南へ進むという方針さえ決まってしまえば、その後の二日間は驚くほど順調だった。
福島での一件以来、男は人里との距離と、情報収集のバランスを意識していた。日中は山林や使われていない作業道を選び、人間の気配が濃くなれば無理に進まず、夕方から夜にかけて距離を稼ぐ。道中で看板であったり、できればテレビやラジオの音が聞こえれば、身を潜めてそれを聞く。
小さな同行者もすっかりその生活に慣れたらしく、男が止まれば周囲を嗅ぎ、進めば少し遅れてついてくる。以前のように、姿が見えなくなるたび振り返って確認する必要も減っていた。
問題があるとすれば、季節だった。南へ進んでいるはずなのに、山へ入れば寒さはむしろ増すことがある。朝方には落ち葉が湿り、場所によっては薄く霜が残っていた。四メートルを超えた男の身体は以前より寒さに強くなっていたが、小さいほうはそうでもないらしく、休むときには風を避けられる場所を選ぶようになっている。
それでも旅そのものは順調だった。そして三日目の朝、山を下りた先で道路を見つけた。
交通量は少ない。男は木々の間からしばらく様子を窺い、車が途切れたところで道路へ近づいた。小さな恐竜には少し離れたところで待たせ、自分だけが斜面の下まで出る。目的は道路そのものではなく、少し先に立っている青い標識だった。
文字を読むには距離がある。周囲の音を確認してからもう少しだけ近づき、目を凝らすと、並んだ地名の中に見覚えのある文字があった。
那須。
さらに進んだ先には、栃木県へ入ったことを示す表示もある。
(……栃木)
男はしばらくその文字を見た。
青森の山中で目を覚ましたときには、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。そこから地図を手に入れ、宮城を通り、山形へ回り、福島へ入った。真っ直ぐ南下したわけではない。避けた場所もあれば、怪我をして動けなかった時期もあり、温泉を見つけて三日も居座ったことまである。
それでも、ついに栃木まで来た。
(関東じゃん)
正確には栃木県も関東である。頭では知っているのに、道路標識でそれを確認すると、八王子までの距離が急に現実味を帯びた。
東京はまだ遠い。間には群馬や埼玉もある。
けれど、もう東北ではない。
(……帰ってきたな)
まだ八王子には着いていない。それどころか東京都内にすら入っていないのだから、帰ってきたという表現は少し早い。それでも、そう思った。
男は道路から離れ、待っていた小さな恐竜のところへ戻った。同行者は落ち葉の下を鼻先で探っていたらしく、こちらが戻ってきても大した反応を示さない。
(栃木だぞ。もう関東だぞ、なんとか雪が降る前に帰れそうだな)
当然、分からない。
小さな恐竜は落ち葉の下から何かの実を見つけると、それを満足そうに食べ始めた。
(……まあ、お前には関係ないか)
男はスポーツバッグから地図を取り出した。
現在地を大まかに確認する。ここから南へ抜けていけば、いずれ栃木県南部へ出る。その先は埼玉か群馬方面をどう通るか考える必要があるが、少なくとも八王子へ近づいていることだけは間違いない。
そこで、地図の上に別の地名を見つけた。
那須高原。
(……結構近いな)
八王子へ帰るという目的だけを考えるなら、わざわざ寄る必要はない。できるだけ人間の少ない場所を選び、南へ進み続けたほうがいい。
しかし、ここまで来て那須の近くを通る。
温泉を見つければ入った。猪苗代湖を見つければ泳いだ。それを考えれば、高原を眺めるくらいの寄り道を今さら気にする必要もない気がした。
(日々のサバイバル生活の渇きを癒すために、観光は必要。忌憚のない意見ってやつっすよ)
誰に言い訳するでもなく、男は地図を畳んだ。
その日の午後、二頭は予定していた進路を少しだけ西へずらした。
◇
那須高原まで来たところで、観光地らしい場所へ堂々と入れるわけではない。
男が選んだのは、人の集まる施設や主要道路から外れた場所だった。高原らしい開けた景色を見られて、なおかつ人間の生活圏からある程度距離を取れる場所を探し、山林の縁を移動する。
雲は少なく、遠くまでよく見えた。
冬を前にした高原は鮮やかな緑ではなかったが、それでも山の中ばかり歩いてきた目には十分に広い。木々の向こうへ土地が開け、さらにその先には山並みが続いている。冷たい風が草を揺らし、雲の影がゆっくりと地面を動いていた。
(あー、チルい)
観光地の中心へ行けなくても、景色は見られる。むしろ今の自分には、このくらい離れていたほうが都合がいい。
小さな恐竜は景色にはまったく興味がないらしい。草地へ出るなり鼻を地面へ近づけ、食べられるものを探し始めている。
(お前ももうちょっと堪能しろよ)
高原まで来たのだから少しくらい景色を楽しめばいいのに、本人にその気はない。もっとも、自分だって人間だったころ、旅行先で景色より飯を気にしていたことはある。そう考えれば似たようなものかもしれない。
しばらく景色を眺めたあと、男は山林沿いをさらに移動した。
そこで、予想していなかったものを見つけた。自動販売機だった。
少し離れた場所に、小さな駐車スペースと古い休憩所らしい建物がある。観光客向けというより、道路を使う人間が一時的に休むための場所なのだろう。時期のせいか、あるいは時間帯のせいか、今は車が一台も停まっていない。建物の脇には自販機が二台並んでいた。
男は木々の陰から、まず匂いを確認した。
近くに人間はいない。
次に耳を澄ませる。車の音は遠く、建物にも人の動く気配はなかった。それでもすぐには近づかず、十分ほど待ってみたが、駐車スペースへ入ってくる車はない。
(勝負は今! ここで決める!)
