温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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第15章 ヒーローなんて柄じゃない

 赤い恐竜と向き合ったまま、男は自分に呆れていた。

 

(何やってんだ、俺)

 

 ヒーローなんて柄ではない。コーラが飲みたくて小銭を拾い、温泉を見つければ寄り道をして、撮られては逃げてきただけの、帰り道の途中にいる恐竜である。人間だったころだって、誰かのために身体を張った覚えなどなかった。

 

 それなのに今、七人の専門家を倒した相手の前に、牙と爪だけで立っている。

 勝てる理由を探してみたが、一つも見つからなかった。向こうは六メートルを超え、こちらは四メートルに届かない。噛む力も、重さも、頑丈さも、すべて負けている。

 それでも、あの背中を見て通り過ぎることだけはできなかった。それだけの話だった。

 

(ここで死んだら、家には帰れないな)

 

 母親にも、父親にも、妹にも会えない。山の窪地で待っている小さいのも、迎えに行けない。何も言えないまま、何も伝えられないまま終わる。

 

(……さよならだけが人生じゃ、つまらないだろ)

 

 まだ、ただいまを言っていない。

 だから死なない。勝てなくてもいい。後ろの二人が逃げるまでこいつを引きつけて、それから逃げる。

 強がりだということは、自分が一番よく分かっていた。

 赤い恐竜が吠えた。

 六メートルの身体が、真正面から突っ込んでくる。

 

 男は左へ跳んだ。相手から見て左、傷ついた後肢の側である。自分より大きな相手と二度やり合って覚えたことは、一つだけだった。正面に立たない。相手が一番向きを変えにくい側へ、常に回り続ける。

 顎が空を噛み、巨体が行き過ぎる。すれ違いざまに前肢の爪で脇腹を掻いたが、分厚い皮膚の表面を裂いただけだった。

 

(硬っ)

 

 それでいい。効かなくても、怒らせればいい。

 男は母娘とは反対の方向へ走り、交差点の真ん中で振り返って牙を見せた。こっちだ。お前の相手は俺だ。

 赤い恐竜が向きを変える。左の後肢を引きずり、一拍遅れて身体が回る。

 その一拍を、男は覚えた。

 

◇

 

「今だ、行くぞ!」

 

 若い警察官は、自分の口から出た声に驚いていた。

 黒い恐竜が、赤い個体を交差点のほうへ引き離している。母親と娘がうずくまっている場所から、三十メートルは開いた。今なら届く。

 

「待て、指示が――」

 

「待ってたら、また間に合わなくなる!」

 

 同僚の制止を振り切って走り出すと、後ろから二人がついてきた。途中で、這ったままの父親を一人が担ぎ上げる。警察官は母親のところまで走り、肩を掴んだ。

 

「立てますか! 走ります、こっちへ!」

 

 母親は娘を抱いたまま、交差点のほうを見ていた。

 

「あの子が……あの黒い子が」

 

「分かってます。だから今のうちに!」

 

 娘ごと抱えるようにして立たせる。走りながら一度だけ振り返ると、黒い恐竜がこちらを見ていた。

 目が合った、と思った。

 すぐに黒い頭は赤い巨体のほうへ戻り、わざと目立つように尾を振って、交差点のさらに奥へ下がっていく。

 

 こちらから、引き離している。

 気のせいだ、と警察官は思おうとした。野生の恐竜が、人間の救助に合わせて動くはずがない。

 規制線の内側へ母娘を押し込んだとき、腕の中の子供が、小さな声で言った。

 

「黒い子、がんばって」

 

◇

 後ろの二人が運ばれていくのを、男は視界の端で確かめた。

 

(よし)

 

 これで目的は果たした。あとは逃げるだけである。この脚なら、傷ついた相手を振り切るのは難しくない。

 そう考えた矢先に、気づいた。

 自分が逃げれば、こいつはまた人間のほうへ向かう。規制線の向こうには警察官が何十人もいて、その後ろには避難しきれていない住民がいる。頼みのハンターは、もういない。

 

