温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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第2章 人間の頭、恐竜の身体

 恐竜になったからといって、森で暮らす方法まで分かるわけではなかった。そのことを、男は最初の夜だけで嫌というほど思い知らされた。

 

 日が完全に沈む前に寝床を確保しようと考えたところまではよかった。人間だったころに見たキャンプ動画やサバイバル番組の記憶を頼りに、水辺そのものは増水や野生動物との遭遇が怖いため避け、沢から少し離れた斜面を選ぶ。背後には大きな岩があり、前方には低木が茂っているので、少なくとも四方から無防備に近づかれる場所ではない。

 

 問題は、そこから先だった。雨風を避けられる場所を見つけても、自分はテントも寝袋も持っていない。ライターどころか服さえなく、全身を覆う黒い皮膚も夜の山の冷気までは防いでくれなかった。日が沈むにつれて地面から冷たさが這い上がり、男は身体を丸めながら、ようやく「寝床を見つける」と「安全に眠れる」は別の話なのだと理解した。

 

 落ち葉を集めれば多少はましになるかもしれない。そう考えて前肢で掻き寄せてみたものの、人間の手なら数分で済む作業にひどく苦労した。湾曲した爪は土を掘ったり何かを引き裂いたりするには便利そうだが、枯れ葉を丁寧に集める用途にはまるで向いていない。十分ほど格闘した末に完成したものは、寝床というより落ち葉を雑に積み上げただけの山だった。

 

(火があればなあ……)

 

 乾いた枝を集めて火を起こせれば、暖を取れるし、生肉を食べずに済むかもしれない。知識としてなら火起こしの方法はいくつか知っている。しかしライターもマッチもなく、摩擦で火種を作ろうにも、この前肢では細かな作業そのものが難しい。知っていることと、できることは違う。人間だったころの知識は間違いなく武器になるだろうが、その多くは人間の身体と、人間社会の道具を使えることを前提としている。今の自分には親指もなければ、ポケットも財布もスマートフォンもなかった。

 

 男は火を諦め、どうにか集めた落ち葉の中へ身体を沈めた。尾の置き場所に迷った末、身体へ巻きつけるようにすると意外なほど収まりがよく、頭を前肢の間へ入れれば風も多少は避けられる。その姿勢が妙に自然だったことが少し気になったものの、すでに考える気力は残っていなかった。眠れるとは思わなかったが、身体の疲労は本人が思っていた以上に深かったらしく、森が完全な闇へ沈む前に意識は途切れた。

 

◇

 

 何かが枯れ葉を踏んだ。その小さな音だけで、男は目を覚ました。

 自分でも驚くほど唐突な覚醒だった。人間だったころなら目覚まし時計を何度も止めた記憶があるのに、今は意識が浮上した瞬間には身体がほとんど動かず、耳だけが音の位置を探っている。右前方。距離は分からないが、何かがゆっくり近づいている。

 

 男は目を開けた。真っ暗だと思ったのは最初の数秒だけで、月明かりのほとんど届かない森の中に、徐々に木々の輪郭が浮かび上がってくる。昼間ほど色彩は分からないものの、幹の位置や岩の形、低木の枝まで判別できた。

 

(夜目も利くのか)

 

 便利だと思うより先に、また音がした。今度は近い。身体を起こさず頭だけをわずかに持ち上げると、昼間に捕まえた蛙や逃がした鼠とは違う、もっと大きな生き物の獣臭が届いた。湿った毛や土だけでなく、生きた肉の温度まで鼻の奥で感じ取っているような生々しさがある。

 

 低木の向こうで影が動き、男の身体が強張った。現れたのは若い鹿だった。それほど大きな個体には見えないが、今の自分とは比較にならないほど重く、踏まれただけでも無事では済まないだろう。

 

 鹿は数歩進んだところで立ち止まり、耳を動かしてから鼻先を上げた。こちらの匂いを探しているらしい。逃げるべきか迷ったが、ここから飛び出せば確実に気づかれる。男は地面へ伏せたまま動かず、鹿の顔がこちらを向いても耐えた。

 

