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第21章 野菊と二つの亡骸
猪苗代湖を離れてから二日目の午後、男は山の向こうから銃声を聞いた。
一度ではなかった。何発か、間を置きながら聞こえてくる。音は山肌に反響して正確な位置を掴みにくかったが、少なくとも同じ場所に留まって撃っているわけではなさそうだった。誰かが何かを追っているのか、それとも追われながら撃っているのか。どちらにせよ、わざわざ近づく理由はない。
(……反対へ行くか)
ここまでの旅で、銃声に近づいて得をした経験など一度もない。福島ではそれで死にかけたばかりなのだから、今度こそ素通りしたって誰にも文句を言われる筋合いはなかった。
男が進路を変えかけたところで、木々の奥から咆哮が上がり、ほとんど同時にもう一発が響いた。
今度は明らかに近かった。
少し間があった。
それから何か大きなものがぶつかる音がして、山は静かになった。
男はしばらく動かなかった。
次の銃声を待つ。
人間の声でも、恐竜の咆哮でもいい。何か続けば、その方向から離れればいい。だが、一分ほど待っても何も聞こえてこなかった。
(嫌だな、嫌だ。放っておくべきだ)
嫌な静けさだった。
関わらないほうがいい。頭では分かっている。それでも、もし人間が襲われていて、まだ生きているのならと思ってしまった。
(……見るだけだぞ、ちらっと見てすぐ逃げる)
自分に言い聞かせ、男は小さな同行者を茂みの奥へ誘導した。待てと伝えようにも言葉は使えないので、木の実をいくつか置いて注意を引く。小さな恐竜は最初こそ顔を上げたものの、男が藪の向こうへ消えても追ってはこなかった。
匂いを拾ったのは、それから間もなくだった。
血の匂いだった。それも、一頭分ではない。
速度を落とし、木々の間を慎重に進む。銃声はもう聞こえず、人間の声もない。鼻で探っても、生きて動いている大型動物の気配は遠ざかっていた。代わりに血と火薬、それから肉食恐竜特有の濃い体臭が混じっている。
斜面を越えた先で、男は足を止めた。
(……なんだ、これ)
そこには二つの死体があった。
一人は人間だった。山中用の装備を身につけ、少し離れた場所には大型の銃が転がっている。服装からすればハンターだろう。身体には肉食恐竜に襲われたと思われる深い傷があり、確認するまでもなく生きてはいなかった。
もう一人は、老いた中型の肉食恐竜だった。
二人は、最後まで争っていたかのように重なるように倒れていた。恐竜は右目を古い傷で失っており、左耳の後ろから首の付け根にかけて、至近距離から撃たれたらしい致命傷がある。人間のほうも顔の左側に、ずっと以前についたらしい古い傷を残していた。
男はその場から動かず、鼻を使って周囲を探った。
血の匂いは二人だけのものではなかった。
岩壁の窪みの近くには、片目の恐竜より一回り大きな足跡が二つある。それより遥かに小さな足跡も二つあり、どちらも森の奥へ続いていた。新しい。先ほど遠ざかっていった気配は、おそらくこいつらだろう。
(こいつを撃って……そのあと、別のやつにやられたのか?)
