温泉回
傷がほとんど塞がったころ、男は洞窟の前で久しぶりに身体を大きく伸ばした。
右肩には赤い大型肉食恐竜の歯形がまだ残っている。身体を捻れば、尾で吹き飛ばされて壁へ叩きつけられた肋のあたりにもわずかな違和感があったが、二週間あまり前のような鋭い痛みはもうなかった。前肢を踏ん張り、後肢へ力を込め、ゆっくり走ってから短い加速を試しても傷口が開く気配はなく、福島へ入ったころには四メートル近くだった身体も、今ではそれを少し超えている。休養と十分な食事のおかげか筋肉にも厚みが増し、長距離を移動する体力は以前より戻っていた。
そろそろ動ける。
洞窟の近くで草を食んでいた小さな同行者が、身体を伸ばす男を見上げていた。出会ったころから一メートルほどの小柄な身体はほとんど変わらず、こちらが療養しているあいだも勝手に遠くへ行くことはなかった。近くで草や木の実を食べ、ときどき男のところへ何かを持ってきて、夜になると当然のように身体の近くで眠る。その生活を二週間以上続けた結果、もはや「なぜついてくるのか」を考えること自体が面倒になりつつあった。
男は洞窟の中へ戻り、スポーツバッグを確認した。地図はある。ペットボトルも無事だった。青い防水シートには福島へ入る前からの擦り傷が増えていたが、まだ使える。バッグを身体へ掛けても右肩に強い痛みが出ないことを確かめると、男は地面へ観光地図を広げた。
本来なら、ここから南へ向かうべきだった。福島を抜け、栃木方面へ入り、そこから関東を横断して八王子へ近づく。自分がどこまで正確に現在地を把握できているかという問題はあるものの、大きな方角は間違っていない。福島で予定外にもほどがある大騒ぎへ巻き込まれたせいで二週間以上を使ってしまったのだから、傷が治った以上は移動を再開するべきだった。
その視線が、地図に印刷された温泉の記号で止まった。
福島へ入る前、自分は確かに考えたはずである。しばらく温泉はいい、と。山形では入浴中の姿を旅行者に撮影され、その映像がかなり広まったらしいことも、今では分かっている。福島で助けた母親が、自分を見るなり「温泉恐竜」と口にしたからだ。
あれが自分につけられた呼び名なのだと理解したときには、もう少し格好のつく名前はなかったのかと思った。しかし、温泉へ入っているところを撮られて有名になった恐竜なのだから、命名した側にも言い分はあるのだろう。
そこから福島へ入った結果が、七人のハンターと大型肉食恐竜が戦っている市街地へ乱入し、母娘を助け、銃を持ったハンターと共闘し、満身創痍で警察官たちに敬礼されながら山へ帰るという、とんでもない騒ぎである。
さすがに反省はした。温泉とは何の関係もない事件だった気もするが、それはそれとして反省した。
しかし、男はもう一度地図を見た。山間部には、いくつか温泉地を示す印がある。傷は治った。身体も動く。二週間以上、沢の水で身体を洗うだけだった。そして療養中、自分は確かに「傷が塞がったら温泉へ行く」と決めたはずである。
(決めたからには仕方ないな、温泉にゆかねば)
誰にも宣言していないので、反対する者はいない。
男は地図上の位置関係を確かめた。大きな温泉街へ近づくつもりはない。いくら温泉が恋しくても、旅館街の露天風呂へ四メートルを超える肉食恐竜が現れれば、福島とは別の意味で大事件になる。探すのは山中に源泉や野湯がありそうな地域で、人間の生活圏から離れた場所へ温泉が点在しているところだった。
目的地を決めて地図を畳むと、隣では小さな同行者が何も知らずに草を食べている。その姿を見て、男はふと思った。
(そういえば、お前は温泉入ったことあるのか?)
