温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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ゲリラ投稿です
一方実家では

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傾向がわかれば作中への反映を行いますので、結果として読者の皆様の好きなテイストの文章が増やせるかなと。


第16章 八王子の夜

 その日の夕方、八王子の家では、帰宅した娘が鞄も下ろさずに居間のテレビをつけた。

 

「お母さん、福島。大変なことになってる」

 

 台所にいた母親が手を拭きながら出てくると、画面には上空から撮られた町が映っていた。道路には乗り捨てられた車が並び、建物の一つから黒い煙が上がっている。その中を、赤褐色の大きな恐竜が歩いていた。

 字幕には、ハンター二名死亡とあった。

 息子が行方不明になって、二か月が過ぎている。

 

 警察からの連絡は、週に一度あるかどうかになった。勤め先に残されていた荷物は段ボール二箱になって実家へ届き、一人暮らしをしていたアパートの家賃は、父親が何も言わずに払い続けている。引き払えば、帰ってくる場所が一つ減る。誰もそうは口にしなかったが、三人とも同じことを考えていた。

 

 それでも朝は来るし、腹は減る。母親は夕飯を作り、父親は会社へ行き、娘は毎晩、兄の名前で検索をかけてから眠る。待つことが、いつの間にか生活の一部になっていた。

 だから福島の中継も、最初は遠い町の出来事として見ていた。

 

「増援のハンターが五人入るって。それなら大丈夫だよね」

 

 娘がそう言ってから三十分も経たないうちに、画面の中で一人目が倒れた。

 父親が帰宅したのは、ちょうどそのころだった。玄関を開けても誰も出てこないので居間を覗くと、妻と娘が並んで立ったままテレビを見ている。

 

「どうした」

 

「……お父さん、座って」

 

 娘の声が硬かった。

 父親は上着を脱ぎかけてやめ、テレビへ視線を向けた。何が起きているのかを尋ねるより早く、画面の中でハンターの一人が車の陰へ吹き飛ばされた。

 そのまま父親は、座らなかった。

 

◇

 

 それからの時間を、三人はほとんど口をきかずに過ごした。

 

 中継のカメラは遠く、人間は小さな点にしか見えない。それでも、点が一つずつ動かなくなっていくことは分かった。アナウンサーの声が上ずり、スタジオの解説者が言葉を失う。母親は何度かリモコンへ手を伸ばしかけて、そのたびに手を引いた。消したところで、あの町で起きていることがなくなるわけではない。

 やがて、画面の端を走る人影が映った。

 子供を連れた女性だった。

 

「……逃げて」

 

 母親の口から、声が漏れた。

 

 赤い恐竜が向きを変える。距離が縮まっていく。上空のカメラが寄ると、道路の手前で警察官と揉み合っている男性が映った。振りほどいて走り出し、転び、それでも両手で地面を掻いて這っていく。

 父親は、いつの間にか拳を握っていた。

 

 あの人の気持ちが、嫌というほど分かる。

 

 それでいて、羨ましいとさえ思った。あの人には、這っていく先が見えている。助けられるかどうかではない。手が届くかどうかですらない。ただ、自分の家族がどこにいるのか分かっている。

 自分はこの二か月、どこへ向かって這えばいいのかさえ分からないまま、会社へ行き、飯を食い、眠っている。

 

「行かせてやれよ……」

 

 父親が低く呟いた。

 娘が父を見る。

 

「警察、止めなくていいだろ。行ったって何もできないのは分かってる。でも……行かせてやれよ」

 

 自分でも無茶を言っていることは分かっていた。

 画面の中で、女性が走るのをやめた。

 子供を抱き込み、背中を丸めてしゃがむ。

 

「ああ……」

 

 母親が両手で口を覆った。

 同じことを、自分も毎晩考えている。代われるものなら代わりたい。あの子がどこかで怖い思いをしているなら、痛い思いをしているなら、全部こちらへ寄こしてほしい。

 

 けれど、それすらできない。

 子供が苦しんでいるかもしれないのに、その場所さえ分からないということが、こんなにも苦しいとは知らなかった。

 赤い頭が下がった瞬間、映像がスタジオへ切り替わった。

 青ざめたアナウンサーが何かを言おうとして、言葉に詰まっている。

 

