ほぼ唯一の名前もち、御門優子のキャラ紹介回です。
福島事件がまだ起きてない時間軸です。
福島県の大型肉食恐竜襲撃事件の数日前のこと。
午後九時を過ぎても、御門優子は研究室のモニターを見ていた。
画面に映っているのは、ここ数週間で集まった黒色個体――世間で「温泉恐竜」と呼ばれ始めた個体の記録だった。青森で親子の前へ割って入った映像、宮城で大型肉食恐竜と交戦した際の監視ドローン映像、そして山形の温泉で偶然撮影された映像まで、時系列に並べてある。
「宮城の映像、もう一回お願いします。接触する十秒前から」
「またですか」
「十秒前からです、またです」
隣の職員が操作すると、黒い個体と大型肉食恐竜が向かい合う場面が再生された。黒い個体は最初から正面衝突を選んでいるわけではない。相手の旋回を見ながら距離を取り、最初に成功した回避を繰り返そうとして、それが通用しなくなったところから動きを変えている。
「とめて」
御門が映像を止めた。
「一回目と二回目で相手の反応が違うでしょう」
「大型個体のほうですか?」
「そう。最初は追っています。でも次は黒色個体が同じ方向へ避けることを予測して、先に身体を振ってる。黒色個体もそれを見て、三回目から同じ避け方をやめています」
「お互い学習してる?」
「少なくとも、そう解釈できる動きです。ただし、映像だけで『戦術を理解した』とか『相手の思考を読んだ』とか言い始めると盛りすぎです」
「先生、世間ではもう『天才恐竜対決』って言われてますよ」
「世間は自由なので、私は業務の範囲では不自由を受け入れてます、多少は」
御門は素っ気なく答え、映像を数秒進めた。
黒い個体は宮城の映像では、青森で確認された当初より明らかに身体が大きくなっている。それでも相手との体格差はかなりあり、正面から力をぶつければ不利なのは明らかだった。その状況で地形や放置車両を利用しながら相手の負傷箇所を狙い、最後には撤退させている。
「身体能力だけじゃ説明しにくいんですよね。よく見てるというか、行動の予測をしていそうというか」
「やっぱり頭がいいということですか?」
「頭がいい、は便利すぎます。言いたい気持ちは、まあ、分かりますが」
御門は椅子の背へ身体を預けた。
「何ができて、何ができないのかを分けたいんです。相手の動きを見て行動を変える。使える地形を選ぶ。戦闘が終わったあと、自分の荷物が置かれていた場所へ戻って回収する。そこまでは映像で確認できる。でも『人間みたいに考えている』まで行くと、こちらの想像です」
「人間みたいに温泉には入りますけどね」
「猿やカピバラも入りますね」
「荷物持って旅行してますけど」
「旅行かどうかは分かりません、荷物はまあ」
「先生、前にテレビで旅行者みたいって言われたとき楽しそうでしたよ」
「それとこれは別です、けして一緒に旅行したり温泉入ったり、背中に乗ってほおずりしたいとかはないです」
職員が笑った。
御門は無視して、今度は山形の映像を開いた。湯に浸かった黒い恐竜が画面に現れると、しばらく黙って映像を眺める。
「先生、ちょっと」
「何ですか、今いいところなんです」
「顔が緩んでます」
「緩んでません」
「緩んでますよ」
「真面目に研究しているので、目の錯覚です」
「はいはい、真面目というか真剣ではありますね」
御門は咳払いして映像を止めた。
「さて、問題は青森です」
画面が切り替わり、今度は親子の前へ黒い個体が割って入った映像が再生される。御門は何度も見ている。それでも、この行動だけは宮城や山形より解釈が難しかった。
「黒色個体にとって、この親子を助ける利益が確認できません。餌を奪ったわけでも、縄張りを守ったわけでもない。人間との距離を普段は取っている個体が、ここでは逆に危険へ近づいています」
「助けたかったんじゃないですか?」
「そう見えるんですけどね」
