翌朝、男は身体の痛みで目を覚ました。
福島の市街地から逃れた昨夜、ようやくたどり着いた山中の窪地には朝の薄い光が差し込み始めていた。すぐ近くには小さな同行者が丸くなって眠っており、男がわずかに身体を動かすと、それに気づいて顔を上げる。昨夜はここへ戻ってくるだけで精いっぱいだったが、一晩眠ったことで緊張が抜けたせいか、戦っている最中には意識の外へ追いやられていた痛みが、今度は身体のあちこちから一斉に主張していた。
特にひどいのは右肩だった。赤い恐竜にまともに噛まれた箇所で、牙が食い込んだ痕はすでに血が固まり始めているものの、前肢へ力を入れるだけで傷の奥まで痛みが走る。尾で吹き飛ばされ、そのままビルの壁へ叩きつけられたときに傷めた肋のあたりにも鈍い痛みが残り、身体を強く捻る動きは避けたほうがよさそうだった。そのほかにも、割れたガラスで作った細かな切り傷が全身に散らばっている。
(……よく生きてたな、俺)
改めて自分の身体を見ると、それが最初に浮かんだ感想だった。
六メートルを超える大型肉食恐竜を相手にして、最後には自分からその顎へ右肩を差し出した。噛ませることで相手の頭を下げ、生き残っていたハンターが撃てる位置へ固定するという判断は、あの瞬間には必要だと思ったからやっただけである。安全な山の中で思い返してみれば、よくそんなことを実行したものだと、自分自身に呆れたくなる。
小さな恐竜が立ち上がり、いつものように近づいてきた。右側へ寄ろうとしたので、男は左の前肢でそっと進路を変えさせる。
(そっちは駄目。今かなり痛い)
言葉が分かるわけではないが、押し返されることには慣れてきたらしい。小さな恐竜は素直に反対側へ回り込み、傷のない側へ身体を寄せた。
スポーツバッグと青い防水シートも、昨夜ここまで運んできている。バッグを肩へ掛けるのは当分無理そうだった。
男はしばらく考え、今日すぐ南下を再開するという選択肢を捨てた。
ここまで来たのだ。
焦って傷を悪化させる必要はない。
まずは、治す。
◇
人間の側になって考えれば、これから何が起きるかは想像できた。
黒い恐竜は負傷した状態で山へ逃走した。ならば血痕を探し、周辺道路のカメラを確認し、必要ならドローンを飛ばす。自分が捜す側でも、まず同じことを考える。
しかも今回は、これまでとは比較にならないほど多くの人間に姿を見られた。警察、消防、避難していた住民、報道関係者、上空を飛んでいたドローン。母娘の前へ飛び込み、赤い恐竜と戦い、最後にはハンターと一緒に決着をつけたところまで、どれほどの映像が残っているのか分からない。
敬礼までされた。
山へ入る直前、道の両側にいた警察官たちが次々と姿勢を正した光景を思い出すと、傷とは別の意味で居心地が悪くなる。
(……やめてくれよ。そんな柄じゃないんだって)
昨夜もそう思った。
今思い出しても同じだった。
だからこそ、しばらく姿を消すのは都合がいい。南へ急いで再び人間の目へ触れるより、山中で傷を治し、騒ぎが落ち着いてから移動を再開する。身体の状態を考えても、それが一番合理的だった。
男は小さな同行者を連れ、窪地からさらに山の奥へ入った。普段なら難なく越えられる倒木でも、今日は無理に跳ばず迂回し、急な斜面では右前肢へ体重をかけすぎないよう歩き方を変える。肋を傷めているため身体を大きく捻るのも避け、時間をかけて安全な場所を探した。
昼近くになって、岩壁の下に洞窟を見つけた。
男はすぐには入らず、入口から匂いを確かめた。湿った土と苔、小動物、古い獣の臭いは残っているものの、現在も大型動物が使っている気配は薄い。同行者が先へ入ろうとしたので尾で止め、自分だけで内部を確認する。
四メートル近い身体でも通れる幅があり、天井にも余裕がある。少し奥へ入れば身体を横たえられる空間があり、入口から直接見通せないうえ、頭上は厚い岩に覆われていた。
(ここならいいな)
少なくとも数日は使える。
入口へ戻ると、小さな恐竜は押し返された場所で待っていた。男が中へ入ると、今度は当然のようについてきた。
洞窟で身体を休めていると、戦っている最中には気にも留めなかった細かな記憶まで、ときどき浮かんできた。
赤い恐竜へ飛びかかる直前、娘へ覆いかぶさっていた母親がこちらを見て、何かを口にしていた。あのときは相手の顎と前肢ばかり見ていたため意味まで考える余裕はなかったが、今になって思い返せば、日本語を失ったわけではない自分にはちゃんと聞き取れていた。
『……温泉恐竜』
(……俺のことか?)
