断章7 人生最後?の温泉よりも前の話
福島事件から一週間後、死亡したベテランハンターの自宅を県警の担当者が訪れた。
玄関には男物の仕事用ブーツが一足斜めに置かれていた。他の靴はきっちりと片付けられているのに、この一足だけはなぜか斜めを向いている。
事件当日に履いていたものではない。そちらは証拠品としてまだ返却されておらず、これは予備として使っていた古い一足だった。つま先には乾いた泥がこびりつき、側面には何度も擦った跡が残っている。妻はそれを片づけられず、夫がいたころと同じ場所へ置いていた。
「お忙しいところご足労いただきまして、どうぞお上がりください」
妻は担当者を居間へ通した。
家の中は整っていた。
特別荒れているわけでもなければ、生活が止まっているようにも見えない。洗濯物は畳まれ、テーブルには郵便物がまとめて置かれ、台所には洗った食器が伏せてある。ただ、よく見れば二人で暮らしていた痕跡が、あまりにも多く残っていた。
居間のソファには左右で微妙なへたり方の違いがあった。テレビに近い右側が夫の場所で、反対側が妻の場所だった。食卓の椅子も同じで、二十年以上、誰かが決めたわけでもないのに座る位置は変わらなかった。
洗面所には二本の歯ブラシがあった。夫のものも、まだ残っている。
浴室には夫が使っていた髭剃りがあり、玄関の棚には仕事へ出る前に必ず使っていた靴べらが掛かっている。寝室には二つの枕が並び、夫の枕だけが一週間前から形を変えていなかった。
人が一人死んでも、残された人間の生活は続く。
朝になれば起きなければならないし、ゴミの日にはゴミを出さなければならない。冷蔵庫の牛乳がなくなれば買いに行き、郵便受けには今でも夫の名前が印刷された封筒が届く。
妻が一番困ったのは、何を一人分にすればいいのか分からないことだった。
米は二人分を炊く癖が抜けない。味噌汁を作れば鍋に二人分以上が残る。洗濯物を取り込むときには、無意識に夫の作業着を探してしまう。スーパーでは夫が毎朝食べていたヨーグルトを籠へ入れ、酒売り場の前を通れば、残りがあっただろうかと考える。
夜はもっと困った。
ずっと隣に誰かがいる状態で眠ってきた。夫はいびきをかいたし、寝返りも大きかった。夏には暑いと文句を言い、冬になると布団を奪うので何度も喧嘩した。それがなくなれば静かに眠れるはずなのに、今では寝室が静かすぎて眠れない。
若いころには、もっと一人の時間が欲しいと思ったこともある。夫が仕事で数日家を空けると聞けば、夕飯を簡単に済ませられると少し喜んだこともあった。
今なら、何日でもいてほしかった。
妻は担当者の前へお茶を置いた。
「すみません。こういうとき、何を出したらいいのか分からなくて」
「いえ、お気遣いなく」
「主人だったらコーヒーなんですけどね」
自然に出た言葉だった。
妻自身がそれに気づき、少しだけ動きを止めた。
「……まだ、こういう言い方するんですよ。コーヒーも、まだ二人分淹れそうになるんです。あの人は砂糖なしで、ミルクだけ。私は両方入れるから、間違えたことなんてほとんどなかったんですけど」
結婚したばかりのころには、夫は砂糖も入れていた。四十を過ぎたころ、健康診断の数字を妻に指摘されて砂糖をやめた。最初の数日は「苦い」と文句を言い、そのうち何も言わなくなった。
「二十年以上って、長いですね」
妻は湯呑みを見ながら言った。
「結婚したころは、あの人も今よりずっと細かったんです。私も若かったし。最初に住んだアパートなんて、お風呂がすごく狭くて、台所も二人で立ったら邪魔になるくらいで」
今の家へ移ったとき、夫は広い風呂を一番喜んだ。食卓を買ったときには妻が大きすぎると言い、夫がこれくらいあったほうがいいと言った。結局、子供が小さいころには宿題を広げ、成長して家を出たあとには夫婦二人で向かい合って夕飯を食べる場所になった。