 数秒が過ぎても、鹿は逃げなかった。不思議に思って視線だけを自分の前肢へ落としたところで、男は初めて異変に気づいた。黒かったはずの皮膚が灰色がかったまだら模様へ変化し、岩と濡れた落ち葉に近い色になっている。完全に周囲と同化しているわけではなく輪郭も残っているが、じっとしている限り、夜の森ではかなり見つけにくそうだった。

 

 一部の人工交雑種には、遺伝情報を補完するために組み込まれた現生生物由来の形質が、想定以上に強く現れることがある。体表色をある程度変化させる種類が存在するという話も、ニュースか動画で見た覚えがあった。透明になるわけではなく、動けば輪郭は簡単に見える。それでも今の状況では十分な能力だった。

 

 鹿はしばらく警戒した末、やがて視線を外した。男は安堵しかけたが、その瞬間、自分の中にまったく別の感覚が生まれた。今なら近づける。風向きはこちらに有利で、背後から距離を詰めればいい。後肢を狙って転倒させ、そのあと首へ噛みつく――文章として考えたわけではないのに、鹿の身体を見ただけで、どこへ飛びつけばいいのかが説明されるまでもなく分かってしまった。

 

 前肢の爪がわずかに土へ食い込み、後肢に力が入る。口の中に唾液まで溜まったところで、男は自分の反応にぞっとした。

 

(やめろ。無理だ。今の俺じゃ小さすぎる)

 

 相手との体格差を考えれば襲う理由などない。まして自分は鹿を殺した経験など一度もない。それでも身体はしばらく鹿を追いたがり、その事実のほうが鹿そのものより怖かった。

 

 やがて鹿は何事もなく森の奥へ歩いていった。匂いが薄れ、足音も聞こえなくなったところで、男はようやく身体の力を抜いた。

 

 恐竜になったということは、単に牙や爪が生えたという意味ではないらしい。この身体には、この身体なりの都合がある。人間だった自分が望んでいなくても、追いたいものがあり、食べたいものがあり、怖がるものがある。それをどこまで自分で制御できるのか。男は夜の森でそのことを考え続け、しばらく眠り直すことができなかった。

 

◇

 

 翌朝、男は鹿が消えていった場所を調べた。昨夜のことを思い出せば放っておいてもよかったのだが、今の身体で何ができるのか知っておく必要があると思ったからだ。

 

 地面には蹄の跡が残り、それ以上にはっきりしているのが匂いだった。鼻先を地面へ近づける必要すらなく、昨夜の鹿が通った方向に薄い糸のような痕跡が森の中へ伸びている。慎重に数百メートルほど追うと足跡が増え、匂いも一気に複雑になった。どうやら群れと合流したらしく、一頭なら追えた痕跡も何頭分も重なると途端に分かりにくくなる。

 

(何でもできるわけじゃないんだな)

 

 男は少しだけ安心した。この身体の能力は人間より優れているが、魔法ではない。視界には限界があり、匂いも混ざれば分からなくなる。擬態も動けば破れるし、自分より大きな相手に噛みつけば普通に殺されるだろう。

 

 追跡を打ち切り、昨日の沢へ戻ろうとしたところで、今度は別の問題に気づいた。どちらから来たのか分からない。太陽の位置から大まかな方角は推測できるものの、森には似たような木と岩と斜面が延々と続き、人間の目で使える目印がほとんどなかった。

 

(こういうとき、地図ってすごかったんだな……)

 

 失って初めて分かる。男は少し考え、昨日から気になっていた感覚を試すことにした。その場でゆっくり身体の向きを変えてみると、ある方向へ顔を向けたときだけ、頭の奥に微かなざらつきが生じる。さらに回れば薄れ、元へ戻せばまた感じる。痛みでも耳鳴りでもなく、強いて言えば、方向そのものに「居心地の悪さ」が付いているような感覚だった。

 

 昨日も同じだった。人間だったころ、方角を身体で感じた経験など一度もない。それでも今は、森の一方向だけが他とは違って感じられる。男は試しにその違和感を基準に歩き、十分ほど進んだところで水の匂いを捉えた。そこからさらに数分進むと、木々の間に見覚えのある沢が現れた。

