栃木県北部の山中を、一人の男が歩いていた。
十二月の深夜、気温は氷点下まで下がり、林道には数日前に降った雪がまだ残っている。木々の間を抜ける風は容赦なく体温を奪い、ところどころ凍結した路面は、登山靴を履いた経験者でも慎重に歩かなければ危険な状態だった。まして、その男は登山靴どころか普通のスニーカーを履き、右手には酒瓶、左手にはスマートフォンを持ち、明らかに酔っ払った足取りで山の奥へ進んでいた。
「……くそったれ。何がプルラルタアフメットリッヒだよ」
男はそう吐き捨てると、手にしていた酒瓶を持ち上げた。すでにかなり飲んでいるはずなのだが、腹の底に溜まった不快感は少しも薄れていない。むしろ酔えば酔うほど、昼間の出来事が鮮明に思い出され、そのたびに腹立たしさと情けなさが交互に込み上げてきた。
「……ポテンシャルって何だよ。せめて縦軸くらい書けよ、あのグラフ。ポパってんなよ全てにおいて……」
男の名は三浦健一。三十八歳、独身、都内の中堅企業に勤める会社員である。
年収は同年代の平均より少し上で、借金もなく、貯金もそれなりにある。仕事では大きな失敗をしたことがなく、友人との付き合いも続いていた。派手な人生ではなかったが、少なくとも昨日までは、自分の生活をそれほど悪いものだと思っていなかった。
ところが現在、その健全な社会人は冬の栃木県山中を、泥酔状態で徘徊していた。
しかも、この一帯は野生の恐竜が生息する区域である。熊こそほとんど確認されていないものの、イノシシや小型肉食恐竜は珍しくなく、中型肉食恐竜の目撃情報もある。自治体は夜間の入山を控えるよう繰り返し注意喚起しており、日中でさえ単独行動は推奨されていなかった。
健一も、その程度のことは知っている。
知ったうえで、わざわざ夜中に入山したのだった。
目指しているのは、山奥にあるという秘湯である。かつて温泉好きの友人から聞いた場所で、沢沿いの岩場から天然の湯が湧き出しており、適度に沢水が混じる場所なら冬でも入浴できるらしい。一般の観光客が訪れるような場所ではなく、道らしい道も途中で途切れるが、古い登山記録には詳しい位置が記されていた。
健一は、そこで最後にひと風呂浴びるつもりだった。
高級な日本酒を飲み、誰にも邪魔されず、温かい湯に浸かってから大地へ帰る。そう考えると、妙に気持ちが落ち着いた。
もっとも、その崇高な計画を実行するには、まず目的地へ到着しなければならない。
「……あれ。さっきもこの木、見なかったか?」
健一は立ち止まり、スマートフォンの地図を覗き込んだ。画面には現在地を示す青い点が表示されているが、周囲には道が描かれていない。通信状況も悪く、地図の一部は読み込まれていなかった。
健一はしばらく画面を眺め、やがて深く頷いた。
「なるほど。分からん」
それから、何となく右へ進んだ。
この時点で、健一の人生最後の計画は、すでにかなり杜撰なものになっていた。
◇
半年ほど前、健一はマッチングアプリに登録した。
三十八歳になり、周囲の友人たちはほとんど結婚していた。休日に集まっても話題は子供や住宅ローンが中心で、以前のように気軽に飲みに行ける相手も減っている。独身生活そのものに不満があったわけではないが、このまま何もしなければ、十年後も同じ部屋で一人、コンビニ弁当を食べているのではないかという不安があった。
そんなときに出会ったのが、莉奈だった。
三十二歳。都内の美容関係の会社に勤めているという女性で、写真では長い黒髪を肩へ流し、柔らかな笑顔を浮かべていた。最初のメッセージは向こうからで、趣味の欄に温泉旅行と書いてあったことをきっかけに話が弾んだ。
初めて会ったのは新宿のカフェだった。
写真よりも綺麗な人だと思った。話し方は穏やかで、健一の仕事にも興味を持ってくれたし、温泉の話になると楽しそうに身を乗り出してきた。