(……最悪だ)

 

 逃げられなくなっていた。

 考えているあいだに、赤い巨体が距離を詰めてくる。左へ回る。相手が追う。もう一度左へ。乗り捨てられたワゴン車を挟み、車体越しに爪で顔を狙った。浅い。顎が車の屋根を噛み、金属が紙のように潰れる。

 

 あれに噛まれたら終わる。

 

 男は車の陰から飛び出し、左の後肢の付け根へ牙を立てた。銃創のすぐ横だった。血の味がして、赤い個体が初めて苦痛の声を上げる。

 効いた、と思った瞬間、視界の外から尾が来た。

 丸太で殴られたような衝撃だった。四メートル近い身体が宙に浮き、店先のガラスを突き破って床を転がる。息ができない。肋のどこかが、嫌な音を立てた。

 

(っ、ぐ……)

 

 立て。立たないと死ぬ。

 

 割れたガラスの上で四肢を踏ん張ったとき、店の入口いっぱいに赤い頭が突っ込んできた。

 

◇

 

「黒い個体は、絶対に撃たないでください!」

 

 御門の声が、指揮車のスピーカーから響いた。

 

「見て分かるでしょう。赤い個体の注意を、あの個体が全部引き受けています。今あれを撃てば、赤が自由になる」

 

「分かっています。ですが、こちらには大型用の火器がもう――」

 

「撃たなくていいんです。あの赤い個体は、最初から音と動きに反応していました。クラクション、急発進した車、銃声。異常行動個体じゃないからこそ、刺激で向きを変えられます」

 

 対策責任者が顔を上げた。

 

「音で、引けると?」

 

「引けます。ただし、引いた先に人がいてはいけない。サイレンを鳴らせる車両を、無人の方向へ。それから消防の放水を。顔に水を当てれば、少なくとも数秒は視界を奪えます」

 

 画面の中で、黒い個体が店の中へ吹き飛ばされた。赤い頭が、それを追って入口へ突っ込む。

 

「早く!」

 

 御門は、自分が何を守ろうとしているのか分からなくなっていた。研究対象か。住民か。それとも、七人が倒れた場所へ飛び込んでいった、あの理解できない黒い恐竜か。

 考えるのは後でいい。

 

「あの個体を、死なせないでください」

 

◇

 

 店の中に、逃げ場はなかった。

 

 入口を塞いだ赤い頭が、棚をなぎ倒しながら奥へ伸びてくる。男は壁際まで下がり、牙の届く寸前で横へ転がった。顎が壁を噛み、石膏の粉が降る。肩口を歯の先が掠め、熱い痛みが走った。

 次は避けられない。

 

 そう思ったとき、外で凄まじい音が鳴った。

 サイレンだった。

 

 一台ではない。道路の反対側で、何台ものパトカーが一斉に鳴らしている。赤い頭が止まり、店の外へ引き抜かれた。音のするほうへ向いたその横顔を、太い水の柱が叩く。消防車の放水だった。巨体がのけぞり、目を閉じて頭を振る。

 

(……援護?)

 

 男は一瞬、意味が分からなかった。

 人間が、自分を助けている。

 撃たれると思っていた。見つかれば駆除されると、ずっと思っていた。その人間たちが、サイレンと水で、こいつの気を引いてくれている。

 

(……ありがたい)

 

 店の裏口を体当たりで破り、外へ転がり出る。肩から血が流れ、息をするたびに肋が軋んだ。それでも、脚は動く。

 一頭きりではなかった。それだけで、さっきまで一つもなかった勝ち目が、ほんの少しだけ見えた気がした。

 

◇

 

 規制線の内側で、母親は娘を抱いたまま、その戦いを見ていた。

 救護の隊員が毛布を掛けてくれたことにも、夫の足に添え木が当てられていることにも、ほとんど気づいていなかった。離れてくださいと何度も言われた。それでも、目を逸らすことができなかった。

 

