八王子にある実家には、息子の部屋が今も残されている。何年も前の状態がそのまま保存されているわけではなく、本棚の下段には父親が置いた書類箱が入り、机の上には母親が片づけきれなかった季節用品の段ボールが二つ載っている。それでも、学生時代に使っていた机も、棚に並べた漫画も、押し入れの奥へ突っ込んだゲーム機の箱も処分されておらず、扉を開けば、ここで長い時間を過ごした人間がいたことはすぐに分かった。
母親はこの十日ほど、その部屋へ入る回数が増えていた。掃除をするためだと自分には言い聞かせているものの、誰も暮らしていない部屋は、それほど頻繁に掃除する必要がない。今日も窓を開けて空気を入れ替え、ほとんど埃のない机を布巾で拭き、本棚の上を確認したところで、やることがなくなった。それでもすぐには出ていかず、ベッドの端へ腰を下ろした母親は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面には、息子とのメッセージが残っていた。最後に送った『今週末、こっち来る? お父さんもいるよ』というメッセージには既読がついているものの、返事はない。その前には『無理なら別にいいけど、連絡くらいしなさい』、さらに遡れば『大丈夫?』『電話して』と続いている。もっと前まで戻れば、そこにあるのは失踪事件とは何の関係もない日常だった。母親が夕飯の写真を送れば『うまそう』と返ってきて、長いメッセージには『了解』の二文字だけ。帰省の日を決めたり、実家に置いた荷物について確認したり、どうでもいい動画を送られて既読だけつけたこともある。特別な会話ではないからこそ、それらを消す気にはなれなかった。
「また見てるのか」
廊下から父親の声がして、母親は反射的にスマートフォンを伏せた。「掃除してただけよ」と答えると、父親は「毎日掃除するほど汚れないだろ」と返す。
「毎日じゃありません」
言い返してから、母親は自分でも子供じみた返事だと思った。父親もそれ以上は何も言わず、部屋へ入ってくることもなかった。ただ、開いた扉の向こうから机や本棚、誰も使っていないベッドをしばらく眺めている。その視線を見れば、同じなのだと分かった。表し方が違うだけで、父親もまた、息子がいつ帰ってきてもいいように、この部屋を片づけきれずにいる。
息子が行方不明になって、すでに十日以上が経っていた。最初から事件だと思っていたわけではない。成人した男性なのだから、仕事や人間関係で何かあって、一時的に連絡を絶つ可能性くらいは考えられた。ところが勤務先へ無断で来なくなり、自宅にもおらず、友人にも家族にも行き先を告げていないことが分かるにつれ、その説明では納得できなくなった。長期間どこかへ行く準備をした形跡もなければ、病院にもおらず、事故に巻き込まれたという情報もない。警察は事件や事故、自発的な失踪まで含めて確認しているものの、決定的な手掛かりはまだ見つかっていなかった。
「そういうことをする息子ではないと思います」
警察から何度聞かれても、父親は同じように答えた。母親と妹なら、もっと強く断言しただろう。しかし家族がどれほど息子の性格を知っていても、それ自体は捜索の手掛かりにはならない。その事実だけが、時間が経つにつれて重くなっていた。
◇
「お母さん」
階下から娘に呼ばれてリビングへ降りると、娘はダイニングテーブルにノートパソコンを広げ、父親はその向かいでスマートフォンを見ていた。二人とも兄の行方を探している点では同じだが、調べている内容は違う。父親は警察との連絡を整理し、娘は兄の友人やSNSを辿りながら、家族の知らない予定や交友関係がなかったかを調べていた。
「警察から?」
「違う。お兄ちゃんの大学のときの友達から返事来た」