小型恐竜が顔を上げた。当然、返事はない。
野生動物なのだから、温泉地の近くで暮らしていれば偶然温水へ入った経験くらいはあるかもしれない。しかし、少なくとも湯に浸かることを目的に山を越えた経験はないだろう。
(よし。温泉の良さを教えてやる、師匠と呼べ)
小型恐竜は意味も分からず首を傾けた。
何の同意も得ないまま、次の旅の目的が一つ増えた。
◇
洞窟を離れてからの男は、以前より慎重に人間の生活圏を避けた。
福島事件の現場からはできるだけ距離を取り、大きな道路や集落が見えれば山側へ迂回する。上空の音にも注意を払い、ヘリコプターやドローンらしいものが近づけば樹木の下へ入った。青い防水シートは目立つため、人間の目がありそうな場所ではバッグへ収め、身体そのものも岩や倒木の陰へ隠す。
自分が世間でどの程度の騒ぎになっているのか、男には分からない。福島を離れる直前、警察官たちが並んで敬礼してきた光景は覚えているし、こちらも反射的に頭を下げてしまった。上空には報道用らしい機体までいたのだから、映像が残っていないことを期待するほうが無理だろう。
(……またテレビ出たんだろうな、余計に人前に出づらくなってきたな。こちとら肉食恐竜だぞ)
温泉に入っていただけで全国デビューした実績がある。今回は市街地で六メートルを超える大型肉食恐竜と戦ったのだから、考えないことにしたところで事実は変わらない。
それより男が気にしていたのは、後ろからついてくる小さな同行者だった。
こちらが怪我をしていたあいだに生活のリズムを覚えたらしく、以前より距離の取り方がうまくなっている。男が止まれば少し遅れて止まり、何かの臭いを確認しているあいだは勝手に前へ出ない。沢を渡るときには一度こちらが渡るのを見てから続き、急な斜面では自分で歩きやすい場所を探している。
言葉が通じているわけではない。それでも、一緒に行動する方法くらいは覚えられるらしい。
翌日の午後、硫黄の匂いがした。
男は足を止め、鼻先を上げた。間違いない。小型恐竜も匂いに気づいたらしく、しきりに鼻先を動かしているが、こちらとは違って、この匂いの先に何があるのか分からないらしい。
(この臭いは、近いぞ)
自然に歩調が速くなった。
山林を進むにつれて地面の様子が変わり、ところどころから白い湯気が立ち上っていた。沢の水にも温かい場所が混じり、硫黄の匂いはさらに強くなる。人工物らしいものも少し見つかったが、現在使われている施設は近くになく、少なくとも人間の気配は感じなかった。
それでも男はすぐには入らない。一度周囲を歩き、足跡や新しいゴミ、車両の痕跡がないか確認する。人間の匂いが濃い場所は避け、できるだけ山側へ進むと、岩の間から湧いた湯が浅い窪地へ流れ込み、そのまま沢へ落ちている場所を見つけた。
前肢の先で湯に触れる。熱すぎない。少し場所を変えて確かめても問題なく、四メートルを超えた身体でも横になれば十分に浸かれる深さがある。
(ここだ、ここがベスポジだ)
スポーツバッグと青い防水シートを岩陰へ置き、男はゆっくり湯へ入った。
温かさが後肢から腹へ上がってくる。二週間以上、沢の冷たい水しか浴びておらず、傷があるあいだは身体を洗うだけでも慎重になっていた。硬い洞窟の床で眠り、狩りも最低限に抑え、夜には傷口を庇いながら身体を丸めていた。その身体へ湯の熱がゆっくり染み込んでくると、男は腹が底につくところまで沈み、目を閉じた。
(ああ……これだよ。人生には余白が必要で、そこには温泉が合うんだよ。今までもっと行っておけばよかった)
温泉に医学的な治療効果を期待しているわけではない。ただ温かく、気持ちがいい。それだけで、数週間待った価値は十分にあった。
しばらくして目を開けると、岸に小型恐竜がいた。
こちらと湯を交互に見ながら、警戒するように少し離れた場所を歩いている。男が前肢で湯を軽く叩くと驚いて一歩下がったので、今度は動かずに待つことにした。
(大丈夫だって。取って食ったりしないから)
そもそも二週間以上一緒にいる相手へ今さら何を言っているのか、自分でもよく分からない。
やがて小型恐竜は恐る恐る岸へ近づき、前肢の先で水面に触れた。一度すぐに引っ込めたものの、もう一度触れ、今度は少し長くそのままにしている。男が動かないことを確認してから片方の前肢を浅い場所へ入れ、続いてもう片方、さらに後肢まで入った。
腹の下まで湯が来たところで、身体から目に見えて力が抜けた。
(いいもんだろ? 師匠と呼べ)
妙な達成感があった。
さらに十分ほどすると、小型恐竜は完全に警戒を解き、浅い場所へ腹をつけて岩へ顎を載せていた。目まで半分閉じている。
(……師匠の俺よりくつろいでないか?)
