温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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断章7 人生最後?の温泉

栃木県北部の山中を、一人の男が歩いていた。

 

十二月の深夜、気温は氷点下まで下がり、林道には数日前に降った雪がまだ残っている。木々の間を抜ける風は容赦なく体温を奪い、ところどころ凍結した路面は、登山靴を履いた経験者でも慎重に歩かなければ危険な状態だった。まして、その男は登山靴どころか普通のスニーカーを履き、右手には酒瓶、左手にはスマートフォンを持ち、明らかに酔っ払った足取りで山の奥へ進んでいた。

 

「……くそったれ。何がプルラルタアフメットリッヒだよ」

 

男はそう吐き捨てると、手にしていた酒瓶を持ち上げた。すでにかなり飲んでいるはずなのだが、腹の底に溜まった不快感は少しも薄れていない。むしろ酔えば酔うほど、昼間の出来事が鮮明に思い出され、そのたびに腹立たしさと情けなさが交互に込み上げてきた。

 

「……ポテンシャルって何だよ。せめて縦軸くらい書けよ、あのグラフ。ポパってんなよ全てにおいて……」

 

男の名は三浦健一。三十八歳、独身、都内の中堅企業に勤める会社員である。

 

年収は同年代の平均より少し上で、借金もなく、貯金もそれなりにある。仕事では大きな失敗をしたことがなく、友人との付き合いも続いていた。派手な人生ではなかったが、少なくとも昨日までは、自分の生活をそれほど悪いものだと思っていなかった。

 

ところが現在、その健全な社会人は冬の栃木県山中を、泥酔状態で徘徊していた。

 

しかも、この一帯は野生の恐竜が生息する区域である。熊こそほとんど確認されていないものの、イノシシや小型肉食恐竜は珍しくなく、中型肉食恐竜の目撃情報もある。自治体は夜間の入山を控えるよう繰り返し注意喚起しており、日中でさえ単独行動は推奨されていなかった。

 

健一も、その程度のことは知っている。

 

知ったうえで、わざわざ夜中に入山したのだった。

 

目指しているのは、山奥にあるという秘湯である。かつて温泉好きの友人から聞いた場所で、沢沿いの岩場から天然の湯が湧き出しており、適度に沢水が混じる場所なら冬でも入浴できるらしい。一般の観光客が訪れるような場所ではなく、道らしい道も途中で途切れるが、古い登山記録には詳しい位置が記されていた。

 

健一は、そこで最後にひと風呂浴びるつもりだった。

 

高級な日本酒を飲み、誰にも邪魔されず、温かい湯に浸かってから大地へ帰る。そう考えると、妙に気持ちが落ち着いた。

 

もっとも、その崇高な計画を実行するには、まず目的地へ到着しなければならない。

 

「……あれ。さっきもこの木、見なかったか?」

 

健一は立ち止まり、スマートフォンの地図を覗き込んだ。画面には現在地を示す青い点が表示されているが、周囲には道が描かれていない。通信状況も悪く、地図の一部は読み込まれていなかった。

 

健一はしばらく画面を眺め、やがて深く頷いた。

 

「なるほど。分からん」

 

それから、何となく右へ進んだ。

 

この時点で、健一の人生最後の計画は、すでにかなり杜撰なものになっていた。

 

◇

 

半年ほど前、健一はマッチングアプリに登録した。

 

三十八歳になり、周囲の友人たちはほとんど結婚していた。休日に集まっても話題は子供や住宅ローンが中心で、以前のように気軽に飲みに行ける相手も減っている。独身生活そのものに不満があったわけではないが、このまま何もしなければ、十年後も同じ部屋で一人、コンビニ弁当を食べているのではないかという不安があった。

 

そんなときに出会ったのが、莉奈だった。

 

三十二歳。都内の美容関係の会社に勤めているという女性で、写真では長い黒髪を肩へ流し、柔らかな笑顔を浮かべていた。最初のメッセージは向こうからで、趣味の欄に温泉旅行と書いてあったことをきっかけに話が弾んだ。

