。後肢にも疲労はなく、平坦な場所では意識して速度を抑えなければ、自然と歩調が速くなる。
(順調だな)
宮城では派手にやりすぎた。その反省から西へ進路を変え、山奥へ入り、人間との接触を避けながら時間を置いた。二度目の温泉で撮影されてしまったことだけは失敗だったが、撮影者を追ってはいないし、すぐにその場所から離れている。
しばらく静かにしていれば、騒ぎも収まるだろう。
男はそう考えていた。
少し開けた斜面へ出たところで足を止める。木々の隙間から、遠くにいくつもの光が見えた。町なのか道路なのか、ここからでは分からない。そのさらに向こう、暗い山並みの先に福島がある。
そして、その先には栃木がある。
関東がある。
八王子がある。
(待ってろよ)
誰に聞かせるでもなく、心の中で言った。
(ちゃんと帰るから)
八王子まで安全にたどり着ける保証はない。人間の姿へ戻れる保証もなければ、家族が今の自分を見て何を思うのかも分からない。それどころか、どうしてこんな身体になったのかさえ分かっていない。
それでも、向かう場所だけは迷わなかった。
男は遠くの光から視線を外し、再び南へ身体を向けた。
その夜、日本中では大勢の人間が、温泉恐竜はどこへ向かっているのかと話していた。
けれども男だけは、最初から知っていた。