温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

16 / 18
第14章 出る幕ではない

 結局、男は現場へ向かった。

 戦うためではない。銃声が聞こえ始めた時点で、小型恐竜は道路から大きく離れた山中へ連れていった。倒木と岩に挟まれた窪地を見つけ、鼻先で何度か押し込むと、さすがにこれまでとは様子が違うと分かったらしい。茶褐色の小さな身体は、落ち葉の中へ伏せたまま追ってこなかった。

 

(絶対に出てくるなよ)

 

 スポーツバッグと防水シートもその場へ残し、一頭で山を下りる。何をしに行くのかは、歩きながら何度も確かめた。近くまで行き、状況を見るだけだ。ニュースでは、大型恐竜への対応資格を持つハンターが増援として五人入ると言っていた。赤い個体はすでに銃撃を受けている。人間だけで片がつくなら、自分が姿を晒す理由はどこにもない。

 

(五人も来るんだ。だったら大丈夫だろ)

 

 そうであってほしかった。山形で食べ続けた分が一気に身体へ回ったのか、今の男は四メートル近くまで育っている。それでも、昼間に見た赤い個体は明らかに大きかった。全長は六メートルを超え、身体の厚みも重さもまるで違う。しかも、あれは凶暴化しているわけではない。追い詰められ、撃たれ、逃げ道を塞がれた末に人間とぶつかっているだけだとすれば、自分が割り込んでも敵が一頭増えたと思われて終わる。

 自分の出る幕ではない。それが一番いい。

 

◇

 

 市街地へ近づくにつれて、山の匂いに別のものが混じり始めた。燃えた木材と樹脂、ガソリン、消火剤、それに恐竜と人間の血。建物が見えるより先に、街の中で何かが壊れていることだけは分かった。

 

 男は道路を避けて住宅地の外周を回り、人間の気配が近づくたびに物陰で動きを止めた。十秒ほど待てば、皮膚は背景の色へ馴染む。完全に消えるわけではないが、暗い山際でじっとしている限り、遠目にはまず見つからない。

 

(ハンターには絶対に近づかない。赤いのにも近づかない。見るだけだ)

 

 これから集まるのは、大型恐竜を殺すための装備を持った専門家たちである。銃撃と避難が続く現場で、黒いのは別の個体だと全員が冷静に見分けてくれる保証はなかった。

 市街地を見下ろせる斜面まで回り込み、低木の間から街を覗く。

 ニュースで見た光景より、ずっとひどかった。

 

 道路には乗り捨てられた車が並び、交差点では二台が衝突したまま放置されている。窓ガラスの割れた店があり、少し離れた建物からは黒煙が上がっていた。消防車は来ているのに、赤い個体が動いている区域へは隊員を入れられず、離れた場所から放水することしかできていない。その外側を警察車両と規制線が囲み、上空には何機ものドローンと報道ヘリが飛んでいた。

 その中心を、赤褐色の巨体が歩いている。

 

(……いた)

 

 昼間より状態が悪い。肩から腹にかけていくつもの銃創があり、左の後肢にも傷を負っている。かなりの血を流しているはずなのに、歩みにはまだ力があった。建物へ見境なく襲いかかるわけでもなく、周囲を警戒しながら、音と人間の少ない方向を探している。

 傷ついているから弱い、とは限らない。追い詰められた獣ほど危ないのは、どんな身体でも同じだった。

 

(やっぱり、任せよう)

 

 ちょうどそのとき、人間の側が動いた。

 

◇

 

「全員、位置を再確認。単独で追うな」

 

 現地指揮車の中で、警察の対策責任者が無線へ指示を出した。

 増援の五人は、いずれも大型危険恐竜への対応資格を持つハンターだった。最初に接触した二人が死亡した経緯はすでに共有されている。混乱の中で包囲を作れないまま近づきすぎた、というのがその理由だった。今度は違う。五人が互いの射線を補える距離を保ち、上空のドローンが位置を伝え、警察が道路を封じている。相手はすでに何発も受けている。

 勝算はあった。少なくとも、指揮車の中にいる全員がそう信じていた。

 

『一番、視認。距離九十』

 

 落ち着いた声が返ってきた。五人をまとめている年長のハンターで、県内の大型個体を十年以上相手にしてきたベテランだった。

 