御門はそこで止めた。
「見えることと、証明できることは違います」
それ以上は断定しなかった。ただ、映像を閉じようとして、もう一度だけ黒い個体が親子の前へ入る瞬間を再生した。
「先生」
「確認です」
「はいはい」
返事が雑だった。
◇
午後十時過ぎ、御門優子は牛丼屋のカウンターに座っていた。
肩まで伸びた黒髪は仕事中と同じように簡単にまとめたままで、研究室を出てから身なりを整えるようなこともしていない。遅い時間まで働いてきた会社員が一人で夕食を取っているだけなら、周囲から気に留められることもなかっただろう。
問題は注文だった。
「牛丼、並。つゆだくで。あと卵と、お新香。それと日本酒ください」
店員が一瞬だけ彼女を見た。
「日本酒でよろしいですか?」
「はい」
間違っていない。
数分後、御門は牛丼の中央へ卵を落とし、七味を振ってから箸で肉と米を一緒に持ち上げた。一口食べ、続いて小さなグラスの日本酒を飲むと、研究室を出るまで眉間に残っていた力がようやく抜けた。
「……うま」
斜め向かいに座っていた大学生らしい二人組が、何となく御門を見た。牛丼をつまみに日本酒を飲み、ときどきお新香を挟みながら、スマートフォンを見るでもなく仕事終わりの一杯を心から味わっている。
「……めっちゃ美人なのに」
「聞こえるって」
「いや、なんか……」
小声は御門の耳には入っていなかった。
「はぁ……染みる……」
完全に休日直前の会社員だった。
牛丼を食べ終えると、御門は最後の日本酒を飲み干し、満足して会計を済ませた。店を出たところで夜風が頬に当たり、そこでようやく自分がかなり疲れていたことに気づく。
「きめた。明日は絶対仕事しない、メールも電話も無視する」
誰にともなく宣言した。
なお、この決意は帰宅後二十分で破られた。
◇
御門の自宅には、仕事用とは別の恐竜資料が大量にあった。学術書や論文の抜き刷りだけではなく、一般向けの図鑑、写真集、絶版になった飼育記録集、人工恐竜が社会へ導入された初期の広報冊子、動物園や研究施設の限定パンフレットまで揃っている。棚の一角には小さな恐竜フィギュアも並び、本人にしか分からない基準で分類されていた。
シャワーを浴びて部屋着へ着替えた御門は、冷蔵庫から炭酸水を取り出して机へ座り、一冊のノートを開いた。表紙には手書きで『恐竜日記 Vol.18』と書かれている。
半分は業務上の分析の下ごしらえだが、残り半分は仕事ではない。小学生のころから続けている、完全な趣味だった。
『温泉恐竜。宮城映像を再確認。大型肉食個体に対し、同じ回避を繰り返さず途中で変更。相手側にも学習らしき行動あり。戦闘終了後、荷物が置かれていた場所へ戻り、自ら回収。意図的行動の可能性は高いが、認知水準の断定は不可。』
そこで一度ペンを止め、少し考えてから小さな字で付け足す。
『温泉に入っているときはかわいい。』
研究報告書には絶対に書けない。
「ふふ」
御門はノートを閉じ、今度は写真の整理を始めた。これも仕事ではない。
温泉映像から切り出した、湯に首まで浸かっている写真。青い防水シートを身体へ巻き、スポーツバッグを運んでいる写真。宮城で大型肉食恐竜と向かい合う姿や、遠方から撮影された移動中の姿まで、専用のフォルダにはいつの間にか相当な枚数が溜まっていた。
「これ、いいな……こっちもいい」
温泉から上がったところを拡大し、尾や前肢、青森で確認されたころより発達した身体つきを眺める。
「大きくなったなあ……」
まるで親戚の子供を見るような言い方だった。
撮影角度のいい一枚を見つけて保存し、今度は温泉の中で妙に満足そうに見える顔を拡大する。仕事中なら「表情から感情を断定するのは危険です」と真っ先に自分で言うところだが、自宅では誰も止める者がいない。
「ぐへへ……かわいいなあ……」