頭に浮かんだのは、数日前に荷物を整理したときのことだった。また飲みたいと思ったが、こんなに早く機会が来るとは思っていなかった。
男は小さな恐竜を木立の奥へ残し、スポーツバッグから硬貨の袋だけを取り出した。道路を確認してから自販機へ近づく。
四メートルを超える黒い肉食恐竜と、日本中どこにでもある飲料自販機。
自分でやっておいて、かなりおかしな光景だと思う。
だが、今さらである。
男は自販機の前で身体を低くし、商品を確認した。水やお茶、コーヒー、スポーツドリンクと並んだ列の中に、見覚えのある赤いラベルがある。
コーラである。ノンシュガーではない、純正のやつ。
前肢で硬貨を入れた袋を開く。道中で見つけた小銭をしこしことため込んでいた。コーラくらいなら買えるだろう。
旅を始めて間もないころなら、ここからが大仕事だった。硬貨を一枚拾うだけで弾き飛ばし、自販機の投入口へ入れようとして何度も落とした。
今は違う。旅の中で暇なときに練習していたのだ。
十円玉を指の間に挟んで持ち上げ、投入口へ入れる。金属が内部へ落ちる音を確認してから次の硬貨を拾い、同じ動作を繰り返す。時間こそ人間よりかかるものの、以前のように硬貨が地面を転がっていくことはなかった。
(身体はデカくなったけど、手先は結構器用になったな、俺)
四メートルを超える肉食恐竜が、自販機へ小銭を入れる技術の上達を喜んでいる。
他人には見せたくない。
必要な金額を入れ終えると、爪ではなく指の腹に近い部分を使い、コーラの下にあるボタンを慎重に押した。
ガコン、と音がした。
男の頭が反射的に下がった。
取り出し口に、一本のペットボトルが転がっている。
(……よし)
妙な達成感があった。
素早く取り出し、硬貨の袋と一緒にバッグへ入れる。長居はしない。誰かが来る前に木立へ戻り、小さな同行者と合流する。
男が立ち去ったあと、休憩所は再び静かになった。
自販機から少し離れた軒先には、小さな防犯カメラが取り付けられていた。
青森の親子救助、宮城県の大型肉食恐竜との戦い、山形の温泉、福島のハンターとの共闘、同じく福島の猪苗代湖の水泳、としばしば目撃されていた、温泉恐竜の栃木県での目撃はどうやらコーラを買っている瞬間になりそうだ。
◇
男は先ほど見つけておいた、高原を見渡せる場所まで戻った。
地面へ腰を落ち着けると、小さな恐竜も近くへ座った。買ったばかりのコーラを取り出し、前肢で固定して口先を使いながら慎重にキャップを回す。ペットボトルの扱いについては、もはや苦労することもない。
炭酸が抜ける小さな音がして、懐かしい匂いがした。
男は少しだけ口へ流し込んだ。
(……うまい)
それだけだった。
それだけで十分だった。
冷たい炭酸が口の中へ広がる。山の中で飲む水とはまったく違う。栄養があるわけでも、生きるために必要なものでもない。それでも飲みたかった。
もう一口飲む。
目の前には那須高原が広がっていた。
人間だったころなら車で来て、適当な店へ寄り、何か食べて帰ったのかもしれない。今は車にも乗れず、店にも入れず、自販機一本使うだけで周囲を十分以上警戒しなければならない。
それでも悪くなかった。
ここまで自分の足で来た。
そしてコーラも自分で買った。
(……こういう寄り道なら、まあいいか)
横から鼻先が伸びてきたので、男はペットボトルを引いた。
(駄目。これは駄目。お前に炭酸飲ませていいのか分からん)
糖分やカフェインがどう作用するのかも分からない。鳥の卵を食べることは分かったが、コーラまで飲ませて大丈夫だと判断できる材料はどこにもなかった。
小さな恐竜は諦めずに鼻を動かしている。
ちなみに男の体もカフェインなどの影響があるかなど、当然ながら不明だが、そこには気が付いていないようだ。
仕方なく男はスポーツバッグを開き、数日前の荷物整理で入れ直した木の実の包みを取り出した。一つ地面へ置くと、小さな恐竜の興味はあっさりそちらへ移った。
(お前、それでいいのか)
いいらしい。
男はコーラを飲み、小さな恐竜は木の実を食べる。
二頭の前には、晩秋の高原が広がっている。
期限のある旅ではなかった。しかし、だらだらして人間に捕捉されれば、肉食恐竜である以上は射殺される懸念もある。