『私、静かな温泉が好きなんです。今度、連れていってくださいね』
その言葉を聞いたとき、健一は内心で小さくガッツポーズをした。
それから半年、二人は順調に交際を続けた。
映画を見に行き、食事をし、旅行にも出かけた。誕生日には少し奮発してアクセサリーを贈り、莉奈は目に涙を浮かべて喜んでくれた。仕事で疲れているときには電話をくれたし、風邪を引いたと伝えれば、食事を届けようかと心配してくれた。
結婚の話が出たのは、交際を始めて四か月ほど経ったころだった。
『健一さんとなら、ずっと一緒にいられると思う』
健一は本当に嬉しかった。
その夜、両親へ電話をかけた。結婚を考えている女性がいると伝えると、母親は何度も「よかったね」と繰り返し、父親は照れくさそうに「今度連れてこい」と言った。友人たちにも報告すると、大学時代の同期からは「とうとうお前もか」と笑われ、職場の後輩からは結婚式に呼んでほしいと頼まれた。
来月には両家の親族へ顔を見せる予定だった。
健一は結婚式場の情報を調べ、少し広い部屋への引っ越しも検討し、将来の家計について真面目に考え始めていた。
そのすべてが、昨日の午後に終わった。
◇
『健一さんに、ちょっと相談があるの』
莉奈がそう切り出したのは、いつものレストランで食事をしていたときだった。
『お兄ちゃんの友達がね、新しい会社を立ち上げるんだって。それで、出資してくれる人を探してるらしいの』
健一は最初、軽い世間話だと思った。
『へえ。何の会社?』
『海外のテクノロジーを使った、金融とAIを組み合わせた、すごい事業なんだって』
『具体的には?』
『詳しいことは、直接聞いたほうが早いと思うの』
健一は少し引っかかったものの、結婚を考えている相手の頼みである。投資する気はなかったが、話を聞くだけならと承諾した。
そして翌日、指定された都内のレンタルオフィスへ向かった。
そこにいたのが、プルゴリだった。
『どうもォ! プルゴリです! 本日はお忙しいところ、ありがとうございますッ!』
第一印象は、筋肉だった。
濃紺のスーツを着ているのだが、どう見ても身体に合っていない。肩は異様に盛り上がり、上腕は袖を内側から押し広げ、太腿に至っては座った瞬間に縫い目が悲鳴を上げそうだった。細身のビジネススーツというより、筋肉の形を忠実に再現したボディースーツに近い。
浅黒く日焼けした顔には、真っ白な歯が並んでいた。笑うたびに、その歯が照明を反射して妙に眩しい。
健一は名刺を受け取りながら、まず素朴な疑問を抱いた。
この人、何でそんなに鍛えているんだろう。
しかし、質問する前にプルゴリの説明が始まった。
『いやァ、今は完全にパラダイムシフトの時代なんですよ! 既存のビジネスモデルはレガシー化してましてね! 我々が目指しているのは、AIとフィンテックをクロスオーバーさせた、次世代のグローバル・エコシステムなんです!』
健一は頷きながら聞いていた。
何を言っているのか、よく分からなかった。
『つまり、具体的には何をする会社なんですか?』
『いい質問ですねェ! パルスのファルシのルシがパージでコクーンでしてェ!』
プルゴリは嬉しそうに手を叩いた。
『そこがまさに、今回のド級のポイント、ドポイントでしてェ!』
説明はさらに十五分ほど続いた。
AI、ブロックチェーン、グローバル、イノベーション、スケーラビリティ、エグジット、シックストーンズ、キンプリ、あいみょん。横文字や関係なさそうな単語が次々に飛び出したが、具体的な商品やサービスの説明は一向に出てこなかった。
健一が事業計画書を見せてほしいと言うと、プルゴリは満面の笑みでタブレットを差し出した。白い歯が発光するようにLEDの舌で輝いている。
そこには右肩上がりのグラフが描かれていた。
縦軸に数字がなかった。