数時間前まで、映像から確認できる事実と自分の解釈を几帳面に切り分けていた研究者と同一人物とは思えなかった。
午前一時を過ぎたころ、ようやく御門はパソコンを閉じた。
「明日は休み」
幸せそうに呟き、ベッドへ入った。
「何日ぶりだっけ……」
御門優子は悲しくなるので、考えるのをやめた。
◇
翌朝、御門優子が目を覚ましたのは午前十一時七分だった。
カーテンの隙間から差し込む光を見て、数秒間だけ状況を理解できなかった。枕元のスマートフォンで時刻を確認し、もう一度寝ようかと本気で考えたが、洗濯物が溜まっている。
「昨日の私……」
恨んでも仕方がない。
洗濯機を回している間に掃除機をかけ、散らかっていた本を棚へ戻す。研究資料と趣味の恐竜本が混ざっているせいで途中で一冊開いてしまい、十五分ほど読み込んでから家事の途中だったことを思い出した。
洗濯物を干し終えたころには昼を過ぎていた。冷蔵庫を開けると、卵、調味料、炭酸水、テレビのリモコン、賞味期限が少し怪しい豆腐しかない。
テレビのリモコン?
「外で食べよう」
リモコンを取り出しながら、ひとりごちる。豆腐には悪いが、即決だった。
近所でサンドイッチとコーヒーを買い、そのまま公園へ向かった。休日の昼らしく家族連れが多く、御門は木陰のベンチを見つけて紙袋を開く。仕事用の服ではなく、薄手のシャツにデニムという簡単な格好で、髪も普段と同じようにまとめただけだった。
サンドイッチを半分ほど食べたところで、近くから子供たちの声が聞こえてきた。
「ティラノが一番強いんだよ!」
「違うよ、飛べるやつのほうが強い!」
「でも速い恐竜のほうが勝つし!」
「なんかデカいバッタがラスボスの恐竜映画みたよ」
御門の咀嚼が止まった。バッタがラスボスの恐竜映画なんてあるわけない。
聞かない。今日は休みだ。仕事をしないと決めた。
「ティラノなら何でも勝てるもん!」
眉がわずかに動く。
「飛んでるやつでも勝てる!」
御門はサンドイッチを紙袋へ戻した。おとなげない、アラサー独身の女のスカ姿か、これが。しかし、我慢できなかった。性である。
「それは条件によるよ」
三人の子供が一斉に振り向いた。
自分でも何をしているのだろうと思ったが、もう遅い。通報されないだろうか。今更心配になったが、もう引けなかった。
「恐竜ってね、ゲームのキャラクターみたいに『攻撃力が一番高いから一番強い』って決められるものじゃないの。身体の大きさ、走る速さ、噛む力、爪、住んでいる場所、それから何を食べるための身体なのかでも全然違う」
子供たちが近づいてきた。
「お姉さん、恐竜詳しいの?」
「まあまあ」
日本でも指折りの人工恐竜研究者としては、ずいぶん控えめな自己評価だった。
どちらかと言うと、お姉さん呼びに気を良くしている。
「じゃあ温泉恐竜知ってる?」
「知ってるよ」
「強い?」
「強い。でも、宮城で戦った相手よりずっと小さいでしょう? 正面から力比べする身体じゃないと思う。だから相手の横へ回ったり、地形を使ったりしてる」
「なんで分かるの?」
「脚を見るの。あと尾。身体の重心も」
そこからは早かった。
御門はベンチの横へしゃがみ、子供が地面へ描いた恐竜の絵を使って説明を始めた。二足歩行と四足歩行の違い、尾が身体のバランスに果たす役割、大型種と小型種では同じ「速い」でも意味が違うこと、肉食恐竜だからといって常に他の動物へ襲いかかるわけではないこと。最初の三人だけでなく、近くで遊んでいた子供まで集まり始めた。
「じゃあ恐竜ってかわいくて怖くないの?」
「かわいくて怖いよ」
そこだけは即答した。
「大きい動物は、それだけで危ないの。本人に襲うつもりがなくても、人間なんて簡単に怪我するから。だから野生の恐竜を見つけても絶対に近づかない。温泉恐竜も同じ。かわいいけど近づいちゃ駄目」
「かわいいの?」
「かわいいよ」