温泉の良さを教えるという目的は、予想以上の成功を収めたらしい。
◇
ひとしきり湯を楽しんだあと、男は身体についた泥や乾いた血の跡を落とし始めた。
前肢が届く場所なら問題ない。胸や腹、脚の付け根も工夫すれば洗える。しかし四メートルを超える身体になると、背中の中央付近がどうにも難しかった。岩へ擦りつける方法もあるが、せっかく傷が治ったばかりなのに皮膚を痛めるのは避けたい。
何とか首を曲げて背中を見ようとしていると、小型恐竜が近づいてきた。
男の背中へ鼻先を寄せ、何度か臭いを嗅いでいる。
(何だ? ちょっと臭うのか、地味に傷つくわ)
次の瞬間、小型恐竜は前肢を男の背中へ載せ、爪先でこするような動きをした。
泥が落ちた。
男は振り返った。
小型恐竜もこちらを見た。
(……もう一回、よろしく)
言葉は通じないので、男は身体を少し沈めて背中を向けた。
しばらく待つと、小型恐竜が再び前肢を載せた。今度は先ほどより広い範囲をこすり、こびりついていた泥を落としていく。何をしているのか理解しているのか、それとも大型の仲間に対する毛繕いに近い行動なのかは分からないが、少なくとも男にとっては都合がよかった。
(そこそこ。もうちょい右、あーわかってますね)
当然ながら細かな注文は伝わらない。
それでも背中の届かない部分がだいぶきれいになると、男は身体を反転させた。今度は小型恐竜の背中へ前肢を伸ばす。
小型恐竜が一瞬身体を固くしたので、爪を立てないよう慎重に指先の腹を使った。身体の大きさが違いすぎるため、人間だったころの感覚で力を入れれば相手を押し倒しかねない。湯をかけながら、背中についた土や葉をゆっくりこすり落としてやる。
最初は警戒していた小型恐竜も、嫌なことをされているわけではないと分かったらしい。途中から抵抗をやめ、しまいには自分から身体の向きを変えた。
(はいはい、こっちもな。かゆいとこはありませんか?)
首の付け根を洗う。
少し向きを変える。
今度は反対側。
男は途中から、自分が何をやっているのか分からなくなってきた。
つい二週間ほど前まで、六メートルを超える大型肉食恐竜と市街地で殺し合っていた。その結果、身体中を傷だらけにし、警察官に敬礼されながら山へ戻った。それが今では、山奥の温泉で一メートルほどの小型恐竜の背中を洗っている。
(まあ、こっちのほうがいいな。誰も死なないし)
比較するまでもなかった。
洗い終えると、小型恐竜は身体を震わせて水滴を飛ばした。
かなりの量が男の顔へかかった。
(お前な、犬かよ)
当の本人は何も悪いと思っていないらしい。
男は仕返しに前肢で湯を少しだけかけた。
小型恐竜が驚いて後退し、すぐに戻ってきた。
もう一度かける。
今度は逃げなかった。
しばらく二頭で水を飛ばし合ったあと、男は自分が四メートルを超える肉食恐竜であることを思い出し、さすがに加減を間違えると危ないのでやめた。
◇
翌朝、小型恐竜が何かを咥えて戻ってきた。
男は湯の近くで目を覚まし、その口元を見た。咥えているのは鳥の卵で、鶏卵より少し小さいものが二つある。どうやら近くで巣を見つけたらしく、一つを男の前へ置いてから、もう一つの殻を割ろうとしている。
(お前、卵も食えるのか)
これまで草や木の実ばかり食べていたので、男はてっきり完全な草食種なのだと思っていた。
小型恐竜はそんな疑問など知らず、割れた殻から中身を舐め取っている。
(草食だと思ってたけど……卵はいけるんだな。足りない栄養素を補う的な?)
雑食性が多少あるのか、野生下では不足する栄養を卵などから補っているのか、男には分からない。恐竜について多少の知識はあっても、目の前の人工種の食性まで網羅しているわけではなかった。
それより、男は自分の前へ置かれたもう一つの卵を見た。
次に温泉を見る。
もう一度、卵を見る。
人間だったころの記憶が、極めて自然な結論を導いた。
(温泉卵できるんじゃないか、リアル温泉卵。いや、温泉卵にバーチャルとかないけど)
問題は温度だった。人間だったころ、温泉卵が普通のゆで卵より低い温度で時間をかけて作るものだという程度の知識はあった。しかし正確に何度で何分だったかなど覚えていない。
(まあ、やってみるか。物は試しだ)
失敗しても卵が一つ駄目になるだけである。
男は湧き出し口に近すぎず、入浴していた場所よりは温度の高いところを探した。卵が流されないよう岩の窪みへ置き、上から小石を組んで簡単な囲いを作る。
小型恐竜がすぐ隣で見ていた。
自分の分を食べ終わったらしい。
(これは待てよ。今食うなよ、料理中だからな)
卵へ鼻先を伸ばしたので、前肢でそっと押し戻す。
小型恐竜は不満そうだった。
時間を正確に測る道具はないため、男は日差しの動きを見ながら適当に待った。その間に湯へ入り、小型恐竜も当然のようについてくる。頃合いを見て卵を取り出し、少し冷ましてから慎重に殻を割ると、白身は柔らかく固まり、黄身にはとろみが残っていた。
(いい感じ、見本みたいな半熟だな)
完璧な温泉卵かどうかは分からない。それでも、生の卵をそのまま食べるのとは明らかに違う。
恐竜になってから初めての、料理らしい料理だった。
調味料などないので、そのまま食べるしかない。それでも温かい白身と濃い黄身の食感は、生肉ばかりの生活を続けてきた男には妙にうまく感じられた。
半分ほど食べたところで、小型恐竜がじっとこちらを見ていることに気づいた。
(……もしや食べたいのか?)
