温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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??? 眠れる巨獣

 福島県で大型肉食恐竜による襲撃事件が起きてから、しばらく時が過ぎていた。

 

 送電線の巡視というのは、要するに山を歩く仕事である。鉄塔から鉄塔へ、地図に引かれた線をたどって尾根を越え、電線に倒木が触れていないか、碍子が割れていないか、鉄塔の足元が崩れていないかを見て回る。地味で、足が疲れて、誰にも感謝されない。そのかわり、事故がなければ一日じゅう誰にも怒られない。

 

 佐竹はこの仕事を二十六年続けていた。その分野生動物や恐竜への対処(と言っても逃げるだけだが)も、そこらのハンター顔負けだった。

 

「佐竹さん、これ見ました?」

 

 休憩の握り飯を食べ終えたところで、後ろを歩いていた日比野がスマートフォンを差し出してきた。入社二年目で、山道ではすぐに息を切らすくせに、電波の入る場所だけは誰よりも早く見つける。

 

「仕事中にスマホを見るな」

 

「休憩中っすよ、いいじゃないですか。猪苗代湖ですよ、これ」

 

 画面には、湖畔の浅瀬に黒い恐竜が一頭、腹まで浸かっている映像が映っていた。遠くから撮ったらしく、手ぶれがひどい。恐竜は湖面に顎を乗せて、ぼんやり対岸を眺めている。しばらくすると、ゆっくり首を回して、肩まで水に沈んでいった。

 

「温泉恐竜か」

 

「そうです。福島のあとで行方が分かんなくなってたやつ。昨日の夕方の映像らしいです」

 

「湖は温泉じゃないだろう」

 

「だから今、ネットで論争になってます。『温泉じゃなくても入るのか』派と、『あれは湖を巨大な温泉だと勘違いしてる』派で」

 

「どうでもいいな」

 

「再生数、もう二百万超えてますよ」

 

「なおさら、どうでもいいな」

 

 佐竹はペットボトルの茶を飲み干して立ち上がった。日比野が慌てて握り飯の包みを丸める。

 

 猪苗代湖から見れば、ここは磐梯山の裏手にあたる。距離にして二十キロもない。そう考えると少し落ち着かない気持ちもあったが、あの黒い恐竜が人を襲ったという話は一度も聞いたことがなかった。福島で赤い大型と戦ったのも、人間を守るためだったという噂のほうが多い。

 

 それに、怖いのは黒いほうではない。

 

 赤いほうは、もう死んだ。以前のニュースで、そう言っていた。

 

「行くぞ。今日は十七号鉄塔まで回る」

 

「十七号って、あの沢を下りるところですよね」

 

「そうだ」

 

「あそこ、膝にくるんですよね……」

 

「二十六年来ている、それでもなんとかなってるんだ、若いの」

 

「佐竹さんの膝の話はしてないっすよ……」

 

◇

 

 十五号鉄塔を過ぎたあたりから、日比野が静かになった。

 

 疲れたのだろうと佐竹は思っていた。この先は斜面が急になり、いつもなら日比野は文句を三つは言う。それが一つも出てこない。

 

「おい、どうした。体調でも悪いのか?」

 

「その……鳥、鳴いてなくないですか」

 

 言われて、佐竹は足を止めた。

 

 風が尾根を渡る音がする。遠くで沢が流れている。けれど、さっきまで頭の上でうるさいほど鳴いていたヒヨドリの声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 

 山ではたまにあることだ。猛禽が近くを飛ぶと、小鳥は一斉に黙る。熊が近くにいるときもそうだ。

 

「熊鈴、鳴らしとけ」

 

「はい、鳴らします。スプレーもすぐ出せるところに」

 

 日比野はリュックにぶら下げた鈴を手で揺すってみせた。澄んだ音が、斜面に吸い込まれるように消えていく。

 

 佐竹は歩き出した。

 