ほかに該当しそうな恐竜はいない。
男は洞窟の中でしばらく固まった。
思い当たる節も、残念ながらあった。山形では人間の旅行者に温泉へ入っているところを見つかり、こちらを撮影する端末まで向けられている。あのあと慌てて山へ逃げたが、撮られたものまで消せるはずはない。母親が自分を一目見ただけで呼び名まで知っていた以上、あの映像は少なくとも相当な人数へ広まっているのだろう。
(温泉恐竜って……)
もう少し何かなかったのかとは思う。
黒い恐竜でも、山の恐竜でも、もっとそれらしい呼び方でもよかったはずなのに、よりによって温泉だった。しかもバッグや青い防水シートまで一緒に撮られていたことを思い出せば、自分が湯に浸かっていた姿だけでなく、妙な荷物を持ち歩くところまで人間側に知られている可能性が高い。
男は右肩の傷を庇いながら、洞窟の床へ腹をつけた。
(全国に出てたりしないよな)
そこまで考えてから、福島で自分の周囲を飛んでいた報道らしいヘリコプターを思い出した。
考えるのをやめた。
◇
最初に必要だったのは水だった。
近くの沢まで行き、男は口元や前肢についた汚れを洗い落とした。右肩は傷が深いため直接強く擦るようなことはせず、流れる水で周囲の血と泥を少しずつ落としていく。冷たい水が傷へ触れるたびに身体が強張ったが、昨夜のまま汚れを残しておくよりはいい。
傷を改めて確認すると、右肩には牙が食い込んだ痕が複数残っていた。幸い前肢そのものは動くので、骨まで致命的に損傷している可能性は低そうだったが、全力で走ったり獲物へ飛びかかったりするのは当分避けるべきだろう。肋の痛みも昨日より悪化してはいないものの、身体を捻ればはっきり分かる程度には残っている。
(病院行ければ早いんだろうけどな)
大型人工恐竜を治療できる施設そのものは存在するはずだった。しかし受付へ行って診察を頼める身体ではないし、仮に大人しく施設へ入ったところで大騒ぎになる未来しか想像できない。
(保険証は俺の人間のころのマイナンバーカードでいいんだろうか……?)
つらつらと益体もないことを考えながらも、結局、自分でできることは単純だった。
水を飲み、食べ、眠り、傷を汚さず、余計な負荷をかけない。
今の身体が持つ回復力へ任せるしかない。
(完全に野生動物だな)
今さらの感想だった。
その日は狩りを諦め、水だけを十分に飲んで洞窟へ戻った。防水シートを地面へ敷き、右肩を上にして身体を横たえる。肋の痛みが少ない姿勢を探すのには少し時間がかかったが、ようやく落ち着くと、小さな同行者が傷のない側へ寄ってきた。
昨日までなら、自分がこいつを守っているつもりだった。
今日は少し違う。
痛みで動きたくない自分のそばに、相手が勝手に残っている。
(相変わらず物好きな奴だな)
男は目を閉じた。
◇
そのころ山の外では、福島で撮影された映像が、すでに日本中へ広がり始めていた。
最も繰り返し再生されたのは、決着の瞬間だけではない。赤い恐竜が倒れるまでの一連の行動を、警察のドローンや報道カメラ、避難していた住民のスマートフォンが異なる角度から記録しており、それらを時系列に並べると、黒い恐竜が何をしていたのかが嫌でも目立った。
母親は逃げ切れないと悟り、路上で娘へ覆いかぶさるようにしゃがんでいた。その二人へ赤い恐竜が迫った瞬間、横合いから黒い影が飛び込み、六メートルを超える巨体へ激突する。黒い恐竜は体格差で弾かれても立ち上がり、その後も赤い恐竜が母娘へ向かおうとするたびに身体を入れ直していた。
やがて警察官が二人のところまで駆け込み、母親と娘を抱えるようにして戦闘区域から運び出す。そのあいだも黒い恐竜は赤い個体の注意を引き受け続け、二人が十分に離れてから初めて戦い方を変えた。
