福島の事件から三週間、黒い恐竜の姿は確認されていなかった。
大規模な山狩りが行われていたわけではない。福島県内の山へ入ったことは分かっていたが、少なくとも現時点で人間を襲った記録はなく、福島では大型肉食恐竜の討伐に加わり、結果として住民の救助にもつながっている。そんな個体を、所在が分からないという理由だけで刺激するべきではないという判断だった。
それでも、気にしている人間は多かった。何しろ最後に確認された姿が、全身を血で濡らし、右肩を負傷し、足を引きずりながら山へ消えていくところだった。死亡説が広く信じられたわけではないが、「傷が原因で動けなくなっているのではないか」「山中で衰弱している可能性はないのか」という心配は、事件から日が経つにつれて増えていた。
だから十一月下旬の朝、猪苗代湖の近くを訪れていた男性が撮影した一本の動画は、投稿から数時間で全国ニュースにまで上がった。
最初に映っているのは、晩秋の猪苗代湖だった。遠くには白鳥が浮かび、人気の少ない岸辺を冷たい風が渡っている。撮影者も当初は鳥を撮っていたらしく、映像の中央には数羽の白鳥がいたのだが、その奥を横切る黒いものに気づいたところで、カメラが大きく動いた。
『……温泉恐竜じゃね?』
撮影者がズームする。
長い尾と黒い背中、水面から突き出した頭部。四メートルを超える身体が、ゆっくりと湖を進んでいた。
そこで映像がさらに揺れた。
『え、二頭いる。ちっさ。何あれ』
大きな黒い恐竜の少し後ろから、一メートルほどの小型恐竜が必死に泳いでいる。小さいほうが途中で進路を外れると、黒い恐竜は先へ行かずに戻り、長い尾を使って進む方向を塞いだ。小型恐竜が岸のほうへ向き直ると、その横へついて再び一緒に泳ぎ始める。
動画は、二頭が岸へ戻るところで終わっていた。
◇
『福島の市街地で大型肉食恐竜の討伐に加わった、通称「温泉恐竜」とみられる個体が、猪苗代湖で撮影されました』
研究室のテレビから聞こえてきた声に、御門優子は書類から高速で顔を上げた。
「生きてる……生きてた!」
隣にいた研究員も画面を見る。御門は椅子ごとテレビへ近づき、まず黒い個体の右肩を見た。福島では大型肉食恐竜に噛まれており、肋骨にも相当な衝撃が加わっていたはずだが、映像を見る限り、四肢の動きに目立った左右差はない。水を掻く右前肢も使えており、少なくとも泳げる程度には回復している。
「傷、塞がってますね」
「完全かどうかは分からないけど、可動域はかなり戻ってる。……よかった」
最後だけは、研究者としての所見というより独り言だった。
ところが映像の後半に入ったところで、御門の表情が変わった。小型恐竜が映り込んだのである。
「ところで、見てください。これ、このちいさくてかわいいの、一緒に行動してるみたいですね。別種みたいですが……」
興奮してやや、素の話し方が漏れていたことに気が付き、御門はかるく咳払いをした。
頬の赤みに見ないふりをして、部下の研究員は答える。
「口の形状から草食でしょうか、ちいかわなのかはちょっとわかりませんが」
「まだ一緒にいるんだ……肉食恐竜と小型恐竜が一緒に旅してるって、貴重な光景。メロい」
御門は目を皿のようにしてじっと見ながら、映像を巻き戻した。小型恐竜が進路を外し、黒い個体が戻る。尾で行く方向を限定し、小さいほうが岸へ向き直るのを確認してから並んで泳ぎ始める。
「温泉恐竜が、小さいのに泳ぎ方を教えてるように見えますね」
研究員が言うと、御門はしばらく映像を見たあと、首を横に振った。
「そう見えるのと、そうしているのは別。先行している個体が仲間の移動に合わせているだけかもしれないし、単純に離れることを嫌がっている可能性もある。行動の結果として、小さい個体の移動を補助しているところまでは言えるけど……」
そこまで説明してから、もう一度映像を見た。
黒い個体が泳ぐ。小型個体が追う。離れれば待ち、進路を外せば戻る。
御門は額へ手を当てた。
「それはそれとして、何で泳いでるの、この二頭」
研究員にも、その答えは出せなかった。
いずれにせよ、久しぶりに安心して眠れそうだと、御門は内心ほっとしていた。世話焼きの従妹から寝不足と働きすぎを散々注意されており、そろそろ家から出してもらえない懸念があったのだ。
