温度管理の都合で前話(掲示板回1 【福島】市街地に大型肉食恐竜出たらしい【避難情報】)からお読みください。
彼女にも帰るところがあったのだ
赤い恐竜は、ぬるいところが好きだった。
沢を見下ろす斜面の、平たい岩である。昼のあいだ日が当たり、夜になっても腹の下がぬるい。ずっと前に見つけて、それからは毎晩そこで眠っている。
ぬるいところが、好きだった。
ずっと昔、まだ身体が小さかったころ、白くて明るい場所にいた。頭の上にぬるい光があって、その下で丸くなっていると、二本足の生き物が食べ物を持ってきた。二本足の手が、ときどき背中に触れた。とても暖かくて、優しかったし、痛いことは一度もされなかった。
ある日、白い場所の外へ出された。
土があり、木があり、空があった。ぬるい光はなかった。自分が大きくなって、小さくなった二本足は、もう来なかった。
しばらく、同じ場所で待っていた。
来なかったので、歩いた。腹が減れば獲り、喉が渇けば飲み、寒い夜をいくつも越えて、やがてあの岩を見つけた。腹をつけると、あの光と同じぬるさがした。
(ここ)
それからは、そこが帰る場所になった。
◇
その日も、いつもと同じだった。
昼に、草を食べる恐竜を一頭獲った。暴れた相手に肩を少し裂かれたが、大した傷ではない。腹がふくれるまで食べ、水を飲み、あたりの匂いを確かめてから木陰に伏せた。
二本足はまだ帰ってこない。
(おなか いっぱい)
遠くの道を、硬い獣が走っていく音がした。中に小さいのを入れて運ぶ、あの速い獣だ。赤い恐竜は顔を上げ、立ち上がって、音のほうへ数歩だけ歩いた。
音は遠ざかっていった。
あれは道から出てこない。追っても食べられない。赤い恐竜は木陰へ戻り、もう一度腹をつけた。
(くらい かえる)
岩は今ごろ、よく日に当たっているはずだった。
◇
道のほうが、うるさくなった。
硬い獣が何頭も止まり、頭の上で赤い光を回している。その向こうに、二本足の小さいのがたくさん集まっていた。手に持った平たい板が、こちらを向いて光る。声がする。硬い獣が、甲高く鳴く。
赤い恐竜は顔を上げた。
二本足の小さいのは、嫌いではない。けれど、あんなにたくさんは見たことがなかった。食べ物を持っている匂いもしない。
(うるさい)
立ち上がって、山のほうへ歩いた。うるさいものからは離れる。いつもそうしてきた。山を越えれば沢があり、岩がある。少し早いが、もう帰ればいい。
木のあいだから、二本足の小さいのが二つ出てきた。
目の前だった。
「うわっ!にげろ! 恐竜だ、やべぇ!!」
大きな声だった。叫びながら、背中を向けて走っていく。
驚いたのは、赤い恐竜のほうだった。
(なに)(なに)
身体が勝手に向きを変えた。山から離れるほうへ。気がつくと、足の下が硬くなっていた。道の上だった。
声が増えた。二本足の小さいのが走り、硬い獣が一斉に動き出す。どこを向いても、動くものと音がある。空いているところを探して走ると、止まっていた硬い獣に肩がぶつかった。
それが、耳のそばで鳴いた。
(うるさい!)
頭を低くして、歯を見せた。あっちへ行け。そう言ったつもりだった。
硬い獣は、急に走り出した。
逃げるものを見ると、足が出る。身体がそうできている。数歩追って、追いつけないと分かって、やめた。
(……かえる)
山を探した。
山のほうには、赤い光がずらりと並んでいた。二本足の小さいのが大きな声を出している。空の上では、羽ばたかない鳥がうるさく鳴いている。
静かなのは、道の先だけだった。
赤い恐竜は、そちらへ走った。
その先に何があるのかは、知らなかった。
◇
まっすぐな岩が、両側に高く並んでいた。
土の匂いがしない。水の匂いもしない。どこを嗅いでも、小さいのの匂いしかしなかった。
(ちがう)(ここ ちがう)
戻ろうとした。来たほうは、もう赤い光でふさがっていた。
小さいのが二つ、近づいてきた。長い棒を持っている。
食べ物ではない、と分かった。それでも赤い恐竜は逃げなかった。小さいのに、痛いことをされた覚えがなかったからだ。
音がした。
胸が、焼けた。
(いたい!)