見たままなら、そういうことになる。
しかし、それ以上は分からない。
なぜこの二人がここで戦っていたのか。どうして岩壁の窪みに別の恐竜たちまでいたのか。片方は右目を、片方は左目を昔から失っている。それがただの偶然なのかどうかさえ、今の男には確かめようがなかった。
人間の遺体については、いずれ誰かが見つけるだろう。
銃や装備には触れないことにした。自分が余計な痕跡を残せば、ただでさえ不可解な現場がさらに面倒なことになる。何より、死んだ人間の持ち物を漁る気にはなれなかった。
(……行くか)
何があったのかは知らない。
どちらが先に襲ったのかも知らない。
ただ、ここで二つの命が終わった。それだけは分かった。
立ち去ろうとして、男は少し先の斜面に白い小さな花が咲いていることに気づいた。周囲の草はもう色を失い始めているのに、二輪だけがまだ枯れずに残っている。
男は少し迷ってから、前肢で茎を傷つけないように一本を折った。
人間のそばへ置く。
それから頭を下げ、立ち上がりかけた。
隣を見る。
右目の潰れた肉食恐竜が、残った左目を開いたまま倒れていた。
(…………)
もう一本を折った。
今度は、その頭のそばへ置く。
恐竜になった自分が、人間と恐竜の死体を前にして、どちらを弔ってどちらを放っておくのか決めるというのも妙な話だった。
(……お疲れさん)
男はもう一度だけ頭を下げ、二人に背を向けた。
そして振り返ることはなかった。
二輪の野菊はゆっくりと風にふかれて、二人のそばに佇んでいた。
◇
茂みまで戻ると、小さな恐竜は置いていった木の実をほとんど食べ終えていた。
男の姿を見つけるなり立ち上がり、短く二度、喉を鳴らす。待たされたことへの抗議なのか、単に戻ってきたことへ反応しただけなのかは分からない。
(悪かったよ)
近づいてきた小さな恐竜は、男の前肢と胸元をしきりに嗅いだ。
血と火薬の匂いが移っているのだろう。怪我をしているとでも思ったのか、鼻先を押しつけるようにして確かめてくる。
(俺の血じゃない)
そう言っても伝わらないので、男は鼻先で小さな身体を軽く押した。
同行者はようやく納得したらしく、それ以上嗅ぐのをやめた。
男は一度だけ、来た道のほうを見た。
木々に遮られ、もう斜面は見えない。
そのまま南へ向かった。
◇
その日の夕方、男は山中の斜面にちょうどいい場所を見つけた。大きな岩が張り出した下に乾いた地面があり、背後は急斜面、正面には木々の隙間から周囲を見渡せる。人間の気配はなく、鼻を使って確かめても、大型の肉食恐竜が頻繁に出入りしている形跡はない。
夜を越すだけなら、もっと適当な場所でも構わなかった。
けれど今日は、少し腰を据えてやりたいことがあった。
山の中で二つの命が終わっているのを見たせいなのかもしれない。持って帰るものがあるうちに、一度くらい自分が何を持っているのか数えておきたくなった。
荷物の整理である。
ここまで旅を続けるうちに、スポーツバッグはずいぶんくたびれていた。表面には泥が染みつき、枝に引っかけた細かな傷が増え、持ち手の一部も毛羽立っている。四メートルを超えた今の身体からすれば、人間用の大型スポーツバッグでさえ妙に小さく見えるのだが、それでも地図や細かな道具をまとめて運べるものは貴重だった。宮城では戦う前に外し、戦いが終わったあとには傷ついた身体で取りに戻ったくらいである。
(こいつも、よく持ってるな)
岩陰へバッグを下ろし、前肢の爪を立てないよう注意しながら口を開く。人間だったころなら数分で済んだ作業でも、この身体ではファスナーひとつ扱うのに妙な集中力が必要だった。口先と前肢を使ってどうにか開けると、少し離れたところで木の実を食べていた小さな同行者がすぐに気づいた。
全長一メートルほどの小さな恐竜は、口にしていた実を飲み込むと、何を始めたのかとでも言いたげに近づいてくる。男の横から首を伸ばしてバッグの中を覗き込み、鼻先を動かした。
(別に面白いものはないぞ)
もちろん伝わるはずもない。小さな恐竜はそれでも興味を失わず、男が最初に取り出したペットボトルを嗅ぎ始めた。