「うそ、なんで切るの」

 

 娘が震える手でスマートフォンを取り出した。現場近くから誰かが続けている配信を探し当て、画面を開く。

 三人で、小さな画面を覗き込んだ。

 

 黒いものが、立っていた。

 

「……え?」

 

 しゃがみ込んだ母子と、起き上がろうとしている赤い巨体のあいだに、黒い恐竜が背中を向けて立っている。コメント欄が読めない速さで流れ、撮影している人間の興奮した声が割れていた。

 

「温泉恐竜……」

 

 娘が呟いた。

 

「あの子だ。お母さん、あの子だよ。山形の」

 

 以前に家族で映像を見たことがあった。山の温泉へ浸かり、人間に見つかると逃げていった奇妙な黒い恐竜。青森や宮城で撮影された個体と同一ではないかとも報じられていたが、今はそのころより明らかに大きくなっている。

 

 それが、母子へ背中を向けて立っていた。

 

◇

 

 テレビの中継が戻ってからも、三人は立ったままだった。

 倍近い相手だった。黒い恐竜は何度も弾き飛ばされ、店の中へ叩き込まれ、壁に身体をぶつけ、そのたびに起き上がって赤い巨体の前へ回り込んでいく。

 

「なんで逃げないのよ……」

 

 娘の声が詰まった。

 

「逃げられるじゃん。足速いんだから。もう助けたじゃん。なのに、なんで……」

 

 頬を涙が伝っていることに、本人は気づいていなかった。

 

「何やってんのよ、ほんとに……!」

 

 その言い方を、母親はどこかで聞いた気がした。

 思い出す前に、警察官たちが母子へ走った。二人を抱えるようにして運び出し、赤い恐竜から距離を取らせる。

 すると、黒い恐竜の動きが変わった。

 

 それまでは突破を許さないよう正面へ身体を入れていたのに、母子が離れたあとでは横へ回り、傷ついている赤い恐竜の後肢を狙うようになった。サイレンが鳴ればその隙に位置を変え、消防から放たれた水が赤い巨体の顔へ当たれば、迷わず間合いを詰める。

 

「……助かるまで、あそこにいたのか?」

 

 父親が呟いた。

 誰も答えなかった。

 答えられなかった。

 黒い恐竜が赤い個体に噛みつかれ、振り回される。

 娘が悲鳴を上げた。

 建物の壁へ叩きつけられた黒い身体が、しばらく動かない。

 

「もういい」

 

 母親が画面へ言った。

 

「もういいから。逃げなさい」

 

 当然、届かない。黒い恐竜は身体を起こした。

 右肩から血が流れている。呼吸も荒い。それでも赤い恐竜へ向き直った。

 

「……馬鹿ね」

 

 母親の声は震えていた。

 

「そんなに傷だらけになるまで、頑張らなくていいのに」

 

 その言葉を口にした途端、母親は黙った。

 息子がいたら、同じことを言っただろうか。

 無茶をして帰ってきた息子に、怪我をしてまで何をしているのかと怒る。まず病院へ行けと叱り、それから事情を聞く。

 そんな当たり前のことを、もう二か月もしていない。

 画面の中で、黒い恐竜が生き残っているハンターを見た。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 次の瞬間、赤い巨体へ踏み込み、右肩を噛まれた。

 

「何して――」

 

 娘が言い終わるより先に、黒い恐竜が身体を捻った。噛まれたまま押し込み、赤い恐竜の頭を低い位置へ持っていく。

 銃を持ったハンターの正面へ、その頭部が入った。

 銃声が響き、赤い巨体が崩れた。

 

 居間の三人は、誰も動かなかった。

 

 倒れた赤い恐竜の下から、黒い身体が這い出してくる。少し離れた場所で座り込み、肩で息をしていた。

 生きていた。

 娘がその場へへたり込み、母親は娘の肩を抱いた。父親は長く息を吐いて、ようやく自分がまだ上着を着たままだったことに気づいた。

 

「……よかった」

 

 母親が言った。

 

 誰のことを言っているのか、自分でもよく分からなかった。助かった母子のことでもあり、這っていた父親のことでもあり、血だらけで座り込んでいる黒い恐竜のことでもあった。

 