 

初めて会ったのは新宿のカフェだった。

 

写真よりも綺麗な人だと思った。話し方は穏やかで、健一の仕事にも興味を持ってくれたし、温泉の話になると楽しそうに身を乗り出してきた。

 

『私、静かな温泉が好きなんです。今度、連れていってくださいね』

 

その言葉を聞いたとき、健一は内心で小さくガッツポーズをした。

 

それから半年、二人は順調に交際を続けた。

 

映画を見に行き、食事をし、旅行にも出かけた。誕生日には少し奮発してアクセサリーを贈り、莉奈は目に涙を浮かべて喜んでくれた。仕事で疲れているときには電話をくれたし、風邪を引いたと伝えれば、食事を届けようかと心配してくれた。

 

結婚の話が出たのは、交際を始めて四か月ほど経ったころだった。

 

『健一さんとなら、ずっと一緒にいられると思う』

 

健一は本当に嬉しかった。

 

その夜、両親へ電話をかけた。結婚を考えている女性がいると伝えると、母親は何度も「よかったね」と繰り返し、父親は照れくさそうに「今度連れてこい」と言った。友人たちにも報告すると、大学時代の同期からは「とうとうお前もか」と笑われ、職場の後輩からは結婚式に呼んでほしいと頼まれた。

 

来月には両家の親族へ顔を見せる予定だった。

 

健一は結婚式場の情報を調べ、少し広い部屋への引っ越しも検討し、将来の家計について真面目に考え始めていた。

 

そのすべてが、昨日の午後に終わった。

 

◇

 

『健一さんに、ちょっと相談があるの』

 

莉奈がそう切り出したのは、いつものレストランで食事をしていたときだった。

 

『お兄ちゃんの友達がね、新しい会社を立ち上げるんだって。それで、出資してくれる人を探してるらしいの』

 

健一は最初、軽い世間話だと思った。

 

『へえ。何の会社?』

 

『海外のテクノロジーを使った、金融とAIを組み合わせた、すごい事業なんだって』

 

『具体的には?』

 

『詳しいことは、直接聞いたほうが早いと思うの』

 

健一は少し引っかかったものの、結婚を考えている相手の頼みである。投資する気はなかったが、話を聞くだけならと承諾した。

 

そして翌日、指定された都内のレンタルオフィスへ向かった。

 

そこにいたのが、プルゴリだった。

 

『どうもォ! プルゴリです! 本日はお忙しいところ、ありがとうございますッ!』

 

第一印象は、筋肉だった。

 

濃紺のスーツを着ているのだが、どう見ても身体に合っていない。肩は異様に盛り上がり、上腕は袖を内側から押し広げ、太腿に至っては座った瞬間に縫い目が悲鳴を上げそうだった。細身のビジネススーツというより、筋肉の形を忠実に再現したボディースーツに近い。

 

浅黒く日焼けした顔には、真っ白な歯が並んでいた。笑うたびに、その歯が照明を反射して妙に眩しい。

 

健一は名刺を受け取りながら、まず素朴な疑問を抱いた。

 

この人、何でそんなに鍛えているんだろう。

 

しかし、質問する前にプルゴリの説明が始まった。

 

『いやァ、今は完全にパラダイムシフトの時代なんですよ! 既存のビジネスモデルはレガシー化してましてね! 我々が目指しているのは、AIとフィンテックをクロスオーバーさせた、次世代のグローバル・エコシステムなんです!』

 

健一は頷きながら聞いていた。

 

何を言っているのか、よく分からなかった。

 

『つまり、具体的には何をする会社なんですか?』

 

『いい質問ですねェ! パルスのファルシのルシがパージでコクーンでしてェ!』

 

プルゴリは嬉しそうに手を叩いた。

 

『そこがまさに、今回のド級のポイント、ドポイントでしてェ!』

 