人生の大半一緒にいるということは、特別な思い出がその分あるということだけではなかった。
家の中にある何でもない物のほとんどに、二人の時間が少しずつ付着しているということだった。
「スーパーでも、主人が好きだったものを普通に籠に入れそうになるんです。昨日もヨーグルト取ってから、ああ、いらないんだって戻して」
妻は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「一週間くらいじゃ、身体のほうが覚えてるんでしょうね。頭では分かってるんです。もう一人分でいいって。でも、ずっと二人分だったから」
担当者は録音機を置く前に、今日の聞き取りはいつでも中断できると説明した。妻は頷き、「大丈夫です」と答えた。
それから事件当日の話が始まった。
「出るとき、何か話されましたか」
「大したことではありません、いつも通りの普通のやりとりでした」
妻はすぐに答えた。
「本当に、普通だったんです」
その言葉だけが、少し強かった。
「朝ご飯を食べて、ニュースを見て。呼び出しが来たから準備して……私が『危ない仕事?』って聞いたら、『大型だから時間かかるかもな』って。あの人、仕事の話を家で詳しくしなかったので」
「それは、心配をかけないためでしょうか」
「最初のころは、そうだったと思います。でも長く一緒にいると、そもそも聞かなくなるんですよ」
妻は少し考えた。
「若いころは聞いてました。今日はどこ行くの、何を相手にするの、危なくないのって。でも二十年もやってると、あの人が言わない日は、私も聞かないほうがいい日なんだって分かるようになって。向こうも、私が本当に心配してるときは分かるから、そういうときだけ『大丈夫だ』って言うんです」
「あの日も、そうでした?」
「ええ、言いました、いつも通りに『大丈夫だ』って」
妻は頷いた。
「だから、その、信じちゃった」
視線が落ちた。
「これまで、大丈夫だったから、これからもって」
骨折して帰ってきたことはある。縫うような怪我もあった。連絡が取れず、深夜まで待った夜も一度や二度ではない。
それでも帰ってきた。
帰宅すれば玄関で「ただいま」と言い、汚れた服を洗面所へ持っていき、腹が減ったと冷蔵庫を開ける。その繰り返しが二十年以上続けば、「今回も帰ってくる」という感覚は希望ではなく、日常そのものになる。
「行ってらっしゃいって言いました」
妻は玄関の方向を見た。
「あの人も『行ってくる』って」
そこで言葉が止まった。
「最後になるなら、もっと何か言えばよかったって、みんな思うんでしょうね」
担当者は答えられなかった。
「でも、何を言えばよかったんでしょう。二十年以上一緒にいて、朝出かけるたびに特別なことなんて言わないですよ。昨日の洗濯物どうするとか、帰りに牛乳買ってきてとか、そんな話です。夫婦って、そういうものじゃないですか」
初めて声が震えた。
「最後くらい、ちゃんと好きだって言えばよかったとか考えました。でも……そんなの、あの人も困ったと思います。朝から何言ってんだって」
妻は涙を浮かべながら、少し笑った。
「私たち、そういう夫婦じゃなかったから」
誕生日に毎年花を贈るような夫ではなかった。結婚記念日を忘れて妻に怒られたことも何度もある。妻も妻で、夫の誕生日に仕事帰りのスーパーで慌ててケーキを買った年があった。
それでも、妻が風邪を引けば言われなくても洗濯物を取り込み、夫が腰を痛めれば妻は黙って湿布を買ってきた。冬の朝には夫が先に起きて暖房をつけ、夏の夜には妻が夫の分まで麦茶を作って冷蔵庫へ入れた。
言葉にする必要がなくなったものが、いつしか日々のあいだに増えていた。
「最後の会話って、もっと覚えてるものだと思ってました」
担当者が顔を上げる。