 日は落ちかけ、燃え続ける建物の炎が、通りを赤く照らしている。

 その光の中に、二つの影があった。

 

 一つは山のように大きい。もう一つは、その半分ほどしかない。大きな影が顎を振るうたびに車が潰れ、看板が飛び、地面が揺れる。小さな影はそのたびに紙一重で身をかわし、回り込み、噛みつき、弾き飛ばされ、それでもまた立ち上がって向かっていく。

 さっき、あの小さいほうがガラスを突き破って店の中へ消えたとき、母親は声を上げて泣いた。もう駄目だと思った。

 

 それなのに、出てきた。

 

 肩から血を流し、脚をもつれさせながら裏手から這い出してきて、また赤い巨体の前へ回り込んだ。逃げればいいのに。あの脚なら逃げられるのに。まるで、自分の後ろにまだ守るものがあるとでもいうように。

 消防の放水が霧になって通りへ降り、炎の光を受けて金色に煙っている。その靄の中を、黒い身体が走った。濡れた鱗の一枚一枚に火の色が映り、長い尾が光の筋を引いていく。

 

 きれいだ、と思ってしまった。

 

 こんなときに、何を考えているのだろう。人が死んで、家が燃えて、自分も娘も、ついさっきまで食べられるところだったのに。

 それでも、ほかに言葉が見つからなかった。

 

 子供のころ、祖母に連れられて行った神社の絵を思い出した。荒れ狂う大きな化け物へ、小さな獣がたった一匹で立ち向かっている古い絵だった。あれは何の神様なのと訊くと、祖母は、守ってくださる方だよ、とだけ答えた。

 あの絵と、同じものを見ている気がした。

 

「お母さん」

 

 腕の中で、娘が言った。

 

「黒い子、いたいの?」

 

 黒い恐竜の肩から、血が流れ続けている。

 

「……うん。きっと、すごく痛い」

 

「じゃあ、なんで逃げないの?」

 

 母親は答えられなかった。

 隣で、夫が血だらけの手を合わせていた。爪の剥がれた指を組み、額へ押しつけ、子供のように肩を震わせている。何に祈っているのかは、訊かなくても分かった。

 母親も、娘の頭へ頬を寄せた。

 

 どうか。

 

 あの子を、死なせないでください。

 

◇

 

 赤い恐竜は水を振り払うと、今度こそ男だけを見た。

 

 突進が来る。左へ跳ぶ。追ってくる。乗り捨てられた乗用車の屋根を踏み台にして跳び、頭上を越えざまに首筋を爪で裂いた。着地した先へ尾が薙いでくる。伏せてかわすと、背後の電柱が根元から折れて倒れ、切れた電線が火花を撒き散らした。

 一撃ごとに、街のどこかが壊れていく。

 

 赤い巨体の肩に弾かれた軽自動車が、横転しながら転がってきた。男は横へ飛び、車体が地面を跳ねて店のシャッターへ突き刺さる。その隙に懐へ飛び込み、腹を掻き、離れ、また左へ回った。

 

 止まったら死ぬ。考えるのをやめても死ぬ。

 相手の一歩は、こちらの三歩分ある。一噛みで終わらせてくる相手に、百回当てても終わらない爪で挑んでいる。それでも、回り続けるしかなかった。

 赤い巨体が向きを変えようとした瞬間、男は倒れた電柱を蹴って跳んだ。

 

 背中へ取りつく。後肢の鉤爪を脇腹へ食い込ませ、前肢で首を抱え込んで、うなじへ牙を立てた。巨体が吠え、振り落とそうと身体をねじる。それでも離れない。ここにいる限り、あの顎は届かない。

 

 赤い恐竜は、届かないと悟ると、背中ごとビルの壁へ突っ込んだ。

 コンクリートと巨体のあいだで、男の身体が潰された。

 

(が、っ……!)