◇
同じ映像は、全国のハンターたちの間でもすぐに共有された。
その中に、榊原宗一もいた。福島で負傷した唯一の生存ハンターとは別人で、大型種の捕獲や危険個体の駆除を長く経験してきた現役のベテランである。福島事件のあとには海外メディアから黒い恐竜の戦い方について意見を求められ、「戦わなくていい相手と戦わないのも仕事です」と答えたことで、本人の意図とは関係なく名前が知られるようになっていた。
仕事先の詰所で映像を見せられた榊原は、最初に右肩の動きを確認した。福島の映像を何度も見ていたため、どこを噛まれたかは覚えている。四肢を使って水を掻けるところまで回復していると分かると、「まあ、生きてんな」とだけ言い、少しだけ表情を緩めた。
小型恐竜については、映像を一度見ただけで済ませた。
「なんか、ちいさいのと一緒にいるんですね」
若手トップのハンターが言うと、榊原は肩をすくめた。
「一緒にいるのは見りゃ分かる。それより面倒なのは、こっちだ」
指したのは湖だった。
「泳げることですか?」
「ああ、この体格で、少なくともあれだけ普通に泳げる。どこまで行けるかは分からんが、川を越える程度なら十分あり得るだろ。流石に日本から泳いで出国するとは思えんが」
イケメンな若手ハンターも意味を理解したらしい。机に置かれていた地図へ目を向けた。
「今までの移動予測、道路と山を中心に見てますよね」
「人間は無意識に橋を基準に考えるからな。川を渡るなら橋か浅瀬だと思う。あいつが普通に泳いで越えるなら、こっちが勝手に作った移動経路なんて簡単に抜けられるぞ」
「捕捉するにはかなり厄介ですね」
「まあな、討伐や捕獲の流れはないが、それでも人里に降りる事のある肉食恐竜だ。十二分な危険因子だぜ、せめて捕捉だけでもしておきたいが」
榊原はそう言ってから、もう一度だけ画面へ目を向けた。
黒い恐竜は湖を泳ぎ、その後ろを小さな恐竜が追っている。福島で六メートルを超える肉食恐竜と血まみれになって戦っていた姿を見たあとでは、同じ個体とは思えないほど平和だった。
「人を襲わず、元気なら、まあいい」
「榊原さん、結構あいつのこと気に入ってません?」
「湖に放り込むぞ」
「俺が泳げるか確認するんですか?」
榊原は返事の代わりに、若いハンターを詰所から追い出した。詰所の外からはふははとアホな笑い声が聞こえてきた。
◇
八王子の家では、娘が朝から騒いでいた。
「いた! お母さん、いた!」
「何が?」
「温泉恐竜!」
台所から出てきた母親へ、娘はスマートフォンを差し出した。黒い恐竜が猪苗代湖を泳いでいる。母親は何も言わずに最初から最後まで見て、それからもう一度、今度は右肩のあたりを気にしながら再生した。
「傷、治ったのかしら」
「泳げるくらいなら大丈夫じゃない?」
「でも寒いでしょう」
「恐竜だから平気なんじゃない?」
「恐竜だって寒いものは寒いんじゃないの?」
二人とも分からなかった。
今度は小さいほうに注目して再生する。
「この子ちいさくてかわいいこ、一緒にいるのね」
「そうだね、このちいさくてかわいいやつ、一緒に旅する友達なんじゃない?」
「仲良くなったのね」
「だといいね。これってさ、泳ぐの手伝ってない?」
小型恐竜が進路を外すと、大きな黒い恐竜が戻ってくる。尾で進む方向を変え、また一緒に泳ぎ始める。その様子を見ているうちに、母親の口元が少し緩んだ。
「ずいぶん世話焼きなのね」
娘の指が止まった。
「……そうなんだよね」
「何?」
「ううん、何でもない」
兄もそうだった。面倒くさいと言いながら、結局は手を出す。自分が何かに失敗すれば最初は笑うくせに、放っておけずに横から手伝い始める。
そんなことまで似ていると思うのは、さすがにおかしい。それでも福島で見た会釈以来、どうでもいいはずの共通点ばかりが目につくようになっていた。
そこへ父親が新聞を持って入ってきた。
「朝から何を騒いでる」
「みてみて、生きてた」
「誰が?」
「温泉恐竜」
父親は新聞を置き、娘からスマートフォンを受け取った。最後まで見てから最初へ戻し、もう一度再生する。
「嬉しそうじゃん、よかったね」
「何がだ。傷が治ってるか確認しただけだ」
「はいはい」