「住宅方向への射線は切ってください。山側へ押し戻せれば理想です」

 

『了解。ただ、撃てる角度はかなり限られます。家の向こうに人が残っていないと言い切れない』

 

「……それでもやるしかない」

 

 この個体が異常行動を起こしているとは、誰も考えていなかった。御門優子からも、各地の事例とは違うという分析が届いている。本来なら刺激を減らし、退路を開けて山へ帰すべき相手だった。

 しかし、すでに二人が死んでいる。住宅地には、避難できていない住民が残っているかもしれない。普通の大型肉食恐竜であっても、人間の暮らす場所にいる時点で、放っておける相手ではなくなる。

 

「射撃を許可する。確実に当てろ」

 

 最初の銃声が、街に響いた。

 

◇

 

 斜面から見ていた男は、五人の動きに素直に感心していた。

 誰も一人では前へ出ない。赤い個体が動けば正面の者は追わず、別の角度にいる者が撃つ。建物の陰へ消えればドローンが追い、その位置が全員へ伝わる。山で一頭きりの狩りをしている自分とは違い、人間には銃だけでなく、通信と連携があった。

 一発目が赤い個体の肩へ入り、巨体がよろめいた。腹の底に響くような重い銃声だった。逃げた先には別のハンターが待っていて、そこからも二発が撃ち込まれる。

 

(ちゃんとしてる。これならいける)

 

 本気でそう思った。もう帰ってもいいのではないか、とさえ考えた。人間が自分たちの力で片をつけられるなら、それが一番いい。山へ戻れば、あの小さいのが待っている。

 身体を引こうとしたとき、赤い個体が建物の陰から飛び出した。

 正面で撃っていた二人には向かわなかった。建物沿いに十数メートル走ってから、急に角度を変える。

 

(そっち?)

 

 側面に回っていた一人だった。射撃位置を取るために駐車場の入口まで出ていて、赤い個体との間には乗用車が二台ある。正面から来る相手なら、十分に距離を取れる配置のはずだった。

 赤い個体は、車の間を通らなかった。

 植え込みを踏み潰し、軽自動車を肩で押しのけながら、最短距離を突っ切ってくる。一トン近い車体が、紙の箱のように横へ滑った。

 

『三番、下がれ!』

 

 ハンターは下がらずに撃った。一発が首の付け根へ入り、血が飛ぶ。二発目は肩の筋肉に呑まれた。大型恐竜を止めるための弾が、止めるはずの距離で、止めるはずの場所に当たっている。

 それでも、六メートルの身体は止まらなかった。

 

(間に合わない)

 

 男には、距離と速度を見た瞬間に分かった。ハンターが背を向けて走り出した直後、赤い巨体が追いついた。

 

◇

 

「三番! 三番、応答しろ!」

 

 指揮車の中で誰かが叫んだ。

 上空からの映像は、冷酷なほど安定していた。一人の人間が道路脇へ弾き飛ばされ、そのまま動かなくなるところまで、はっきりと映している。

 

「全員後退! 位置を維持して、追うな!」

 

 対策責任者はすぐに命じた。だが倒れた仲間が赤い個体のすぐそばにいるせいで、撃てる角度がさらに減る。相手が建物の陰へ入れば姿が消え、別の場所から現れるたびに、人間のほうが配置を変えなければならなかった。

 

『二番、見えた! 三番の位置から引き離す!』

 

「待て、単独で動くな!」

 

 銃声のほうが早かった。

 赤い個体が、撃った方向へ首を向ける。

 数秒後、二番の無線は、何かが潰れるような雑音を最後に途切れた。

 指揮車の中の誰も、まだ負けたとは思っていなかった。三人残っている。赤い個体には何発も入っていて、出血は増えている。配置を立て直せばいい。そのはずだった。

 ところが、五人で作った包囲は、一人欠けるごとに形を失っていった。三方向から押さえるはずの線に穴が開き、それを埋めようと誰かが動けば、今度は別の方向が薄くなる。

 

 赤い個体が、戦術を組み立てているわけではない。撃たれれば物陰へ逃げ、近くに脅威があればそちらへ向かい、追い詰められれば噛みつく。それだけだった。けれども六メートルを超える捕食者が市街地でそれをやれば、人間には手に負えないほど複雑になる。

 

◇

 