 

 口が開き、牙が外れる。ずり落ちたところを、太い後肢が蹴り飛ばした。アスファルトの上を何メートルも滑り、ようやく止まったとき、口の中は血の味でいっぱいだった。

 

 立て。

 

 脚が震える。視界の端が暗い。

 それでも男は、四肢を突いて身体を起こした。

 

◇

 

 誰も、声を出せなかった。

 規制線に並んだ警察官たちは、構えていたはずの拳銃を、いつの間にか下ろしていた。消防隊員はホースを握ったまま立ち尽くし、避難の途中だった住民は、逃げることを忘れて足を止めている。燃える建物の向かいのマンションでは、いくつもの窓に人影が張りついていた。

 

 二頭の恐竜が、街の真ん中で殺し合っている。

 車が弾かれ、電柱が折れ、ビルの壁が砕ける。一つひとつが、人間ならその場で死んでいる衝撃だった。六メートルの巨体が動くたびに地面が震え、その足元を黒い影が、炎を映しながら駆け抜けていく。

 恐竜を映像で見たことのない者はいない。それでも、これは違った。画面の枠にも、人間の理解にも収まらない何かが、目の前でぶつかり合っている。

 

 恐ろしかった。

 

 恐ろしいのに、誰も目を逸らせなかった。

 

「……勝てるのか、あれ」

 

 誰かが掠れた声で言った。

 倍近い相手である。専門家が七人がかりで倒せなかった相手である。何度も弾き飛ばされ、壁へ叩きつけられ、血を流している小さなほうが勝てるとは、誰にも思えなかった。

 それなのに黒い恐竜は、蹴り飛ばされた先で、また身体を起こした。

 震える脚で立ち、牙を剥き、赤い巨体の左へ回り込んでいく。

 

「立った……」

 

 若い警察官は、自分の拳が白くなるほど握りしめられていることに気づいた。

 窓から続いていた配信の視聴者数は、とうに百万を超えていた。コメント欄には、もう誰も冗談を書いていない。

 

『立て』

 

『がんばれ』

 

『負けるな』

 

『頼む』

 

 同じ言葉が、読めない速さで流れ続けていた。

 

◇

 

 四番と呼ばれていたハンターは、横倒しになった車の陰で目を開けた。

 右脚の感覚がない。一番が自分を下がらせようとしたあと、弾き飛ばされた車に巻き込まれたところまでは覚えている。無線機は割れていた。

 サイレンと水の音がする。その向こうで、二頭の恐竜が吠え合っている。

 

 二頭。

 

 車の陰から覗いて、四番は息を呑んだ。黒い恐竜が、赤い個体の周りを回っている。左へ、左へ。自分たちが撃ち抜いた後肢の側へ、執拗に。

 

「……あいつ、分かってやってるのか」

 

 銃は手の届くところに落ちていた。弾倉には、まだ三発残っている。

 ただ、当てる場所がない。肩や胴にいくら入れても止まらないことは、仲間の命で確かめた。止めるなら頭の付け根、後ろから延髄を抜くしかない。立っている六メートルの恐竜のそこを、地面から狙うのは無理だった。

 

「頭さえ、下がればな……」

 

 誰に聞かせるつもりもない呟きだった。

 黒い恐竜の頭が、こちらを向いた。

 二十メートルは離れている。サイレンも鳴っている。聞こえるはずがない。

 それなのに黄色い眼は、四番の手元の銃を見て、それから赤い個体の頭を見た。

 まさか、と四番は思った。

 

◇

 

 聞こえていた。

 この耳は、二十メートル先の呟きくらい、サイレンの中からでも拾える。そして男には、その言葉の意味が分かる。

 頭さえ下がれば。

 

(……下げればいいんだな)

 

 方法は、一つしか思いつかなかった。あいつが頭を低く下げるのは、足元の獲物へ噛みつくときだけである。

 つまり、自分が噛まれにいけばいい。

 

(さよならだけが人生じゃつまらないって、言ったばっかりなんだけどな)

 

 笑えない冗談だった。

 男は走った。赤い恐竜の左へ回り込み、引きずっている後肢へ飛びつく。今度は表面ではなく、銃創そのものへ牙を突き立て、首を捻って肉を裂いた。ハンターたちが命がけで開けた傷だった。