 十六号鉄塔へ向かう巡視路は、杉林の中を斜めに下っている。何年も前に佐竹自身が赤いテープを巻いた目印の木があり、その先で道は一度、開けた斜面へ出る。古い崩落の跡で、大きな岩がいくつか転がっている場所だった。

 

 その岩の一つが、見覚えのない形をしていた。

 

 巡視路から十メートルほど下の斜面に、横長の塊が横たわっている。苔と泥に覆われ、上には枯れ葉が積もっている。長さはたぶん十メートル以上。高さは人の背ほど。倒木か、崩れた土砂が固まったものか。

 

 佐竹は首を傾げた。

 

 この斜面は、毎年歩いている。岩の数も形も、だいたい頭に入っている。こんな大きな塊が、ここにあっただろうか。

 

「あんな岩、あったか」

 

「え? どれですか」

 

「あの下の、長いやつだ」

 

 日比野は斜面を覗き込み、それから佐竹の顔を見た。

 

「去年は来てないんで、分かんないです」

 

「……そうか」

 

 夏の大雨で上から崩れてきたのかもしれない。それなら、斜面の上のほうにえぐれた跡があるはずだったが、杉の枝が邪魔でよく見えなかった。

 

 鉄塔の足元さえ無事なら、斜面の岩一つにかまっている暇はない。佐竹は巡視記録の用紙に「十五〜十六号間、巡視路下方の斜面に大型の岩塊あり(要確認)」とだけ書き込み、先へ進んだ。

 

 背中で、何かが軋むような音がした気がした。

 

 振り返った。岩は、さっきと同じ場所にあった。

 

 風で杉が鳴ったのだろう。

 

     ◇

 

 十六号鉄塔の下の沢で、日比野が先に見つけた。

 

「佐竹さん。……佐竹さん、これ、なんですか」

 

 声が裏返っていた。

 

 沢の脇の平らな河原に、何かが散らばっていた。

 

 最初は、誰かが大量の生ゴミを捨てていったのかと思った。近づくにつれて、それが肉だと分かった。赤黒く、半分崩れかけた肉の塊が、河原の石の上に幾つも幾つも広がっている。骨の混じったものもある。皮の付いたままのものもある。その周りを、季節外れの大きな蝿がうなりを上げて飛び回っていた。

 

 匂いが、ひどかった。

 

 腐った肉の匂いだけではない。酸っぱい、鼻の奥を刺すような匂いが混じっている。何かの胃袋の中身をぶちまけたような匂いだった。

 

 日比野が口元を押さえて後ずさった。

 

 佐竹は手ぬぐいで鼻を覆い、少しだけ近づいた。

 

 肉の塊の中に、見覚えのある形の骨があった。太く、平たい骨盤。人の胴ほどもある大腿骨。草食恐竜のものだ。それも、かなり大きい。二本足で歩く大型の草食種だろう。

 

 少し離れた河原の端に、その草食恐竜の残りがあった。首から上と、後肢の片方だけが、ほとんど手をつけられないまま転がっている。

 

 佐竹は肉の塊と、残された死骸とを見比べた。

 

 妙だった。

 

 熊が鹿を食い散らかした跡なら何度も見たことがある。食べるところから食べ、残りは土をかけて隠し、また戻ってくる。肉食の恐竜でも、だいたい似たようなものだと聞いていた。

 

 これは違う。

 

 食べた肉を、そのまま吐き出している。

 

 散らばった肉の塊は、どれも噛み砕かれただけで、ほとんど形が残っていた。腹に収めて、収めきれずに戻した。それを何度も繰り返したように、肉は沢沿いに点々と続いていた。

 

「熊でも、こんな食い方はしねえ」

 

 佐竹は呟いた。

 

「さ、佐竹さん。赤いやつ、死んだんですよね。ニュースでそう言ってましたよね」

 

「言ってた」

 

「じゃあ、これ、なんですか」

 

 佐竹は答えなかった。

 

 代わりに、河原の砂地を見ていた。

 