試しに残りを前へ置いてやる。
小型恐竜は、生のものとは違う匂いに戸惑ったのか最初は鼻先で確かめていたが、一口食べると止まった。それから残りもすぐに食べ、最後には周囲へ落ちた欠片まで探し始める。
(うまいだろ、俺はうどんは生卵より温玉派なのよ)
男は妙に満足した。
そして、この成功によって余計な自信を持った。
(これ、肉も時間かければいけるんじゃないか?)
◇
その日の午後、男は山へ入り、鹿を一頭仕留めて戻ってきた。
普段ならその場で食べるか、必要な分だけ食べて残りを別の動物へ譲る。しかし今日は目的が違う。せっかく温泉があるのだから、久しぶりに加熱した肉を食べられないか試してみたかった。
人間だったころなら鍋が必要になる。
今は当然ない。
それでも熱い湯が大量に湧いているのだから、何とかなるのではないか。
男は鹿肉を適当な大きさへ裂き、温泉卵を作った場所よりさらに湧き出し口へ近い、かなり熱いところへ沈めてみた。流されないよう石で挟み、しばらく待つ。
小型恐竜が横で見ている。
(今日はごちそうだぞ、鹿肉のローストって焼きだっけ?ボイルか)
期待しているのは男だけだった。
しばらくして肉を引き上げる。
表面の色は変わっていた。
(上手に煮えました~!)
少し裂いてみるが、中はほとんど生だった。
(駄目か、レアどころかブルーだな)
もう一度湯へ戻して、さらに待つ。
今度こそと思って取り出したが、やはり中心部までは十分に火が通っていない。そもそも卵と違って肉塊は厚い。鍋で沸騰させているわけでもないのだから、温泉へ沈めただけで簡単に茹で肉が完成するはずもなかった。
男は肉を見て、そして温泉を見る。
もう一度生ゆでとも言えない、薄っすら白みがかった肉を見る。
(……知ってた、知ってました。覚悟の上でした)
もちろん知らなかったから試した。
小型恐竜が生ゆで肉へ近づいた。
(お前は食わないだろ)
鼻先で臭いを嗅ぎ、興味を失ったように離れていった。
男は半端に温まった鹿肉を口へ入れた。
食べられないわけではない。そもそも今の身体なら生肉を普通に食べているので、衛生面を人間基準で心配する必要もない。
問題は味だった。
生でもない。
茹でてもいない。
表面だけ妙に温かく、温泉の成分らしい臭いまで少しついている。
(まずいし、臭い。ぬペって感じがする)
恐竜になってから生肉へ適応した舌でも、これは普通にまずかった。
残りは無理に温泉へ入れず、そのまま食べた。
昨日まで普通に食べていた生肉のほうが、よほど美味しく感じられる。
(料理って道具がいるんだな……文明は偉大だ)
人間だったころには、台所に立てば火も鍋も包丁も水も当たり前にあった。肉を茹でることなど料理の中でも簡単な部類だと思っていたが、山中で恐竜の身体になってみれば、その「簡単」がどれだけ多くの道具に支えられていたのかよく分かる。
ただし、一勝一敗である。
温泉卵には成功した。
鹿肉は失敗した。
(もしや次はもっと薄くすればいけるか? しゃぶしゃぶみたいな。そんな薄切りにできるかな、この手で)
ちっとも懲りてはいなかった。
◇
結局、その温泉には三日滞在した。
帰宅を諦めたわけではない。ここからさらに南へ進み、栃木を抜けて関東へ入る予定も変わっていない。ただ、福島で二週間以上療養した直後でもあり、傷が本当に移動へ耐えられるか確かめる意味でも、数日程度なら急ぐ必要はないと判断した。
初日に警戒していた小型恐竜は、二日目には男より先に湯へ入るようになった。
朝、男が目を覚ます。
同行者がいない。
臭いを追う。
温泉にいる。
その流れが二日続いた。
(覚えるの早すぎないか? そんなに温泉気に入ったのかな)
しかも一番気に入った浅い場所まで決まっているらしい。腹を湯へつけ、岩へ顎を載せる姿勢も完全に定着していた。
男が入れば近づいてくる。
背中を向ければ、ときどき前肢でこすってくれる。
こちらが小型恐竜の背中を洗えば、初日のように警戒することもなく、当然のように身体を預けてくる。終わったあとに水滴を飛ばす癖だけは直らなかった。