 赤い個体が絶叫し、左の後肢が折れるように崩れる。巨体が傾き、片膝をつくような形で沈んだ。

 

 ここだ。

 男は離れなかった。ハンターの隠れている車が、赤い個体の真後ろに来る位置まで回り込む。そこで足を止め、腹が地面につくほど低く伏せた。

 

 来い。

 

 赤い恐竜の眼に、動けなくなった獲物が映る。顎が開き、六メートルの身体が、覆いかぶさるように頭を振り下ろした。

 牙が、右の肩へ食い込んだ。

 

(っ、あああああ!)

 

 骨が軋む。視界が白くなる。このまま噛み砕かれるのだと、身体のほうが先に諦めかけた。

 

(意地があんだよ、男の子には!)

 

 男は両方の前肢を相手の顎へ回し、長い爪を突き立てて、力任せに引き寄せた。

 離すな。この頭を、上げさせるな。

 あと一秒でいい。

 

 下がりきった赤い後頭部が、車の陰の銃口から、まっすぐに見えていた。

 銃声が鳴った。

 

 一発。

 

 頭上の巨体が、びくりと震える。

 

 二発。

 

 肩に食い込んでいた力が、ふっと抜けた。

 

 三発目は、必要なかった。

 

◇

 

 赤い恐竜は、男の上へ崩れるように倒れた。

 下敷きになる寸前で這い出し、数歩離れたところで脚が言うことを聞かなくなって、そのまま座り込む。右の肩からは血が流れ続け、息を吸うたびに肋が痛んだ。全身、ガラスの切り傷だらけだった。

 

(……生きてる)

 

 信じられなかった。

 目の前で、赤い巨体が最後の息を吐いている。黄色い眼が、一度だけ男を見た。怒りも、憎しみもない眼だった。

 こいつは、おかしくなっていたわけではない。昼間は獲物を食べ、水を飲み、車の音にも顔を上げただけだった。人間に囲まれ、逃げ道を塞がれ、撃たれて、ここまで来てしまった。

 

(お前も、帰りたかっただけなんだろうな)

 

 勝った、とは思えなかった。

 その眼から光が消えるまで、男はそこを動かなかった。

 いつの間にか、サイレンが止んでいる。

 顔を上げると、道路の向こうに人間たちが並んでいた。警察官が何十人も、拳銃を下ろしきれないまま、こちらを見ている。消防隊員がホースを抱えたまま固まっている。車の陰では、片脚を投げ出したハンターが、銃を膝へ置いて肩で息をしていた。

 

 誰も撃たなかった。

 ハンターと目が合う。男は少し迷ってから、ゆっくりと首を曲げ、小さく頭を下げた。

 助かった。ありがとう。

 ハンターは口を半分開けたまま、何も言わなかった。

 規制線の内側で、小さな声が上がった。

 

「黒い子!」

 

 母親の腕の中から、娘がこちらへ手を伸ばしている。その隣で、両手を血だらけにした父親が、妻と娘の肩を抱いたまま、地面へ額がつくほど深く頭を下げていた。

 

「ありがとう!」

 

 青森の山で聞いたのと、同じ言葉だった。

 

(……どういたしまして)

 

 声にはならない。だから男は、もう一度だけ頭を下げた。

 そのとき、何台もの車両が規制線の向こうへ滑り込んできた。

 増援だった。大型の銃を抱えたハンターたちが次々に降り、倒れた赤い巨体を見て足を止める。それから、その横に座り込んでいる黒い恐竜に気づいて、一斉に銃口を上げた。

 未登録の大型肉食個体が、市街地の真ん中にいる。撃つ理由は、いくらでもあった。

 

「撃つな!」

 

 車の陰から、四番が怒鳴った。

 

「そいつは撃つな! そいつが、やったんだ!」

 