「ドラマとかだとあるじゃないですか。最後に言った言葉をずっと覚えてるとか。でも私、細かいところがもう曖昧なんです。あの人が朝、何飲んでたとか、どっちの靴から履いたとか。一週間しか経ってないのに」
妻は膝の上で指を白くなるまで強く組んだ。声は、かすれて震えていた。
「忘れたくないのに」
担当者は録音機を止めようとしたが、妻が小さく首を振った。
「大丈夫です。続けてください」
しばらくして、事件発生後の話へ移った。
「最初はテレビで知りました」
大型恐竜が市街地へ侵入した。ハンターが到着した。交戦が始まった。その段階では、夫が現場にいるとは報道されていなかった。
「連絡しました。でも出なくて。仕事中だから当然なんです。危険な現場で電話なんて出るわけないって、自分に言い聞かせてました」
メッセージも送った。
『大丈夫?』
十分後。
『ニュースでやってるけど、そっち?』
さらにそのあと。
『落ち着いたら連絡ください』
既読はつかなかった。
「最後に送ったのが、これです」
妻はスマートフォンを取り出した。
画面には、今もメッセージが残っていた。
『帰り遅くなるなら連絡して。夕飯どうする?』
担当者は何も言えなかった。
「夕飯、焼き魚だったんです」
妻は画面を見ながら言った。
「主人、魚の皮まで食べるんですよ。私は残すから、いつも自分の食べ終わったあと、私のお皿見て『それ食わないの?』って聞いてくるんです。ずっと。食べないって知ってるくせに」
声が震える、喉が意識せず高く息の音をならした。まるで、叫びのようだった。そして、ゆっくりと妻の頬を涙が伝った。
「あの日も、たぶん聞くと思ってたんです」
食卓には夫の箸も出していた。味噌汁も二人分だった。焼き魚も二切れ買っていた。
「馬鹿みたいでしょう」
「そんなことはありません」
「そのころには、もう……」
妻は最後まで言わなかった。
夫がその時点で生きていたのか、すでに息絶えていたのか。それを確認することに意味があるのかさえ、担当者には分からなかった。
「ニュースでハンターが倒れたって出ても、まだ帰ってくると思ってました。あの人、ながくやってましたから。怪我したこともあります。骨折して帰ってきたこともあるし、病院から電話が来たこともある。だから今回も、最悪でも入院だと思ってたんです」
それまで堪えていた涙が、今度は止まらなかった。調査官は不謹慎にも、その涙に死亡したハンターの人生を見つけていた。
「死ぬとは思ってなかった」
妻は止まない雨を何度も手で拭った。
「ずっと危ない仕事だったのに。毎日送り出してたのに……一回も、本当に死ぬとは思ってなかったんです」
その夜、警察が家へ来た。
インターホンが鳴ったとき、妻は一瞬だけ夫が帰ってきたのだと思ったという。鍵を持っているのに、どうしてインターホンを鳴らすのだろう。怪我をして、自分で開けられないのかもしれない。
そう思って玄関を開けた。
「制服を見た瞬間に分かりました」
妻はそこで顔を覆った。
声を上げて泣くわけではなかった。
ただ、長い時間、言葉が出なかった。
「変なんです。亡くなったって聞いたときより、そのあと一人で寝室に入ったときのほうが……駄目でした」
ベッドには二つの枕があった。
朝、夫が起きたままの形で布団が少し乱れていた。
妻はいつもの癖でそれを直した。
枕も整えた。
そこまでやってから、もう明日の朝に夫がこの布団を乱すことはないのだと気づいた。
「人生って、こういうところに残るんですね」
妻は言った。
「写真とか、思い出の品とかじゃなくて……布団のへこみとか、洗面所のコップとか、そういうどうでもいいところに」
◇
聞き取りを再開したのは、それからしばらく経ってからだった。
「ご主人の行動について、現在映像の解析が進んでいます」
「はい」
「最後まで現場に残り、生存したハンターへ後退を命じたことも確認されています」