説明はさらに十五分ほど続いた。

 

AI、ブロックチェーン、グローバル、イノベーション、スケーラビリティ、エグジット、シックストーンズ、キンプリ、あいみょん。横文字や関係なさそうな単語が次々に飛び出したが、具体的な商品やサービスの説明は一向に出てこなかった。

 

健一が事業計画書を見せてほしいと言うと、プルゴリは満面の笑みでタブレットを差し出した。白い歯が発光するようにLEDの舌で輝いている。

 

そこには右肩上がりのグラフが描かれていた。

 

縦軸に数字がなかった。

 

『この成長曲線をご覧ください! 三年後には企業価値が十倍! 今ここで参画した方々は、まさにファーストムーバー・アドバンテージを享受できるわけです!』

 

『……このグラフ、何の数字ですか?』

 

『ポテンシャルです!』

 

健一は、もう帰りたくなっていた。

 

だが、莉奈が隣にいた。

 

彼女は真剣な顔で話を聞き、ときどき健一へ微笑みかけていた。何かの間違いであってほしかった。本人も騙されているだけで、悪意はないのかもしれない。そう思おうとした。

 

ところが説明が終わったあと、莉奈は健一の手を握って言った。

 

『ねえ、健一さん。私たちも、今のうちに投資しておかない?』

 

『……いくら?』

 

『五百万円くらい』

 

健一は言葉を失った。

 

五百万円。

 

結婚式のために取っておいた貯金を含め、健一が自由に使える資金のほぼ全額だった。

 

『ほら、三年で十倍になるんだよ? 結婚してからお金に困らないように、今のうちに増やしておいたほうがいいと思うの』

 

莉奈は笑っていた。

 

いつもの、柔らかい笑顔だった。

 

けれど、そのとき初めて、健一には別のものに見えた。

 

こちらが断れないことを期待している、粘ついた笑みだった。

 

『……莉奈は、いくら出すの?』

 

『私はもう、準備してるよ』

 

『何の会社かも、まだ分からないのに?』

 

『プルゴリさんが説明してくれたじゃない』

 

『説明になってないだろ』

 

健一の声が、少し強くなった。

 

莉奈の表情が変わった。

 

『健一さん、私のこと信じてないの?』

 

その一言で、何かが決定的に冷めた。

 

半年間、一緒に過ごした時間。

 

結婚の約束。

 

両親へ報告した夜。

 

友人たちからの祝福。

 

全部が、目の前の五百万円につながっていたのだと理解した。

 

健一は立ち上がった。

 

『……帰ります』

 

『えっ、ちょっと待って。まだ話の途中だよ?』

 

『もういい』

 

プルゴリが、白い歯を見せた。

 

『いやいや、健一さん! ここは一度、現場猫でトリプルチェックとマインドセットを――』

 

『結構です』

 

健一は会議室を出た。

 

背後から莉奈が名前を呼んでいたが、振り返らなかった。

 

廊下へ出た瞬間、膝から力が抜けそうになった。

 

金は失わなかった。

 

だが、半年間信じていたものは、全部失った。

 

◇

 

健一はその日のうちに、両親と友人たちへメッセージを送った。

 

『結婚の話はなくなりました。詐欺だったみたいです。心配かけてすみません』

 

短い文章だった。

 

返信はすぐに来た。

 

母親からは電話がかかってきた。父親からは、帰ってこい、というメッセージが届いた。友人たちも心配して連絡をくれたが、健一は誰にも返事をしなかった。

 

恥ずかしかった。

 

自分が騙されかけたことよりも、結婚すると嬉しそうに報告して回ったことが、どうしようもなく恥ずかしかった。

 

職場の同僚にも話してしまっている。

親戚にも伝わっているだろう。

 

今度会えば、きっと気を遣われる。大丈夫か、と聞かれる。何があったのかと尋ねられる。善意だと分かっていても、そのすべてが耐えられそうになかった。

 