母親が隣へ座ると、娘はメッセージを見せた。最後に直接会ったのはかなり前で、最近はオンラインゲームについて何度か話した程度。悩んでいる様子も、どこかへ行くような話もなかったという。「他の人もだいたい同じ。何か隠してたとかなら分からないけど、少なくともSNSは普通なんだよね」と娘が言うように、兄が残した投稿を辿っても、出てくるのはゲームや映画、食べたもの、仕事への愚痴、友人とのくだらないやり取りばかりだった。失踪を予告するような書き込みもなければ、人間関係を整理していた形跡もない。昨日まで普通に暮らしていた人間が、そのまま日常から切り取られたように消えている。
娘はしばらく画面を見つめたあと、苛立ったように頬杖をついた。「ほんと、何やってんのよ。帰ってきたら絶対怒るから」と吐き捨てるように言うと、母親が「帰ってきてからにしなさい」と窘める。
「だから、帰ってきたらって言ってるじゃん。一発くらい殴ってもいいよね」
「駄目よ」
「じゃあ蹴る」
「もっと駄目」
そこで父親がスマートフォンから顔を上げ、「帰ってきた初日にやることじゃないだろ」と口を挟んだ。娘は数秒考え、本気なのか冗談なのか分からない顔で「二日目ならいい?」と聞き返す。「そういう意味じゃない」と父親が呆れると、母親は思わず笑い、途中で口元を押さえた。娘も少しだけ表情を緩め、ほんの数十秒ではあったものの、以前の家族の会話が戻ってきたようだった。
誰も「もし帰ってきたら」とは言わなかった。帰ってきたら怒る。事情を聞く。何を食べさせよう。三人とも意識して決めたわけではないのに、この家ではいつの間にか、息子が帰ってくることだけが未来形で語られるようになっていた。
◇
同じ日の午後、八王子から数百キロ離れた青森の山中では、一匹の黒い幼体が一羽の野鳥を追っていた。以前のように、見つけた瞬間に飛びかかることはしない。逃げる小動物を力任せに追えば、倒木や藪を利用されて簡単に振り切られることは、この数日で嫌というほど学んでいた。男は鳥が地面を啄む位置と周囲の低木を観察し、風向きを確かめながら、体勢を低くしたまま少しずつ距離を詰めていく。
鳥が顔を上げれば止まり、再び地面を啄めば進む。以前なら焦って飛び出していた距離でも待ち、逃げた先に藪がある位置まで回り込んでから、一気に後肢で地面を蹴った。今度は外さず、前肢で獲物を捉えると、落ち葉の上を転がりながら押さえ込む。首へ噛みついて抵抗がなくなるまで待ち、身体を起こしたところで、男は自分がほとんど迷わず一連の動きをこなしていたことに気づいた。
(上手くなったな、俺)
数日前なら素直に喜んだかもしれないが、今は少し複雑だった。生きるためには必要な技術であり、上達しなければ飢える。それでも、自分が「恐竜としての生活」に適応しつつあることを実感すると、人間だった生活が少しずつ遠ざかっていくような気もする。もっとも、空腹は感傷より強かった。男は捕まえた鳥を食べ始め、生肉にも血の匂いにも抵抗が薄れ、むしろ今の舌では普通にうまいと感じてしまうことに苦笑するような気分になった。
(せめて塩くらい欲しいな)
そんなことを考えられるうちは、まだ大丈夫だろう。
食事を終えた男は沢へ移動し、水を飲みながら水面へ映った自分を眺めた。目覚めた直後より身体は明らかに大きくなっており、以前なら簡単に潜れた木の根の隙間へ肩が入らなくなっている。歩幅が伸びたおかげで一日の移動距離は増えた一方、そのぶん必要な食料も増えていた。この先も同じ速度で成長するなら、いつまでも鳥や蛙を何匹も追い回しているわけにはいかず、いずれ鹿のような大きな獲物を狙う必要が出てくるかもしれない。
そこで以前見かけたイノシシの姿を思い出したが、すぐに候補から外した。勝てるかどうか以前に、怪我をする可能性が高すぎる。八王子へ帰るという目的がある以上、食料を得るために歩けなくなっては本末転倒だった。野生で暮らすようになってから、男は「勝てるか」より先に「戦う必要があるか」を考えるようになっていた。