『この成長曲線をご覧ください! 三年後には企業価値が十倍! 今ここで参画した方々は、まさにファーストムーバー・アドバンテージを享受できるわけです!』
『……このグラフ、何の数字ですか?』
『ポテンシャルです!』
健一は、もう帰りたくなっていた。
だが、莉奈が隣にいた。
彼女は真剣な顔で話を聞き、ときどき健一へ微笑みかけていた。何かの間違いであってほしかった。本人も騙されているだけで、悪意はないのかもしれない。そう思おうとした。
ところが説明が終わったあと、莉奈は健一の手を握って言った。
『ねえ、健一さん。私たちも、今のうちに投資しておかない?』
『……いくら?』
『五百万円くらい』
健一は言葉を失った。
五百万円。
結婚式のために取っておいた貯金を含め、健一が自由に使える資金のほぼ全額だった。
『ほら、三年で十倍になるんだよ? 結婚してからお金に困らないように、今のうちに増やしておいたほうがいいと思うの』
莉奈は笑っていた。
いつもの、柔らかい笑顔だった。
けれど、そのとき初めて、健一には別のものに見えた。
こちらが断れないことを期待している、粘ついた笑みだった。
『……莉奈は、いくら出すの?』
『私はもう、準備してるよ』
『何の会社かも、まだ分からないのに?』
『プルゴリさんが説明してくれたじゃない』
『説明になってないだろ』
健一の声が、少し強くなった。
莉奈の表情が変わった。
『健一さん、私のこと信じてないの?』
その一言で、何かが決定的に冷めた。
半年間、一緒に過ごした時間。
結婚の約束。
両親へ報告した夜。
友人たちからの祝福。
全部が、目の前の五百万円につながっていたのだと理解した。
健一は立ち上がった。
『……帰ります』
『えっ、ちょっと待って。まだ話の途中だよ?』
『もういい』
プルゴリが、白い歯を見せた。
『いやいや、健一さん! ここは一度、現場猫でトリプルチェックとマインドセットを――』
『結構です』
健一は会議室を出た。
背後から莉奈が名前を呼んでいたが、振り返らなかった。
廊下へ出た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
金は失わなかった。
だが、半年間信じていたものは、全部失った。
◇
健一はその日のうちに、両親と友人たちへメッセージを送った。
『結婚の話はなくなりました。詐欺だったみたいです。心配かけてすみません』
短い文章だった。
返信はすぐに来た。
母親からは電話がかかってきた。父親からは、帰ってこい、というメッセージが届いた。友人たちも心配して連絡をくれたが、健一は誰にも返事をしなかった。
恥ずかしかった。
自分が騙されかけたことよりも、結婚すると嬉しそうに報告して回ったことが、どうしようもなく恥ずかしかった。
職場の同僚にも話してしまっている。
親戚にも伝わっているだろう。
今度会えば、きっと気を遣われる。大丈夫か、と聞かれる。何があったのかと尋ねられる。善意だと分かっていても、そのすべてが耐えられそうになかった。
健一は高級な酒を買った。
普段なら手を出さない値段の日本酒を何本も選び、財布の中身を気にせず会計を済ませた。栃木県の高級旅館を当日予約し、露天風呂付きの部屋に泊まり、豪華な夕食を食べた。
酒を飲みながら、ずっと考えていた。
自分は何を間違えたのだろう。
相手を信じたことか。
結婚を急いだことか。
家族へ報告したことか。
それとも、三十八歳にもなって、誰かが自分を好きになってくれると本気で思ったことだろうか。
翌日の夕方、健一は旅館を出た。
荷物は車に残した。
手には、最後まで取っておいた最高級の日本酒が一本あった。
山中の秘湯へ向かうつもりだった。
そこなら、誰にも会わずに済む。
誰にも事情を説明しなくていい。
温かい湯に浸かり、酒を飲み、最後は静かに大地へ帰る。
