温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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本日2回目の投稿です。

温度管理の都合で前話(掲示板回1 【福島】市街地に大型肉食恐竜出たらしい【避難情報】)からお読みください。

彼女にも帰るところがあったのだ


断章3 赤い恐竜は家に帰りたかった

 赤い恐竜は、ぬるいところが好きだった。

 

 沢を見下ろす斜面の、平たい岩である。昼のあいだ日が当たり、夜になっても腹の下がぬるい。ずっと前に見つけて、それからは毎晩そこで眠っている。

 ぬるいところが、好きだった。

 

 ずっと昔、まだ身体が小さかったころ、白くて明るい場所にいた。頭の上にぬるい光があって、その下で丸くなっていると、二本足の生き物が食べ物を持ってきた。二本足の手が、ときどき背中に触れた。とても暖かくて、優しかったし、痛いことは一度もされなかった。

 ある日、白い場所の外へ出された。

 

 土があり、木があり、空があった。ぬるい光はなかった。自分が大きくなって、小さくなった二本足は、もう来なかった。

 しばらく、同じ場所で待っていた。

 来なかったので、歩いた。腹が減れば獲り、喉が渇けば飲み、寒い夜をいくつも越えて、やがてあの岩を見つけた。腹をつけると、あの光と同じぬるさがした。

 

(ここ)

 

 それからは、そこが帰る場所になった。

 

◇

 

 その日も、いつもと同じだった。

 昼に、草を食べる恐竜を一頭獲った。暴れた相手に肩を少し裂かれたが、大した傷ではない。腹がふくれるまで食べ、水を飲み、あたりの匂いを確かめてから木陰に伏せた。

 二本足はまだ帰ってこない。

 

(おなか いっぱい)

 

 遠くの道を、硬い獣が走っていく音がした。中に小さいのを入れて運ぶ、あの速い獣だ。赤い恐竜は顔を上げ、立ち上がって、音のほうへ数歩だけ歩いた。

 音は遠ざかっていった。

 あれは道から出てこない。追っても食べられない。赤い恐竜は木陰へ戻り、もう一度腹をつけた。

 

(くらい かえる)

 

 岩は今ごろ、よく日に当たっているはずだった。

 

◇

 

 道のほうが、うるさくなった。

 硬い獣が何頭も止まり、頭の上で赤い光を回している。その向こうに、二本足の小さいのがたくさん集まっていた。手に持った平たい板が、こちらを向いて光る。声がする。硬い獣が、甲高く鳴く。

 赤い恐竜は顔を上げた。

 二本足の小さいのは、嫌いではない。けれど、あんなにたくさんは見たことがなかった。食べ物を持っている匂いもしない。

 

(うるさい)

 

 立ち上がって、山のほうへ歩いた。うるさいものからは離れる。いつもそうしてきた。山を越えれば沢があり、岩がある。少し早いが、もう帰ればいい。

 木のあいだから、二本足の小さいのが二つ出てきた。

 目の前だった。

 

「うわっ!にげろ! 恐竜だ、やべぇ!!」

 

 大きな声だった。叫びながら、背中を向けて走っていく。

 驚いたのは、赤い恐竜のほうだった。

 

(なに)(なに)

 

 身体が勝手に向きを変えた。山から離れるほうへ。気がつくと、足の下が硬くなっていた。道の上だった。

 声が増えた。二本足の小さいのが走り、硬い獣が一斉に動き出す。どこを向いても、動くものと音がある。空いているところを探して走ると、止まっていた硬い獣に肩がぶつかった。

 それが、耳のそばで鳴いた。

 

(うるさい!)

 

 頭を低くして、歯を見せた。あっちへ行け。そう言ったつもりだった。

 硬い獣は、急に走り出した。

 逃げるものを見ると、足が出る。身体がそうできている。数歩追って、追いつけないと分かって、やめた。

 

(……かえる)

 

 山を探した。

 山のほうには、赤い光がずらりと並んでいた。二本足の小さいのが大きな声を出している。空の上では、羽ばたかない鳥がうるさく鳴いている。

 静かなのは、道の先だけだった。

 赤い恐竜は、そちらへ走った。

 その先に何があるのかは、知らなかった。

 

◇

 

 まっすぐな岩が、両側に高く並んでいた。

 土の匂いがしない。水の匂いもしない。どこを嗅いでも、小さいのの匂いしかしなかった。

 

(ちがう)(ここ ちがう)

 

 戻ろうとした。来たほうは、もう赤い光でふさがっていた。

 小さいのが二つ、近づいてきた。長い棒を持っている。

 食べ物ではない、と分かった。それでも赤い恐竜は逃げなかった。小さいのに、痛いことをされた覚えがなかったからだ。

 音がした。

 

 胸が、焼けた。

 

(いたい!)