沢の水面には、黒い頭部と黄色い目が映っている。最初の日には、それを見るだけで怪物になったと思ったが、今では水を飲むたびに同じ顔を見るため、以前ほど驚かない。鼻先についた血を水で洗いながら、今日は怪我もしていないと確認する程度になっている。その変化が嬉しいのか嫌なのかは自分でも分からない。ただ、人間は環境へ慣れる生き物だという話が本当なら、身体が人間でなくなっても、その部分だけは変わらないらしかった。
◇
その日の夜、八王子の食卓には三人分の夕食が並んでいた。四人家族だったころから使っているテーブルだから、一席空いていること自体は珍しくない。息子が独立してからは三人で食べる日のほうが多かった。それなのに今夜は、誰も座っていない椅子が妙に目についた。
「警察、明日また来るって」
父親が唐揚げを取りながら言うと、母親は「何か分かったの?」とすぐに聞き返した。「確認したいことがあるだけらしい」「確認って何を?」「俺にも分からん。明日聞けばいい」と会話が続いたところで、母親は箸を止める。
「ちゃんと探してくれてるのかしら」
「やってくれてるよ」
「でも、何も分からないじゃない」
「だからって、警察に分からないものを出せって言っても仕方ないだろ」
「そんなこと分かってるわよ」
思った以上に強い声が出て、食卓の空気がわずかに張りつめた。父親は言い返さず、娘も黙って両親を見る。母親はすぐに自分が八つ当たりしていると気づいて「……ごめん」と視線を落としたが、父親は責めることなく「いや。俺も同じだから」とだけ答えた。誰かが悪いわけではないからこそ、怒りを向ける場所がない。警察を責めても息子が見つかるわけではなく、家族同士で言い争っても状況は変わらないと分かっていても、不安だけは毎日少しずつ積み重なっていた。
しばらくして、娘が唐揚げを一つ持ち上げた。
「お兄ちゃん、これ好きだったよね」
「好きだったね」
「帰ってきたら、めちゃくちゃ食べそう」
母親は皿に残っている唐揚げを見て、少しだけ表情を緩めた。「好きなだけ作ってあげるわよ」と言えば、娘がすぐに「じゃあ私も食べる」と乗ってくる。「あなたのためじゃないの」「いいじゃん。どうせ作るなら多いほうが」とやり取りしている横から、父親まで「俺の分も頼む」と唐揚げを取った。
「お父さんは今普通に食べてるじゃん」
娘の指摘に、今度は三人とも笑った。大きな笑いではなかったが、その夜の食卓では久しぶりに聞こえた笑い声だった。母親は何となく空いている席を見ながら、帰ってきたら怒って、唐揚げを作って、何があったのか聞こうと思う。何日も連絡しなかったことを叱り、それから無事だったことに安心すればいい。だから、この家では誰も「もし帰ってきたら」とは言わなかった。
◇
翌日の昼、男は南へ向かう山の斜面を歩いていた。前夜は家族のことを考えて、なかなか眠れなかった。母親なら何度も電話をかけているだろうし、父親は口では落ち着いているふりをしながら警察へ何度も確認していそうだった。妹については、帰ってきたら一発殴るくらいは本気で言っている気がする。そんな光景を想像すると少し可笑しかったが、それ以上に、会いたかった。
スマートフォンも欲しいし、ゲームもしたい。風呂へ入りたいし、温かい飯も食べたい。人間だったころには当たり前すぎて意識もしなかったものが、今ではどれも贅沢品だった。しかし十日あまり山で暮らして、ようやく分かってきたこともある。恋しいのは文明そのものだけではない。スマートフォンが欲しいのは、その向こうに話したい相手がいたからで、温かい食事が恋しいのは、実家へ帰れば同じテーブルを囲む人間がいたからだった。
(帰らないとな)
この姿で実家の庭へ現れたところで、母親が悲鳴を上げて通報する可能性のほうが高い。父親だって、息子だと分かる前に家族を守ろうとするだろうし、妹に至っては、恐竜になった兄を見ても本当に殴ろうとするかもしれない。どうやって自分だと証明するのかはまだ分からないが、文字なら書けるし、家族しか知らないことを書けば可能性はある。少なくとも、八王子へ着かなければ何も始まらない。
