断章7 人生最後?の温泉よりも前の話
第21章 俺が死んだらパソコンは爆破してくれ(後編)
地図の上の八王子を眺めながら、帰ったら何を食べようか、父と酒は飲めるのかと、とりとめもなく考えていたところで、男はふと別の場所を思い出した。
(……あ、そうだ。俺の家……)
八王子ではない。
中野だ。
人間だったころ、一人で暮らしていたアパートがある。
三か月近く帰っていない。部屋がそのまま残っているとは限らないし、家賃がどうなっているのかも分からない。長期間連絡の取れない住人として、大家や管理会社が何かしている可能性もある。何より、家族が荷物を引き取っているかもしれない。
そこまで考えて、男は固まった。
(……待て、おい、待て待て待て)
部屋にはパソコンがある。
パスワードはかけていた。しかし、家族に見られたくないものがあるかと聞かれれば、ある。検索履歴や保存した画像、その他いろいろ。犯罪になるようなものではない。ただ、人に見せることを想定していないものは、それなりにある。
そしてデジタルだけではなかった。
(棚の奥のやつ……)
普段は奥へ押し込んでいたものがある。友人が来たときにもわざわざ見せなかった。違法でもなければ、誰かに迷惑をかけるような品でもない。
ただ、母親や妹に発見された場面だけは想像したくなかった。
三か月近く行方不明になった息子の部屋へ家族が入る。荷物を整理する。パソコンを確認する。そして棚を開ける。健康な成人男性の必需品が見つかる。しかも結構マニアックなのもある。
(やめろ。そこは開けなくていい。マジで)
福島で六メートルを超える肉食恐竜と向かい合ったときとは、まったく別種の危機感が湧いてきた。
いっそのこと八王子へ行く前に、中野へ寄るべきではないか。
夜中に人目を避けてアパートまで行き、まずパソコンと棚を処分する。証拠隠滅という言葉が頭に浮かんだが、消すのは犯罪の証拠ではなく自分の尊厳を脅かす、夜のオトモである。
(……中野、八王子の実家より先に行くか?)
一瞬だけ本気で考えた。
そして、今の自分の身体を思い出した。
四メートルを超える黒い肉食恐竜である。
中野ブロードウェイの近く、飲み屋街からは少し遠いが、住宅街のど真ん中。
そして隣人ありのアパートの2階、ベランダなんて大したものはない。
(潜入は無理だな)
即座に諦めた。
山形の温泉で撮影されただけでも全国に顔が広まったらしいのに、東京都中野区の住宅街へ現れれば、それどころでは済まない。夜中であろうと監視カメラはいくらでもあるし、誰か一人に見つかれば通報される。仮に奇跡的に部屋へ辿り着けても、この前肢でパソコンを操作して必要なファイルだけ消すなど無理がある。
(……頼むから、そのままであってくれ。家賃は引き落としだから、それで解約されていることはないはず。いや、口座にいくらあったっけ、足りるか? そもそも仕事はどうなった、無断欠勤だし首だよな……この手じゃパソコンも使えないし)
誰に頼んでいるのか分からなかった。家族か、大家か、それとも三か月近く放置されているはずのパソコンと棚そのものか。
少なくとも、家族が自分の帰りを待ってくれているなら、部屋の荷物も急いで処分していない可能性はある。
(帰ったら、最初に、とはいわずとも優先しよう)
生きていることを伝える。事情を説明する。家族を安心させる。その次くらいに、中野の部屋には勝手に入らないでほしいと頼む。
順番として何かがおかしい気もしたが、重要度は高かった。
(……いや、やっぱ先にパソコンかな)
数秒考える。
(さすがに家族が先だな)
危うく優先順位を間違えるところだった。
八王子へ帰りたいという気持ちは、先ほどよりほんの少しだけ強くなっていた。理由の一部が情けない方向へ増えていたが、帰りたいことに変わりはない。
そのとき、紙の端が動いた。
見ると、小さな恐竜が地図の上へ片方の前肢を乗せていた。
(こらこら、地図はだめだ。早々手に入らないんだぞ)
男が鼻先で身体を押す。小さな恐竜は一度退いたものの、何を注意されたのかまでは理解していないらしい。反対側へ回り込み、今度は地図の端を嗅ぎ始めた。
(だから、これは食い物じゃないって)
紙を噛まれてはたまらない。男は前肢で地図を押さえながら身体を入れ、同行者を遠ざけた。小さな恐竜は不満そうにその場を一周したあと、先ほど広げた防水シートの余った部分へ移動し、そこで丸くなる。
ほんの少し前まで木の実を食べていたはずなのに、もう休むらしい。
(自由だな、お前)
男は地図へ視線を戻した。南へ向かう基本方針は変わらない。人間の多い場所を避けながら栃木方面へ抜け、そこから関東へ入る。東京へ近づくほど山だけを使って移動するのは難しくなるだろうし、これまで以上に夜間移動が増えるかもしれない。
問題があるとすれば、一つ増えている。
防水シートの上では、小さな恐竜がこちらに背中を向けて休んでいた。山形で出会ったときには、数日もすれば離れると思っていた。適当なところで別れ、それぞれ勝手に生きていくものだと考えていたのに、福島までついてきて、傷を癒やしている間も離れず、その後は一緒に温泉へ入り、猪苗代湖では水に入る練習までした。
東京へ近づけば人間は増える。自分一頭だけでも十分に目立つのに、小さな恐竜まで連れて歩けば、さらに行動の自由は減るだろう。危険な場所へ巻き込む可能性だってある。どこか安全そうな山で別れたほうが、この小さな同行者にとってはいいのかもしれない。
理屈だけなら、そのほうが正しい。
男は地図を畳み、残りの荷物へ視線を移した。