一本、二本。どちらも表面は傷だらけだったが、水を運ぶ役にはまだ使える。人間用のキャップを恐竜の口で開閉する技術については、三か月近い旅の中で嫌になるほど上達していた。旅を始めたころには一本の水を飲むだけでも苦労したことを思えば、自分でも感心するほどの進歩である。
(恐竜としての成長なのか、ペットボトルを開けるのが上手くなっただけなのか分からんな)
捨てる理由はないので二本とも残す。その隣へ、折り畳んだ青い防水シートを置いた。色が目立つため隠れるときには厄介だが、雨風をしのぐには便利で、気温が下がってきた今となっては手放す気になれない。小さな恐竜はシートを見つけると何か思い出したらしく、当然のようにその上へ前肢を乗せた。
(まだ広げてないから、ちょっと待ちなさい)
男が鼻先で軽く押すと、素直に二歩ほど下がった。ただし興味を失ったわけではないらしく、こちらの作業をじっと見ている。
次に出したのは、予備として残している古い肩掛けバッグだった。今の身体には小さすぎて主力にはならないものの、スポーツバッグが壊れた場合を考えれば捨てられない。人間なら店で新しいバッグを買えば済む話なのだが、巨大な黒い恐竜が財布をくわえてレジへ並ぶわけにもいかなかった。
財布どころか、今持っている金は小銭だけである。おおよそコーラ1本と少しなら変える分を道中拾っていた。
バッグの底から硬貨をまとめた袋を出すと、金属同士が触れて小さな音がした。それに反応した小さな恐竜がすぐ首を伸ばし、鼻先で袋を突く。さらにもう一度突いた拍子に十円玉が一枚転がり出し、小さな恐竜が追いかけようとしたところで、男が前肢を伸ばして先に押さえた。
(これは食えない)
小さな恐竜は前肢の下に消えた十円玉をしばらく見つめていたが、やがて興味を失った。男はそれを袋へ戻しながら、旅を始めて間もないころ、自販機を見つけた日のことを思い出す。
あのころは、小銭一枚を扱うだけでも大仕事だった。
人間なら指先でつまめば終わる。ところが、この前肢には物を掴める器用さこそあっても、硬貨ほど薄く小さなものを爪で傷つけずに拾うのは難しかった。地面へ置いた十円玉を拾おうとして弾き飛ばし、追いかけてはまた弾き、ようやく持ち上げても少し角度を変えようとしただけで落とす。誰もいない場所で何度も繰り返しているうちに、自分が何のためにこんな練習をしているのか分からなくなったこともある。
それでも練習した。
拾った小銭を前肢の指の間へ挟み、力を入れすぎないように持ち上げる。細い隙間へ入れる練習には、岩の割れ目を使った。失敗して転がれば拾い直し、また落とせばもう一度やる。その甲斐あって、自販機を見つけたときにはどうにか硬貨を投入口へ入れられた。
そして飲んだコーラは、驚くほど美味かった。
(……また飲みたいな、コーラ)
山の中で四メートルを超える肉食恐竜が考えることとしては、我ながらずいぶん平和だった。
自販機そのものは、その後も遠目に何度か見ている。だが自販機がある場所には、たいてい人間もいる。今では福島の一件まであって、以前よりさらに近づきにくい。温泉恐竜などという名前で全国に顔を知られているのなら、夜中に自販機の前でコーラを買っているところなど見つかった日には、また妙な映像が増えるに決まっている。
(温泉の次はコーラ恐竜とか、やめてくれよ)
想像しただけで嫌だった。
それでも、いつかもう一度飲みたいとは思う。
男は硬貨の袋を眺めた。拾った金で買ったのだから威張れた話ではないが、少なくとも盗んではいない。
(コーラだって金払ったしな)
何に対する言い訳なのか自分でも分からないまま、硬貨も残すことにした。
その次に取り出したのは地図だった。
これだけは扱いが違う。男は地面に直接置かず、防水シートの端を少し広げて、その上へ慎重に載せた。途中で手に入れ、何度も開いては畳んできた地図は、紙の端が傷み、折り目も白くなっている。それでも、ここまで来られたのは間違いなくこの紙のおかげだった。
現在地を探し、猪苗代湖から南へ視線を動かす。
栃木に入れば、その先は関東になる。さらに地図を辿っていけば東京があり、その西側に八王子がある。最初に青森の山中で自分の居場所を知ったときには、冗談のように遠く感じたし、実際に遠かった。人間なら鉄道や高速道路を使って数時間で移動できる距離を、人目を避け、道路を避け、ときには進路そのものを変えながら歩いてきた。