父親は端末を娘へ返し、新聞を広げ直した。それから数秒もしないうちに、紙面の向こうから声がした。
「しかし、かなり寒いだろうに、何で泳いでるんだ」
「知らないって、温泉と交互にはいって整ってるのかな」
結局、三人とも同じところでわらっていた。
◇
そのころ都内では、一人の行方不明者について、それまで曖昧だった足取りが少しずつ形になり始めていた。
捜査員が再生していたのは、駅の防犯カメラだった。画質は決して良くないが、人の流れの中を歩く一人の男性が確認できる。八王子で家族が帰りを待っている男性であり、失踪前の移動記録を一つずつ追った結果、警察は彼が青森県まで来ていたことを確認していた。
「ここまでは間違いないですね」
「ああ。問題は、この先だ」
別の捜査員が資料をめくる。本人の端末はその後、継続的な通信が確認できず、金融関係にも動きがない。宿泊先から帰京した記録も見つからない。失踪から三か月近くが経過しても生活の痕跡が戻らず、家族にも勤務先にも連絡がない以上、本人の意思で一時的に姿を消しただけと考えるには不自然な点が増えすぎていた。
そこへ、家族から追加で寄せられた情報があった。
「妹さんとの電話で、『温泉に行きたい』と」
「一週間くらい前だな」
「『千人も入れるでかい風呂があるところ』とも言っていたそうです」
年長の捜査員の手が止まった。
「千人風呂?」
数秒考え、端末へ手を伸ばす。
「青森まで来てたんだろ。酸ヶ湯を当たれ」
「宿泊記録ですか?」
「まずそこからだ。立ち寄りだけなら残らない可能性もある。周辺の防犯カメラ、交通記録、本人の移動経路と時間が合うかも確認してくれ」
「分かりました」
家族にとっては、失踪前の何気ない雑談だった。
警察にとっては初めて、青森という広い範囲の中に具体的な場所を置ける情報になった。
もちろん、本人が実際に酸ヶ湯へ行ったとは限らない。旅行番組やインターネットで知っただけかもしれず、千人風呂という言葉を口にしたことと、現地へ向かったことは別である。
それでも、調べる理由としては十分だった。
年長の捜査員は、机の端に置かれた別件の資料にも目を向けた。
青森県内では同じ時期、人工恐竜の違法取引に関わっていたブローカーグループが活動していた。すでに複数の関係者が摘発され、県警が取引記録や車両の移動履歴を調べている。
ただし、行方不明の男性が彼らと接触した証拠はない。
「青森県警にも照会だけ出しておけ」
「ブローカー事件ですか?」
「時期と場所が近い。それだけだ。あくまで不明男性の件としておけ、話を作るなよ」
「分かってます」
「向こうの押収資料に、この人の名前か顔か、本人が使っていた車両や交通経路に引っかかるものがないか。それだけ確認してもらえ」
捜査員が頷く。
年長の捜査員は二つの資料を重ねなかった。行方不明者は行方不明者、違法取引事件は違法取引事件である。接点が見つかるまでは、同じ事件として扱う理由はない。
ただ、調べずに切り離す理由もなかった。
◇
そのころ、青森県警に置かれた恐竜違法取引事件の捜査本部では、押収された端末や取引記録の解析が続いていた。
摘発されたグループは大きな組織ではなかったが、調べるほどに、人工恐竜の違法取引が一つの集団だけで完結する商売ではないことが分かってきた。正規施設からの横流し、違法な孵化、国外からの持ち込み、書類上は死亡したことになっている個体の転売。仕入れ先と売り先の間には複数の仲介役がおり、必要に応じて輸送業者や保管場所まで融通し合っている。
「こいつらを潰して終わり、じゃないな」
「はい。仕入れ先も売り先も複数です。同業者同士で客を回していた形跡もあります」
捜査員が画面上の記録を切り替えた。東北とは違う地域で確認された、不自然な人工恐竜の移動記録が並ぶ。書類上は研究用資材、別の便では大型動物用設備。登記だけ存在して事業実態がほとんど確認できない会社もあった。
「関東甲信も洗ってるんだったな」
「各県警へ照会中です。長野でも別件で一社を見ていますが、現時点では違法な恐竜取引と断定できる材料までは出ていません」
そこへ、都内から一件の照会が入った。
行方不明者について、押収資料の中に一致する情報がないか確認してほしい。