 

(偶然……だよな)

 

 違和感そのものが沢を教えたわけではない。途中からは水の匂いを追っているし、ただ一定方向を認識する何らかの感覚があるだけかもしれない。渡り鳥やウミガメが地球の磁場を利用して移動するという話を、どこかで聞いた覚えもあった。

 

 そこまで考えたところで、男はそれ以上の推測をやめた。恐竜になった翌日に、自分には磁気を感じる器官があると結論づけても確かめようがない。それより重要な問題として、腹が減っていた。

 

◇

 

 二日目の食事は、初日以上に苦労した。蛙を一匹、大きめの昆虫を数匹。鼠には二度逃げられ、それだけでは昼を過ぎるころには腹の底が空になった。昨日より明らかに空腹になるのが早く、今の身体が成長期なのだとすれば、そのせいかもしれない。

 

(燃費悪すぎるだろ……)

 

 沢沿いを歩きながら獲物を探していると、少し先の開けた場所に鳥がいた。地面へ降りて何かを啄んでおり、距離は二十メートルほどある。昨日までなら、そのまま近づいて逃げられていただろう。

 

 男は身体を低くし、動きを止めた。しばらく待つと、前肢の色がゆっくりと変化し始め、黒一色だった皮膚に周囲の土と落ち葉に似た色が混じっていく。鳥が気づいていないことを確認してから一歩だけ進み、顔を上げれば止まり、再び地面を啄み始めるまで待った。

 

 昨夜の鹿を襲おうとした身体の感覚を、今度は意識して利用してみる。風向き、距離、足を置く場所、踏めば音の出る枯れ枝。身体の中から自然に湧いてくる感覚と、人間として状況を考える頭を重ねると、昨日よりはるかに静かに距離を詰められた。十メートルを切り、さらに近づく。鳥がこちらを見たところで男は動きを止め、逃げないことを確認してから後肢へ力を溜めた。ここまでは身体が教えてくれる。問題はその先だった。

 

 地面を蹴った瞬間、想像していたよりはるかに強い加速で視界が流れた。鳥が慌てて羽ばたき、男は前肢を伸ばしたが、ほんの少し届かない。さらに身体を伸ばそうとしたところで空中の重心が崩れ、そのまま顔から落ち葉へ突っ込んだ。

 鳥は無事に飛び去った。男は鼻先を地面へ埋めたまましばらく動けず、ようやく顔を上げてから、身体が分かっていても自分が下手なら駄目なのだと理解した。本能があるからといって、技術まで完成しているわけではないらしい。

 

 そこから何度も失敗した。近づきすぎれば逃げられ、飛び出すのが早ければ届かず、加速しすぎれば止まれない。それでも失敗するたびに少しずつ修正し、身体の感覚を人間の頭で分析して次の試行へ反映することで、夕方近くになってようやく一羽を捕らえた。

 

 牙の間で鳥が暴れた瞬間、男の動きが止まった。生きている。食べるためには、自分で殺さなければならない。人間だったころ、肉はすでに切り分けられてスーパーに並んでいた。その途中にある行為を意識する必要はなかった。

 

(……ごめん)

 

 男はできるだけ短く済ませ、それから食べた。昨日の蛙ほど強い抵抗を感じなかったことが少し嫌で、それ以上に、満たされていく腹へ安堵している自分がいた。慣れたくはない。それでも慣れなければ死ぬ。森の中では、それが答えだった。

 

◇

 

 三日目、男は自分なりの規則を作った。水場から離れすぎない。知らない大型動物には近づかない。人間の生活圏へ不用意に入らない。正体の分からないものは食べない。そして何より、戦わなくていい相手とは戦わない。

 

 人間だったころなら、わざわざ決める必要すらない内容ばかりだった。しかし今の身体には動くものを追いたがる性質があり、空腹になればその衝動も強くなる。だからこそ、頭で止める。少なくとも今の自分には、それができる。

 