それが、健一の考えた人生最後の贅沢だった。
◇
秘湯へたどり着いたのは、日付が変わる少し前だった。
健一は何度も道を間違え、途中で沢へ足を踏み入れ、片方の靴を濡らしていた。酔いも回り、身体は芯まで冷え切っている。何度か転んだせいで手のひらには擦り傷ができ、頬には細かな枝の傷が走っていた。
それでも、ようやく目的地へ着いた。
岩場の奥から、白い湯気が立ち上っていた。
沢の水が流れ込む場所に、自然にできた湯溜まりがある。大きな岩に囲まれたその場所は、確かに人目につかず、湯の温度もほどよく調整されているようだった。
「……あった」
健一は笑った。
「ほんとに、あったよ……」
ふらふらと岩場へ近づく。
そして、湯気の向こうに何かがいることに気づいた。
黒い、大きな生き物だった。
湯の中に身体を沈め、岩へ顎を乗せている。頭部は細長く、口元には鋭い牙が並び、濡れた鱗が月明かりを反射していた。
そのすぐ横には、もう一頭、小さな恐竜がいた。
こちらは湯の浅い場所で丸くなり、ときどき鼻先を水面へ近づけている。
健一は立ち止まった。黒い恐竜も、健一を見た。しばらく、互いに動かなかった。
「……あれ?」
健一は目をこすった。
もう一度見た。
やはり、恐竜がいた。
「……温泉恐竜?」
黒い恐竜の頭が、わずかに傾いた。
健一は、急に可笑しくなった。
「ははっ……マジかよ」
笑いながら、酒瓶を持ち上げる。
「お前、ほんとに温泉入ってんのかよ!」
黒い恐竜は、何も答えなかった。
当然だった。
男は、目の前の人間を観察していた。
足取りが異常に不安定で、顔は赤く、酒の臭いが強い。山の中で出会った人間としては、これまで見た中でもかなり危なっかしい部類だった。
(……酔っ払いか?)
男は湯の中で身体を起こしかけた。
その動きに、二号が反応した。小さな頭を持ち上げ、健一を見つめる。
健一は二号を見た。
「おっ、ちっこいのもいるじゃん!」
そして、何のためらいもなく上着を脱ぎ始めた。
(……は?)
男は動きを止めた。
健一はコートを岩の上へ放り、セーターを脱ぎ、シャツのボタンを外していく。手元がおぼつかないせいで何度も引っかかったが、本人は気にしていない。
「いやあ、いいねえ! 最高じゃん! こんなところで温泉恐竜に会えるなんてさ!」
男は、二号を見た。
二号も、男を見ていた。
もちろん、二号が何を考えているのかは分からない。
ただ、二頭とも、目の前の人間が何をしようとしているのか理解できずにいた。
健一は最後にズボンを脱ぎ、下着も脱いで裸になった。
そして、酒瓶を片手に、湯へ入ってきた。
「あっつ……あああああ、最高……!」
湯の中へ腰を下ろし、肩まで浸かる。
その距離、黒い恐竜から二メートルほど。
普通なら、命知らずどころの話ではなかった。
全長数メートルの肉食恐竜がいる湯溜まりへ、人間が自分から入ってきたのである。しかも酒瓶を持ち、顔を真っ赤にし、何の警戒もしていない。
男は困惑した。
(いや、何してんだ、お前)
健一は、そんなことなど気にしていなかった。
「いやあ、まさか最後の最後に温泉恐竜と混浴するとは思わなかったなあ!」
男は、ゆっくりと身体を引いた。
健一は、そのぶん近づいてきた。
「お前、あれだろ? ニュースの! 福島で人助けしたやつ!」
男は答えなかった。
「知ってるよお。すげえよなあ。恐竜なのに人助けするんだもんなあ」
健一は酒瓶の蓋を開けた。
「一杯やる?」
瓶を差し出された。
男は、鼻先を近づけた。
強いアルコールの臭いがした。
(……酒か)
人間だったころには飲んだことがある。
しかし、この身体になってからは一度も口にしていない。そもそも恐竜の身体がアルコールをどう処理するのか分からないし、わざわざ試す理由もなかった。
男は前肢を顔の前で振って顔を背けた。