担当者は内容を読み、隣の捜査員へ回した。
「何だ?」
「行方不明者です。失踪前に青森へ来ていたらしい。時期がこいつらの活動時期と近いから、名前と顔、移動記録に引っかかるものがないか見てほしいって」
「ブローカーの関係者か?」
「そこまでは言っていませんでした。不明者の照会だけです」
「じゃあ照会として処理しろ。雪も酷くなって現場にも行けないし、恐竜被害も増えてきた。手が足りないから余計な仕事を増やすなよ」
「分かってます」
資料は通常の照合作業へ回された。
その時点では、それだけだった。
誰も特別扱いをしなかったし、誰も一人の行方不明者が違法取引事件の中心にいるとは考えていない。青森まで来た人間が一人消え、その時期に別の犯罪が同じ県内で行われていた。ただそれだけの理由で二つを結びつければ、捜査ではなく想像になってしまう。
だから警察は、まだ二つの事件を結びはしなかった。
ただ、資料だけを同じ場所へ置いた。
◇
夕方、八王子の家へ一本の電話が入った。
母親が出ると、相手は息子の行方不明について連絡を取っている警察官だった。新しい情報が見つかったという。
息子が失踪前、青森県内まで移動していたことが確認された。
そして以前、娘が伝えた「千人も入れる風呂」という話から、酸ヶ湯周辺についても調べるという。
「酸ヶ湯……ですか?」
母親は椅子へ座った。
娘が顔を上げ、父親も新聞から視線を向ける。
「はい。……はい。分かりました。よろしくお願いします」
電話を切る。
「何だって?」
父親が訊いた。
「あの子、青森にいたって。いなくなる前に」
「青森?」
「それで、あの子が言ってた千人風呂……酸ヶ湯っていうところじゃないかって。警察が調べてくれるって」
娘の表情が変わった。
「青森……」
その一言だけで、別の記憶が浮かんだ。
黒い恐竜が最初に大きく話題になった場所も、青森だった。
全長三メートルを超える肉食恐竜に襲われた親子の前へ割って入り、危険な相手とのあいだに自分の身体を置いた、当時はまだ今よりずっと小さかった黒い恐竜。
もちろん、それだけだった。
兄が青森へ行った。
黒い恐竜も青森にいた。
二つの事実のあいだには、何もない。
何もあるはずがない。
父親が先に口を開いた。
「警察は何て?」
「まだ調べてるって、でも雪や恐竜の狂暴化で時間がかかるかもって」
「そうか」
それ以上は言わなかった。
娘はスマートフォンを開き、保存してある動画の一覧を表示した。福島、山形、宮城、青森。これまでは保存した順番のまま放り込んでいた映像を、一つずつ開いて日付を確認していく。
青森の映像では、今より小さな黒い恐竜が肉食恐竜と親子のあいだへ割って入る。
宮城では、自分より大きな肉食恐竜と戦ったあと、荷物のところへ戻っていく。
山形では温泉に浸かっている。
福島では、しゃがみ込んだ母子の前へ飛び込んだ。
そして今日、猪苗代湖では、小さな恐竜が離れるとわざわざ戻っている。
「……何だろ、何か気になる」
娘が小さく呟いた。
「何が?」
母親が振り返る。
「何でもない」
偶然だと思うには、少しずつ数が増えていた。
けれども、偶然ではないと考えるには、あまりにも馬鹿げている。
その夜のニュースでは、猪苗代湖を泳ぐ二頭の恐竜が何度も流れていた。黒い恐竜は生きていて、傷も治りつつあり、小さな恐竜を連れて、なぜか晩秋の湖を泳いでいる。それだけなら、福島以来、久しぶりに少し笑って見られるニュースだった。
娘は自分の部屋へ戻ると、スマートフォンを開いた。
「お兄ちゃんに見せる」と名前をつけたフォルダには、兄が帰ってきたら見せようと思って保存したものが増え続けている。その中から温泉恐竜の映像だけを拾い、撮影された日付を確認しながら並べ直した。
青森。宮城。山形。福島。猪苗代湖。
北から、少しずつ南へ。
最後の動画を移動させたあと、娘はしばらく画面を見つめていた。
「……あなたはどこ行くつもりなの」
訊いてから、自分でも妙なことを言ったと思った。
答えなど返ってくるはずもない。
画面の中では、黒い恐竜が小さな恐竜を連れて、冷たい湖を岸へ向かって泳いでいた。
第20章 でかつよとちいかわ 了
酸ヶ湯については断章1で補足してます