 御門優子は、東京でその映像を見ていた。

 

「射撃を止められませんか」

 

『現場判断では困難です。すでにハンター二名が――』

 

「分かっています。でも見てください。この個体は攻撃する相手を探して歩いているんじゃない。撃たれるたびに、撃たれた方向へ反応しているだけです」

 

 言いながら、御門にも分かっていた。今さら、ただ撃つなとは言えない。人が死に、赤い個体も傷つきすぎている。痛みと恐怖で興奮した大型捕食者を、住宅地の真ん中で安全に眠らせる方法など、すぐには用意できなかった。

 

「山側の人員を退かせてください。逃げられる方向を一つ作る。追撃は――」

 

 新しい銃声が重なった。

 映像の端で、三人目のハンターが足を取られて転ぶ。銃が手から離れ、アスファルトを滑っていった。

 赤い個体が、そちらを向いた。

 

「……駄目」

 

 御門の声は、指示になる前に、画面の中の出来事に追い越された。

 

◇

 

 斜面の男も、同じものを見ていた。

 

(逃げろ)

 

 転んだハンターは立ち上がったが、銃を拾う余裕はない。残る二人が続けざまに撃ち、少なくとも二発が赤い身体へ入った。進路が一度逸れる。巨体が、撃ってきた二人のほうへ顔を向けた。

 

(いけ。そのまま倒せ)

 

 男はいつの間にか、帰ることを忘れて斜面へ爪を立てていた。

 銃声が続く。赤い個体の腹から新しい血が流れ、左の後肢が目に見えて鈍くなる。大きな身体が一度、ぐらりと傾いた。

 今度こそ終わった。そう思った。

 赤い個体は、踏みとどまった。

 

 傷ついた脚を引きずったまま頭を上げ、撃ち続けている二人へ向かって走り出す。最初ほどの速さはない。それでも、人間が自分の足で逃げ切れる速さではなかった。

 

『四番、下がれ。俺が引く』

 

 無線に、あの落ち着いた声が流れた。

 

『一番、何を――』

 

『下がれと言った。住民がまだ残ってる。お前は生きて伝えろ』

 

 年長のハンターは、逃げなかった。道路の中央へ出て膝をつき、迫ってくる巨体へ銃を向ける。一発。二発。三発。そのたびに赤い身体から血が散り、それでも距離は縮まり続けた。

 最後の一発は、ほとんど目の前で撃たれた。

 銃声は、そこで終わった。

 

 後退したはずの四番の無線も、少ししてから応答しなくなった。

 

◇

 

 規制線で避難誘導をしていた若い警察官は、五人のハンターが着いたと聞いたとき、ようやく終わると思っていた。

 専門家が五人も来た。ドローンが上にいて、道路も封鎖されている。自分たちが前へ出る必要はなくなり、あとは住民を安全な場所へ送ればいい。そう説明されたし、自分でもそう信じた。

 

 だから無線が「三番、応答なし」と告げたときも、意味がすぐには呑み込めなかった。続いて「二番、応答なし」。それから「救護、進入不能」。遠くで銃声が何度も重なり、誰かが怒鳴る声がして、やがて、ふっつりと静かになった。

 代わりに聞こえてきたのは、住宅地の向こうから響く、低く長い恐竜の声だった。

 

「……五人、いたよな」

 

 隣の同僚が呟いた。誰も答えなかった。

 その場の全員が、同じ計算をしていた。最初の二人は、すでに死亡が確認されている。増援が五人。その五人の無線が、今は一つも鳴らない。

 警察官は腰の拳銃へ手をやり、すぐに離した。大型恐竜用の銃を持った専門家が七人がかりで止められなかった相手に、これが何の役に立つのかは、考えるまでもなかった。

 

「次は……次は、どうするんですか」

 

 誰かが指揮官へ訊いた。

 

『増援は要請済みだ』

 

 無線の声は掠れていた。

 

『到着まで、四十分』

 

 四十分。

 

 その数字を、誰も口に出して繰り返さなかった。

 

◇

 

 男も、動けずにいた。

 赤い恐竜は道路の真ん中に立っている。身体には数えきれないほどの銃創があり、血を流し、左の後肢を引きずっている。無傷で勝ったわけではない。あと少し何かが違えば倒れていたと思えるほど、削られていた。