健一は高級な酒を買った。

 

普段なら手を出さない値段の日本酒を何本も選び、財布の中身を気にせず会計を済ませた。栃木県の高級旅館を当日予約し、露天風呂付きの部屋に泊まり、豪華な夕食を食べた。

 

酒を飲みながら、ずっと考えていた。

自分は何を間違えたのだろう。

相手を信じたことか。

結婚を急いだことか。

家族へ報告したことか。

 

それとも、三十八歳にもなって、誰かが自分を好きになってくれると本気で思ったことだろうか。

 

翌日の夕方、健一は旅館を出た。

荷物は車に残した。

手には、最後まで取っておいた最高級の日本酒が一本あった。

 

山中の秘湯へ向かうつもりだった。

そこなら、誰にも会わずに済む。

誰にも事情を説明しなくていい。

温かい湯に浸かり、酒を飲み、最後は静かに大地へ帰る。

 

それが、健一の考えた人生最後の贅沢だった。

 

◇

 

秘湯へたどり着いたのは、日付が変わる少し前だった。

 

健一は何度も道を間違え、途中で沢へ足を踏み入れ、片方の靴を濡らしていた。酔いも回り、身体は芯まで冷え切っている。何度か転んだせいで手のひらには擦り傷ができ、頬には細かな枝の傷が走っていた。

 

それでも、ようやく目的地へ着いた。

岩場の奥から、白い湯気が立ち上っていた。

 

沢の水が流れ込む場所に、自然にできた湯溜まりがある。大きな岩に囲まれたその場所は、確かに人目につかず、湯の温度もほどよく調整されているようだった。

 

「……あった」

 

健一は笑った。

 

「ほんとに、あったよ……」

 

ふらふらと岩場へ近づく。

そして、湯気の向こうに何かがいることに気づいた。

黒い、大きな生き物だった。

 

湯の中に身体を沈め、岩へ顎を乗せている。頭部は細長く、口元には鋭い牙が並び、濡れた鱗が月明かりを反射していた。

 

そのすぐ横には、もう一頭、小さな恐竜がいた。

 

こちらは湯の浅い場所で丸くなり、ときどき鼻先を水面へ近づけている。

健一は立ち止まった。黒い恐竜も、健一を見た。しばらく、互いに動かなかった。

 

「……あれ?」

 

健一は目をこすった。

もう一度見た。

やはり、恐竜がいた。

 

「……温泉恐竜?」

 

黒い恐竜の頭が、わずかに傾いた。

健一は、急に可笑しくなった。

 

「ははっ……マジかよ」

 

笑いながら、酒瓶を持ち上げる。

 

「お前、ほんとに温泉入ってんのかよ!」

 

黒い恐竜は、何も答えなかった。

当然だった。

男は、目の前の人間を観察していた。

足取りが異常に不安定で、顔は赤く、酒の臭いが強い。山の中で出会った人間としては、これまで見た中でもかなり危なっかしい部類だった。

 

(……酔っ払いか?)

 

男は湯の中で身体を起こしかけた。

その動きに、二号が反応した。小さな頭を持ち上げ、健一を見つめる。

健一は二号を見た。

 

「おっ、ちっこいのもいるじゃん!」

 

そして、何のためらいもなく上着を脱ぎ始めた。

 

(……は?)

 

男は動きを止めた。

 

健一はコートを岩の上へ放り、セーターを脱ぎ、シャツのボタンを外していく。手元がおぼつかないせいで何度も引っかかったが、本人は気にしていない。

 

「いやあ、いいねえ! 最高じゃん! こんなところで温泉恐竜に会えるなんてさ!」

 

男は、二号を見た。

二号も、男を見ていた。

もちろん、二号が何を考えているのかは分からない。

ただ、二頭とも、目の前の人間が何をしようとしているのか理解できずにいた。

健一は最後にズボンを脱ぎ、下着も脱いで裸になった。

そして、酒瓶を片手に、湯へ入ってきた。

 