何をされたのか分からなかった。噛まれていない。爪も届いていない。それなのに、身体の中へ熱いものが入ってくる。
少しして、また音がした。
(いたい)(やめて)
小さいのを見た。昔、背中に触れたのと同じ形の手が、棒を握っていた。
(なんで)
やめなかった。音は、いくつも続いた。
だから、走った。痛いのを出すものを、止めるために。尾で払い、口で掴んで、放った。
小さいのは、動かなくなった。
音が止まった。
(……おわった?)
胸から、温かいものが垂れている。息が苦しい。水が飲みたかった。
終わっていなかった。
◇
今度は五つ来た。
さっきより遠くから、いくつもの方角から、痛いのが入ってくる。まっすぐな岩の陰へ隠れても、頭の上のうるさい鳥がついてきて、出たところをまた撃たれた。
(やめて)(やめて)(もう やだ)
音のするほうへ走れば、止められる。それだけは覚えた。
草を踏み潰し、硬い獣の殻を肩で押しのけて、一番近い一つへ走った。首と肩に、熱いものが二つ入った。それでも走って、止めた。
別のところから音がした。そちらへ走って、止めた。
三つ目は、転んで棒を落とした。そちらへ向きかけたとき、残りの二つから、熱いものが続けて入った。腹。肩。左のうしろあし。地面を踏むと、足が言うことをきかない。身体が傾く。
倒れたら、もっと痛いのが来る。
踏ん張って、その二つへ走った。
一つが、もう一つを後ろへやった。そして自分だけ、広い道の真ん中へ出てきた。膝を地面について、棒をこちらへ向ける。
逃げない。
隠れもしない。
赤い恐竜が走っても、近づいても、そこから動かずに、痛いのを出し続けた。
(やめろ!)
自分は帰りたいだけだった。ぬるいいつもの岩場で眠りたいだけだった。
(なんで にげないの)
小さいのは、大きいものが走ってくれば逃げる。ずっとそうだった。それなのに、あれは逃げない。熱いものが三つ入った。目の前まで行っても、まだ棒を下ろさなかった。
最後の音は、顔のすぐ前でした。
その小さいのも、止めた。
音が、なくなった。
◇
静かになった。
あちこちで、まっすぐな岩が燃えている。煙が目にしみる。左のうしろあしは、もう引きずるだけだった。身体じゅうが熱くて、それなのに寒い。
(みず)
沢はない。
(ねむい)
ぬるい岩もない。
赤い恐竜は、音と小さいのの少ないほうを探して歩いた。
そのとき、まっすぐな岩の切れ目の向こうに、黒い形が見えた。空が赤くなっていて、その下に、見慣れた形が横たわっている。
山だった。
(あっち)
あの下に沢がある。平たい岩がある。昼の日がまだ残っていて、腹をつければ、きっとぬるい。
(かえる)
歩き出した、その先の角から、小さいのが出てきた。
小さいのは、こちらを見て、走った。
赤い恐竜の身体が、固くなった。
小さいのは、痛いのを出す。
今日、それを覚えた。出される前に止めれば、痛くない。それも覚えた。あの小さいのは棒を持っていなかったが、赤い恐竜には、もう見分けがつかなかった。
(やだ)(いたいの やだ)
追った。
足を引きずって、それでも小さいのよりは速かった。
小さいのは、走るのをやめた。
道の上にしゃがんで、背中をこちらへ向けた。その下に、もっと小さいのがいる。大きいほうが、小さいほうへかぶさって、動かない。
棒は出てこなかった。
音もしなかった。
ただ、小さな声がした。痛いのを出す声ではない。白い場所で、頭の上から聞こえていたのと、少し似た声だった。
それが何なのか、赤い恐竜には分からなかった。
分からないものは、怖かった。
頭を下げた。口を開けた。
止める方法を、ほかに知らなかった。
◇
横から、黒いのがぶつかってきた。
首の付け根に爪が食い込み、頭ごと横へ持っていかれた。噛み合わせた歯のあいだには、何もなかった。動かない足が身体を支えきれず、硬い地面を肩から滑る。
(いたい!)