 画面の中で、その黒い恐竜が立ち上がった。

 車の陰にいるハンターへ身体を向ける。

 そして、頭を下げた。

 深々とではない。何かをしてもらったあと、言葉より先に首だけが動くような、短い会釈だった。

 

「……礼儀正しいやつだな」

 

 父親がぽつりと言った。

 

「変なやつって言ってたくせに」

 

 母親が涙声のまま言い返すと、父親は鼻を鳴らした。

 

「変なやつだろう。あんな身体で、あんな真似をして、最後に頭を下げるやつがあるか」

 

 そう言う父親の目も赤くなっていた。

 娘だけが、黙っていた。

 さっきまで泣いていたことも忘れて、画面を見ている。恐竜がお辞儀をするところなど、見たことがあるはずもない。

 それなのに、懐かしいと思った。

 理由は、まだ分からなかった。

 

 黒い恐竜は、規制線の向こうにいる家族の方向にも同じように頭を下げた。

 娘の胸に、説明のできない引っかかりが残った。

 やがて警察官たちが左右へ割れた。

 一人の若い警察官が敬礼する。その隣の警察官も続き、さらにその隣も続いた。

 黒い恐竜は何が起きているのか分かっているのかいないのか、血に濡れた身体でそのあいだを歩いていった。

 

 足を引きずりながら、山へ帰っていく。

 木々の中へ消えていく背中を見ながら、母親が小さく言った。

 

「あの子、帰るところはあるのかしら」

 

「あるでしょ」

 

 娘は、画面を見たまま答えた。

 

「帰るところがあるなら、ちゃんと帰るよ」

 

 言ってから、自分の言葉に気づいた。

 母親の横顔が、ほんの一瞬だけ動かなくなる。

 

「……ごめん」

 

「何が?」

 

 母親は普通に答えた。

 それから、もう恐竜の映っていない山の映像へ目を戻した。

 

「そうね」

 

 静かな声だった。

 

「帰るところがあるなら、帰ってくればいいのよ。遅くなっても、帰ってくればいい」

 

◇

 

 その夜、母親は眠れなかった。

 布団を抜け出して二階へ上がり、息子の部屋の扉を開ける。この二か月で、灯りをつけなくてもベッドの端まで歩けるようになってしまった。

 部屋の配置はほとんど変わっていない。

 勤め先から届いた段ボール箱だけが増えた。

 母親はベッドへ腰を下ろし、スマートフォンを開いた。

 

 最初のころは、電話が鳴るたびに身体が強張った。知らない番号なら警察かもしれないと思い、警察からなら見つかったのかもしれないと思った。今は、そこまでは跳ね上がらない。

 諦めたわけではなかった。

 人間は、同じ強さで緊張し続けることができないだけだった。

 息子とのやり取りは、二か月前で止まっている。最後に既読がついたのは、『今週末、こっち来る? お父さんもいるよ』という一通だった。そのあとに送ったものには、どれも既読がつかない。

 

『どこにいるの』

 

『ご飯は食べてる?』

 

『寒くなってきたよ』

 

 返事がないと分かっていても、送ることをやめられなかった。

 母親は、新しい一通を打った。

 

『今日ね、すごいものを見たよ』

 

 少し迷って、続ける。

 

『帰ってきたら話すね』

 

 送信した文字の横には、何もつかなかった。

 

「また見てるのか」

 

 廊下から声がした。

 以前なら、父親は扉の外から覗くだけだった。今夜は部屋へ入ってきて、妻の隣へ腰を下ろした。ベッドが小さく軋む。

 

「眠れんか」

 

「あなたも」

 

「ああ」

 

 しばらく、どちらも黙っていた。

 

「あの人」

 

 父親が言った。

 

「這っていた、あの父親。手が血だらけだった」

 

「ええ」

 

「俺は、あれが羨ましかった」

 

 母親は夫の顔を見た。

 

「おかしなことを言ってるのは分かってる。ただ、あの人には家族が見えていた。どこへ行けばいいか分かっていた。俺は……あいつがどこにいるのかも分からん。助けに行くことすらできない」

 

 声が掠れた。

 

「親なのにな」

 

 その一言だけは、うまく声にならなかった。

 母親は、夫の手に自分の手を重ねた。

 

「私も同じよ」

 