これも即答だった。
「お姉さん、温泉恐竜好きじゃん!」
「もちろん、好きだよ」
そこは否定しなかった。
御門は質問されるたびに答え、分からないことには「それはまだ分からない」と言った。難しい専門用語を使わず、けれど子供向けだからと嘘で簡単にもしない。
その輪の少し外側に、一人の少年が立っていた。小学五年生だった。
彼は最初、恐竜の話を聞いているつもりだった。けれど途中から、内容があまり頭へ入ってこなくなっていた。
御門が笑っていたからだ。
恐竜の話をしているときの御門は、研究室で映像を睨んでいるときとはまるで違っていた。子供から質問されるたびに楽しそうに答え、地面へ描かれた恐竜の絵へ自分で線を足しながら、身体の使い方を説明している。好きなものについて話していることが、その表情だけで分かった。
「お姉さん」
少年は勇気を出した。
「ん?」
「恐竜の研究してる人?」
御門は少し考えてから頷いた。
「うん。そうだよ」
「すごい人?」
「普通」
周囲の大人が聞いていれば訂正したくなる答えだった。それは能力や実績だけでなく、性格や性癖も。
「あの、な、名前は?」
「私? 御門優子っていうの」
少年はその名前をかなり真剣に覚えた。
「またここ来る?」
「たまには来ると思うよ。近所だから」
「そっか」
少年は嬉しそうに頷いた。
御門は何も気づかなかった。彼女にとっては、近所の子供へ恐竜の話をしただけである。
だが少年にとっては、十一年ほどの人生で初めて、家へ帰ってから名前を検索した女性で、淡い気持ちを抱く相手になった。
◇
子供たちが去ったあと、御門は残っていたサンドイッチを食べ、少し冷めたコーヒーを飲んだ。十月に入ったとはいえ昼間の日差しはまだ暖かく、風だけは秋らしく涼しい。食後の身体には木陰より日向のほうが心地よかった。
空いている芝生へ移動し、上着を畳んで枕代わりにすると、そのまま仰向けになる。青空の向こうを雲がゆっくり流れ、遠くから子供の笑い声が聞こえてくる。
「平和だなあ」
眠るつもりはなかったが、食後ということもあって身体から力が抜けた。研究室なら次の資料を開き、気になる数字があれば別の論文まで引っ張り出してしまうところだが、今日は休みである。昨夜「絶対仕事をしない」と決め、帰宅して二十分で恐竜日記を書き始めた件については、この際なかったことにした。
御門は目を閉じた。
鳥の声がする。風が木の葉を揺らしている。近くを誰かが走っていく。
最近、妙な個体が増えてるなあ、と考えた。
目を開けた。
「……全然休めてないな、私」
各地で報告されている異常行動は、まだ一つの現象だと断定できる段階ではない。それでも、公開情報と手元に集まり始めた記録を見る限り、若い個体へ偏っている可能性はあった。今のところ目立つのは小型種であり、それだけなら地域の担当者や通常の駆除体制でも対処できる場合が多い。
けれど、同じことが大型種で起きないという保証はない。
「制度設計の人、大変だろうなあ」
もちろんハンターも大変である。
今の日本で恐竜ハンターと呼ばれている人間は、一種類の職業ではない。制度上は危険恐竜への対処資格を持つ民間人を広く指し、自治体や警察から駆除・捕獲要請を受ける者もいれば、農地や山林へ被害を出す個体を追う地域密着型のハンターもいる。企業や専門組織へ所属する者も、個人で活動する者もおり、危険度の高い案件ほど要求される資格区分と装備基準が上がる。
討伐報奨金が設定される案件も多いため、それを主な収入源にする者もいる。実績は公的な記録へ残り、民間の配信サイトや専門メディアが討伐数や高危険度案件への参加歴を集計するため、人気のあるハンターにはランキングまで存在した。腕だけでなく配信やメディア出演によって広く名前を知られる者もいて、今では一部のトップハンターはスポーツ選手に近い人気を持っている。