男が歩調を速めようとしたとき、風に乗って血の匂いが届いた。反射的に足を止める。血そのものは珍しくない。この十日あまり、自分だって毎日のように獲物を殺している。しかし今回の匂いには、土や植物、獣の臭気に混じって、はっきりと人間の匂いがあった。耳を澄ませば、鹿でもイノシシでもない低く荒々しい鳴き声と、何かが枝を折りながら動く音が続き、その向こうから人間の叫び声まで聞こえてくる。
(関わらないほうがいい)
その判断自体は間違っていなかった。人間へ近づけば、自分まで危険な人工恐竜だと判断される可能性がある。相手が何者かも分からず、今の自分はまだ大型の捕食者と正面から戦えるほど大きくない。ここで負傷すれば、八王子までの旅そのものが終わるかもしれない。男は血の匂いがする方向から離れようとしたが、その背中を追いかけるように、「お父さん!」という子供の叫びが森の奥から届いた。
足が止まった。ほんの数分前まで考えていた八王子の家が頭の中へ戻ってくる。電話をかけているだろう母親、何度も警察へ確認している父親、怒りながらも帰りを待っている妹。もちろん、今聞こえた子供の声とは何の関係もないし、助けに行く義務もない。自分だって生きなければならない。それでも、もう一度「お父さん!」という叫びが響いたときには、そのまま歩き去るという選択ができなくなっていた。
(……状況を見るだけだ。無理なら逃げればいい)
自分へそう言い聞かせ、男は進路を変えた。
◇
血の匂いを追って森を進むにつれ、人間の声と獣の鳴き声がはっきりしてきた。最後の数十メートルで速度を落とし、藪の中へ身体を伏せて動きを止めると、黒かった体表が周囲の土や濡れた葉に近い色へゆっくり変化していく。擬態が十分に進んだところで枝葉の隙間から顔を出した男は、青森の山で目覚めて以来、初めて自分以外の人工恐竜を目にした。
全長は三メートルを超えているだろう。二本の太い後肢で立ち、長い尾をゆっくり振りながら、地面へ倒れた父親の周囲を歩いている。頭部は大きく、口を開くたびに鋭い歯が並び、正確な種類までは分からなくても肉食であることだけは疑いようがなかった。その少し後ろ、木の根元には十歳にもなっていないだろう少年がいて、父親を置いて逃げることもできず、口を両手で押さえながら身体を震わせている。倒れている父親の脚からはかなりの血が流れていたが、肩はまだ動いていた。
男は藪の中から状況を観察し、正面からでは勝てないと判断した。相手は自分よりはるかに大きく、まともに噛み合えば一度の攻撃が致命傷になりかねない。銃も槍もない以上、力そのものではどうにもならないし、このまま後ろへ下がれば、おそらく見つからずに逃げられる。
そのとき、倒れている父親が腕だけを動かし、自分へ近づいてくる肉食恐竜ではなく、子供へ向けて「逃げろ……」と掠れた声を絞り出した。子供は泣きながら首を振り、肉食恐竜はそんな父親へゆっくりと顔を近づけていく。その光景を見た瞬間、男の中で逃げるという選択肢が急速に現実味を失った。
自分の父親も、きっと同じことをする。息子がどんな姿になっていようと、家族が危険なら自分を後回しにするだろう。八王子で待っている父親の姿が、目の前で子供を逃がそうとしている父親へ重なった。
(……ほんと、何やってんだ俺)
八王子へ帰るためには余計な危険を避けなければならないと、自分で決めたばかりだった。それでも男は、藪から飛び出した。
◇
もちろん、正面から体当たりするほど無謀ではない。男は肉食恐竜の斜め後方へ飛び出すと、喉から出せる限り大きな鳴き声を上げた。森の中へ鋭い声が響き、突然現れた黒い幼体へ相手の注意が向く。それだけで十分だった。肉食恐竜は父親から離れ、男へ向き直った。