 それでも、最後に立っているのは赤い恐竜のほうだった。

 

(七人……)

 

 専用の銃を持ち、訓練を受けた人間が七人。逃げずに撃ち続け、最後の一人は自分の命と引き換えに仲間を下がらせようとした。それだけのことをして、ようやくあそこまで傷つけた。

 それでも止まらなかった相手である。

 男は初めて、あれと自分を比べた。こちらは四メートル足らず。向こうは六メートルを超える。速さと小回りなら分があるかもしれないが、重さと頑丈さでは勝負にならない。正面から噛み合えば、体格の差をそのまま押しつけられる。自分にあるのは牙と爪と、人間として考える頭だけだった。銃を持った七人が敗れた相手に、それで勝てると思えるほど楽観的にはなれない。

 

(だから何だよ)

 

 そこまで考えて、嫌になった。戦うつもりで比べている。

 

(帰れ)

 

 赤い個体はこちらに気づいていない。人間も、山際に黒い恐竜が潜んでいるとは思っていない。今なら誰にも見られずに引き返せる。小さいのが待っている。八王子にも帰らなければならない。待っていれば、いずれもっと大きな力が来る。自分一頭が命を懸ける理由は、どこにもなかった。

 男は一歩、後ろへ下がった。

 そのときだった。

 

「お母さん!」

 

 子供の声が聞こえた。

 

◇

 

 母親は、娘を抱えて走っていた。

 

 避難の指示が出たときには、もう家の近くで火が出ていた。案内された道は途中で別の車に塞がれていて、仕方なく一本裏へ回った。それが正しかったのかどうかは、今となっては分からない。

 抱いて走るには、娘はもう重かった。少し前までは片腕で抱えられたのに、今は両腕で抱えていても息が上がる。靴が片方、どこかで脱げていた。それでも下ろすわけにはいかなかった。この子の足では、もっと逃げられない。

 

 遠くで何度も銃声がしていた。最初は、それが頼りだった。ハンターが来ている。警察もいる。あそこまで行けば助かる。

 その銃声が少しずつ減り、最後には聞こえなくなった。代わりに届いたのは、重いものが車へぶつかる音と、腹に響く低い声だった。

 

 角を曲がったところで、母親は赤い巨体を見た。

 一瞬、大きさが理解できなかった。画面の中の恐竜は、どれだけ大きくても全身が枠に収まっている。道路の向こうに立っているそれは、乗用車の屋根より高いところに頭があり、血に濡れた身体だけで道幅の半分以上を塞いでいた。

 

 その足元に、人が倒れている。同じ装備をつけた人間が、何人も。

 それが何を意味するのかは、母親にも分かった。

 

「……うそ」

 

 助けに来た人たちが、負けた。では、次は誰が来てくれるのか。

 腕の中で娘が泣き出した。

 

「お母さん、怖い」

 

「大丈夫。大丈夫だから」

 

 自分の口から出た言葉を、自分が一番信じていなかった。

 赤い恐竜が、こちらを向いた。

 母親は走った。

 

◇

 

「民間人二名、東側道路!」

 

 指揮車の画面が切り替わり、道路を走る母親と幼い娘が映った。その後ろで、赤い個体が向きを変えている。

 

「近い人員は!」

 

『間に合いません!』

 

「車両を入れろ!」

 

『個体との距離が近すぎます!』

 

 御門は別回線の映像を見ながら、椅子から立ち上がっていた。

 赤い個体は、あの母娘を探していたわけではない。狩りのために街へ下りたわけでもない。それでも、目の前を走って逃げる小さなものを、傷ついて興奮した捕食者は追う。

 

 凶暴化していない。

 だから何だ、と御門は思った。今あの二人が襲われれば、原因の分類など何の意味もない。

 

「距離は」

 

「約六十。縮まっています」

 

「射線は」

 

「母子が近すぎて撃てません!」

 

 誰も撃てない。誰も間に合わない。七人を退けた相手が、武器を持たない母親と子供を追っている。

 画面の前にいる全員が、ただ見ていることしかできなかった。

 

◇

 

 男にも、逃げ切れないことは分かった。

 母親は子供を抱えている。赤い個体は脚を引きずっているが、それでも人間よりはるかに速い。倒れた看板を避けるために母親が大きく回り込むと、それだけで差が詰まった。

 