 増援を率いてきた年配のハンターは、銃を構えたまま、目の前の光景を見た。

 七人を倒した赤い巨体の後頭部に、弾の痕が二つ。その顎に残る、深い爪痕。右肩を噛み裂かれ、全身から血を流しながら、こちらを静かに見ている黒い恐竜。そして規制線の内側で、地面へ額をつけている一家。

 

 この仕事を三十年続けてきた。恐竜は撃つものだと思ってきたし、情けをかけて死んだ仲間も見てきた。危険な個体は、人を襲う前に駆除する。それが正しいと、今でも思っている。

 

 それでも、引き金に掛けた指が動かなかった。

 

 怖い、と思った。牙や爪がではない。自分の物差しでは測れないものが、そこに座っている。

 男は立ち上がった。右の前肢を地面へつくと肩に激痛が走り、三本の肢で身体を支え直す。みっともない歩き方だったが、まだ歩ける。

 

 山のほうへ向きを変えると、その先に、銃を持った人間たちが並んでいた。

 撃たれるなら、ここだろう。逃げる力は、もう残っていない。

 男は、ゆっくり歩いた。

 年配のハンターが、銃口を下げた。

 

「……道を開けろ」

 

 並んでいたハンターたちが、左右へ割れた。

 そのあいだを、黒い恐竜が足を引きずりながら通っていく。手を伸ばせば届く距離だった。誰も動かなかった。息をすることさえ、憚られた。

 

 規制線の端で、若い警察官が踵を揃えた。

 右手が、制帽の庇へ上がる。

 命令されたわけではない。なぜそうしたのか、自分でも説明できなかった。ただ、七人が倒れた場所へ一頭で飛び込み、最後まで立っていた背中に、ほかにどうすればいいのか分からなかった。

 隣の同僚が、それに倣った。その隣も。道路に並んだ警察官たちが、一人、また一人と敬礼していく。消防隊員が、ヘルメットを脱いで頭を下げた。

 

 男は足を止め、その列を見た。

 

(……やめてくれよ。そんな柄じゃないんだ)

 

 照れくさくて、どうしていいか分からなかった。

 だから、いつものように小さく頭を下げて、山へ向かった。

 黒い背中が木々の中へ消えるまで、上がった手は一つも下りなかった。

 

◇

 

「……追わないでください」

 

 御門は、画面を見たまま言った。

 

「追えば逃げます。あの傷で走らせたら、死ぬかもしれない」

 

『しかし、先生――』

 

「お願いします」

 

 回線の向こうで、あれほど捕獲を主張していた対策担当が、長い息を吐いた。

 

『……了解した。追跡は出さない』

 

 反対されると思っていた御門は、礼を言うことも忘れていた。

 事実と推測を分けろと、自分は言い続けてきた。映像から確認できる事実だけを並べるなら、こうなる。黒い個体は、母子と赤い個体の間へ割り込んだ。救助のあいだ、赤い個体を引き離した。ハンターの射線の前で、自分を噛ませて相手の頭を下げさせた。そして最後に、頭を下げた。

 

 どこまでが事実で、どこからが解釈なのか。

 御門には、もう線が引けなかった。

 

◇

 

 山の窪地へ戻ったころには、すっかり暗くなっていた。

 何度も休み、何度も倒れかけ、血の跡を残しながら、どうにかたどり着いた。落ち葉を鼻先でどけると、茶褐色の小さな身体が、言いつけどおりそこにいた。

 小型恐竜は飛び出してきて男の周りを回り、肩の傷へ鼻を寄せて、細く高い声で鳴いた。

 

(大丈夫だ。……たぶん)

 

 男はその場へ崩れるように伏せた。もう一歩も動けなかった。小さな身体が、傷のないほうの脇腹へぴったりと寄り添ってくる。

 ヒーローなんて柄ではない。明日には、きっと後悔している。

 

 それでも、目を閉じる前に浮かんだのは、娘を抱いて泣いていた母親の顔だった。

 

(……さよならだけが人生じゃ、つまらないからな)

 

 まだ、帰る途中である。

 男は、小さな体温を感じながら眠りに落ちた。




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