男は口を大きく開いて牙を見せ、身体を少しでも大きく見せるよう姿勢を取った。できれば威嚇だけで退いてほしかったが、相手は低い唸り声を返し、逃げるどころかこちらへ一歩近づいてくる。横目で親子を確認すると、父親は立てそうになく、子供もその場を離れようとはしない。ならば、自分が相手を遠ざけるしかなかった。
肉食恐竜が踏み込んだ瞬間、男は横へ跳んだ。大きな顎が直前まで頭のあった場所を通過し、歯と歯がぶつかる乾いた音が聞こえる。想像していたより速い。男は反撃せず、そのまま親子とは反対方向へ走った。背後から重い足音が追ってくるのを聞いた瞬間、自分を追わせるという狙いが成功したことを悟り、そのまま木々の間へ飛び込んだ。
直線では相手のほうが速く、開けた場所へ出るたびに足音が近づいてくる。しかし木が密集した場所へ入れば、体格の小さい自分のほうが細かな方向転換では有利だった。もっとも、相手も野生で生きている捕食者である。木へ馬鹿正直に突っ込むような真似はせず、倒木を避け、斜面では姿勢を整え、それでも追跡をやめずに距離を詰めてくる。
男は逃げながら、少しずつ相手の特徴を拾っていった。直線での加速は明らかに向こうが上だが、急に曲がると大きな身体が外側へ膨らむ。登りでは速度が落ち、木々の間隔が狭くなるほど進路を選ぶために一瞬だけ足が鈍る。大きさはそのまま強さになる一方で、大きさゆえの不自由さも確実に存在していた。
力で勝てないなら、そこを使うしかない。前方の斜面には岩が増えており、その向こうから水の匂いがする。沢があるのだろう。以前の自分ならただ逃げやすい場所を探していただろうが、今は自分が通れて相手が通りにくい場所、自分には大した障害でなくても相手の体重なら危険になる場所を探していた。
森そのものを使えばいい。
そう判断した男は、沢の匂いがする方向へ進路を変えた。
◇
沢の片側は水に削られ、四メートルほどの段差になっていた。崖と呼ぶほど高くはなく、自分なら落ちても無傷では済まないだろうが、命を失う高さでもない。三メートルを超える捕食者なら、なおさら落下だけで死ぬとは思えなかった。ただし段差の下には大きな岩がいくつも露出しており、体重のある相手が勢いをつけたまま落ちれば、自分よりも大きなダメージを受ける可能性は十分にある。
男は一度距離を取り、岩陰で身体を伏せた。擬態が始まり、追ってきた恐竜が数メートル先で足を止める。鼻先を動かしているところを見ると匂いまでは消せないらしいが、視覚ではこちらの正確な位置を掴めていない。何より、相手はもう親子を探しておらず、完全に自分へ意識を向けていた。
(まだ俺を追う気なら、都合がいい)
男は相手が少し離れたところで身体を起こし、わざと姿を見せた。すぐに追跡が再開される。今度は沢へ向かって走りながらも一直線には逃げず、木を回り、斜面を横切り、ときどき速度を落として相手との距離を調整した。離れすぎれば追うのをやめるかもしれず、近づけすぎれば段差へ着く前に噛まれる。背後から聞こえる足音が大きくなるたびに身体はもっと速く走れと訴えてきたが、男は何度も振り返り、相手との距離と速度を確認しながら段差までの残りを測った。
あと少しというところで、男はわざと速度を落とした。背後の捕食者が食いつくように加速し、土を踏み砕く音と荒い息遣いが背中へ迫ってくる。人間だったころなら恐怖で足がもつれていたかもしれないし、今の身体も全力で逃げろと訴えていた。それでも、ここで早く避ければ意味がない。男はぎりぎりまで相手を引きつけ、段差の直前で前肢を踏ん張ると、身体を右へ投げ出すように進路を変えた。
肉食恐竜も反応したが、大きな身体を支える後肢が地面を削り、尾を激しく振っても勢いを殺しきれない。外側へ流れた脚が段差の縁へ乗った瞬間、湿った土が崩れ、巨体が大きく傾いた。捕食者は踏みとどまろうとしたものの、その動きがさらに足元を崩し、次の瞬間には身体ごと沢へ転落して岩へぶつかった。鈍い衝撃音が森へ響き、鳥が一斉に木々から飛び立つ。