(曲がれ。建物に入れ。何でもいいから)

 

 声にはならない。

 四十メートル。三十メートル。

 後肢に、勝手に力が入った。

 

(やめろ、とまれ、出る幕じゃない)

 

 動けば、もう戻れない。あれと戦うことになる。人間にも見つかる。警察がいて、ドローンがいて、運よく生き残ったところで、今度は自分が撃たれる側になるかもしれない。

 何より、勝てる気がしなかった。

 

 二十メートル。

 

 母親がつまずきかけ、それでも娘を落とさずに走る。赤い個体は、もう十メートルほど後ろまで来ていた。

 母親が、一度だけ振り返った。

 

 そして、走るのをやめた。

 

 娘を胸の中へ抱き込み、道路の上へしゃがみ込んで、迫ってくるものへ自分の背中を向けた。

 

◇

 

 規制線の手前で、父親は警察官と揉み合っていた。

 職場でニュースを見て、車を飛ばしてきた。自宅のある一帯が封鎖されていると知ったのは、線の手前で止められてからだった。妻の電話は、何度かけてもつながらない。避難所の名簿にも、まだ二人の名前はないと言われた。

 

「家族が中にいるんです。妻と娘が」

 

「分かっています。ですが、ここから先は入れません。避難誘導は進めていますから――」

 

 警察官の言葉は、途中から耳に入らなくなった。

 道路の先、二百メートルほど向こうを、誰かが走っている。

 子供を抱えた人影だった。見間違えるはずがない。今朝、玄関で見送ってくれたときと同じ服を着ている。腕の中で揺れている小さな頭も、毎日見ている頭だった。

 その後ろに、赤いものがいた。

 

「……あ」

 

 声にならなかった。

 次の瞬間には、規制線のテープをくぐっていた。

 

「止まって! 入るな!」

 

 腕を掴まれる。振りほどく。別の誰かが後ろから胴に組みついてきて、二人がかりで引き戻された。

 

「離せ! 離してくれ、あそこにいるんだ! うちの、うちの家族が!」

 

「行っても間に合いません! あなたまで死ぬ!」

 

「それでいい! いいから離せ!」

 

 自分のどこからそんな力が出たのか分からない。肘が誰かの顔に当たり、掴んでいた手が緩んだ。父親は前へ飛び出し、走った。

 革靴がアスファルトを叩く。息が切れる。こんなに走ったのは何年ぶりか分からない。脚がもつれる。遠い。信じられないほど遠い。

 

 妻が、振り返った。

 

 走るのをやめた。

 

 娘を抱き込んで、しゃがんだ。

 

「やめろ……」

 

 何をやめろと言っているのか、自分でも分からなかった。

 

「立て! 走れ! 頼むから、走ってくれ!」

 

 届くはずのない距離だった。

 路上に延びていた消防のホースに、足を取られた。身体が前へ投げ出され、膝と肘がアスファルトへ叩きつけられる。立ち上がろうとした右足に、体重が乗らなかった。足首がおかしな方向へ曲がっている。

 

 それでも、止まれなかった。

 

 父親は這った。両手の指を路面へ立て、身体を引きずる。爪が割れ、剥がれ、指先から血が筋を引いた。痛みは感じなかった。ただ、進まない。これだけ必死に掻いているのに、身体は呆れるほど少しずつしか前へ出ない。

 

 赤い巨体が、二人の真後ろで頭を下げた。

 妻の背中が見える。その下から、娘の小さな足が片方だけ覗いている。

 今朝、行ってきますと言った。娘は眠そうな顔で手を振った。帰ったら、自転車のカタログを一緒に見る約束をしていた。

 

「頼む……」

 

 血だらけの手を、前へ伸ばした。

 届かない。

 どうやっても、届かない。

 

「誰か……誰でもいい……! 助けてくれ……まだ、子供なんだ……」

 

◇

 

 規制線の警察官は、肘を受けた頬を押さえることも忘れて、それを見ていた。

 さっきまで自分が押さえていた父親が、道路の先で這っている。追いかけて連れ戻すべきなのは分かっていた。それなのに足が動かない。あの人を止めた自分の手が正しかったのかどうか、もう分からなかった。

 

「誰か、何かしろよ!」

 