鳥の卵を見つければ、今度は食べずに男のところへ持ってくるようにもなった。
これには男も驚いた。
偶然かと思ったが、二度目も卵を咥えて温泉の近くまで来たので、どうやら「ここへ持っていけば何かされて美味しくなる」程度の関連は覚えたらしい。
(賢いな、お前。そして図々しいな)
小型恐竜は卵を置いた。
(でも俺、料理人じゃないぞ。卵の茹で時間ガチャをする恐竜だ)
温泉卵しか作れない。
しかも正確な温度も時間も分からないので、出来には毎回ばらつきがあった。それでも二頭とも気にしなかった。
三日目の夕方、男は湯へ身体を沈めながら地図を広げられる場所を目で探した。
次はいよいよ南へ向かう。
福島から栃木へ。
さらに関東へ入り、最終的には八王子を目指す。
距離はまだあるが、青森の山中で目覚めたころに比べれば、確実に近づいている。
小型恐竜が隣で腹を湯へ沈めた。
男はその背中を見た。
こいつをどこまで連れていくのかという問題は、まだ答えが出ていない。八王子の実家へ四メートルを超える肉食恐竜が帰るだけでも十分に大問題なのに、その横へ見知らぬ小型恐竜までついてきたら、家族がどんな顔をするのか想像もつかなかった。
(……まあ、そのとき考えるか。草食だし、なんとかなるだろ)
青森で目覚めたときは、一頭だった。
地図もなかった。
食べ物の取り方も、自分の身体の使い方も分からなかった。
今は地図があり、荷物があり、身体の扱いにも慣れ、隣には勝手についてきた同行者までいる。
予定どおりの旅ではない。
そもそも恐竜になった時点で、人生そのものが予定から大幅に外れている。
それでも、悪いことばかりではなかった。
男が立ち上がろうとすると、小型恐竜は動かなかった。
すでに見慣れた反応である。
(おい、そろそろ上がるぞ)
こちらを見る。
出る気配はない。
(明日出発なんだからな、置いてくぞ)
岩へ顎を載せる。
(聞いてる? もしもーし)
目を閉じた。
男はしばらく小型恐竜を見ていたが、やがて諦めてもう一度腹を湯へ沈めた。
(……あと十分な)
もちろん、その十分を測る時計はない。
結局、日が傾き始めるまで二頭とも湯から出なかった。
福島の事件以来、人間たちは黒い恐竜について難しい議論を続けている。人間を守ったのか。銃という道具を理解しているのか。人間社会へ何らかの意思を示そうとしているのか。危険な野生動物なのか、それともまったく新しい知性として扱うべきなのか。
当人にそんな問いへ答える余裕はなかった。
久しぶりの温泉は気持ちがよく、温泉卵はうまかった。鹿肉を茹でようとしたのは失敗だったが、次はもう少し薄くすれば何とかなるかもしれない。
そして何より、一頭だった旅に、いつの間にか一緒に湯へ浸かる相手ができていた。
男は隣で気持ちよさそうに目を閉じている小型恐竜を見た。
(よし、お前はこれから温泉恐竜二号だな)
小型恐竜は薄目を開けてちらと男を見たが、すぐに目を閉じて温泉を堪能している。
温泉の良さ以外は、当然ながら伝わらなかった。
第18章 温泉の良さを教えてやる 了
前話の反響を受けて前書きで重たい話の場合は警告が欲しいか確認しています。
小説の内容には影響しませんが、ご協力ください。
ついでに、感想・ここすきは小説の内容に影響する可能性があります。
好きな部分を教えてくれたら、少し反映するかも……?
重い回の前書きに一言あった方がいいかアンケート調査です
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新鮮な気持ちで読みたいから不要
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重い話は読みたくないから必要
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これはお前の作品だろ(どっちでもいい)