「えー、飲まないの?」
健一は残念そうに言った。
「まあ、そうだよな。恐竜だもんな」
そして自分で一口飲んだ。
ザワ……ザワ……
「……うまっ、たまらん! 涙が出るっ……! 犯罪的だっ……!うますぎるっ……!温泉のほてりと…… 裏切りの絶望で……濁った脳みそに…最高級のポン酒…!染み込んできやがる……! 体にっ…!本当にっ……! 本当に……本当にやりかねないっ……!この一口のために…… 裸踊りだって……」
なんかザワついて満足そうだった。心無しかあごが尖って見えた。
◇
それから、健一は喋り続けた。顎は戻っていた。
最初は温泉の話だった。
この秘湯を知ったきっかけ。栃木の温泉がいかに素晴らしいか。旅館の料理がどれほど美味しかったか。高級な日本酒がどれだけ高かったか。
男は適当に聞き流していた。
ところが、話は次第に妙な方向へ進んでいった。
「……俺さあ、結婚するはずだったんだよ」
健一は湯の中で膝を抱えた。
「三十八だぜ、俺。もういい歳だろ。ようやく相手が見つかったと思ったんだよ」
男は、少しだけ顔を向けた。
「めちゃくちゃ綺麗な人でさあ。優しくてさあ。俺のこと、好きだって言ってくれてさあ」
健一は笑った。
その笑い方が、先ほどまでとは違っていた。空虚な空気をたたえていた。
「……全部、嘘だった」
男は、動かなかった。
健一は酒瓶を岩へ置き、両手で顔を覆った。
「結婚するって、親に言っちゃったんだよ。友達にもさ。みんな、おめでとうって言ってくれて……」
声が震えた。
「俺、嬉しかったんだよ。ほんとに、嬉しかったんだよ……」
男は、湯の中で身体を少し沈めた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
いや、そもそも言葉を発することができない。
それでも、健一が何を失ったのかは、何となく理解できた。
信じていた相手。
帰るはずだった場所。
これから続くと思っていた未来。
男自身も、ある日突然、それらを失ったことがある。
「五百万だってよ」
健一は顔を上げた。
「五百万。結婚式の金まで全部出せって。……あいつ、笑ってたんだよ。俺が断れないと思ってたんだろうな」
男は、健一を見た。
「俺さあ、金は取られなかったんだよ。そこは気づいた。ちゃんと逃げた。……でも、何かもう、全部嫌になっちゃってさ」
健一は、湯気の向こうの空を見上げた。
「……もう、いいかなって」
その言葉は、酒の勢いだけではないように聞こえた。
男は、少しだけ身体を起こした。
健一は気づかなかった。
「最後にさ、いい温泉入って、いい酒飲んで……それで終わりにしようと思ったんだよ」
男は、健一を見つめた。
(……おい)
健一は、泣いていた。
涙が頬を伝い、湯の中へ落ちていく。
「……何やってんだろうな、俺」
男は、どうしていいか分からなかった。
自分も人間だったころ、失恋したことくらいはある。仕事で失敗したことも、人間関係で嫌な思いをしたこともあった。
しかし、ここまで追い詰められた人間を、目の前にしたことはなかった。
まして、今の自分には言葉がない。
大丈夫だ、と言ってやることもできない。
詐欺師なんか忘れろ、と励ますこともできない。
ただ、そこにいることしかできなかった。
健一はしばらく泣いていた。
やがて、鼻をすすり、酒瓶を持ち上げた。
「……なあ、写真撮っていい?」
男は、健一を見た。
「記念にさ。人生最後の温泉で、温泉恐竜と会ったんだぜ。こんなの、誰も信じねえよ」
健一はスマートフォンを取り出した。
防水ケースに入れてあったらしく、濡れてはいなかった。
画面をこちらへ向ける。
「ほら、こっち向いて」
男は、少しだけ頭を引いた。
健一は近づいてきた。
「いいじゃん、一枚くらい!」
そして、何と男の首へ腕を回した。
(……おい!?)