「あっつ……あああああ、最高……!」

 

湯の中へ腰を下ろし、肩まで浸かる。

その距離、黒い恐竜から二メートルほど。

普通なら、命知らずどころの話ではなかった。

 

全長数メートルの肉食恐竜がいる湯溜まりへ、人間が自分から入ってきたのである。しかも酒瓶を持ち、顔を真っ赤にし、何の警戒もしていない。

 

男は困惑した。

 

(いや、何してんだ、お前)

 

健一は、そんなことなど気にしていなかった。

 

「いやあ、まさか最後の最後に温泉恐竜と混浴するとは思わなかったなあ!」

 

男は、ゆっくりと身体を引いた。

健一は、そのぶん近づいてきた。

 

「お前、あれだろ? ニュースの! 福島で人助けしたやつ!」

 

男は答えなかった。

 

「知ってるよお。すげえよなあ。恐竜なのに人助けするんだもんなあ」

 

健一は酒瓶の蓋を開けた。

 

「一杯やる?」

 

瓶を差し出された。

男は、鼻先を近づけた。

強いアルコールの臭いがした。

 

(……酒か)

 

人間だったころには飲んだことがある。

しかし、この身体になってからは一度も口にしていない。そもそも恐竜の身体がアルコールをどう処理するのか分からないし、わざわざ試す理由もなかった。

 

男は前肢を顔の前で振って顔を背けた。

 

「えー、飲まないの?」

 

健一は残念そうに言った。

 

「まあ、そうだよな。恐竜だもんな」

 

そして自分で一口飲んだ。

 

ザワ……ザワ……

 

「……うまっ、たまらん! 涙が出るっ……! 犯罪的だっ……!うますぎるっ……!温泉のほてりと…… 裏切りの絶望で……濁った脳みそに…最高級のポン酒…!染み込んできやがる……! 体にっ…!本当にっ……! 本当に……本当にやりかねないっ……!この一口のために…… 裸踊りだって……」

 

なんかザワついて満足そうだった。心無しかあごが尖って見えた。

 

◇

 

それから、健一は喋り続けた。顎は戻っていた。

最初は温泉の話だった。

 

この秘湯を知ったきっかけ。栃木の温泉がいかに素晴らしいか。旅館の料理がどれほど美味しかったか。高級な日本酒がどれだけ高かったか。

男は適当に聞き流していた。

 

ところが、話は次第に妙な方向へ進んでいった。

 

「……俺さあ、結婚するはずだったんだよ」

 

健一は湯の中で膝を抱えた。

 

「三十八だぜ、俺。もういい歳だろ。ようやく相手が見つかったと思ったんだよ」

 

男は、少しだけ顔を向けた。

 

「めちゃくちゃ綺麗な人でさあ。優しくてさあ。俺のこと、好きだって言ってくれてさあ」

 

健一は笑った。

その笑い方が、先ほどまでとは違っていた。空虚な空気をたたえていた。

 

「……全部、嘘だった」

 

男は、動かなかった。

 

健一は酒瓶を岩へ置き、両手で顔を覆った。

 

「結婚するって、親に言っちゃったんだよ。友達にもさ。みんな、おめでとうって言ってくれて……」

 

声が震えた。

 

「俺、嬉しかったんだよ。ほんとに、嬉しかったんだよ……」

 

男は、湯の中で身体を少し沈めた。

 

何を言えばいいのか、分からなかった。

 

いや、そもそも言葉を発することができない。

 

それでも、健一が何を失ったのかは、何となく理解できた。

 

信じていた相手。

 

帰るはずだった場所。

 

これから続くと思っていた未来。

 

男自身も、ある日突然、それらを失ったことがある。

 

「五百万だってよ」

 

健一は顔を上げた。

 

「五百万。結婚式の金まで全部出せって。……あいつ、笑ってたんだよ。俺が断れないと思ってたんだろうな」

 