起き上がると、黒いのが立っていた。小さいのと、自分のあいだに。知らない匂いだった。
自分より、ずっと小さい。
それなのに、どかない。
(なんで)(なんで じゃまするの)
走れば、横へ跳ぶ。向きを変えれば、また横にいる。いつも、動かないほうの足の側にいる。爪が脇腹を掻き、歯がうしろあしの傷のそばへ入った。
(いたい! いたい!)
尾で払った。黒いのは飛んで、光る壁を割り、まっすぐな岩の中へ消えた。
追って、頭を入れた。これを止めれば終わる。終わったら、帰れる。
後ろで、赤い光の獣が一斉に鳴いた。
頭を抜いて振り向いた顔に、硬い水が当たった。雨ではない。目が開かない。息ができない。
(つめたい)(うるさい)(もう やだ)
水を振り払うと、黒いのがまた立っていた。
小さいのは、もういなかった。山の形も、煙で見えなくなっていた。それでも黒いのは、自分の前からどかない。
払っても、戻ってくる。背中に乗られた。うなじに歯が入る。壁へ背中ごとぶつけて、蹴り落とした。
黒いのは、立った。
脚を震わせて、血を流して、また立った。
(なんで たつの)
分からなかった。自分より小さくて、何度も飛ばされて、痛いはずなのに、逃げない。道の真ん中で膝をついていた、あの小さいのと同じだった。
うしろあしの傷そのものを、深く噛まれた。
足が、折れるように崩れた。身体が沈む。
目の前に、黒いのが伏せていた。もう動かない。腹を地面につけて、こちらを見上げている。
(これで おわって)
終わったら、帰る。
沢へ行って、水を飲む。平たい岩に腹をつけて、眠る。今日はずいぶん遅くなってしまったけれど、昼のあいだはよく晴れていた。あの岩なら、まだ少しくらいはぬるいはずだった。
(かえる)
そのためには、目の前の黒いのを止めなければならない。
赤い恐竜は、残った力で頭を振り下ろした。黒いのの肩に歯が入り、血の味が口いっぱいに広がる。これで逃げると思った。これまでのものは、痛くなれば逃げた。自分だって、ずっとそうしてきた。
けれど、黒いのは逃げなかった。
噛まれたまま前肢を伸ばし、こちらの顎を抱え込んでくる。爪が食い込み、頭を押し下げられた。振りほどこうとしても、傷ついた後肢では身体を支えられない。黒いのも震えていた。痛いはずなのに、それでも離れなかった。
(はなして)
帰りたい。
後ろで、音がした。一つ、頭のうしろに、熱いものが入った。
身体から急に力が抜け、顎を支えられなくなる。それでも赤い恐竜は、遠くに見える山から目を離さなかった。あの向こうへ行けばいい。道は知っている。沢の匂いも、岩の場所も覚えている。
もう一つ、音がした。
今度は、痛くなかった。
硬い地面へ身体が沈んでいく。立たなければと思った。日が沈んでしまう。岩が冷たくなってしまう。
(かえらなきゃ)
もう身体は動かなかった。
◇
痛いのは、もう来なかった。
どこも熱くない。寒くもない。あれほどうるさかった音が、水の向こうにあるように遠かった。赤い光の獣も、鳴くのをやめていた。
黒いのが、そこにいた。
肩から血を流して、荒い息をして、すぐそばに座っている。噛みついてこない。爪も立てない。音も出さない。ただ、こちらを見ていた。
赤い恐竜も、黒いのを見た。
もう怖くなかった。黒いのの身体は傷だらけで、肩から流れた血が地面に落ちている。それでも逃げずに、すぐそばにいた。背後で燃えているものの赤い光がその瞳に映り、小さな光がいくつも揺れていた。
(きれい……)
ぼんやりと、そう思った。
ようやく、何も痛くなかった。何もうるさくなかった。ずっと鳴り続けていた硬い獣も、痛いものを飛ばしてきた小さいのも、もう遠くにいる。聞こえるのは炎のはぜる音と、黒いのが息をする音だけだった。
赤い恐竜は、ゆっくりと瞬きをした。
白くて明るい場所から外へ出されて以来、こんなに近くに誰かがいるのは久しぶりだった。
小さいころは、眠る前にも誰かがいた。食べ物を置いていく小さいのがいて、ときどき背中に手を置いてくれた。あの手が好きだったのかどうかは、もうよく覚えていない。ただ、触れられているあいだは、何も警戒しなくてよかった。