 吐き戻された肉の塊の間に、窪みがあった。最初は水溜まりの跡だと思った。けれど縁の形が整いすぎている。前に向かって三本、太く長い溝が伸び、後ろは丸く踏み固められている。

 

 足跡だった。

 

 日比野が、震える手で巻尺を出した。佐竹が端を持ち、日比野が反対側まで伸ばす。

 

「……八十二センチ」

 

 日比野の声は、ほとんど聞き取れなかった。

 

 佐竹は自分の長靴を窪みの中へ置いてみた。踵を後ろの縁に合わせると、爪先の先に、同じ長さの長靴がもう一足入るほど余った。

 

 三本の指の跡のうち、いちばん外側の一本だけが、わずかに内側へ曲がっていた。古傷か、生まれつきか。佐竹には分からなかった。

 

 日比野がスマートフォンを取り出し、さっきの動画をもう一度開いた。湖に浸かる黒い恐竜。その足元は水に隠れて見えない。

 

「あいつじゃ……ないですよね」

 

「あいつは四メートルだろう」

 

「四メートルの恐竜の足って、どのくらいですか」

 

「知らん」

 

 知らなかったが、八十センチはないだろうと思った。

 

◇

 

 二人は予定を切り上げて、来た道を引き返した。

 

 十七号鉄塔までは行かなかった。日比野は一度も膝の文句を言わなかった。佐竹も、急げとは言わなかった。二人とも、自然と早足になっていた。

 

 巡視路が杉林を抜け、古い崩落の斜面へ出る。

 

 佐竹は、さっき記録用紙に書いた岩塊を確かめようと、斜面の下を見た。

 

 そこには、何もなかった。

 

 苔と泥に覆われた、長さ十メートルほどの塊があったはずの場所には、ただ大きく窪んだ地面が残っているだけだった。枯れ葉は押し潰され、土は人の背丈ほどの幅で、ずっと横に長く凹んでいる。まるで、何か巨大なものが、そこに何日も横たわっていたように。

 

 窪みの端から、斜面の下の暗い杉林へ向かって、何かを引きずったような跡が続いていた。

 

 日比野が、佐竹の袖を掴んだ。

 

「……佐竹さん」

 

「声を出すな」

 

「でも、さっき、あそこに」

 

「静かにしろ」

 

 佐竹は日比野の腕を引いて、巡視路を登った。振り返らなかった。熊鈴の音がやけに大きく聞こえたが、止めることもできなかった。

 

 頭の上では、まだ鳥が鳴いていなかった。

 

◇

 

 その日の夕方、佐竹は営業所へ戻り、巡視記録と一緒に、沢の写真と足跡の計測値を添えて報告を上げた。

 

 報告は、その日のうちに県の恐竜対策の窓口へ回された。

 

 窓口の担当者は、福島の事件の後始末で、ここしばらくはほとんど家に帰っていなかった。机の上には、赤い個体の検証資料と、現場周辺からの目撃通報と、ネットに上がった黒い個体の動画についての問い合わせが、崩れそうなほど積み上がっていた。

 

 担当者は、送電会社からの報告書を一枚めくり、写真を見た。大型草食恐竜の死骸。散らばった肉。足跡。

 

 大型肉食恐竜による捕食痕。

 

 福島の赤い個体が生前に残したものの可能性あり。

 

 担当者は備考欄にそう書き込み、報告書を「福島関連・事後確認」の箱へ入れた。

 

 その箱は、すでに満杯だった。ゆっくりと、置かれた報告書は床に落ち、キャビネットのしたに滑り込んでいった。

 

◇

 

 佐竹の巡視記録は、翌月の点検で一行だけ訂正された。

 

 十五〜十六号間、巡視路下方の斜面に大型の岩塊あり(要確認)。

 

 その行の上に、赤いボールペンで二重線が引かれ、横に小さく書き添えられている。

 

 再確認の結果、該当する岩塊なし。

 

??? 眠れる巨獣 了

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