男は、健一を見た。

 

「俺さあ、金は取られなかったんだよ。そこは気づいた。ちゃんと逃げた。……でも、何かもう、全部嫌になっちゃってさ」

 

健一は、湯気の向こうの空を見上げた。

 

「……もう、いいかなって」

 

その言葉は、酒の勢いだけではないように聞こえた。

男は、少しだけ身体を起こした。

健一は気づかなかった。

 

「最後にさ、いい温泉入って、いい酒飲んで……それで終わりにしようと思ったんだよ」

 

男は、健一を見つめた。

 

(……おい)

 

健一は、泣いていた。

涙が頬を伝い、湯の中へ落ちていく。

 

「……何やってんだろうな、俺」

 

男は、どうしていいか分からなかった。

自分も人間だったころ、失恋したことくらいはある。仕事で失敗したことも、人間関係で嫌な思いをしたこともあった。

 

しかし、ここまで追い詰められた人間を、目の前にしたことはなかった。

まして、今の自分には言葉がない。

大丈夫だ、と言ってやることもできない。

 

詐欺師なんか忘れろ、と励ますこともできない。

ただ、そこにいることしかできなかった。

健一はしばらく泣いていた。

やがて、鼻をすすり、酒瓶を持ち上げた。

 

「……なあ、写真撮っていい?」

 

男は、健一を見た。

 

「記念にさ。人生最後の温泉で、温泉恐竜と会ったんだぜ。こんなの、誰も信じねえよ」

 

健一はスマートフォンを取り出した。

防水ケースに入れてあったらしく、濡れてはいなかった。

画面をこちらへ向ける。

 

「ほら、こっち向いて」

 

男は、少しだけ頭を引いた。

健一は近づいてきた。

 

「いいじゃん、一枚くらい!」

 

そして、何と男の首へ腕を回した。

 

(……おい!?)

 

男は身体を硬直させた。

人間の腕が、鱗の上へ乗っている。

健一は満面の笑みだった。

 

「はい、チーズ!」

 

シャッター音が鳴った。

画面には、酒瓶を片手に笑う三十八歳の男と、明らかに困惑した顔の黒い肉食恐竜が映っていた。

その下では、二号が湯の中から顔を出している。健一は写真を確認した。

 

「……すげえ」

 

そして、声を上げて笑った。

 

「ははっ! 何だこれ! 俺、恐竜と肩組んでる!」

 

男は、ようやく首から腕を外してもらった。

 

(……何なんだよ、こいつ)

 

健一は笑い続けた。

しばらくして、笑い声が小さくなった。

そして、そのまま男の肩へ頭を預けた。

 

「……ありがとな」

 

小さな声だった。

 

「聞いてくれて……ありがとな……」

 

男は、動かなかった。

健一の呼吸が、ゆっくりになっていく。

やがて、完全に寝息へ変わった。

酔いと疲労で、眠ってしまったのだった。

 

◇

 

男は、困っていた。非常に困っていた。

目の前には、酔い潰れた人間がいる。

場所は冬の栃木県山中、深夜の秘湯である。

 

このまま放置すれば、寒さで死ぬかもしれない。湯の中に沈めば溺れる可能性もある。そもそも周囲には肉食恐竜が生息しており、動けない人間など格好の獲物だった。

 

(……何で俺が)

 

男は、健一を見下ろした。健一は幸せそうな顔で眠っていた。

つい先ほどまで泣いていたのが嘘のようだった。

 

男は二号へ目を向けた。

二号は、湯の浅い場所で丸くなっていた。

こちらも眠そうだった。

 

(……帰るぞ)

 

男は、まず健一の身体を湯から引き上げた。

 

前肢で慎重に抱え、岩場へ寝かせる。濡れた身体が冷えないよう、脱ぎ散らかされた服を集めた。人間の服を着せるのは、恐竜の爪ではひどく難しい。シャツの袖に腕を通そうとしても、健一の身体がぐにゃぐにゃと動き、思うようにいかなかった。