「……あの人らしいです」
「そうですか」
「昔からそうなんです。自分が一番年上だからって」
妻は鼻をすすった。
「家でもそうでした。重いものは自分が持つし、台風が来たら外を見に行くし、子供が小さいころに熱を出したら、私が寝てろって言って夜中に病院へ連れていく。私がやめろって言っても、『大丈夫だ』って」
少しだけ笑った。
「全然、大丈夫じゃなかったじゃない」
その言葉だけは、これまでそうしてきたように、夫へ直接文句を言っているようだった。
「ご主人たちが赤い個体へ与えた損傷が、その後の戦闘結果に大きく影響したと分析されています」
「聞きました」
「左後肢を含め、複数の損傷が確認されています。最後まで生存したハンターも、ご主人たちの戦闘がなければ結果は違った可能性があると証言しています」
妻はゆっくり頷いた。
「それは、ちゃんと伝えられますか」
「はい」
「内部の報告書だけじゃなくて」
担当者が少し迷った。
「どういう意味でしょう」
「テレビとか、メディアです」
妻は顔を上げた。
「黒い恐竜の映像、毎日やってるでしょう」
「はい」
「私も見ました」
母親が娘へ覆いかぶさっている。赤い恐竜が迫る。横から黒い恐竜が飛び込んでくる。母娘を守り、傷を負いながら戦い、生き残ったハンターとともに赤い恐竜を倒す。
最後には人間へ頭を下げ、敬礼を受けながら山へ帰る。
「あの恐竜を悪く言うつもりはないんです」
妻ははっきり言った。
「助けてくれたんだと思います。黒い恐竜が来なかったら、生き残った方も亡くなっていたかもしれない。あのお母さんと女の子も助からなかったかもしれない。警察の人だって、もっと怪我したかもしれない。だから、本当に……ありがとうって思います」
そこに嘘はなかった。
「主人も、たぶんそう言うと思うんです」
「ご主人も?」
「あの人、恐竜好きだったから」
妻の口元が少しだけ緩んだ。
「狩る仕事してるくせに、家じゃ恐竜番組ばっかり見てました。毎日一緒にいたら、私まで種類を覚えちゃって。興味なかったのに」
番組を見ながら夫が解説を始める。
妻が「テレビの人が説明してるから黙って」と言う。
五分後にはまた説明を始める。
それを何年も繰り返した。
「『こいつは悪くない、人間のところに出てきただけだ』って、よく言ってました。危険だから殺さなきゃいけないことと、その生き物が悪いことは別だって」
担当者は記録していた手を止めなかった。
「だから、あの黒い恐竜が来たのを主人が見てたら……たぶん喜んだと思います。『すげえの来た』って」
妻は笑った。
今度は少しだけ、本当に笑えていた。
「それであとから映像見て、『俺たちが先に弱らせてたんだからな』とか絶対言うんです。子供みたいに」
笑顔が崩れた。
「言うんですよ」
声が震えた。
「分かるんです。一緒にいたから。こういうとき何を言うかくらい、分かるんです」
涙が落ちた。
「なのに、もう言わないんですよね」
担当者は何も挟まなかった。
「声まで分かるんです。顔も分かる。ちょっと得意そうに笑うのも分かる。でも、もう絶対に言わない」
妻は両手で目元を押さえた。
「それが……まだ、よく分からないんです」
死んだという事実は理解している。
葬儀も終わった。
死亡届も出した。
夫の勤務先から説明も受けた。
それでも家族として積み重ねた記憶の中では、夫はあまりにも簡単に動き、喋り、笑った。
だから現実の家からいなくなったことに、記憶のほうが追いつかなかった。
「黒い恐竜を褒めてもらうのはいいんです。あの子は何も悪くない。むしろ、最後まで戦ってくれた。生き残った人と一緒に、主人たちが止められなかった赤い恐竜を止めてくれた」
妻は涙を拭った。
「でも、主人たちが何もできなかったみたいには、言わないでください」
「はい」