バッグの隅には、途中で拾った細かなものや、使えるかもしれないと残していた物がいくつか入っている。割れた留め具、短くなった紐、汚れた布。いつか役に立つかもしれないと思って残していたものの、結局一度も使わなかった品も多い。
(こういうの、いつの間にか増えるんだよな。使わないけど、ブランドのしっかりした紙袋とかもついたまっちゃうし)
人間だったころにも、鞄の中に何か月も使わないものを入れっぱなしにすることはあった。身体が恐竜になっても、そのあたりの性格はあまり変わらないらしい。
不要なものを脇へ分けていったところで、男はふと手を止めた。
山の中に置いていけば荷物は軽くなる。しかし、わざわざ自分が持ち込んだ物をそのまま残していくのは気が引けた。それに、布や人工物を落としていけば、自分が通った痕跡にもなる。
(……結局、持ってくのか。貧乏性なのか心配性なのか……どっちもか。こんな装備で大丈夫か? 大丈夫だ、問題ない)
割れた留め具や布をできるだけ小さくまとめ、バッグの隅へ押し込む。荷物整理を始めたはずなのに、思ったほど軽くならない。
その作業をしている途中、底のほうから小さな包みが出てきた。
男は動きを止めた。
中身は、昨日見つけた木の実だった。
自分でも食べられないわけではない。ただ、量が少なく、今の身体では腹の足しになるほどでもないので手を付けなかったものだ。なぜバッグに入れたのか思い返して、すぐに理由が分かった。
隣の小さいやつが食べるからである。防水シートを見る。
小さな恐竜はまだ丸くなっていた。
(いつのまにか、お前の食い物まで俺の荷物に入ってるぞ)
当然、返事はない。
男は包みを見つめた。捨てれば、そのぶんだけ荷物は減る。そもそもこいつは自分で木の実を探せるし、鳥の卵まで見つけてくる。わざわざ自分が持ち歩く必要などない。
数秒考えてから、男は包みをスポーツバッグへ戻した。
そのとき、ふと思う。そういえば、いつまで「お前」だの「小さいの」だので済ませるつもりなのだろう。
一緒に行動するようになってから、それなりの日数が経っている。呼びかけたところで言葉が通じるわけではないが、何か名前があったほうが便利ではある。特徴から適当に付けてもいいし、昔知っていた動物の名前から借りてもいい。
そこまで考えたところで、男の思考が止まった。
自分自身の名前が出てこない。
家族のことは覚えている。妹の声も、母親の料理も、父親と飲んだ夜も思い出せる。八王子の家がどんな場所だったかも分かる。中野の部屋に何を隠していたかなど、むしろ忘れていたほうが幸せだったことまで思い出せる。
それなのに、自分を指すために何度も使っていたはずの名前だけが、どうしても掴めなかった。
男はしばらく何もせず、バッグの中を見つめた。
(……こいつの名前を考えてる場合じゃないか)
深く考えたところで答えが出るものでもない。これまでも何度か思い出そうとして駄目だったのだから、今ここで急に浮かぶはずもなかった。男は名前のことを頭の隅へ押し戻し、荷物整理を再開した。
荷物整理を終えたころには、太陽がかなり傾いていた。男は地図を折り畳み、防水シートを畳み直し、ペットボトルを入れる。硬貨の袋も底へ戻し、予備のバッグも押し込んだ。捨てるつもりだった細かな物まで結局残ったせいで、始める前と比べても驚くほど軽くなった感じはしない。
最後に、木の実の包みを入れる。
男はバッグを閉じると、今夜の寝床を作るために防水シートをもう一度取り出した。せっかく畳んだものをすぐ広げることになったが、日が沈めばさらに冷える。岩の張り出しの下へ敷いていると、小さな恐竜が待っていたようにその上へ乗り、いつもの場所を決めるように二、三度向きを変えた。
(ちゃっかりしてるな、こいつは)
退かすことはしなかった。
男も岩陰へ身体を収める。四メートルを超えた身体では完全に隠れることはできないが、風を避けるには十分だった。
明日の朝になれば、また南へ進む。
以前なら、それだけを考えて眠ればよかった。南へ行く。八王子を目指す。それだけで十分だった。
けれど今は、八王子という文字の向こうに三人の顔が浮かぶ。
自分がいなくなってから、三人がどうしているのかは分からない。中野の部屋がどうなっているのかも分からない。パソコンと棚については、できれば何も知らないままでいてほしい。
(……俺が人間の社会でどういう扱いなのかわからんが……後生だからパソコンと棚には触れてくれるなよ)
少しだけ真剣に願ってから、男は目を閉じかけた。
すぐ近くで、小さな身体が動く気配がした。
同行者が防水シートの上を少し移動し、男の身体の近くで再び丸くなる。寒いのかもしれない。男は身体の向きをわずかに変え、風上側へ回った。
それだけで、小さな恐竜は動かなくなった。
八王子へ帰ったあと、この小さいのをどうするのか。その問題については、今日は考えないことにした。
まずは帰る。
山を越えて、関東へ入って、人間の多い場所をどうにか抜けて、八王子まで辿り着く。そのあと何をどう説明するのかは、着いてから考えればいい。
家族が自分を待っているのかは分からない。
それでも、待っていてほしいと思った。
もう少しだけ。
スポーツバッグの中には、何度も開いた地図と、水を入れるペットボトルと、ほとんど使い道のない小銭が入っている。捨てるつもりだったのに結局持っていくことにした、役に立つかも分からない細かな物もある。
それから、自分では食べない木の実も入っていた。
第22章 俺が死んだらパソコンは爆破してくれ 了