男は身体を硬直させた。
人間の腕が、鱗の上へ乗っている。
健一は満面の笑みだった。
「はい、チーズ!」
シャッター音が鳴った。
画面には、酒瓶を片手に笑う三十八歳の男と、明らかに困惑した顔の黒い肉食恐竜が映っていた。
その下では、二号が湯の中から顔を出している。健一は写真を確認した。
「……すげえ」
そして、声を上げて笑った。
「ははっ! 何だこれ! 俺、恐竜と肩組んでる!」
男は、ようやく首から腕を外してもらった。
(……何なんだよ、こいつ)
健一は笑い続けた。
しばらくして、笑い声が小さくなった。
そして、そのまま男の肩へ頭を預けた。
「……ありがとな」
小さな声だった。
「聞いてくれて……ありがとな……」
男は、動かなかった。
健一の呼吸が、ゆっくりになっていく。
やがて、完全に寝息へ変わった。
酔いと疲労で、眠ってしまったのだった。
◇
男は、困っていた。非常に困っていた。
目の前には、酔い潰れた人間がいる。
場所は冬の栃木県山中、深夜の秘湯である。
このまま放置すれば、寒さで死ぬかもしれない。湯の中に沈めば溺れる可能性もある。そもそも周囲には肉食恐竜が生息しており、動けない人間など格好の獲物だった。
(……何で俺が)
男は、健一を見下ろした。健一は幸せそうな顔で眠っていた。
つい先ほどまで泣いていたのが嘘のようだった。
男は二号へ目を向けた。
二号は、湯の浅い場所で丸くなっていた。
こちらも眠そうだった。
(……帰るぞ)
男は、まず健一の身体を湯から引き上げた。
前肢で慎重に抱え、岩場へ寝かせる。濡れた身体が冷えないよう、脱ぎ散らかされた服を集めた。人間の服を着せるのは、恐竜の爪ではひどく難しい。シャツの袖に腕を通そうとしても、健一の身体がぐにゃぐにゃと動き、思うようにいかなかった。
結局、服を身体へ巻きつけ、上からコートで包むことにした。
それから酒瓶を拾った。
健一が持ってきた、最高級の日本酒だった。男は瓶を見た。
まだ、かなり残っている。
(……これ、どうすんだ)
健一は眠っている。放っておけば、瓶は岩場へ置き去りになるだろう。
男は少し考えた。
そして、瓶を自分の荷物へ入れた。
人間だったころなら、さすがに他人の酒を勝手に持ち帰ることには抵抗があったはずだ。
しかし、今は事情が違う。
これから酔っ払いを山の下まで運ばなければならないのである。
(……救助代だな)
男は、自分にそう言い聞かせた。
もちろん、誰からも了承は得ていなかった。
◇
山を下りるのには、二時間ほどかかった。
健一を前肢で抱え、二号を連れ、暗い林道を慎重に進んだ。途中で小型の肉食恐竜が近づいてきたが、男の姿を見るなり逃げていった。イノシシの気配もあったが、こちらへ寄ってくることはなかった。
男は、麓の集落まで下りた。
そこには、小さな交番があった。
夜間でも警察官が常駐しているらしく、窓から明かりが漏れている。駐車場にはパトカーが一台停まっていた。
男は交番の裏手へ回り、街灯の下に健一を寝かせた。
そのまま放置するのは危険なので、近くにあった防犯カメラへ向かって身体を動かした。カメラがこちらを向いている。
男は、ゆっくりと頭を下げ、それから交番の扉へ近づいた。前肢の爪で、扉を軽く叩く。
こん、こん。
反応がなかった。
もう一度。
こん、こん。
中から足音が聞こえた。
「はい、どちらさま――」
扉が開いた。
若い警察官が、顔を出した。目の前には、黒い肉食恐竜がいた。警察官は、固まった。
男は、少しだけ頭を下げた。
それから、健一のいる方向へ鼻先を向けた。警察官は、ゆっくりと視線を動かした。
街灯の下に、人間が倒れていた。
「……え?」
男は、もう一度、健一を示した。警察官はようやく理解した。
「人!?」
男は頷くように頭を動かした。
「えっ、あ、ちょっと待って! 救急車!」
警察官が交番の中へ駆け戻った。男は、その様子を確認すると、二号を連れて静かに立ち去った。
背後では、慌ただしい声が響いていた。
「人が倒れてます! 意識なし! それと、恐竜が!」
『恐竜?』
「黒い、大きい、あの、温泉恐竜みたいな!」
『落ち着いて状況を説明してください』
「落ち着いてます!」
男は、少しだけ可笑しくなった。
そして、山道へ戻っていった。
荷物の中では、高級な日本酒の瓶が小さく揺れていた。
◇
翌朝。