映像を見た人間が、そこへ意味を感じることまでは止められなかった。
『これ、ずっと親子の前を塞いでるよな』
『警察が連れ出すまで一回も赤いやつを通してない』
『温泉恐竜、逃げようと思えば逃げられたんじゃないのか』
『なんで危険なのに戻ったんだよ』
さらに注目されたのが、戦闘の終盤だった。
右肩を赤い恐竜へ噛ませた黒い個体が、そのまま逃げるのではなく、身体を使って相手の頭を低い位置へ押さえ込んでいる。その先には、負傷しながらも銃を構えた最後のハンターがいた。
そして発砲。赤い恐竜が崩れる。
何度見ても、黒い恐竜が一頭で勝った映像には見えなかった。
戦闘後には、さらに別の場面が人々の記憶へ残った。負傷した黒い恐竜は人間へ近づくことも、倒れた赤い個体を食べることもせず、警察やハンターたちを見渡してから、わずかに頭を下げている。
会釈。
そう見えた。
偶然頭を動かしただけだとする意見も当然あったが、その直前まで人間と連携するような戦いを見せられたあとでは、単なる動作として受け取れない人間のほうが多かった。
『今、頭下げた?』
『嘘だろ』
『ハンターのほう見てから下げてる』
『親子のほうにもやってない?』
『これ本当に野生動物なのか』
そして、その直後に続く映像が決定的だった。
その光景を、上空の報道カメラが広い画角で捉えていた。
傷だらけの黒い恐竜が山へ向かって歩いていく。その両側では、警察官や現場に残った人間たちが道を開け、何人もの警察官が敬礼し、あるいは脱帽したまま背中を見送っている。
ニュース番組が特別な演出を加える必要すらなかった。
母娘の前に立ちはだかった姿。
最後のハンターが撃てるよう、危険を承知で赤い恐竜の頭を押さえた姿。
人間へ会釈するように頭を下げ、敬礼されながら山へ帰っていく後ろ姿。
その一連の映像を見た人々のあいだでは、恐怖とは違う種類の感情が急速に広がっていった。
『山の神様みたいだ』
『最初は温泉入ってる変な恐竜だと思ってたのに』
『なんでこんな神々しく見えるんだよ』
『怖いのは怖い。でも、これは尊敬する』
宗教的な意味で本当に神格化されたわけではない。それでも、自分たちよりはるかに大きく、人間とはまったく違う姿をした生き物が、自分から危険へ入り、役目を終えると何も求めず山へ帰っていく。その姿には、見る側へ畏怖と尊敬を同時に抱かせるものがあった。
温泉へ入っている妙な恐竜として笑われていた個体は、一夜にして別の顔を持つことになった。
◇
その映像を、一般の視聴者とは少し違う目で見ていた者たちもいた。
恐竜ハンターだった。
彼らにとって恐竜は、美しくも恐ろしく、同時に仕事の対象でもある。人間の生活圏へ入り、被害を出す危険個体がいれば追跡し、必要なら殺す。どれほど見事な生き物であっても、現場で向き合えば狩る側と狩られる側という関係になる。
だからこそ、福島の映像は簡単には受け止められなかった。
七人が投入され、六人が死亡した。
唯一生き残ったベテランハンターも無傷ではない。
しかも赤い恐竜は、後から映像を分析する限り、異常行動を起こした特殊な怪物だったわけではなかった。市街地という環境、避難しきれていない住民、確保できない射線、崩れた連携、すでに興奮し負傷していた大型肉食恐竜。それらが重なった結果として、人間側が壊滅的な損害を受けた。
ハンター向けの閉じたコミュニティでは、事件当日の夜から派手な言葉がほとんど消えていた。
『赤を倒した黒、やばすぎる』
そんな軽い投稿には、すぐに訂正が入った。
『映像ちゃんと見ろ。赤いのは六人が倒れるまでにかなり撃たれてる。左後肢もその前から死んでる』
『最後に撃ったのも黒いやつじゃない。生き残ったハンターだ』