男は段差の上から様子を見たまま、すぐには近づかなかった。しばらくすると捕食者は頭を上げ、身体を起こそうとする。やはり落下だけでは仕留められなかったが、その口からは鮮血が漏れ出し、腹部は岩で深く裂けている。さらには右後肢の動きがおかしく、体重をかけるたびに口と腹部から血を噴出させながら、身体が傾いては反対側へ重心を移していた。狙いそのものは成功している。
ここで自分だけ逃げることもできた。相手は負傷して追跡能力も落ちており、あるいは放置しても死亡する可能性が高い。八王子へ帰ることだけを考えるなら、ここで離脱するのが一番安全だろう。しかし、この捕食者が諦めて森の奥へ去るのか、それとも先ほどの親子のところへ戻るのかは分からない。男は数秒だけ迷った末、逃げるのではなく沢へ下りることを選んだ。
◇
致命傷を負ったからといって、三メートルを超える捕食者が急に弱くなるわけではなかった。男が近づくと、相手はすぐに頭を向けて顎を開く。体重差も噛む力も依然として向こうが上であり、正面から組み合えば負傷している相手にさえ勝てないだろう。だから男は負傷した右脚側へ回り、相手がこちらへ身体を向けるたび、右後肢へ体重を乗せざるを得ない位置を維持した。
一度近づき、頭がこちらを追った瞬間に離れる。予想通り、右脚が沈んで姿勢が崩れる。今度はもう少し近づいて同じ動きを誘い、相手が向けば離れる。焦って噛みつく必要はない。自分より大きな相手と戦う以上、力比べをするのではなく、相手が自分から弱る状況を作ればいい。
何度か繰り返すうち、肉食恐竜は明らかに消耗し苛立ち始めた。小さな敵を捕まえようと、頭だけでなく身体ごと大きく踏み込んでくる。男はその変化を利用しようと相手の側面へ回り、太腿へ噛みつける距離まで接近した。頭が追ってきた瞬間にさらに横へ抜け、後肢へ飛びついて牙を肉へ食い込ませる。
すぐに離れるつもりだったが、相手の尾は想像以上に速かった。横から強烈な衝撃を受け、男の身体が地面を転がる。肩と背中へ痛みが走り、肺から一気に空気が押し出されて視界まで揺れたが、身体を起こすより先に大きな影が迫ってくる。反射的に横へ跳んだ直後、頭のあった場所で顎が閉じ、前肢をかすめて歯と歯がぶつかる音が間近で響いた。
一度でもまともにもらえば終わる。狩りが上達したからといって、自分が強者になったわけではない。その事実を改めて思い知らされた男は、無理に噛みつくことをやめて距離を取り、再び相手の右側へ回り込んだ。相手が身体を向けるたびに負傷した脚へ負担をかけ、焦らず同じ動きを繰り返していくうちに、捕食者の呼吸は荒くなり、攻撃も少しずつ大きく雑になっていった。
やがて苛立ちを抑えられなくなった捕食者が、鮮血をまき散らしながら、全身を使って飛び込んできた。男はすぐには逃げず、ぎりぎりまで待った。相手の右後肢が地面を踏んだ瞬間、傷めた脚が大きく崩れ、頭部が沈む。そこで初めて男は真正面へ踏み込み、開いた顎の横をすり抜けると、首へ飛びついて前肢の爪を皮膚へ食い込ませ、そのまま全力で噛みついた。
温かい血が口の中へ流れ込むと同時に、捕食者が激しく暴れ始めた。男の身体は振り回され、背中から岩へ叩きつけられ、肺から空気が押し出される。爪が外れかけても、ここまで作った機会を逃せばもう一度同じことができる保証はないと判断し、顎だけは離さなかった。巨体が身体を振るたびに肩と背中へ衝撃が走り、視界が上下して自分がどちらを向いているのかさえ一瞬分からなくなる。それでも牙を食い込ませ、前肢で首へしがみつき続けた。
やがて抵抗が少しずつ弱くなり、足取りが乱れた捕食者の身体が大きく傾いた。そのまま巨体が地面へ倒れ、男も巻き込まれて転がったが、すぐには首を離さない。胸の動き、脚の反応、身体の緊張が完全に消えるまで待ち、それからようやく顎を開いた。
地面へ伏せた途端、身体中の痛みが一斉に戻ってきた。肩と背中が特に痛み、前肢にも浅い傷があるものの、立つことはできるし、脚も動く。致命傷はなさそうだった。男は倒れた相手を眺めたが、勝ったという高揚感より先に来たのは安堵と疲労だった。