もっとも、制度の根本にある考え方は昔から変わっていない。危険な場所にいる危険な恐竜を、人間側が発見して対処する。人里へ下りてきた大型肉食恐竜、農地を荒らす群れ、縄張りを形成して道路を使えなくした個体など、事前に存在を把握できれば、種類と大きさに応じたハンターを選び、必要な装備を用意し、警察や自治体が周囲を規制してから対処できる。
問題は、その前提から外れる場合だった。
「昨日まで普通だったやつが、今日いきなりおかしくなったら……即応できるのかな」
御門は芝生に寝転がったまま呟いた。
通常の駆除要請なら、発見、危険度判定、周辺規制、適切なハンターの選定、現地投入という手順を踏める。だが、異常行動が突発的に現れるなら、その時間そのものがない可能性がある。人里近くにいる個体が急に人間を執拗に追うようになれば、最初に対応するのは専門ハンターではなく、警察や自治体職員になるかもしれない。
さらに大型種で同じことが起きれば、必要な火力も人数もまるで違う。
「ハンター増やせばいいって話でもないしなあ」
人数を増やせば単純に安全になるわけではない。市街地では建物や車両が邪魔になって射線を確保しにくく、避難していない住民がいれば射撃そのものが制限される。複数のハンター、警察、自治体が同時に動けば、誰が現場全体を指揮し、どの段階で捕獲から駆除へ切り替えるのかという問題も出てくる。
異常行動を研究するのは御門たちの仕事だ。その結果を受けて、危険度区分や出動基準をどう変えるのか、警察と自治体の指揮系統をどう整理するのか、捕獲と駆除の判断基準を見直す必要があるのかを決めるのは制度設計側の仕事になる。
「頑張れ、制度設計部門」
御門は他人事のように空へ向かって応援した。
数秒後、自分も大量の資料提出を求められる側だと気づいた。
「ああ……頑張れ、未来の私」
もう一度目を閉じた。
今のところ、大型種で同じような異常行動は確認されていない。小型種で見つかっている現象が、本当に一つの原因によるものなのかさえ分かっていない。
ならば、まだ時間はある。
そう考えて、御門は今度こそ仕事のことを頭から追い出した。
◇
三十分ほど日向ぼっこをしてから、御門は公園を出た。本当なら家へ帰って昼寝でもすれば、休日としてはかなり上等だった。
ところがスマートフォンの予定表には、数日前に自分で入れた予定が残っている。
『服を買う』
御門は立ち止まった。
消したい。
しかし、この予定を入れるよう強く要求したのは研究室の部下だった。
『先生、そろそろちゃんとした服を一着買ってください』
『持ってるよ』
『学会用のスーツ以外で』
『スーツでいいじゃん』
『テレビ出演も増えてますし、政府関係者との会合もありますし、今度の表彰式にも呼ばれる可能性があります』
『白衣で』
『駄目です』
そんな会話の末、休日の予定表へ半ば強制的に「服を買う」と入力させられた。
「面倒くさいなあ……」
それでも御門は電車に乗った。
◇
百貨店の婦人服売場へ到着した時点で、すでに帰りたかった。
何を買えばいいのか分からない。御門にとって服とは、暑くなく、寒くなく、動きやすく、研究室で汚れても困らないものである。学会ならスーツを着ればいいし、テレビ出演ならジャケットを羽織れば何とかなる。
売場を一周して、結局何も選べないまま立っていると、女性店員が声をかけてきた。
「何かお探しでしょうか?」
「フォーマルで、良い感じな服を」
「どういった場面でお召しになりますか?」
「会合とか、式典とか……テレビとか」
「テレビ、ですか?」
「はい、たまに呼ばれて出るので」
店員は御門を上から下まで一度見て、それから少し考えた。
「お客様、普段、お洋服にあまり興味がありませんか?」
「はい」
即答だった。
店員は少しだけ残念そうな顔をした。
「もったいないです」