もちろん家に帰るための旅でもある。
それでも、こうして少し寄り道をして、景色を見ながら好きなものを口にするくらいの時間はあってもいい。男は帰宅すれば否応なく人間社会との関係を決めざるを得ない、という事実について、意図的に目をそらしてもう一度コーラを飲んだ。
八王子は、数日前より少し近い。決断、あるいは人間社会からの判決を受ける日も見え始めていた。
◇
同じ日の夜。
長野県内の山中では、別の準備が進められていた。
照明に照らされた敷地の端へ、大型の輸送トラックが停められている。
正規の恐竜輸送業者が使う車両ではない。外から荷台の中を見られないよう覆いが追加され、車体に記された会社名も実態とは違う。荷台の内部には固定用の金具が増設されていたが、その施工は粗く、専門業者が大型動物を安全に運ぶために設計したものとは明らかに違っていた。
それでも、ここにいる人間たちにとって重要なのは、安全基準を満たしているかどうかではなかった。
「本当に五頭とも持っていくのか」
監視を担当していた若い監視員が尋ねた。
「ただでさえ納品をじらされてるんだ、経費も予定よりかかっている。あっちが五頭まとめて買うって言ってるなら、今さら減らせるか」
責任者は苛立った声で答えた。
施設の奥には、五頭の肉食恐竜がいる。
同じ種類で、ほぼ同じ年齢。同じ時期に施設へ入れられ、同じ環境で育てられた個体だった。
以前は扱いやすいとは言えないまでも、管理できない動物ではなかった。それが数週間ほど前から変わり始めた。柵の向こうに人間がいると長時間視線を外さず、追い払っても距離を取らない。刺激を避けるのではなく、むしろ近づこうとする。一頭が興奮すると、他の個体まで連動するように動き始める。
施設の人間たちも異常には気づいていた。だが、買い手が決まっている。
ここまで育てた五頭を処分すれば、大きな損失になる。獣医へ正式に相談することもできない。そもそも、この施設の存在そのものを知られては困る。だから売る。
それが責任者の出した結論だった。
「薬、追加したほうがよくないですか」
若い監視員が言った。
「これ以上入れて死んだらどうする」
「でも、途中で起きたら」
「量は計算してる。積んでしまえば着くまで持つ」
言い切った責任者自身、確信しているわけではなかった。
五頭にはすでに鎮静剤が投与されている。通常なら十分に動きを抑えられる量だった。ただし、商品として引き渡す以上、過剰投与はできない。呼吸抑制を起こして死ねば価値はゼロになり、体調を崩しただけでも買い手から値を下げられる。
安全と金額を天秤にかけた結果だった。
一頭目が運ばれる。脚には拘束具が付けられ、意識は落ちている。二頭目、三頭目、四頭目と荷台へ収め、順番に固定していった。
最後の一頭を移動させている途中で、若い監視員が足を止めた。
「……こいつ、動いてません?」
荷台の中で、最初に運び込まれた個体の後肢がわずかに動いていた。
反射かもしれない。
鎮静中の動物が完全に静止しているとは限らない。
責任者はそう判断した。
「反射だろ、いいから早く積め」
五頭目を荷台へ入れ、扉を閉める。金具を固定し、エンジンをかける。
「予定どおりだ。向こうには連絡してある」
責任者が助手席へ乗り込み、トラックは敷地を出た。監視員たちの乗った車が、その後ろに続く。
施設から延びる道はすぐに下りへ変わった。山腹を縫うように走る狭い道で、最初のカーブへ差しかかったところで、トラックの荷台から鈍い音がした。
一度。少し間を置いて、もう一度。
「なんだ?」
運転手がミラーを見る。
三度目は、車体そのものが揺れた。荷台の中で、一頭が身体を起こしていた。
意識は完全には戻っておらず、足元も定まっていない。それでも頭を上げ、固定具へ身体をぶつけている。その音に反応するように、別の一頭が動いた。
さらにもう一頭。
「止めろ!」
責任者が叫ぶ。
だが、トラックはすでに下りのカーブへ入っていた。
荷台の内部で激しい衝撃音が連続する。金属が軋み、固定具が引かれ、一頭が壁へ衝突した反動で別の個体の身体が押される。
五頭すべてが完全に覚醒したわけではない。
だからこそ、動きは不規則だった。立とうとする個体もいれば、倒れたまま暴れる個体もいる。拘束から逃れようと身体を捻り、数百キロ単位の重量が荷台の片側へ一気に偏った。