 

結局、服を身体へ巻きつけ、上からコートで包むことにした。

それから酒瓶を拾った。

 

健一が持ってきた、最高級の日本酒だった。男は瓶を見た。

まだ、かなり残っている。

 

(……これ、どうすんだ)

 

健一は眠っている。放っておけば、瓶は岩場へ置き去りになるだろう。

男は少し考えた。

 

そして、瓶を自分の荷物へ入れた。

人間だったころなら、さすがに他人の酒を勝手に持ち帰ることには抵抗があったはずだ。

 

しかし、今は事情が違う。

これから酔っ払いを山の下まで運ばなければならないのである。

 

(……救助代だな)

 

男は、自分にそう言い聞かせた。

もちろん、誰からも了承は得ていなかった。

 

◇

 

山を下りるのには、二時間ほどかかった。

 

健一を前肢で抱え、二号を連れ、暗い林道を慎重に進んだ。途中で小型の肉食恐竜が近づいてきたが、男の姿を見るなり逃げていった。イノシシの気配もあったが、こちらへ寄ってくることはなかった。

 

男は、麓の集落まで下りた。

そこには、小さな交番があった。

夜間でも警察官が常駐しているらしく、窓から明かりが漏れている。駐車場にはパトカーが一台停まっていた。

男は交番の裏手へ回り、街灯の下に健一を寝かせた。

 

そのまま放置するのは危険なので、近くにあった防犯カメラへ向かって身体を動かした。カメラがこちらを向いている。

 

男は、ゆっくりと頭を下げ、それから交番の扉へ近づいた。前肢の爪で、扉を軽く叩く。

こん、こん。

反応がなかった。

もう一度。

こん、こん。

中から足音が聞こえた。

 

「はい、どちらさま――」

 

扉が開いた。

若い警察官が、顔を出した。目の前には、黒い肉食恐竜がいた。警察官は、固まった。

男は、少しだけ頭を下げた。

それから、健一のいる方向へ鼻先を向けた。警察官は、ゆっくりと視線を動かした。

街灯の下に、人間が倒れていた。

 

「……え?」

 

男は、もう一度、健一を示した。警察官はようやく理解した。

 

「人!?」

 

男は頷くように頭を動かした。

 

「えっ、あ、ちょっと待って! 救急車!」

 

警察官が交番の中へ駆け戻った。男は、その様子を確認すると、二号を連れて静かに立ち去った。

背後では、慌ただしい声が響いていた。

 

「人が倒れてます! 意識なし! それと、恐竜が!」

 

『恐竜?』

 

「黒い、大きい、あの、温泉恐竜みたいな!」

 

『落ち着いて状況を説明してください』

 

「落ち着いてます!」

 

男は、少しだけ可笑しくなった。

そして、山道へ戻っていった。

荷物の中では、高級な日本酒の瓶が小さく揺れていた。

 

◇

 

翌朝。

 

三浦健一は、病院のベッドで目を覚ました。白い天井。消毒液の匂い。

腕には点滴がつながれている。

 

「……あれ?」

 

身体を起こそうとすると、頭がひどく痛んだ。

 

喉はからからで、胃のあたりには不快感が残っている。昨夜の記憶はところどころ途切れていたが、山へ入ったこと、温泉へたどり着いたことまでは覚えていた。

 

そして。

 

「……恐竜」

 

健一は呟いた。

ベッドの脇にいた看護師が顔を上げた。

 

「起きましたか。気分はどうです?」

 

「……恐竜がいたんです」

 

「はい?」

 

「温泉に、恐竜が……」

 

看護師は少し困った顔をした。

 

「まず、お水を飲みましょうか」

 

健一は首を振った。

 

「いや、ほんとなんです。黒い恐竜がいて、ちっちゃいのもいて……俺、一緒に風呂入って……」

 

