青森で起きていることが、本当に青森だけの出来事なのか。
その問いを真剣に口にする者は、ほとんどいなかった。
北海道の牧草地では、全長一メートルほどの小型草食恐竜が作業員へ突進した。捕獲された個体に目立った外傷や疾病はなく、普段なら人間を見ると距離を取る種類だったため、自治体の記録には「原因不明の興奮状態」と記載された。
長野では、農地へ入り込んだ三頭の小型種が、追い払いに来た農家の男性を逆に追跡した。男性は軽トラックへ逃げ込んで怪我を免れたが、恐竜たちはその後もしばらく車体の周囲を歩き回り、ドアへ何度も頭をぶつけた。捕獲班が到着するころには落ち着いており、これも単発の異常行動として処理された。
九州では、公園周辺で半野生化していた小型草食種が散歩中の犬へ襲いかかった。飼い主がすぐにリードを引いて逃げたため犬は軽傷で済み、恐竜も近くにいた管理員によって追い払われた。
どれも大きな事件ではなかった。死亡者はおらず、重傷者もほとんどいない。大型肉食恐竜が市街地へ侵入したわけでもなければ、巨大な群れが人間を襲ったわけでもない。
今の日本では、人工恐竜による事故そのものが珍しくなかった。縄張りへ入り込んだ、繁殖期だった、人間が餌を与えていた、犬が刺激した、車両に驚いた。理由の分からない行動変化まで含めれば、毎年かなりの件数が報告される。
だから、一件ずつ見れば説明できた。
北海道の一件だけなら、個体差。
長野の一件だけなら、興奮。
九州の一件だけなら、偶発的な事故。
それぞれ別の自治体が処理し、別の研究機関が記録し、別の担当者が報告書を作った。発生地点が遠く離れていることもあって、それらを一つの現象として扱う理由は見つかっていなかった。
◇
国外でも、似たような出来事が起きていた。
カナダ西部では、森林公園に生息する小型草食種がハイカーを追い回した。ブラジルでは農園周辺に定着していた小型雑食種が作業員の長靴へ噛みつき、オーストラリアでは保護区の小型種が管理車両を執拗に追跡した。ヨーロッパや東南アジアでも数件、攻撃性の低い種類による不可解な威嚇や追跡が記録されていた。
いずれも個体は小さかった。人間よりはるかに小型の種類も多く、被害の大半は逃げる際の転倒や打撲、軽い咬傷だった。ニュースになっても地方欄で終わり、動画が投稿されても数日で別の話題に押し流される。
大型種では、同じ傾向を示す報告は確認されていなかった。
国も違えば、種も違う。飼育環境も違い、気候も異なり、発生した時期にも多少のずれがある。それらを世界規模の現象として結びつけるには、あまりにも情報が散らばりすぎていた。
地磁気についても似た状況だった。
世界各地の観測施設では以前から細かな変動が記録されており、その一部については太陽活動や地下構造だけでは説明しにくいとしてデータの再検証が進められていた。日本でも複数の観測地点に変化があり、特に東北北部では比較的大きな値が記録された時期があった。
ただし、それが恐竜の行動と関係している証拠はない。
観測された変動そのものが一つの原因によるものかどうかさえ、分かっていなかった。
世界は広く、事故は毎日起きる。
異変は、異変と呼ばれるだけの数が揃うまでは、ただの偶然として記録される。
◇
そんな小さな異常より、はるかに世界の注目を集めている恐竜がいた。
温泉恐竜だった。
きっかけは、日本のテレビ番組で使われた映像に英語字幕を付けた短い動画だった。山奥の露天風呂で、湯気に包まれながら黒い肉食恐竜が肩まで湯へ浸かっている。さらに別の映像では、湯から上がった同じ個体がスポーツバッグを回収し、青い防水シートまで持って森へ帰っていく。
映像そのものに、説明はほとんど必要なかった。
『WHY DOES IT HAVE A BAG』
(なんで鞄持ってるんだよ)
『Forget the dinosaur. WHY IS IT PACKING ITS OWN STUFF』
(恐竜なのはもういい。それより、なんで自分で荷物まとめてるんだよ)
『Japanese dinosaurs have better vacation etiquette than me』
(日本の恐竜、俺より旅行の作法ちゃんとしてる)
『This thing fought another predator and then went to a hot spring?』
(こいつ別の肉食恐竜と戦ったあと温泉行ったの?)