 後ろで誰かが叫んだ。誰に向けた言葉なのかは分からない。警察にか。指揮本部にか。もう動かないハンターたちにか。上を飛んでいるだけのヘリにか。

 警察官は拳銃を抜いた。構えようとして、自分の手がひどく震えていることに気づく。あの巨体にこんなものを撃って何になる。外せば、母親か子供に当たる。それでも、何もせずに見ていることには耐えられなかった。

 

「くそっ……!」

 

 赤い恐竜が、頭を下げた。

 誰も間に合わない。

 そう思った。

 

◇

 

 男に、考える時間はなかった。

 八王子へ帰ることも、待っている家族のことも、撃たれるかもしれないことも、あの巨体との差も、全部分かっていた。分かっていたから、ここまで動かなかった。

 けれども、子供を抱き込んで背中を差し出す姿には、見覚えがあった。

 

 青森の山で、脚から血を流しながら息子を後ろへ隠そうとした父親。あのときも自分は、逃げたほうがいいと分かっていて、結局は藪から飛び出した。

 同じものを見て、今度は背を向ける。

 それだけは、できなかった。

 

(ああ、もう――知るか!)

 

 四メートル近い身体が沈み、後肢の筋肉へ一気に力が集まる。尾が後ろへ伸び、前肢が地面を離れた。

 男は走った。

 最初の数歩で速度が跳ね上がる。斜面を一気に駆け下り、勢いのままフェンスを飛び越えた。着地で沈んだ身体を尾で立て直し、住宅の間の細い通路へ飛び込む。両肩が壁を擦り、室外機を蹴り飛ばした。窓の中の誰かと目が合った気がしたが、もう隠れる必要はなかった。

 

 宮城でも山形でも、これほど速く走ったことはない。後肢が地面を蹴るたびに身体が前へ撃ち出され、景色が後ろへ千切れていく。

 それでも、遠かった。

 通路の出口が四角く光っている。その向こうで、赤い頭が下がり始めていた。

 

(間に合え)

 

◇

 

「山側から何か来ます!」

 

 指揮車の映像に、黒い影が入った。

 人間ではない。車でもない。四本の肢で斜面を下り、二本の後肢に切り替えて加速しながら、フェンスを越えてくる。

 

「別個体! 黒色、四メートル前後!」

 

「どこから出た!」

 

 同じ映像が、御門の画面にも届いた。

 黒い体色。細身の胴に、発達した後肢。長い前肢。何十回も巻き戻して見た、あの体型だった。

 

「……温泉恐竜?」

 

 黒い個体は、赤い恐竜へ向かっていた。逃げているのではない。横切ろうとしているのでもない。一歩ごとに、明らかに速度を上げている。

 

「待って、何を――」

 

 言い終えるより、早かった。

 

◇

 

 母親は、娘の頭を胸へ押しつけていた。

 もう走れなかった。脚が動かないのではない。走っても無駄だと、振り返った一瞬で分かってしまった。あれは、子供を抱えた人間が逃げ切れる速さではない。

 それなら、と考えた。

 

 自分が先なら。

 

 あれほど大きな生き物でも、一度に二人は食べられないかもしれない。自分を噛んでいるあいだは、足が止まるかもしれない。そのあいだにこの子が家と家の隙間へ走り込めば、誰かが見つけてくれるかもしれない。「かもしれない」をいくつ重ねても、ほかに差し出せるものが何もなかった。

 

「ねえ、聞いて」

 

 震える声を、どうにか普段の調子に近づける。

 

「お母さんが『走って』って言ったら、あそこの家の間に走るの。振り向いちゃだめ。誰か大人の人がいるところまで、止まらないで走るのよ」

 

「やだ」

 

 娘は首を振り、小さな手で母親の服を握りしめた。

 

「やだ。お母さんといる」

 

「お願い。いい子だから」

 

「やだあ……!」

 

 引き離そうとした指に、力が入らなかった。この手を自分からほどくことだけは、どうしてもできなかった。

 

 生まれた日のことを思い出した。

 

 長い陣痛の果てに胸へ載せられた身体は、驚くほど軽くて、温かかった。握ってきた指が、自分の小指の先ほどしかなかった。泣き声を聞いた瞬間、この子のためなら何でもできると、理屈より先に思った。

 