『黒いのが右肩を噛ませて、赤いやつの頭を押さえた。その位置へハンターが撃ってる』
『あれ、狙ってやったのか?』
『分からん。でも結果としては完璧に射線作ってる』
討伐結果だけを見れば、温泉恐竜が七人のハンターでも倒せなかった相手を仕留めたようにも見える。しかし現場を知る者ほど、そんな単純な比較を嫌った。
先に戦ったハンターたちが与えた傷がなければ、結果は違ったかもしれない。生き残った四番が最後の一発を撃たなければ、右肩を噛まれた黒い恐竜がそのまま振り回されていた可能性もある。
一方で、黒い恐竜が母娘の前へ入らなければ、二人は助からなかったかもしれない。黒い恐竜が最後に赤の頭を押さえなければ、唯一のハンターに撃つ機会が訪れなかった可能性も高い。
どちらか一方が勝った戦いではなかった。
だからこそ、現役のハンターたちには重かった。
やがて、あるベテランハンターが文章を投稿した。
『本来なら、あいつと俺たちは狩る側と狩られる側だ。いつか仕事で向き合う可能性だってある。でも今日の映像を見て、何も感じないならハンター辞めたほうがいい。あの場で赤い大型肉食恐竜の前に出たことには敬意を払う』
大勢がそれを共有した。
別のハンターは、娘へ覆いかぶさるようにしている母親と、その前方で赤い恐竜を食い止める黒い背中が同時に写った静止画だけを載せた。
『俺なら行けたかと聞かれたら、分からない。いや、無理だろうな。』
それ以上は書かなかった。
現役のハンターほど、六メートルを超える大型肉食恐竜へ接近する意味を知っている。銃があっても怖い。仲間がいても怖い。それを、黒い恐竜は自分の身体だけで止めに入った。
さらに彼らの目を引いたのは、最後の決着だった。
赤い恐竜の顎へ肩を差し出す。
噛まれたまま頭を下げる。
ハンターの射線へ押し込む。
そして撃たせる。
あれを偶然と見る者もいたし、人間との連携を理解していたと考える者もいた。結論は出ない。それでも、あの瞬間に生き残ったハンターと黒い恐竜が同じ相手を倒すために動いたという結果だけは、誰にも否定できなかった。
人間と恐竜の境界が消えたわけではないし、ハンターという仕事の性質が変わったわけでもない。将来、温泉恐竜が人間へ危害を加えれば、彼らが追う側になる可能性さえある。
それでも福島の一夜を見たあとでは、山へ帰っていく黒い背中を単なる獲物として見ることはできなかった。
それは、恐竜を狩ることを仕事にしている人間だからこそ抱く敬意だった。
◇
当の本人は、世間で自分がそんなふうに語られていることを何も知らなかった。
三日ほど経つと、歩くだけならかなり楽になった。男は洞窟の近くでは狩りをせず、数キロ離れた場所で小さな獲物だけを狙い、危険な相手を見つければ迷わず避けた。仕留めた獲物も洞窟へ持ち帰らず、その場で必要なだけ食べ、沢で口元と前肢についた血を落としてから戻る。
小さな同行者は、そのあいだ近くの植物を食べて待っていた。帰り道ではいつの間にか男の横へ並び、傷のため歩調が遅くなっても先へ行こうとはしない。
(……お前、律儀だな)
返事はない。それでも、一人で傷を治しているよりはずっとよかった。
一週間が過ぎるころには右肩の傷も塞がり始めた。前肢へ普通に体重をかける程度なら問題なく、肋の痛みも深く身体を捻らなければ気にならない。全身にあった細かなガラスの切り傷は、すでにほとんどが薄い痕へ変わっていた。
昼間は洞窟で休み、必要なときだけ外へ出る。水を飲み、食べ、眠り、ときどき小さな恐竜が持ってくる木の実を受け取る。
(だから俺、たぶん肉食なんだって)
そう思いながらも、相手が目の前で食べている種類なら一つくらい口へ入れた。
時間だけはたくさんあった。