運転手がハンドルを戻そうとするが、間に合わなかった。
トラックが傾き、片側のタイヤが路面から浮いた。そのまま車体が横へ倒れ、轟音とともに道路脇へ滑っていく。
後続車が急停止した。
若い監視員が車から飛び出しかけたところで、別の監視員に腕を掴まれた。
「近づくな!」
横転したトラックから煙が上がっている。運転席は完全には潰れていないが、問題はそこではない。
荷台が歪んでいた。
増設した固定金具の一部が衝撃で外れ、内側から何かが壁へぶつかっている。繰り返される衝撃で継ぎ目が裂け、そこから灰褐色の鼻先が覗いた。
「嘘だろ……」
裂け目がさらに広がり、一頭が這い出してくる。
鎮静剤がまだ残っているのか、足取りは不安定だった。横転の際に身体を打ったらしく、脇腹から血も流れている。
それでも、人間を見た。
視線が止まる、若い監視員は動けなかった。
「走れ!」
その声で監視員たちが散った。
本来なら、それで距離が開くはずだった。
大型動物が混乱して逃げるなら、人間を追う必要はない。負傷しているなら、なおさら自分が安全な場所へ離れようとする。
最初の一頭は、逃げずに走り出した監視員を追った。
「なんでだよ!」
若い監視員が叫ぶ。背後で別の音がした。二頭目が荷台から出る。三頭目も続く。
横転で壊れた拘束具を引きずりながら四頭目が身体を外へ押し出し、最後の一頭が出たころには、道路の上に悲鳴が響いていた。
責任者は助手席側から這い出し、道路脇の斜面へ逃げようとした。
背後を見ると一頭が間近に来ている。走り方はまだ不安定だったが、それでも止まらない。
「来るな!」
意味のない言葉だった。責任者は斜面で足を滑らせた。立ち上がろうとするが、殺意はすでに首元に迫っていた。
◇
夜が深くなるころ、道路は静かになった。
横転したトラックと、開いたままの後続車。散乱した器具に、割れた薬剤の容器。道路脇には動かなくなった人間がいる。
生きて警察へ連絡できる者はいなかった。
そして、この輸送を待っている側も、すぐには警察へ通報しなかった。
約束の時刻を過ぎてもトラックが来ない。電話もつながらない。買い手側が最初に疑ったのは事故ではなく、取引相手が商品を別の客へ流した可能性だった。
違法に売買される肉食恐竜である。
警察へ「購入予定の恐竜が届かない」と相談できるはずもない。
まず仲介役へ連絡が入り、仲介役は売り手側へ電話する。応答がなければ別の番号へかける。それでも出ない。
その間にも時間だけが過ぎていった。横転現場から、五頭の肉食恐竜はすでに姿を消していた。
血の跡は残っている。足跡もある。
だが、それを追う人間はいない。長野県の山中の暗がりへ入った五頭が、その後どちらへ向かったのかを知る者もいなかった。
この時点では、警察も自治体も、恐竜対策を担当する行政機関も知らない。
同じ年代の肉食恐竜が五頭。人間が逃げても追跡をやめず、威嚇されても距離を取らなくなった個体たちが、管理施設の外へ出たことを。
ブローカーたちの死体に見つめられながら、五頭は長野の夜へ消えていた。
第23章 2本目のコーラ 了
いつか爆発させないといけない爆弾を抱えつつ、その爆発時期は自分で決められるなら、即決出来る人は少ないと思う。
断章の扱いに関するアンケート継続しています(26/10/13時点)
本編を進めてくれという意見も、それはそれで本編を楽しみにしてくれていると前向きにとらえています。
感想が荒れる前に断章の扱いは決めておきます
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情報不足は許容するので本編だけにして
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重要情報だけ断章にして他視点は不要
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いいから持ってる断章全部出すんだよ
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お前の始めた物語だろ