 初めて寝返りを打った日。つかまり立ちをして、得意そうにこちらを見た顔。熱を出した夜に、一晩じゅう抱いて歩いた廊下。最初に言葉らしいものを口にしたとき、夫と二人で何度も言わせようとして、結局泣かせてしまったこと。

 

 幼稚園の入園式では、門の前で脚にしがみついて離れなかった。それが今では、迎えに行くと「まだ遊ぶ」と怒る。靴を左右逆に履いて、直そうとすると自分でやると言い張る。にんじんだけを器用に皿の端へよける。

 

 今朝も、それで叱った。

 

 どうして、あんなことで叱ったのだろう。

 

 来月で五つになる。誕生日には、ずっと欲しがっていた自転車を買う約束をしていた。補助輪を外すのはいつになるだろうと、夫と笑って話した。ランドセルは何色を選ぶだろう。どんな友達ができて、どんなことで泣いて、どんな大人になるのだろう。

 

 その全部を、見られると思っていた。

 

 さっき抱き上げたとき、重くなったと思った。この重さの分だけ、この子は今日まで生きてきた。まだ、たったこれだけしか生きていない。

 

 お願いします、と母親は祈った。誰に祈っているのかも分からなかった。

 

 私はいい。私はどうなってもいいから。

 

 この子だけは、どうか。

 

 道路を叩く重い足音が、すぐ後ろまで来ていた。地面の揺れが膝へ直接伝わってくる。生臭く、熱い息の匂いがした。

 母親は娘を自分の身体の下へ押し込み、背中を丸めて覆いかぶさった。絶望が痛みが死が、少しでも自分に先に届くように。少しでも、この子に届くのが遅くなるように。

 

「大丈夫」

 

 最後まで、笑って同じ嘘をついた。

 

「お母さんがいるから」

 

◇

 

 通路を抜けた瞬間、すべてが見えた。

 道路の手前に、這ったまま血だらけの手を伸ばしている人間がいる。その先に、子供へ覆いかぶさった母親の背中。そして、その真上に赤い巨体があった。

 頭が下がっている。顎が開いていく。濡れた歯の列が、夕暮れの光を鈍く返した。

 

 鼻先から母親の背中まで、もう二メートルもない。こちらからは十五メートル。このまま走れば、三歩足りない。

 男は、その三歩を捨てた。

 後肢が沈み、爪がアスファルトへ食い込む。溜めた力を一度に解き放つと、四メートル近い身体が低く、矢のように宙を飛んだ。

 

 狙うのは頭ではない。あの重さは、正面からでは止められない。首の付け根だ。横から打てば、顎の向きだけは逸らせる。

 赤い顎が、閉じ始めた。

 母親の髪が、獣の吐く息で揺れるのが見えた。

 

(届け)

 

 間一髪。

 

 届いた。

 

 肩から首の付け根へ突っ込んだ瞬間、骨の芯まで響く衝撃が全身を貫いた。同時に前肢の爪を赤い首へ突き立て、飛んできた勢いのすべてを横へ流す。巨大な頭が、母親の背中の上を、紙一枚ぶんの隙間で薙いでいった。

 

 噛み合わされた歯が、何もない空気を砕く。

 その音を、男は耳のすぐ横で聞いた。

 赤い巨体が傾く。傷ついた左の後肢が体重を支えきれず、六メートルの身体が肩から倒れ込み、アスファルトを削りながら滑っていった。

 

 男も地面へ叩きつけられ、転がった。視界が回る。それでも前肢で路面を掴み、爪で勢いを殺して、身体を起こす。

 

 止まった場所は、母親と赤い恐竜の、ちょうど真ん中だった。

 

 後ろで、小さな泣き声がする。

 

 生きている。

 

 男は振り返らなかった。尾を低く伸ばし、四肢を踏ん張り、起き上がろうとしている赤い巨体へ牙を向けた。

 

◇

 

 背後で、凄まじい音がした。

 

 車同士が正面からぶつかったような、重く硬い衝突音だった。来るはずの衝撃は来なかった。代わりに地面が震え、何か巨大なものがアスファルトの上を滑っていく音が続いた。

 母親は、娘を抱いたまま顔を上げた。

 

 赤い恐竜が、自分たちから離れたところへ弾き飛ばされていた。

 そして目の前に、別の恐竜が立っていた。

 

 黒い。

 