テレビもスマートフォンもないため、母娘の前へ立つ自分の姿が世界中で再生されていることも、会釈が何度もスロー再生されていることも、敬礼されながら山へ帰る映像を見て「神々しい」とまで言う人間が現れていることも知らない。
敬礼されたこと自体は覚えている。
だからこそ、そんな場面が映像として残り、世間から大真面目に語られていると知れば、たぶん本人が一番困っただろう。
世界中で黒い恐竜の行動について無数の人間が議論しているころ、本人は山奥の洞窟で傷を治し、隣で眠る一メートルほどの草食恐竜を踏まないよう身体を丸めていた。
◇
二週間が過ぎるころには、身体の調子はかなり戻っていた。
男は洞窟の外へ出て、久しぶりに全身を大きく伸ばした。
青森の山中でこの身体になったころと比べれば、明らかに視点が高くなっている。福島へ入った時点で鼻先から尾まで四メートル近くまで育っていた身体は、二週間にわたって十分に食べ、眠り、ほとんど無駄な運動をしなかったことで、さらに一回り厚みを増していた。全長そのものも四メートルをわずかに超えたらしく、特に後肢と尾の付け根には以前よりはっきりと筋肉がついている。
(またでかくなったな……)
成長期なのだろう。
最終的にどこまで大きくなるのかは、相変わらず分からない。
右の前肢をゆっくり動かしてみる。噛まれた箇所にはまだ傷痕が残っているものの、日常の動作で痛みは出ない。後肢へ体重を移して胴体を捻ってみても、肋の奥にわずかな違和感がある程度だった。
最後に、平坦な場所を軽く走る。まだ全力疾走にはしない。
それでも風が身体の横を流れ、四肢が思った位置へ動く感覚は戻っていた。
(もう少しだな)
あと数日休めば、南下を再開できる。
栃木を抜ければ、その先は関東だ。
そして八王子がある。
青森にいたころには途方もなく遠く感じた場所が、今では地図の上でも現実的な距離まで近づいていた。
ただし、出発する前に一つだけやりたいことがあった。
男は右肩へ顔を向け、噛まれた痕を確認した。表面はかなり塞がっているが、まだ完全ではない。
(これがちゃんと治ったら……温泉入ろう)
今度こそ、人間に見つからないところでゆっくり入る。
傷口が残ったまま湯へ浸かる気にはならないが、完全に塞がったあとなら問題ないはずだ。福島まで来れば温泉地はいくらでもあるし、山の中を探せば人の少ない場所の一つくらい見つかるかもしれない。
(絶対入る)
妙に強く心へ誓った。
六メートルを超える肉食恐竜と命懸けで戦い、右肩を噛まれ、ビルの壁へ叩きつけられ、それでも生きて帰ってきたのだ。
温泉くらい入っても罰は当たらない。
男が洞窟へ戻ると、小さな同行者が入口近くまで迎えに来た。奥へ進めば当然のようについてきて、防水シートの上へ身体を伏せると、いつもの場所へ収まる。療養を始めたころには傷へ触れないよう反対側にいたのに、今では再び腹の近くまで寄って眠るようになっていた。
福島へ入ってから、予定は大幅に狂った。身体中に傷が増え、人間にはこれまでで一番派手に姿を見られ、南下も二週間以上遅れている。それでも自分は生きていて、地図もバッグも残り、隣にはなぜか最後までついてきた小さな同行者もいる。
傷が塞がれば、また歩ける。
八王子へ向かう旅も再開できる。
その前に、温泉へ入る。
そこだけは譲らない。
(よし。治すぞ)
男は身体を丸め、目を閉じた。
山の外では、母娘の前に立った黒い背中と、人間へ頭を下げて山へ帰る姿が、畏怖や尊敬とともに何度も語られている。
そんなことは何も知らないまま、黒い恐竜は次に入る温泉のことを考えながら、静かに傷が塞がるのを待っていた。
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