そこへ、警察官が二人入ってきた。

昨夜、交番で対応した若い警察官と、その上司だった。

 

「三浦さんですね。少しお話を伺ってもよろしいですか」

 

健一は勢いよく頷いた。

 

「ちょうどよかった! 俺、恐竜に助けられたんです!」

 

若い警察官が、微妙な顔をした。

 

「……それなんですが」

 

「本当なんですよ! 温泉で会って、酒飲んで、話して、写真まで撮って!」

 

「写真?」

 

「そう、写真!」

 

健一はベッドの脇に置かれていたスマートフォンを掴んだ。

画面を開き、写真アプリを起動する。

そして、昨夜撮影した一枚を表示した。

 

「ほら!」

 

看護師が覗き込んだ。

警察官二人も、画面を見た。

 

そこには、温泉の湯気を背景に、満面の笑みで酒瓶を掲げる健一が映っていた。

その隣には、黒い大型肉食恐竜。

健一の腕が、その首へしっかり回されている。

恐竜は、明らかに困惑したような顔をしていた。

 

さらに画面の下には、小さな恐竜が一頭、湯から顔を出していた。

誰も、何も言わなかった。

健一は、得意げに笑った。

 

「な? 言ったろ?」

 

若い警察官が、ゆっくりと頷いた。

 

「……いや、実は」

 

健一は首を傾げた。

 

「え?」

 

「交番の防犯カメラにも、映ってるんです」

 

「……えっ」

 

「黒い恐竜が、あなたを運んできて……交番の扉を叩いて、救助を求めたところまで」

 

健一は、しばらく固まった。

そして、スマートフォンの画面を見た。

昨夜の自分が、満面の笑みで写っている。

隣には、あの黒い恐竜。

小さな恐竜もいる。

確かに、夢ではなかった。

 

「……俺、助けられたんだ」

 

健一は、小さく呟いた。

警察官が頷いた。

 

「そうです。あの恐竜が運んでこなければ、かなり危険な状態だったと思います」

 

健一は、写真を見つめた。

昨夜、温泉で話したことを思い出した。

結婚のこと。騙されたこと。恥ずかしかったこと。

 

もう、どうでもいいと思っていたこと。

そして、あの恐竜が、何も言わずに隣にいてくれたこと。

健一は、しばらく黙っていた。

やがて、少しだけ笑った。

 

「……あいつ、いいやつだったな」

 

警察官は何も言わなかった。

看護師が、そっと水の入ったコップを差し出した。

健一はそれを受け取り、ゆっくり飲んだ。

冷たい水が、喉を通っていく。

 

生きている。

 

その感覚が、今になってようやく実感として戻ってきた。

スマートフォンが震えた。

 

画面には、母親からの着信が表示されていた。

健一は、しばらくそれを見つめた。

そして、通話のボタンを押した。

 

「……もしもし、母さん」

 

電話の向こうから、心配そうな声が聞こえてきた。

健一は、少しだけ目を伏せた。

 

「……うん。大丈夫。生きてるよ」

 

それから、ゆっくりと続けた。

 

「……今度、帰るから」

 

窓の外には、冬の青空が広がっていた。

健一はもう一度、スマートフォンの写真を見た。

そこには、人生最後のつもりだった温泉で出会った、妙に人間臭い黒い恐竜が映っていた。

 

その隣で、自分は笑っていた。

半年ぶりに、何も考えずに笑っていた。

健一は写真を保存し直し、画面を閉じた。

それから、看護師に尋ねた。

 

「……あの、退院したら、また温泉に行ってもいいですかね」

 

看護師は、少し呆れた顔をした。

 

「今度は、ちゃんとした旅館にしてくださいね」

 

健一は、素直に頷いた。

 

「……そうします」

 

もっとも、あの温泉恐竜が、今ごろ自分の高級日本酒を持ち去っていることだけは、まだ知らなかった。

 

断章7 人生最後?の温泉 了

 




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