 男は南への移動を再開した。道路そのものには出ず、森の中から並行して進み、道路標識や橋、送電線などを大まかな目印として利用する。人間の作った道を堂々と歩くことはできなくても、人間の作った地理は利用できる。この方法は思った以上にうまくいき、少しずつ自分なりの旅の仕方が見えてきた。

 

 ところが四日目、別の問題に気づいた。身体が大きくなっている。

 最初は気のせいだと思った。前肢がわずかに太くなり、爪も長くなっているように見えるものの、比較するものがないため自信がない。そこで休憩場所の木へ爪で印をつけ、四肢で自然に立った状態から頭の最も高い位置を記録した。

 

 翌日はほとんど変わらなかった。だが数日後、別の場所で同じ方法を試したときには、自分でも分かるほど違っていた。測り方が雑なので数センチ程度なら誤差かもしれないが、脚が強くなり、一度に食べられる量が増え、跳べる距離まで伸びている。身体が成長していること自体は間違いなかった。

 

(……早くないか?)

 

 そこで初めて、旅に制限時間があることに気づいた。今は小さいため森へ入れば隠れられるし、遠目なら大型のトカゲか何かと見間違えられる可能性すらある。だが、このままニュースで見る人工肉食恐竜のように数メートルまで成長すれば、道路を横切るだけで通報され、街へ近づけば騒ぎになる。八王子の住宅街へ入るなど、ほとんど不可能になるかもしれない。

 青森から東京まで数百キロあるうえ、直線で進めるわけでもない。山や川があり、街を避ければ迂回も増える。そして自分は、一日ごとに目立つ存在になっていく。

 急がなければならない。八王子へ帰るという目的に、初めて期限が生まれた。

 

◇

 

 一週間ほど経つころには、森での生活にも最低限のリズムができていた。朝に水を飲み、気温が上がる前から移動する。匂いと音で小動物を探し、捕まえられそうにない相手を無理には追わない。夕方になる前に寝床を探し、人間の気配があれば離れる。初日のように何も分からず右往左往することは減っていた。

 

 だが、この身体が便利だと思ったことは一度もない。爪は獲物を捕らえるには役立つが、道具を扱うには邪魔になる。道路脇で拾った空のペットボトルは蓋を開けるだけで数分かかり、袋を結ぶことはほとんど不可能だった。逆に、人間なら躊躇するような斜面を簡単に登り、岩場では足場をほとんど確認せず進める。できることと、できないことの境界が完全に変わっている。

 

 男はそれを一つずつ覚えていった。そして同時に、身体が自分より先に知っていることにも慣れ始めていた。走るときの尾の使い方、跳ぶ直前に後肢へ力を溜める感覚、獲物との間合い、噛みつく場所、危険な匂い。人間だった自分が学んだ覚えのないものが、言葉ではなく身体感覚として存在している。

 

 ほとんどは本能なのだろう。男もそう考えていた。ただ、ときどき、それだけでは説明しにくいものが混じった。

 

 その日、森の中で一本のロープを見つけた。林業か何かで使われたものだろう。太い化学繊維のロープが途中で切れ、泥の上に半分埋まっている。

 男はそれを見た瞬間、理由もなく足を止めた。

 危険なものではない。匂いを確かめても、泥と油と人工繊維の臭いがするだけだった。それなのに身体が強張り、首の付け根が落ち着かない。近づきたくないのに、同時に噛み切ってしまいたいという、矛盾した衝動が湧いてくる。男が恐る恐る一歩近づいたとき、風に煽られたロープの端が地面を擦った。

 

 その瞬間、頭の中に見知らぬ光景が走った。白い床。低い視点。その先にある金属。首の近くを締めつける硬い感触。鼻を刺す消毒薬と油の匂い。そして、すぐ近くで何かが金属を叩く音。男は反射的に後ろへ跳んだ。

 映像は一瞬で消え、目の前には元の森と古いロープだけが残った。心臓は激しく鳴っている。人間だった自分に拘束された記憶などないし、少なくとも思い出せない。それなのに、この身体はロープを知っている。

 

(今の……何だ?)