「……そうか」

 

「毎日、ご飯を作って、洗濯して、寝てるだけ。あの子がどこかで困ってるかもしれないのに、私は今日もスーパーで大根が安いとか考えてる」

 

「それでいいだろ」

 

「分かってる。でも、ときどき嫌になるの。普通に暮らせてる自分が」

 

 父親はしばらく黙っていた。

 

「帰ってきたとき、家がぐちゃぐちゃだったら困るだろ」

 

 母親が顔を上げる。

 

「俺たちまで生活やめたら、あいつが帰ってきたとき困る」

 

 母親は何も言わなかった。

 

 ただ、夫の手を少し強く握った。

 

「あの子、どこかで誰かに助けてもらえているかしら」

 

「どうだろうな」

 

 父親は少し考えてから、息を吐くように笑った。

 

「助けるほうかもしれんぞ。あいつは昔から、ああいうときに黙って見ていられん」

 

「そうね」

 

 母親も少しだけ笑った。

 

「小学生のとき、いじめられていた子の前に出ていって、自分が泣かされて帰ってきたわね。相手は上級生が三人もいたのに」

 

「あったな。なんで逃げなかったんだと訊いたら、『分からん。気づいたら前にいた』って」

 

「それで次の日も学校に行くって聞かなくて」

 

「馬鹿なんだよ、昔から」

 

「あなたに似たのよ」

 

「俺はもう少し賢い」

 

「どこが」

 

 小さな笑い声が、息子の部屋に落ちた。

 そのとき、扉のところから声がした。

 

「……二人とも、起きてたの」

 

 いつの間にか娘が立っていた。

 

「お前もか」

 

「寝られるわけないじゃん」

 

 娘は部屋へ入り、兄の机の椅子へ後ろ向きに座った。目はまだ少し腫れている。

 

「さっきの、保存した」

 

「何を」

 

「全部。体当たりのところも、お辞儀のところも、敬礼のところも。『お兄ちゃんに見せる』ってフォルダ、もう三十個くらい入ってる」

 

「そんなにあるの?」

 

「増える一方なんだけど。あの恐竜、次から次へと何かやるから」

 

 文句のような口ぶりだった。

 

「帰ってきたら、まとめて見せなさい」

 

 母親が言うと、娘は頷いた。

 

「一晩かかるよ。寝かせないから」

 

「帰ってきた初日は寝かせてやれ」

 

 父親が言った。

 

「じゃあ二日目」

 

「二日目も休ませてやれ」

 

「甘やかしすぎ」

 

「二か月も行方不明になって帰ってきた息子くらい甘やかしていいだろ」

 

「じゃあ三日目」

 

「そこは譲らないのね」

 

 三人とも、少し笑った。

 笑いが収まったあと、娘は机の上に置かれた充電器を見た。

 

「ねえ。お兄ちゃんってさ」

 

「何?」

 

「……ううん。何でもない」

 

 言いかけたことを、娘は口の中へ戻した。

 誰も「もし帰ってきたら」とは言わなかった。

 帰ってきたら。

 この家では今も、それだけが先の話をするときの言葉だった。

 

◇

 

 自分の部屋へ戻ってからも、娘は眠れなかった。

 布団の中でスマートフォンを開き、保存したばかりの映像を再生する。戦いの場面は飛ばした。見たかったのは、最後だけだった。

 黒い恐竜がハンターのほうを向く。

 

 頭を下げる。

 

 少し戻して、もう一度見る。

 今度は家族のほうへ頭を下げる。

 三度目で、指が止まった。

 

「……似てるんだよなあ」

 

 誰に、とは考えるまでもなかった。

 深く下げるわけではない。大げさでもない。店を出るときや、道を譲ってもらったとき、何かが済んだあとに、言葉より先に首だけが動く。

 家族の誰も、わざわざ口にしたことのない癖だった。

 兄がコンビニで店員に礼を言うとき。車に道を譲ってもらったとき。父親に何かを取ってもらったとき。

 

 思い返してみれば、いつも少しだけ頭を下げていた。

 馬鹿みたいだ、と思う。

 似た仕草をする人間など、いくらでもいる。まして相手は恐竜である。行方の分からない兄と、ニュースに映った野生動物を結ぶものなど、どこにもない。

 口に出せば、父親には呆れられ、母親には本気で心配されるだろう。

 