「何がです?」
「素材が極上なのに」
「素材?」
自分を食材のように評価された。本人だけはどういう事か、てんで理解していない。
「少々お待ちください」
「え?」
そこから御門には、何が起きたのかよく分からなかった。
最初は濃紺のセットアップだけを買う予定だった。それなら研究発表にも式典にも使えると言われ、確かに便利そうなので試着する。ところが試着室から出た御門を見た店員の表情が変わり、今度は淡い色のブラウスを持ってきた。
「やっぱり。こちらも着てみてください」
「いや、セットアップだけで――」
「まあまあまあまあ、一回だけ」
次はジャケット、その次はワンピースと増えていく。御門が「そんなに要らない」と抵抗しても、店員は「こちら絶対似合いますから」と一歩も引かなかった。
試着室から出るたび、女性店員の目が楽しそうになっていく。
「はい! できました!」
「はあ」
「ご覧ください、よくお似合いで綺麗ですよ」
「見てます」
「いかがですか? たまにはお洒落もいいものでしょう」
「動きにくそうです」
「そういう意味じゃないです」
御門には違いがよく分からないが、店員には分かるらしい。
「髪も少し整えたら、かなり印象変わりますよ」
「研究発表に髪型関係あります?」
「あります」
「本当に?」
「あります」
断言された。
「あるんだ……ええ」
結局、御門は当初予定していたセットアップのほかに、ブラウス二枚、ジャケット一着、ワンピース一着まで買うことになった。
会計金額を見て、少し後悔した。それなり以上に稼いではいるが、それなり以上の苦学生だったため、未だに一万円を超える服には抵抗がある。
「恐竜の写真集なら何冊買えたんだろう……」
「何かおっしゃいましたか?」
「何でもないです」
これ以上買わされてはたまらんと、早々に会話をうちきった。御門が紙袋を受け取ると、女性店員は満足そうだった。
「ぜひ着てくださいね。クローゼットに入れて満足しないでくださいね」
「……努力します」
なぜ初対面なのに性格まで見抜かれているのか分からなかった。
◇
百貨店を出たころには、研究会議を三時間したときより疲れていた。
「服買うの、疲れる……試着って面倒くさい……」
甘いものでも食べようかと思ったが、近くに博物館があることを思い出した。御門は少し考え、これは休憩になると判断した。
三十分後、彼女は大型獣脚類の復元骨格を見上げていた。
「おおお、うわぁ……」
疲労が消えた。
先ほどまで百貨店で「はい」「分かりました」「それも買います」と死んだ目をしていた女と同一人物とは思えない。
展示ケースへ近づくと、歯の化石や大腿骨、脊椎が並んでいる。保存状態もいい。御門は説明板を読み、化石を見て、少し横へ移動して角度を変え、また説明板へ戻った。
「すご……この摩耗……へへ……」
気づけば展示ケースへかなり顔を近づけていた。
「お母さん」
近くから子供の声がした。
「何?」
「あのお姉さん、よだれ出てる」
御門は固まった。
口元へ手を当てると、本当に少し出ていた。しかも子供と目が合い、しっかり指までさされている。
母親が慌てて子供の手を下ろした。
「こら、指ささないの」
「だってよだれ――」
「すみません!」
「いえ……」
御門はハンカチを出して口元を拭き、少しだけ展示ケースから離れた。
「……危ない」
何が危ないのかは分からない。
それでも十分後には、別の骨格標本の前でまた同じくらい顔を近づけていた。はたから見れば、危ない人だった。
◇
博物館を出たころには、外はすっかり夕方になっていた。買った服の紙袋を提げたまま、御門は近くの定食屋へ入り、焼き魚とご飯、味噌汁の定食を頼んだ。
料理が来るまで何となくスマートフォンを開くと、温泉恐竜の記事がまた増えていた。山形の温泉映像を紹介する記事、宮城での戦闘を分析する動画、青い防水シートとスポーツバッグから移動経路を推測する投稿まである。