 

 何をされたのか分からなかった。噛まれていない。爪も届いていない。それなのに、身体の中へ熱いものが入ってくる。

 少しして、また音がした。

 

(いたい)(やめて)

 

 小さいのを見た。昔、背中に触れたのと同じ形の手が、棒を握っていた。

 

(なんで)

 

 やめなかった。音は、いくつも続いた。

 だから、走った。痛いのを出すものを、止めるために。尾で払い、口で掴んで、放った。

 小さいのは、動かなくなった。

 音が止まった。

 

(……おわった?)

 

 胸から、温かいものが垂れている。息が苦しい。水が飲みたかった。

 終わっていなかった。

 

◇

 

 今度は五つ来た。

 さっきより遠くから、いくつもの方角から、痛いのが入ってくる。まっすぐな岩の陰へ隠れても、頭の上のうるさい鳥がついてきて、出たところをまた撃たれた。

 

(やめて)(やめて)(もう やだ)

 

 音のするほうへ走れば、止められる。それだけは覚えた。

 草を踏み潰し、硬い獣の殻を肩で押しのけて、一番近い一つへ走った。首と肩に、熱いものが二つ入った。それでも走って、止めた。

 別のところから音がした。そちらへ走って、止めた。

 

 三つ目は、転んで棒を落とした。そちらへ向きかけたとき、残りの二つから、熱いものが続けて入った。腹。肩。左のうしろあし。地面を踏むと、足が言うことをきかない。身体が傾く。

 倒れたら、もっと痛いのが来る。

 踏ん張って、その二つへ走った。

 

 一つが、もう一つを後ろへやった。そして自分だけ、広い道の真ん中へ出てきた。膝を地面について、棒をこちらへ向ける。

 逃げない。

 隠れもしない。

 赤い恐竜が走っても、近づいても、そこから動かずに、痛いのを出し続けた。

 

(やめろ!)

 

 自分は帰りたいだけだった。ぬるいいつもの岩場で眠りたいだけだった。

 

(なんで にげないの)

 

 小さいのは、大きいものが走ってくれば逃げる。ずっとそうだった。それなのに、あれは逃げない。熱いものが三つ入った。目の前まで行っても、まだ棒を下ろさなかった。

 最後の音は、顔のすぐ前でした。

 その小さいのも、止めた。

 音が、なくなった。

 

◇

 

 静かになった。

 あちこちで、まっすぐな岩が燃えている。煙が目にしみる。左のうしろあしは、もう引きずるだけだった。身体じゅうが熱くて、それなのに寒い。

 

(みず)

 

 沢はない。

 

(ねむい)

 

 ぬるい岩もない。

 赤い恐竜は、音と小さいのの少ないほうを探して歩いた。

 そのとき、まっすぐな岩の切れ目の向こうに、黒い形が見えた。空が赤くなっていて、その下に、見慣れた形が横たわっている。

 山だった。

 

(あっち)

 

 あの下に沢がある。平たい岩がある。昼の日がまだ残っていて、腹をつければ、きっとぬるい。

 

(かえる)

 

 歩き出した、その先の角から、小さいのが出てきた。

 小さいのは、こちらを見て、走った。

 赤い恐竜の身体が、固くなった。

 小さいのは、痛いのを出す。

 今日、それを覚えた。出される前に止めれば、痛くない。それも覚えた。あの小さいのは棒を持っていなかったが、赤い恐竜には、もう見分けがつかなかった。

 

(やだ)(いたいの やだ)

 

 追った。

 足を引きずって、それでも小さいのよりは速かった。

 小さいのは、走るのをやめた。

 道の上にしゃがんで、背中をこちらへ向けた。その下に、もっと小さいのがいる。大きいほうが、小さいほうへかぶさって、動かない。

 棒は出てこなかった。

 

 音もしなかった。

 ただ、小さな声がした。痛いのを出す声ではない。白い場所で、頭の上から聞こえていたのと、少し似た声だった。

 それが何なのか、赤い恐竜には分からなかった。

 分からないものは、怖かった。

 頭を下げた。口を開けた。

 

 止める方法を、ほかに知らなかった。

 

◇

 

 横から、黒いのがぶつかってきた。

 首の付け根に爪が食い込み、頭ごと横へ持っていかれた。噛み合わせた歯のあいだには、何もなかった。動かない足が身体を支えきれず、硬い地面を肩から滑る。

 

(いたい!)