『Bro is literally backpacking across Japan』
(こいつマジで日本をバックパッカー旅行してるだろ)
日本語圏で生まれた「温泉恐竜」という名前も、そのままでは海外へ広がらなかった。Hot Spring Dinosaur、Onsen Dinosaur、Spa Raptor、Bathzillaと好き勝手な呼び名が作られたが、最終的には日本語の響きが気に入られたらしく、ローマ字の「ONSEN DINOSAUR」が少しずつ優勢になった。
『ONSEN DINOSAUR is the best thing Japan has produced this month』
(ONSEN DINOSAUR、今月日本が生み出したものの中で一番好き)
『Do NOT approach it. It is still a giant predator』
(絶対に近づくな。こいつは今でも巨大な肉食恐竜だぞ)
『Counterpoint: he has a backpack』
(いやいや。こいつ鞄持ってるぞ)
『THE BACKPACK DOES NOT MAKE HIM SAFE』
(鞄持ってても安全にはならねえよ)
『It makes him a tourist』
(でも旅行者にはなる)
危険性を警告する投稿と、完全に面白がっている投稿が同じ速度で増えていった。
さらに青森で親子の前へ割って入った映像や、宮城で大型肉食恐竜と戦った監視映像まで発掘されると、海外の反応も変わった。
『WAIT THAT'S THE SAME ONE?』
(待って、あれと同じやつなの?)
『The hot spring dinosaur fought THAT?』
(温泉恐竜、あんなのと戦ったの?)
『So he saves humans, fights giant predators, carries luggage and likes spas』
(つまり人間を助けて、巨大肉食恐竜と戦って、荷物を持ち歩いて、温泉が好きなのか)
『This is not an animal. This is a JRPG protagonist』
(これもう動物じゃない。JRPGの主人公だろ)
海外へ渡ると、表現は日本以上に大げさになった。
そのころには、日本の行政機関が出した「接近しないように」という注意喚起まで英訳されていた。
『Japanese authorities: Do not approach Onsen Dinosaur』
(日本当局「温泉恐竜に近づかないでください」)
『understood』
(了解)
『I would die for him』
(こいつのためなら死ねる)
理解しているのかいないのか、よく分からなかった。
◇
午後十一時十八分。
東京都内の自宅で、御門優子はベッドへ背中を預け、ノートパソコンを腹の上に載せていた。仕事用の眼鏡は机に置き、髪も適当にまとめている。昼間のオンライン会議で着ていたジャケットは椅子の背へ引っ掛けられ、代わりに着ているのは、数年前に研究室の学生からもらった恐竜の骨格が印刷された大きめのTシャツだった。
画面には海外の投稿が流れている。
「……Bathzillaは違うでしょ」
誰も聞いていないのに呟き、そのままスクロールする。
『The dinosaur is probably soaking because reptiles need external heat sources.』
(恐竜が温泉に入ってるのは、爬虫類だから外部の熱源が必要なんだろう)
御門の指が止まった。
「は?」
数秒読んだ。
もう一度読んだ。
「雑すぎる」
返信欄を開く。
『「恐竜=爬虫類=変温動物だから温泉で体温を上げている」は話を三段くらい雑に飛ばしています。人工交雑種の代謝特性も分かっていないのに断定しないでください。映像一本で生理機構まで見抜けるなら研究室いらないです。』
送信してから麦茶を飲んだ。
アカウント名は本名ではない。プロフィールにも所属は書いておらず、恐竜関係の論文やニュースへ頻繁に口を挟む、少々面倒なネット民にしか見えない。
実際、少々面倒なネット民だった。
別の投稿が目に入る。