御門は画面を閉じた。
休日くらい仕事を忘れようと思ったところで料理が運ばれてきたので、味噌汁を飲み、焼き魚を食べる。しばらくは何も考えず食事を楽しめたが、やがて昼間に公園で子供たちと話したことを思い出した。
『恐竜って怖くないの?』
怖い。
それは間違いない。
人工的に作られた恐竜が野生へ定着し、人間と同じ土地で暮らすようになってから、人間社会は少しずつ仕組みを変えてきた。危険個体を管理する制度を作り、ハンターを育て、道路や農地の対策を進め、それなりに折り合いをつけてきた。その積み重ねによって、多くの人間は今の状態を当たり前のものとして受け入れ始めている。
けれど、それは完成した共存ではない。
人間側が恐竜の行動を理解し、一定の予測ができることを前提に成り立っている部分が大きい。その予測から外れる個体が増えれば、これまで作ってきた制度や常識も変えなければならない。
それでも恐竜をすべて排除するという選択肢が現実的なのかと問われれば、御門にはそう思えなかった。すでに彼らは山にも、森にも、湿地にもいる。そこで繁殖し、餌を食べ、子を育てている。人間が勝手に作り出した生き物であるにもかかわらず、生まれてきた個体自身にはそんな事情など関係ない。
「生存競争、かあ」
御門は小さく呟いた。
言葉にすると物騒だったが、競争とは必ずしも相手を滅ぼすことではない。距離を覚え、危険を避け、相手の性質を知り、互いに死なない仕組みを作ることだって、生き残るための方法だった。
今は、まだその仕組みが動いている。
けれど環境が変われば、人間も仕組みを変えなければならない。
「休みなのになあ……」
結局また仕事のことを考えている。
御門は苦笑して焼き魚を一口食べ、それから、ふと黒い恐竜のことを思い出した。
人間から距離を取っているくせに、青森では危険へ自分から近づいた奇妙な個体。スポーツバッグを持って山を歩き、温泉に入り、自分より大きな恐竜を相手にしても状況に合わせて行動を変える黒い恐竜。
「君はどうしたいんだろうね」
答えはない。
本人に聞ければ一番早い。
以前、テレビで冗談半分にそんな話をしたことを思い出し、御門は少し笑った。
食事を終えて外へ出ると、片手には百貨店で買わされた大量の服があり、頭の中には相変わらず恐竜がいる。家へ帰れば『恐竜日記 Vol.18』と、まだ整理しきれていない温泉恐竜の写真が待っていた。
御門優子の休日は、結局最後まで恐竜から離れられなかった。
断章5 御門優子の休日 終了→仕事
重たい話の予告についてはアンケートが以下の結果なので、現在の非記載運用を継続します。
ただし、タイトルでなんとなく察せられるのは、これまでと変わりません。気になる人はタイトルから内容を察してください。
【重い話の予告はいる?】
どっちでもいい: 420票、66%
不要: 175票、27%
必要: 44票、7%
読みたい話の方向性(本編は完成済みなので、断章で追加する話の確認)
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主人公視点のコミカルな話
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主人公視点のシリアスな話
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人間視点のコミカルな話
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人間視点のシリアスな話
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その他、感想でそれとなく記載するよ