 

 起き上がると、黒いのが立っていた。小さいのと、自分のあいだに。知らない匂いだった。

 自分より、ずっと小さい。

 それなのに、どかない。

 

(なんで)(なんで じゃまするの)

 

 走れば、横へ跳ぶ。向きを変えれば、また横にいる。いつも、動かないほうの足の側にいる。爪が脇腹を掻き、歯がうしろあしの傷のそばへ入った。

 

(いたい! いたい!)

 

 尾で払った。黒いのは飛んで、光る壁を割り、まっすぐな岩の中へ消えた。

 追って、頭を入れた。これを止めれば終わる。終わったら、帰れる。

 後ろで、赤い光の獣が一斉に鳴いた。

 頭を抜いて振り向いた顔に、硬い水が当たった。雨ではない。目が開かない。息ができない。

 

(つめたい)(うるさい)(もう やだ)

 

 水を振り払うと、黒いのがまた立っていた。

 小さいのは、もういなかった。山の形も、煙で見えなくなっていた。それでも黒いのは、自分の前からどかない。

 払っても、戻ってくる。背中に乗られた。うなじに歯が入る。壁へ背中ごとぶつけて、蹴り落とした。

 

 黒いのは、立った。

 脚を震わせて、血を流して、また立った。

 

(なんで たつの)

 

 分からなかった。自分より小さくて、何度も飛ばされて、痛いはずなのに、逃げない。道の真ん中で膝をついていた、あの小さいのと同じだった。

 うしろあしの傷そのものを、深く噛まれた。

 足が、折れるように崩れた。身体が沈む。

 目の前に、黒いのが伏せていた。もう動かない。腹を地面につけて、こちらを見上げている。

 

(これで おわって)

 

 終わったら、帰る。

 沢へ行って、水を飲む。平たい岩に腹をつけて、眠る。今日はずいぶん遅くなってしまったけれど、昼のあいだはよく晴れていた。あの岩なら、まだ少しくらいはぬるいはずだった。

 

(かえる)

 

 そのためには、目の前の黒いのを止めなければならない。

 赤い恐竜は、残った力で頭を振り下ろした。黒いのの肩に歯が入り、血の味が口いっぱいに広がる。これで逃げると思った。これまでのものは、痛くなれば逃げた。自分だって、ずっとそうしてきた。

 

 けれど、黒いのは逃げなかった。

 

 噛まれたまま前肢を伸ばし、こちらの顎を抱え込んでくる。爪が食い込み、頭を押し下げられた。振りほどこうとしても、傷ついた後肢では身体を支えられない。黒いのも震えていた。痛いはずなのに、それでも離れなかった。

 

(はなして)

 

 帰りたい。

 

 後ろで、音がした。一つ、頭のうしろに、熱いものが入った。

 身体から急に力が抜け、顎を支えられなくなる。それでも赤い恐竜は、遠くに見える山から目を離さなかった。あの向こうへ行けばいい。道は知っている。沢の匂いも、岩の場所も覚えている。

 

 もう一つ、音がした。

 今度は、痛くなかった。

 硬い地面へ身体が沈んでいく。立たなければと思った。日が沈んでしまう。岩が冷たくなってしまう。

 

(かえらなきゃ)

 

 もう身体は動かなかった。

 

◇

 

 痛いのは、もう来なかった。

 どこも熱くない。寒くもない。あれほどうるさかった音が、水の向こうにあるように遠かった。赤い光の獣も、鳴くのをやめていた。

 黒いのが、そこにいた。

 

 肩から血を流して、荒い息をして、すぐそばに座っている。噛みついてこない。爪も立てない。音も出さない。ただ、こちらを見ていた。

 赤い恐竜も、黒いのを見た。

 もう怖くなかった。黒いのの身体は傷だらけで、肩から流れた血が地面に落ちている。それでも逃げずに、すぐそばにいた。背後で燃えているものの赤い光がその瞳に映り、小さな光がいくつも揺れていた。

 

(きれい……)

 

 ぼんやりと、そう思った。

 ようやく、何も痛くなかった。何もうるさくなかった。ずっと鳴り続けていた硬い獣も、痛いものを飛ばしてきた小さいのも、もう遠くにいる。聞こえるのは炎のはぜる音と、黒いのが息をする音だけだった。