 赤い個体より明らかに小さい。それでも、頭から尾の先まで四メートル近くある。肩で荒く息をつき、長い尾を低く伸ばして、赤い恐竜だけを見ている。

 母親は、その姿を知っていた。

 温泉に浸かっていた恐竜。鞄を背負って山を歩いていた、あの黒い恐竜。

 

「……温泉恐竜」

 

 どうしてそんな場違いな名前が口から出たのか、自分でも分からなかった。

 腕の中で、娘が顔を上げる。

 

「黒い子……?」

 

 黒い恐竜は、こちらを見なかった。牙を向けることもなかった。母親と娘に背中を向けたまま、起き上がろうとしている赤い巨体との間に、ただ立っていた。

 

◇

 

 規制線の警察官は、拳銃を構えたまま固まっていた。

 黒い恐竜のことは知っている。知らない者のほうが珍しい。山形の温泉に入っていた奇妙な個体で、人を襲った記録はないが、それは安全という意味ではないと、何度も繰り返されていた。

 その黒い恐竜が、七人を倒した相手へ、自分からぶつかっていった。

 

「う、撃ちますか」

 

 隣の同僚が訊いた。

 黒い個体は、人間のほうを向いていない。赤い個体だけを見ている。その後ろには、母親と娘がいる。

 

「待て」

 

 ようやく出た声は、それだけだった。

 

「黒いほうは、まだ撃つな」

 

 道路に這いつくばったままの父親が、血だらけの手を前へ伸ばした格好で、顔だけを上げていた。その目に映っているのも、妻と娘の前に立つ黒い背中だった。

 少し離れた建物の二階では、逃げ遅れた住民が窓からスマートフォンを向けていた。状況を知らせるために始めた配信は、五人のハンターが倒れていくところまで遠目に映してしまい、コメント欄は「逃げろ」の文字で埋まっていた。

 そこへ、黒い影が飛び込んだ。

 

『何?』

 

『黒いの来た』

 

『温泉恐竜じゃね?』

 

『嘘だろ』

 

『赤に体当たりした』

 

 撮っている本人が、確かめるように呟いた。

 

「……黒いほう、あの親子の前に立ってないか?」

 

◇

 

 男の肩には、ぶつかった衝撃がまだ残っていた。

 

(重っ……!)

 

 四メートル近い身体が、全力で走った速度のまま首へ突っ込んだ。それでも赤い個体は数メートル弾かれただけで、もう前肢をついて起き上がろうとしている。男のほうもアスファルトを滑り、肩と肋のあたりが軋んでいた。

 全身に弾を受けている。七人と戦っている。脚も傷めている。

 それでも立つのか。

 赤い恐竜が頭を上げ、黄色い眼が男を捉えた。母娘へ向いていた注意が、完全にこちらへ移る。

 

(それでいい)

 

 これで半分は済んだ。あとは、後ろの二人が逃げてくれればいい。

 相手は自分より二メートル以上長く、重さの差はそれ以上ある。組み合えば負ける。噛まれれば終わる。正面から受けても終わる。逃げるなら、今ならまだ逃げられるかもしれない。

 けれども、後ろに二人いる。

 振り返る余裕はなかった。言葉もかけられない。だから、ここに立つしかなかった。

 赤い恐竜が身体を起こし、低く唸った。七人の人間を黙らせた声だった。

 

 男は、退かなかった。

 

 尾を伸ばし、後肢へ力を溜め、牙を剥く。喉の奥から、これまで出したことのない声が出た。目覚めてからずっと、人の言葉にならない鳴き声しか出せなかった喉が、初めて思ったとおりの意味を持つ音を出していた。

 

 ここから先へは、行かせない。

 

 上空ではドローンと報道ヘリが旋回し、窓からは何台ものスマートフォンが向けられ、東京では御門優子が同じ映像を見つめている。黒い恐竜がなぜそこへ現れたのか、説明できる者は一人もいなかった。

 

 ただ、誰の目にも分かることが一つだけあった。

 赤い恐竜と母娘の間に、黒い恐竜が立っている。

 赤い個体が、一歩踏み出した。

 男も、それに合わせて位置をずらした。

 母娘へ続く直線を、もう一度、自分の身体で塞いだ。絶望も痛みも死も、何物をも通さないと煮えたぎる決意とともに。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。