 

 もう一度記憶を探ろうとすると、初日と同じように頭の奥が重くなった。男はそれ以上追及しなかった。今は八王子へ帰るほうが先であり、意味の分からない記憶に深入りして体調を崩す必要もない。ロープを大きく迂回して歩き出す。数十メートル進んだところで一度だけ振り返ると、当然ながらロープは泥の上に横たわったままだった。それでも、十分に距離を取れたことへ安堵している自分がいた。

 

◇

 

 その日の午後、男は道路脇に小さな休憩所を見つけた。古びたベンチと公衆トイレ、それから自動販売機が一台置かれている。駐車場に車はなく、人の姿もない。それでもすぐには近づかず、森の中から十分ほど様子を見て、エンジン音がないことと新しい人間の匂いがないことを確かめてから木陰を出た。

 自動販売機には、水、お茶、缶コーヒー、炭酸飲料と見慣れた商品が並んでいる。その中に赤いラベルのボトルを見つけたところで、男は足を止めた。

 

(コーラ……飲みたいな)

 

 沢の水には困っていないし、今は喉が渇いているわけでもない。それでも、冷えたボトルの感触も、蓋を開けたときの音も、炭酸が喉へ刺さる感じも覚えている。それは単なる飲み物ではなく、人間だったころの日常そのものだった。

 

 男は自動販売機の前へ座った。当然ながら硬貨は持っていない。仮に持っていたとしても、この前肢で財布から取り出して投入口へ入れるのは相当苦労するだろう。ボタンなら押せるのに、その前のわずかな手順を越えられない。

 人間社会は目の前にある。それなのに、ガラスと金属の箱一つを挟んだ向こう側に、自分だけが取り残されているような気がした。八王子までの距離よりも、よほど遠い。

 男はしばらく商品見本を眺めていたが、やがて諦めて立ち上がった。その瞬間、遠くからエンジン音が聞こえてきた。身体が先に反応した。森まで二十メートル以上ある。今から戻るより、自動販売機の裏へ隠れたほうが早い。男は素早く回り込み、地面へ身体を伏せると、そのまま動きを止めた。

 

 しばらくすると、体表がゆっくり変化し始めた。黒い皮膚にコンクリートや汚れた外壁に近い灰色が混じっていく。ただし輪郭が消えるわけではない。ここで動けば簡単に見つかる。

 一台の軽トラックが駐車場へ入ってきた。

 運転席から降りてきたのは、作業着と長靴を身につけた高齢の男性だった。腰には工具らしきものを下げている。男は呼吸を抑えながら、その人物が自動販売機へ近づいてくる音を聞いた。

 硬貨が投入され、ボタンが押される。商品が落ち、缶を開ける音が続いた。コーヒーの匂いまで鼻へ届き、こんな状況なのに男は少し羨ましくなった。

 男性はベンチへ座り、スマートフォンを操作し始めた。しばらくするとニュース動画らしき音声が流れてくる。

 

『――数年前に発生した太平洋北部の海底火山噴火について、観測機関は周辺地域で記録された磁気データの乱れとの関連を調査しています。また、国内の複数地点では、噴火活動が収まった後の今月上旬にも通常の地磁気変動とは異なる短時間の異常値が記録されました。一方、観測機器側の障害も確認されており、現時点で噴火との因果関係は――』

 

 男は聞き流そうとしたが、そのとき頭の奥に微かな違和感が走った。痛くはない。ただ、ある方向だけが妙に落ち着かない。二日目に森で迷ったときにも、初めて目覚めた朝にも感じたものだった。

 ニュースから聞こえてきた「地磁気」という言葉が頭に残る。

 

(……まさかな)

 

 渡り鳥やウミガメが磁場を感じるという話は知っている。人工的に複数種の遺伝子を組み合わせた恐竜が似た感覚を持っていても、絶対にあり得ないとは言い切れない。ただし証拠は何もなく、自分が疲れているだけかもしれないし、未知の匂いや音を方向感覚として誤認している可能性もある。男は結論を出さなかった。

 

 そのとき、高齢の男性が立ち上がった。男は思考を止め、完全に動かなくなった。男性は缶を捨てて軽トラックへ戻ろうとしたが、自動販売機の横まで来たところで足を止めた。

 