 ただ、懐かしいと思ってしまった。

 それだけだった。

 温泉恐竜。

 誰がつけたのか知らないが、ひどい名前だと思う。

 

 温泉、と頭の中で繰り返したところで、娘は別のことを思い出した。

 兄がいなくなる少し前、電話で話したことがある。

 仕事がきつい。疲れた。温泉にでも行きたい。

 その程度の話だった。

 

 兄が温泉好きだった記憶など特にないから、「急におっさんみたいなこと言い出した」と笑った覚えがある。兄も「疲れてんだよ」と笑っていた。

 それきり忘れていた。

 警察に話すほどのことだとも思わなかった。

 娘はスマートフォンの画面を見た。

 兄に似た仕草をする恐竜が、温泉へ入っている。

 その考えが浮かんだ瞬間、自分で打ち消した。

 

「いやいやいや……」

 

 いくら何でも飛躍しすぎている。

 兄が温泉へ行きたいと言った。

 恐竜が温泉へ入った。

 だから何だというのか。

 それでも、今まで無関係だった二つのものが、頭の中で初めて同じ場所へ置かれてしまった。

 娘は映像を閉じ、兄とのやり取りを開いた。

 

『どこいるの』

 

『連絡して』

 

『お母さん心配してる』

 

 少し間を空けて、

 

『私も心配してるから』

 

 どれにも既読はついていない。

 入力欄へ指を置いた。

 

『帰ってきたら一緒に見よう。見せたいの、いっぱいあるから』

 

 送信する。

 もちろん、既読はつかなかった。

 娘は画面を伏せた。

 それでも削除はしなかった。

 

 帰ってきたときに、全部まとめて文句を言うつもりだった。

 

◇

 

 翌朝も、食卓には三人分の朝食が並んだ。

 テレビでは、黒い恐竜が山へ入ったまま見つかっていないと伝えている。母親は味噌汁の椀を持ったまま、血を流して歩く昨日の映像を見ていた。

 

「あれだけ怪我をして、大丈夫かしら」

 

「大丈夫じゃない? 何となくだけど」

 

 娘がパンをかじりながら答えると、父親が新聞の上から目を上げた。

 

「昨日から、やけに肩を持つな」

 

「別に」

 

 娘はパンを置いた。

 昨夜なら馬鹿らしいと思って、そのまま忘れただろう。

 だが、今朝になっても覚えていた。

 

「ねえ」

 

「何?」

 

「お兄ちゃん、いなくなる少し前に、温泉に行きたいって言ってた」

 

 母親の箸が止まった。

 父親が新聞を下ろす。

 

「いつだ」

 

「一週間くらい前だったと思う。電話で。仕事で疲れたから、温泉にでも行きたいって」

 

「場所は?」

 

「聞いてない。普通に愚痴ってただけだと思ってたから」

 

「ほかには?」

 

「ないよ。それだけ」

 

 父親はしばらく考えた。

 

「警察には?」

 

「言ってない。そんなの関係あると思わなかったし」

 

「今日、俺から伝えておく」

 

「でも、ただ温泉行きたいって言っただけだよ」

 

「それでいい。関係あるかどうかを決めるのは、俺たちじゃない」

 

 父親はそう言って、新聞を畳んだ。

 娘は小さく頷いた。

 なぜ今になって思い出したのかは、言わなかった。

 兄のお辞儀に似ていたから。温泉恐竜だったから。

 そんな話まで加えたら、さすがに自分でも何を言っているのか分からなくなる。

 

 父親は会社へ行き、娘も出かけていった。

 母親は洗濯機を回し、三人分の食器を洗った。

 玄関を掃く。靴箱の横には、息子の靴が一足、今も出したままになっている。

 長く履かれていないせいで、ほかの靴より少しだけ奥へ寄っていた。

 母親は箒を止めた。

 

 その靴を見てから、手を伸ばし少しだけ前へ出した。

 ほかの三人の靴と、同じ位置まで。

 

 それから何事もなかったように、玄関の続きを掃いた。

 この家では今日も、三人の暮らしが続いていく。

 それでも玄関には、四人分の場所があった。

 

第16章 八王子の夜 了




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