大型肉食恐竜と戦い、誰もいない町へ入り、温泉に浸かり、また戦った。いつの間にか世間から妙な名前まで付けられた。それでも地図の上で見る八王子は、もう日本の反対側にはなかった。
(……だいぶ来たな、箱根駅伝なら6区の終わり、箱根山を降りたくらいか)
八王子という文字を見ていると、地図とは関係のないものが次々と思い浮かんだ。
最初に浮かんだのは妹だった。
仕事帰りに連絡が来て、助けに行ったことがある。何に困っていたのかまで思い出すと、本当に大した話ではなかった。妹は一人でもどうにかできたのだろうし、実際、着いたころには半分くらい自力で片づけていた。それでも男の顔を見るなり、安心したように「遅い」と文句を言った。
助けても礼より先に文句を言う。昔からそういう妹だった。
別の日には、重い荷物を運ぶのを手伝わされた。終わったあとに飲み物くらい奢れと言ったら、妹は「お兄ちゃんなんだからそれくらいやってよ」と笑っていた。腹が立つほど遠慮がなくて、それでも困ったときには連絡してくる。その距離が、当時は当たり前すぎて気にしたこともなかった。
(今も、困ってんのかな)
三か月以上、兄と連絡が取れない。
考えてみれば、困っていないはずがなかった。
次に母親の料理を思い出した。
実家へ帰ると、頼んでもいないのに食卓の品数が増えた。もう十分だと言っているのに、冷蔵庫からもう一皿出てくる。帰るときには保存容器まで持たされて、「ちゃんと食べなさい」と言われた。
ちゃんと食べていると答えても信用されない。
実際、忙しい時期には適当な食事で済ませていたので、母親のほうが正しかった。
焼いた肉の匂い。味噌汁の湯気。炊きたての米。何でもない煮物や、昔から食卓に出ていた料理。たまに出てくる自家製餃子。三か月近く山で生肉や木の実や卵を食べ、温泉卵一つで料理をした気になっている今になってみれば、あの食卓がひどく贅沢なものに思えた。
(やばい……腹減ってきたな)
思い出す時間を間違えた。
けれど、帰れたら何が食べたいかと考えると、一つには絞れなかった。母親が作るものなら、たぶん何でもいい。
父親とは、一緒に酒を飲んだことがある。
何か特別な祝いだったわけではない。実家へ帰った夜、父親が飲んでいたところへ付き合っただけだった。仕事の話を少しして、どうでもいいテレビを見て、互いに大したことは話さなかった。父親は酔って饒舌になるタイプでもなく、男も親を相手に人生を語るような性格ではなかったから、途中からは二人で黙ってテレビを見ながら飲んでいた。
それでも居心地は悪くなかった。
父親が空いたグラスを見て「もう一杯飲むか」と聞き、男が「じゃあ少し」と答えた。思い返せば、それだけの夜だった。
何でもない夜だったのに、妙にはっきり覚えている。
男は地図を見つめた。
妹に文句を言われることも、母親の飯を食べることも、父親と酒を飲むことも、どれも旅へ出る前なら特別な予定ではなかった。次があると考える必要さえないほど、当たり前に続くと思っていた。
今は、その全部が八王子にある。
(……帰ろう、家に)
新しく決めたことではない。
青森で地図を手に入れたときから決めている。何度進路を変えても、怪我をして休んでも、妙な騒ぎに巻き込まれても、そのために南へ進んできた。
それでも今、地図の上の距離が縮んだのを見て、もう一度だけ確かめたくなった。
(ちゃんと帰ろう。八王子まで)
家族が自分を見てどう思うのかは分からない。人間だった男が、四メートルを超える黒い恐竜になって帰ってくる。玄関から入れるかどうか以前の問題である。信じてもらえる保証もないし、近づく前に警察やハンターを呼ばれる可能性だってある。
それでも帰らなければ始まらない。
妹にもう一度文句を言われたい。母親の飯をもう一度食べたい。父親と酒を飲むのは、この身体で可能なのか分からない。そもそも恐竜に酒を飲ませて大丈夫なのかという問題もある。
(……そこは帰ってから考えるか、いや自販機でビールが売っていればワンチャン試せるか?)
帰る理由としては、そのくらいで十分だった。
第21章 野菊と二つの亡骸 了