三浦健一は、病院のベッドで目を覚ました。白い天井。消毒液の匂い。
腕には点滴がつながれている。
「……あれ?」
身体を起こそうとすると、頭がひどく痛んだ。
喉はからからで、胃のあたりには不快感が残っている。昨夜の記憶はところどころ途切れていたが、山へ入ったこと、温泉へたどり着いたことまでは覚えていた。
そして。
「……恐竜」
健一は呟いた。
ベッドの脇にいた看護師が顔を上げた。
「起きましたか。気分はどうです?」
「……恐竜がいたんです」
「はい?」
「温泉に、恐竜が……」
看護師は少し困った顔をした。
「まず、お水を飲みましょうか」
健一は首を振った。
「いや、ほんとなんです。黒い恐竜がいて、ちっちゃいのもいて……俺、一緒に風呂入って……」
そこへ、警察官が二人入ってきた。
昨夜、交番で対応した若い警察官と、その上司だった。
「三浦さんですね。少しお話を伺ってもよろしいですか」
健一は勢いよく頷いた。
「ちょうどよかった! 俺、恐竜に助けられたんです!」
若い警察官が、微妙な顔をした。
「……それなんですが」
「本当なんですよ! 温泉で会って、酒飲んで、話して、写真まで撮って!」
「写真?」
「そう、写真!」
健一はベッドの脇に置かれていたスマートフォンを掴んだ。
画面を開き、写真アプリを起動する。
そして、昨夜撮影した一枚を表示した。
「ほら!」
看護師が覗き込んだ。
警察官二人も、画面を見た。
そこには、温泉の湯気を背景に、満面の笑みで酒瓶を掲げる健一が映っていた。
その隣には、黒い大型肉食恐竜。
健一の腕が、その首へしっかり回されている。
恐竜は、明らかに困惑したような顔をしていた。
さらに画面の下には、小さな恐竜が一頭、湯から顔を出していた。
誰も、何も言わなかった。
健一は、得意げに笑った。
「な? 言ったろ?」
若い警察官が、ゆっくりと頷いた。
「……いや、実は」
健一は首を傾げた。
「え?」
「交番の防犯カメラにも、映ってるんです」
「……えっ」
「黒い恐竜が、あなたを運んできて……交番の扉を叩いて、救助を求めたところまで」
健一は、しばらく固まった。
そして、スマートフォンの画面を見た。
昨夜の自分が、満面の笑みで写っている。
隣には、あの黒い恐竜。
小さな恐竜もいる。
確かに、夢ではなかった。
「……俺、助けられたんだ」
健一は、小さく呟いた。
警察官が頷いた。
「そうです。あの恐竜が運んでこなければ、かなり危険な状態だったと思います」
健一は、写真を見つめた。
昨夜、温泉で話したことを思い出した。
結婚のこと。騙されたこと。恥ずかしかったこと。
もう、どうでもいいと思っていたこと。
そして、あの恐竜が、何も言わずに隣にいてくれたこと。
健一は、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「……あいつ、いいやつだったな」
警察官は何も言わなかった。
看護師が、そっと水の入ったコップを差し出した。
健一はそれを受け取り、ゆっくり飲んだ。
冷たい水が、喉を通っていく。
生きている。
その感覚が、今になってようやく実感として戻ってきた。
スマートフォンが震えた。
画面には、母親からの着信が表示されていた。
健一は、しばらくそれを見つめた。
そして、通話のボタンを押した。
「……もしもし、母さん」
電話の向こうから、心配そうな声が聞こえてきた。
健一は、少しだけ目を伏せた。
「……うん。大丈夫。生きてるよ」
それから、ゆっくりと続けた。
「……今度、帰るから」
窓の外には、冬の青空が広がっていた。
健一はもう一度、スマートフォンの写真を見た。
そこには、人生最後のつもりだった温泉で出会った、妙に人間臭い黒い恐竜が映っていた。
その隣で、自分は笑っていた。
半年ぶりに、何も考えずに笑っていた。
健一は写真を保存し直し、画面を閉じた。
それから、看護師に尋ねた。
「……あの、退院したら、また温泉に行ってもいいですかね」
看護師は、少し呆れた顔をした。
「今度は、ちゃんとした旅館にしてくださいね」
健一は、素直に頷いた。
「……そうします」
もっとも、あの温泉恐竜が、今ごろ自分の高級日本酒を持ち去っていることだけは、まだ知らなかった。
断章7 人生最後?の温泉 了
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