「あの場所にはハンターも七人いたんです」
「はい」
「黒い恐竜が来る前から、命がけで戦ってたんです」
「記録に残します」
「主人も、そこにいたんです。人の命を守るために、自分の命をかけて。あそこで、戦っていたんです」
「はい」
妻は何度か頷いた。
夫が確かにあの場所で生きて、戦っていたことを、誰かの記録へ預けるように。
◇
聞き取りが終わり、担当者が玄関へ向かうと、妻も見送りに立った。
そこで担当者は、最初に見た斜めに置かれた古い仕事用ブーツをもう一度見た。
「こちらは、ご主人の?」
「はい。予備です」
「よく使い込まれていますね」
聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。
しかし妻は怒らなかった。
「実は片づけようとは思ったんです。邪魔だし、もう使う人もいないし」
玄関へ視線を落とす。
「でも、二十年以上ずっと、ここにあの人の靴があったんです」
仕事用のブーツ。
普段履きのスニーカー。
近所へ出るときのサンダル。
妻が何度揃えても、夫は少し斜めに脱ぐ癖があった。
「昔は何度言っても揃えないから腹が立ってたんです。『ちゃんとしなさいよ』って」
妻はしゃがみ、古いブーツの片方をそっと撫でた。
「今は、揃ってるほうが変なんですよ」
担当者は何も言えなかった。
「これがなくなったら、本当にあの人が帰ってこない家になるみたいな気がして」
妻は立ち上がった。
「変ですよね。もう帰ってこないって分かってるのに」
「私は、変ではないと思います」
「そうですか」
妻は小さく笑った。
担当者が靴を履き、玄関の扉へ手をかけたところで、背後から声がした。
「あの」
振り返る。
「もし、生き残ったハンターの方に会うことがあったら」
「はい」
「謝らなくていいって伝えてください」
担当者は妻を見た。
「たぶん、謝ると思うから。自分だけ生き残ったって」
「……分かりました」
「主人は、あの人を生きて帰すために下がらせたんでしょうから」
妻はそう言ってから、少し考えた。
「それに、あの人なら怒ると思います。せっかく生き残ったのに何謝ってんだ、馬鹿野郎って」
病室で生存したハンターが口にしたものと、ほとんど同じ言葉だった。
妻はそれを知らない。
生存したハンターも、妻がそう言ったことをまだ知らない。
二人とも、同じ人間を長く知っていただけだった。
「そういう人だったので」
妻は泣きながら笑った。
扉が閉じたあと、家の中は静かになった。
テーブルには二つの湯呑みが残っている。妻はそれを台所へ運び、一つずつ洗った。
夕方になれば買い物へ行く。
夜になれば夕食を作る。
明日の朝になればゴミを出す。
そうやって生活は続いていく。ただ、二人でやってきたことを、これからは全部一人でやる。
冷蔵庫を開けたとき、棚の隅にヨーグルトが一つ残っているのを見つけた。
夫が毎朝食べていたものだった。
買ったのは、事件の前日だった。
妻はしばらくそれを見ていた。
賞味期限は、とっくに過ぎている。
捨てなければならない。
そんなことは分かっている。
けれど、それを捨てれば、事件の前に二人で暮らしていた家から、また一つだけ夫のものが減る。歯ブラシもいつか捨てる。髭剃りも片づける。服も、靴も、使いかけの整髪料も、冷蔵庫に残った好物も、いつかは全部なくなっていく。
その「いつか」を、まだやるための勇気は無かった。
妻はヨーグルトへ伸ばしかけた手を引いた。
「……もうちょっとだけ」
自分でも、賞味期限のきれたヨーグルトに言ったのか、夫に言ったのか分からなかった。
冷蔵庫の扉を閉める。居間へ戻る途中、玄関を見る。
そこには、夫のいた名残がある。それは窓からの西日に照らされて、留め金がキラキラと光っていた。
断章9 斜めに置かれたブーツ 了
また賛否ありそうな話をかいてるよ