『It carries a bag, so it must have been trained by a human.』
(鞄を持ってるんだから、人間に訓練された個体に違いない)
「なんでそうなるの」
また返信欄を開く。
『鞄を使う→人間に訓練された、の間に証拠が一個もないんですが。野生個体が学習した可能性も、過去に人間と接触していた可能性も、そもそもこの種特有の行動である可能性も消えてません。結論を急ぐな。』
送信。
十秒後、知らないアカウントから返信が来た。
『Why are you so mad lol』
(なんでそんなキレてんの笑)
御門は日本語で返した。
『雑な断定を見ると腹が立つからです』
翻訳機能を使ったらしい相手から、笑っている顔の絵文字が返ってきた。
「笑うな」
御門は真顔で呟いた。
さらに流していくと、今度は日本語の投稿が出てきた。
『温泉恐竜、人間助けてるし頭いいしもう保護して飼えばよくね?』
御門の眉間に皺が寄った。
『何をどうしたら三メートル超の未同定肉食個体を「飼えばよくね?」で済ませられるんですか。誰が飼うんですか。あなたの家ですか。』
送った。
少し考えた。
『あと保護と飼育は別の話です。』
追加した。
さらに考えた。
『というか勝手に捕まえる前提で話すな。』
三つ目も送った。
自分でも少し書きすぎた気はしたが、消すほどではない。
◇
画面をさらに流していると、温泉恐竜とは別の話題が目に入った。
『最近、小型恐竜が荒れてる動画多くない?』
投稿には、国内外で撮影された動画がいくつもぶら下がっていた。牧草地で作業員へ突進する小型草食種、軽トラックの周囲から離れようとしない三頭、公園で犬を追う個体、国外でハイカーを追い回す別種。御門は最初の一本を再生し、それが終わると次を開いた。
『気のせいでは』
『繁殖期じゃない?』
『世界中で起きてるならなんかあるだろ』
『大型種は?』
『見たことない』
『小さいやつばっかだな』
御門の指が止まった。
今度は返信しなかった。
撮影日時を確認し、場所を見る。種類が判別できるものは頭の中で分類し、不鮮明なものは無理に決めない。ネット上の動画など研究資料としては信用できず、撮影時期が正しい保証もなければ、投稿者が場所を偽っている可能性もある。刺激される前の状況が映っていないものも多く、単に人間側が先に接近しただけかもしれない。
それでも、確認する価値はあった。
何本目かの映像を見ていたところで、御門は再生を止めた。
少し戻す。
個体を見る。
次の映像を開く。
そちらも戻す。
「……若い?」
御門はノートパソコンを脇へずらし、机へ手を伸ばしてタブレットを取った。仕事用の資料を開き、青森で報告された事例と照らし合わせる。次に北海道、長野、九州の記録を開き、ネット上で見つけた国外の事例についても、出典を確認できるものだけを別欄へ移していった。
小さいから若く見えるだけの種類もある。成体サイズそのものが小さい種もいる。映像だけでは年齢を推定できない個体も多く、たまたま若い個体の動画が目立っている可能性もあった。
それでも、気になった。
御門はメモ欄へ短く入力した。
『異常行動報告――若齢個体への偏り? 要確認。公開情報だけでは判断不可』
そこで止めた。
原因については書かなかった。
画面を仕事用の資料からSNSへ戻すと、ちょうど温泉恐竜の新しい加工画像が流れてきた。黒い恐竜が露天風呂へ浸かり、頭に手拭いを載せ、片方の前肢で牛乳瓶を持たされている。背景には富士山まで合成されていた。
「前肢でその持ち方は無理でしょ」
御門は反射的に返信欄を開いた。
数文字打ってから止まった。
閉じた。
「……まあ、これはいいか」
しれっと保存だけした。スマホの待ち受けにしない程度の分別はあったが、SNSのヘッダー画像は温泉恐竜にしておいた。
翌朝、研究室の職員に見つかることになるフォルダには、すでに温泉恐竜の画像が十二枚入っていた。
その夜も、日本のどこかで小さな事故が記録され、海の向こうでも似た報告が一件ずつ積み上がっていた。個別に見れば、それぞれに別の説明をつけることができる程度の出来事だった。
だから世界は、それぞれを別々の事件として処理していた。
翌朝、御門が研究室へ持っていく資料の一番上には、新しい付箋が貼られていた。
『若齢個体から確認すること』