(……でかいって、それだけで強いんだな)
当たり前のことを、身体で理解した気がした。自分が勝てたのは強かったからではない。正面から戦わず、逃げながら観察し、地形を選び、脚を傷めさせ、それでも最後にはかなり危険な賭けをした。同じことをもう一度やれと言われても、できれば二度とやりたくない。それがこの戦いから得た一番確かな教訓だった。
そして、荒い呼吸がようやく落ち着いてきたところで、男は親子のことを思い出した。
◇
血の匂いを辿って元の場所へ戻ると、父親は木へ背を預け、子供はその隣に座っていた。男が藪から姿を現した瞬間、二人とも身体を硬くする。黒い肉食恐竜の口元には別の恐竜の血がつき、前肢からは自分の血も流れているのだから、助けが戻ってきたというより、さっきとは別の捕食者が現れたようにしか見えないだろう。
父親は怪我をした身体を動かし、子供を自分の背後へ隠そうとした。その仕草を見た男は動きを止める。先ほども同じだった。怪我をしていても、立てなくても、まず子供を後ろへやる。八王子にいる自分の父親も、きっと同じことをする。
(大丈夫。そっちには行かない)
もちろん、言葉にはできない。だから男はその場で身体を低くし、口を閉じて牙を隠した。それから二人と真正面から視線を合わせないよう、わずかに顔を横へ向ける。襲わないし、近づくつもりもない。それくらいしか伝える方法はなかった。
しばらくして、父親の背中から子供が顔を出した。
「あの恐竜……」
「動くな」
父親に止められても、子供は男を見たまま「あいつ、さっきの恐竜を連れてったよ」と小さな声で続けた。父親は答えなかったが、子供はもう一度黒い身体を見つめ、「助けてくれたんじゃないの?」と尋ねる。
男にも答えることはできなかった。文字を書いてみるか思案したが、親子の様子を見て今は余計な刺激をすべきではないと判断した。ただ、その言葉を聞いて少し安心した。少なくとも、二匹目の肉食恐竜が自分たちを食べに戻ってきた、とだけは思われていないらしい。
これ以上ここへ残る理由はなかった。負傷者がいるなら救急や警察が来るだろうし、人工恐竜による襲撃なら自治体からハンターが呼ばれる可能性も高い。そうなれば、助けたかどうかなど関係なく、自分も危険な人工肉食恐竜として扱われる。男がゆっくり立ち上がって二人へ背を向けたところで、子供から「待って!」と声をかけられた。
振り返ると、子供は父親の荷物を探り、透明な袋を取り出していた。中身を見るより先に、男の鼻が肉の匂いを捉える。しかも生肉ではなく、袋から取り出されたのは燻製らしい肉だった。
「これ、あげる」
「おい、近づくな」
「大丈夫だよ。そこに置くだけだから」
父親に止められながらも、子供は肉を男との間に置くと、すぐ父親のところまで戻った。それから黒い恐竜をまっすぐ見て、「ありがとう」と言った。
男は、その場で動けなくなった。この身体になってから、人間の声は何度も聞いている。道路を通る人間の会話も、車のラジオも聞いた。しかし、自分へ向けて人間が言葉を投げかけてきたのは、これが初めてだった。意味はもちろん分かる。ほんの十日ほど前までなら、自分だって誰かに言い、誰かから言われていた、ごく普通の言葉だ。それが今は、黒い肉食恐竜になった自分へ向けられている。
男は子供と肉を交互に見た。すぐに近づけば怖がらせると思い、二人との距離が十分にあることを確かめてから、ゆっくり肉へ近づいて匂いを嗅ぐ。塩と燻した香りが鼻へ届き、一口で食べると、久しぶりの塩気と旨味が舌いっぱいに広がった。
(……うま)
生肉ばかり食べていた舌には驚くほどうまく、身体は露骨にもう一つ欲しいと訴えてきたが、さすがにそれは違うだろうと思い直した。何か返したいと思って子供を見るものの、自分には渡せるものが何もない。声も出せず、礼を言うことさえできない。