外へ出てからは、ずっと一頭だった。
獲物は逃げた。ほかの恐竜とは場所や食べ物を奪い合った。近づけば威嚇され、自分も威嚇した。眠るときは、音がすれば目を覚ました。だから平たい岩を見つけたときも、その上で眠るのは自分だけだった。
それを寂しいと思ったことはない。
寂しい、ということを知らなかった。
けれど今は、黒いのがいる。
自分が噛んだのに、まだいる。
爪を立ててこない。歯も見せない。逃げもしない。ただ、少し離れたところに身体を伏せて、こちらを見ている。
(いる)
それが、少しうれしかった。
赤い恐竜は鼻先をわずかに動かした。黒いのの匂いがした。血と泥と、知らない土地をいくつも通ってきた匂い。その向こうから、夜になりかけた山の湿った空気が流れてくる。
(……かえる)
そうだ。帰らなければならない。
少し休んだら、帰ろう。
煙の切れ目から、暮れていく空が見えた。その下には黒い山があり、木々の輪郭が重なっている。あの木々の奥には、きれいな水の流れる沢がある。喉が渇いたら、いつもそこで飲んだ。冷たい水に鼻先を入れると、水面に自分の赤い顔が映った。
沢から斜面を少し上れば、お気に入りの平たい岩がある。
今日も天気がよかった。
昼のあいだ、ずっと日に当たっていたはずだった。
だから、まだ間に合う。
今から帰れば、岩はきっと、ほんの少しだけぬるい。
(みず のむ)
それから、岩へ行く。
(ねる)
今日はたくさん走った。たくさん痛いことがあった。知らない場所まで来てしまった。だから、いつもより長く眠ればいい。
明るくなったら、また起きる。腹が減っていたら、何かを獲る。喉が渇いたら、沢へ行く。いつもと同じ日が、また始まる。
赤い恐竜は立ち上がろうとした。
前肢の先が、硬い地面を掻いた。
身体は起きなかった。
(……?)
もう一度、力を入れた。
動かなかった。
どうしてなのか分からなかった。痛くないのだから、動けるはずだった。少し休めば立てるはずだった。
黒いのが、わずかに身体を動かした。
赤い恐竜はそちらを見た。
(まって)
声にはならなかった。
(いま かえるから)
黒いのは動かなかった。
急かさなかった。
ただ、そこにいた。
視界の端から、少しずつ山が暗くなっていった。木々の形が溶けていく。それでも赤い恐竜には、沢の場所が分かっていた。暗くても帰れる。何度も歩いた道だった。
だから、不安はなかった。とてもまぶたが重かった。
(ちょっと ねる)
少しだけ。
ここで眠って、起きたら帰ればいい。
赤い恐竜は目を閉じかけて、もう一度だけ黒いのを見た。
炎を映した目が、まだそこにあった。
(きれい)
それに、ひとりではなかった。
(うれしい)
赤い恐竜は、ゆっくりと目を閉じた。
沢の水を思い出した。
平たい岩を思い出した。
まだ身体が小さかったころ、頭の上から降りてきたぬるい光も、ほんの少しだけ思い出した。
(おやすみ)
今度こそ、目を閉じた。
黒い恐竜は、そのあともしばらく動かなかった。
赤い恐竜は知らない。
もう沢へ水を飲みに行けないことも、平たい岩まで歩いて帰れないことも、明日の朝になっても目を覚まさないことも、最後まで知らなかった。
ただ、少し休んでから帰るつもりだった。
あの岩は今日もよく日に当たっていた。
きっと今ごろは、まだ少しだけぬるい。
赤い恐竜は、ぬるいところが好きだった。
断章3 赤い恐竜は家に帰りたかった 了
重い回の前書きに一言あった方がいいかアンケート調査です
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新鮮な気持ちで読みたいから不要
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重い話は読みたくないから必要
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これはお前の作品だろ(どっちでもいい)