 赤い恐竜は、ゆっくりと瞬きをした。

 

 白くて明るい場所から外へ出されて以来、こんなに近くに誰かがいるのは久しぶりだった。

 小さいころは、眠る前にも誰かがいた。食べ物を置いていく小さいのがいて、ときどき背中に手を置いてくれた。あの手が好きだったのかどうかは、もうよく覚えていない。ただ、触れられているあいだは、何も警戒しなくてよかった。

 

 外へ出てからは、ずっと一頭だった。

 

 獲物は逃げた。ほかの恐竜とは場所や食べ物を奪い合った。近づけば威嚇され、自分も威嚇した。眠るときは、音がすれば目を覚ました。だから平たい岩を見つけたときも、その上で眠るのは自分だけだった。

 それを寂しいと思ったことはない。

 寂しい、ということを知らなかった。

 

 けれど今は、黒いのがいる。

 自分が噛んだのに、まだいる。

 爪を立ててこない。歯も見せない。逃げもしない。ただ、少し離れたところに身体を伏せて、こちらを見ている。

 

(いる)

 

 それが、少しうれしかった。

 赤い恐竜は鼻先をわずかに動かした。黒いのの匂いがした。血と泥と、知らない土地をいくつも通ってきた匂い。その向こうから、夜になりかけた山の湿った空気が流れてくる。

 

(……かえる)

 

 そうだ。帰らなければならない。

 

 少し休んだら、帰ろう。

 

 煙の切れ目から、暮れていく空が見えた。その下には黒い山があり、木々の輪郭が重なっている。あの木々の奥には、きれいな水の流れる沢がある。喉が渇いたら、いつもそこで飲んだ。冷たい水に鼻先を入れると、水面に自分の赤い顔が映った。

 

 沢から斜面を少し上れば、お気に入りの平たい岩がある。

 今日も天気がよかった。

 昼のあいだ、ずっと日に当たっていたはずだった。

 だから、まだ間に合う。

 今から帰れば、岩はきっと、ほんの少しだけぬるい。

 

(みず のむ)

 

 それから、岩へ行く。

 

(ねる)

 

 今日はたくさん走った。たくさん痛いことがあった。知らない場所まで来てしまった。だから、いつもより長く眠ればいい。

 明るくなったら、また起きる。腹が減っていたら、何かを獲る。喉が渇いたら、沢へ行く。いつもと同じ日が、また始まる。

 赤い恐竜は立ち上がろうとした。

 前肢の先が、硬い地面を掻いた。

 身体は起きなかった。

 

(……?)

 

 もう一度、力を入れた。

 動かなかった。

 どうしてなのか分からなかった。痛くないのだから、動けるはずだった。少し休めば立てるはずだった。

 黒いのが、わずかに身体を動かした。

 赤い恐竜はそちらを見た。

 

(まって)

 

 声にはならなかった。

 

(いま かえるから)

 

 黒いのは動かなかった。

 急かさなかった。

 ただ、そこにいた。

 視界の端から、少しずつ山が暗くなっていった。木々の形が溶けていく。それでも赤い恐竜には、沢の場所が分かっていた。暗くても帰れる。何度も歩いた道だった。

 だから、不安はなかった。とてもまぶたが重かった。

 

(ちょっと ねる)

 

 少しだけ。

 ここで眠って、起きたら帰ればいい。

 赤い恐竜は目を閉じかけて、もう一度だけ黒いのを見た。

 炎を映した目が、まだそこにあった。

 

(きれい)

 

 それに、ひとりではなかった。

 

(うれしい)

 

 赤い恐竜は、ゆっくりと目を閉じた。

 沢の水を思い出した。

 平たい岩を思い出した。

 まだ身体が小さかったころ、頭の上から降りてきたぬるい光も、ほんの少しだけ思い出した。

 

(おやすみ)

 

 今度こそ、目を閉じた。

 

 黒い恐竜は、そのあともしばらく動かなかった。

 赤い恐竜は知らない。

 もう沢へ水を飲みに行けないことも、平たい岩まで歩いて帰れないことも、明日の朝になっても目を覚まさないことも、最後まで知らなかった。

 

 ただ、少し休んでから帰るつもりだった。

 

 あの岩は今日もよく日に当たっていた。

 

 きっと今ごろは、まだ少しだけぬるい。

 

 赤い恐竜は、ぬるいところが好きだった。

 

断章3 赤い恐竜は家に帰りたかった 了

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