少し考えた末、男は人間だったころなら当たり前にやっていた動きを試した。ゆっくりと首を曲げ、ほんの小さく頭を下げる。会釈だと気づいたのだろう。子供の目が大きくなり、父親も驚いたように男を見た。
それ以上は何もしなかった。男は身体を起こして今度こそ森へ向かい、その背中へもう一度「ありがとう!」という子供の声が届いた。振り返りはしなかったが、その言葉は木々の奥へ入ってからも、いつまでも耳に残っていた。
◇
その夜、八王子では母親が唐揚げの残りを保存容器へ移していた。台所へ来た娘が「冷凍するの?」と尋ねると、母親は「明日食べてもいいけど、ちょっと多いから」と答える。
「じゃあ冷凍しとけば。お兄ちゃん帰ってきたら食べるかもしれないし」
「いつになるか分からないでしょ」
そこまで言って、母親は手を止めた。娘も何も言わず、二人の間にほんの短い沈黙が生まれる。母親は数秒だけ保存容器を見つめたあと、蓋を閉じながら「まあ、帰ってきたら新しく作るけどね」と言った。
「そりゃそうでしょ。冷凍の出したら怒るよ」
「あの子はそんなことで怒らないわよ」
「じゃあ私が怒る」
「あなたが食べたいだけじゃない」
「バレた?」
母親は笑い、娘も笑った。二人の声が台所に響いていたころ、数百キロ離れた山の中で、男もまた、久しぶりに人間が作った食べ物の味を思い出していた。燻製肉はもうとっくに腹の中へ消えていたが、それでも舌には、塩気が残っているような気がした。
◇
男は大きな木の根元で身体を丸め、戦いで痛めた肩と背中を休めていた。まだ鈍い痛みは残っているため、明日は無理に距離を稼がず、少し休みながら南へ進んだほうがいいだろう。怪我を悪化させて歩けなくなれば、今日の勝利にも何の意味もない。それでも、身体の痛みとは裏腹に気分は不思議と悪くなかった。
自分は人間から逃げている。見つかれば危険だと思い、人間の生活圏へ近づかないことを自分自身の規則にもしている。それなのに今日は人間を助け、その人間から食べ物をもらい、自分へ向けられた言葉まで受け取った。
ありがとう。
何度思い返しても、その意味は変わらなかった。あの子供は自分を人間だとは思っていない。目の前にいたのは、血まみれの黒い肉食恐竜だったはずだ。それでも最後には、敵としてではなく、自分たちを助けた相手として言葉をかけてくれた。その事実は、男が思っていた以上に大きかった。
前肢へ顎を載せながら、八王子で待っている家族のことを考える。母親は今も心配しているだろうし、父親は警察と話しているかもしれない。妹はきっと怒っている。この姿を見れば、最初は全員が怖がるだろう。母親は悲鳴を上げるかもしれず、父親は家族を守るために前へ出るだろうし、妹に至っては本当に何かを投げてくるかもしれない。
それでも今日、あの親子には少しだけ伝わった。言葉を話せなくても、すぐに襲わず、距離を取り、自分の行動を選べば、何をしようとしているのか理解してもらえる可能性がある。自分には文字を書くこともできるし、家族しか知らないことだって覚えている。ならば、八王子まで帰ることさえできれば、その先にも方法はあるはずだった。
男は目を閉じた。森の夜は静かで、遠くから沢の流れる音が聞こえている。今日、自分が危険を冒したことは間違いなく、合理的だったとも思わない。もう一度同じ状況になったとき、必ず助けに入れると言い切ることもできなかった。
ただ、子供が父親を呼ぶ声を聞いて、そのまま歩き去ることだけはできなかった。その理由なら、もう考えるまでもなく分かっている。
自分にも、帰りを待っている家族がいる。
身体を丸め直した男は、明日になれば再び南へ向かうつもりだった。八王子まではまだ遠く、この身体がこれからどこまで大きくなるのかも、無事に家族の前まで辿り着けるのかも分からない。それでも今日初めて、恐竜の身体で目覚めてからずっと遠ざかっているように感じていた人間の世界へ、自分の意思でほんの少しだけ近づくことができた気がした。