「……なんだ?」

 

 男の心臓が強く鳴った。相手はこちらを見ている。

 擬態で色は紛れている。それでも、男性との距離は数メートルもない。じっくり見られれば形のおかしさには気づくだろう。男性が一歩近づいた。逃げるなら今だ。しかし走れば確実に正体を見られる。

 身体はすでに後肢へ力を溜め、森までの最短経路を選ぼうとしていた。一方で人間の頭は、まだ待てと命じている。さらに一歩。そのとき男性のポケットから着信音が鳴った。

 

「はいよ」

 

 注意が逸れた。男性はそのまま通話しながら軽トラックへ戻り、ドアを閉めた。エンジンがかかり、車が駐車場を出ていく。それでも男は動かなかった。

 エンジン音が完全に聞こえなくなってから、さらに一分ほど待ったところでようやく身体を起こした。後肢にはまだ力が入り、心臓も速く鳴っている。

 擬態は使える。しかし完璧ではない。あと数歩近づかれていたら、見つかっていた可能性が高い。人間には不用意に近づかない。その規則を改めて胸に刻み、男は森へ戻ろうとした。だが木陰へ入る直前、もう一度だけ自動販売機を振り返った。

 赤いラベルの炭酸飲料が並んでいる。

 

(いつか飲もう)

 

 八王子へ帰ったら。人間と意思を伝える方法を見つけたら。そして、いつかまた金を払って普通に買えるようになったら。そんな日が本当に来るのかは分からない。

 それでも男は、その小さな願いだけは捨てなかった。

 

◇

 

 夕方、男は小高い斜面から遠くの道路を眺めていた。木々の隙間をときどき車が走り、さらに向こうには人家らしき屋根も見えている。あそこへ行けば食料も地図も電話もあり、夜になれば暖かい部屋で眠ることもできるだろう。人間だったころには、どれも当たり前に使えていたものだった。

 今は、そのすべてが危険の向こう側にある。

 それでも、初日のような絶望感はなかった。一週間前には歩くことさえできなかったのに、今は水を探し、夜でも周囲を見渡し、匂いを追って小さな獲物を狩れる。動かなければ周囲へ紛れることもでき、時間はかかるが文字だって書ける。人間の身体を失ってできなくなったことは数え切れない一方で、この身体だからこそ可能なことも確実に増えていた。

 

 問題は、自分がまだその使い方を知らないことだった。

 そして、もう一つ。時間がない。

 男は自分の前肢を眺めた。最初の日より明らかに太くなり、爪も伸びている。身体が重くなったぶん後肢には力がつき、一度に食べる量も増えた。この成長が続けば、いつか森へ隠れることさえ難しくなる。

 

 八王子へ着くころ、自分がどれほど大きくなっているのかは分からない。

 だから、進むしかない。男は南へ身体を向けた。

 歩き始める直前、北東と思われる方角へ一度だけ顔を向ける。頭の奥には、相変わらず微かな不快感があった。

 

 今は、分からないものを分からないままにしておけばいい。

 その代わり、この一週間で確かめられたことはある。人間だったころの知識だけでは森を生き抜けず、この身体の本能だけに任せても八王子には帰れない。人間の頭で考え、恐竜の身体にできることを使う。身体が先に答えを出したなら、それが正しいかを頭で判断し、頭で方法を思いついても実行できないなら別の手段を探す。

 

 男は南へ向かって森を歩き始めた。目覚めた朝より足取りはずっと安定している。尾は意識しなくても身体の傾きを支え、足元の枝を避けるために一歩ずつ考える必要もなくなっていた。身体が少しずつ自分のものになっているようにも思えるし、最初からこの身体が知っていたことを、自分のほうが少しずつ受け入れているだけのようにも感じられる。

 

 どちらなのかは、まだ分からない。それでも目的地だけは変わらなかった。八王子へ帰る。そのために食べ、歩き、生き延びる。

 男は夕暮れの森を南へ進んだ。昨日よりわずかに大きくなった黒い身体は、木々の影へ溶けるようにして、やがて見えなくなった。

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