全部わかるかな?
断章7 人生最後?の温泉よりも前の話
栃木へ入ってから、旅はずいぶん穏やかになった。
もちろん、人間の目を避けなければならないことに変わりはない。四メートルを超える黒い肉食恐竜が、大きなスポーツバッグを提げ、小型恐竜を一頭連れて歩いているのだから、見つかれば騒ぎになるのは分かりきっている。それでも福島での出来事や、冬の気配が濃くなり始めた猪苗代湖を思えば、栃木の山あいを南へ進む時間は拍子抜けするほど静かだった。
男は人家の多い場所を避け、地図と周囲の地形を見比べながら南へ進んでいた。道路をそのまま歩くわけにはいかないため、林道や送電線沿いの斜面、ときには畑の裏手に続く雑木林を使う。小さな同行者もすっかりこの移動に慣れたらしく、少し遅れれば小走りで追いつき、男が止まれば勝手に周囲の草や木の実を探していた。
もっとも、いつまでも「小さいの」と呼ぶのも不便だった。名前を付けようとして、自分自身の名前すら思い出せないことに気づいたのが数日前である。それ以来、正式な名前を考えるのは何となく後回しにしていたが、呼び分けるための記号くらいはあってもいい。
(とりあえず二号でいいか)
一号が誰なのかと問われれば、おそらく自分である。名前ではない。ただの番号だ。それなら、自分の名前を差し置いて先に名付けたことにもならないだろう。
男が勝手にそう決めたことなど知るはずもなく、小さな同行者は少し先で木の根元を嗅いでいた。
(よし。今日からお前、二号な)
二号は顔すら上げなかった。その反応は予想の範囲内だったので、男も特に気にせず歩き出した。命名というにはあまりに雑だったが、それで困る者もいない。
その日の午前中も、特に変わったことはなかった。だからこそ、山の斜面を横切っている途中で身体の奥に覚えた違和感も、最初は気のせいだと思った。
男は足を止めて首を上げた。風は弱く、近くを流れる沢の音と、遠くを走る車の音が聞こえる。鼻先を上げても危険な肉食恐竜の匂いはなく、それなのに身体のどこかが、ここに長くいたくないと訴えていた。
(この感覚は……)
痛みではない。頭が重いわけでも、平衡感覚がおかしいわけでもなかった。もっと曖昧で、どこがそう感じているのか自分でも説明できない種類の不快感だった。
以前にも似た感覚を覚えたことがある。ずっと北、まだ旅を始めてそれほど経っていなかった頃で、あのときも匂いや音では説明できず、結局、何だったのか分からないままその場を離れた。最近はほとんど感じていなかったため、男自身もその存在を忘れかけていた。
(なんか久しぶりだな、これ。北の方だけかと思ったけど、そうでもないのか)
だからといって、正体が分かるわけではない。人間だった頃なら体調不良か気圧のせいだとでも考えただろうが、今の身体には人間にはなかった感覚がいくつもある。遠くの匂いを拾い、暗闇でもよく見え、方角についても大雑把ながら身体の感覚で分かる。これもその一種なのかもしれなかった。
分からないものを無理に調べる必要もない。
(気持ち悪いし離れるか、パワースポットの逆みたいなもんかな)
今の男にとって、それで十分な理由だった。
二号へ向き直ると、小さな同行者は少し離れた茂みの前で地面を嗅いでいた。呼ぶ代わりに尾の先で近くの落ち葉を払ってみたものの、顔を上げるだけでこちらへ来ない。仕方なく近づいてみると、二号の前に浅い窪みがあり、周囲だけ妙に落ち葉が少なかった。
湿った土の間から、白い湯気のようなものが細く立ち上っている。男が鼻先を近づけると、地面そのものが周囲よりわずかに温かく、その中央には灰白色の卵が一つ収まっていた。
(でかいな、もしかして恐竜の卵かも)
十一月も終わりに近いというのに卵がある理由は、この温かい地面なのかもしれない。近くには成体らしい匂いも残っている。男の身体と比べれば小さいが、鶏卵とは比較にならない大きさだった。
二号が鼻先を寄せたので、男はすぐに前肢を伸ばして身体を横へ押した。
(今朝はしっかり食べただろ、これは食うなよ。俺も食わないからさ)
少し前なら貴重な食料として真剣に悩んだかもしれない。しかし今朝は十分に食べている。わざわざ親の留守中に卵を盗む理由もなかった。
そのまま立ち去ろうとして、男は数歩進んだところで止まった。まだ身体の奥に、先ほどからの気持ち悪さが残っている。振り返れば、温かな窪みに卵が一つ置かれていた。
もう一度歩き出そうとして、やはり止まる。
(なんか気になるんだよな、あの卵)
自分でも、何が気になるのかよく分からなかった。この妙な感覚が身体にとって不快なものなら、ここに置かれている卵にも何か良くないのではないか。もちろん根拠などなく、そもそも自分が感じているものの正体さえ分かっていない。
それでも男は卵のところまで戻った。
(この不快感は胎教に悪そうだな)
そこまで考えてから、自分の発想に少し首を傾げる。
(卵だけど、この場合卵教なのかな。ニワトリにクラシック聞かせるとかあったっけ?)
自分でも何を言っているのか分からなかった。
男は卵を傷つけないよう、前肢の指で慎重に挟んだ。力加減にはかなり慣れたとはいえ、今の身体で卵を扱うのは怖い。二号が興味津々でついてくるので、ときどき尾で進路を塞ぎながら斜面を移動した。
十数メートルほど離れると、身体にまとわりついていた不快感が少し薄れた。さらに歩けば、やがてほとんど気にならなくなる。そこでようやく足を止めたものの、元の巣が温かい地面に作られていた以上、普通の冷たい土の上へ卵を置いていいとも思えなかった。
しばらく周囲を探していると、沢沿いの岩場にわずかな湯気が立っている場所を見つけた。地面へ前肢を触れてみれば、元の場所ほどではないものの、土には確かな温かさが残っている。
(ここならいいか、においもたどれる距離だし、目線が通るから親からも見つけやすいだろう)
岩の根元に雨水の流れ込みにくそうな窪みを見つけ、枯れ草を寄せてから卵を置く。転がらないことまで確かめたところで、二号がまた鼻先を近づけたため、男はその額を前肢で押し戻した。
(だから食うなって、せっかく救助したのに)
二号は不満そうに一歩下がった。
男は卵を一度だけ見てから背を向けた。二号も少し名残惜しそうに振り返ったものの、結局はついてくる。それで、この件について考えるのをやめた。
◇
山地を抜けるにつれて、景色の中に人間の生活が増えていった。遠くに住宅地が見えることも多くなり、道路を走る車の数も明らかに増えている。地図を確認すれば宇都宮の市街地も遠くないが、四メートルを超える肉食恐竜が駅前を堂々と通過するわけにもいかないので、男はかなり外側を迂回していた。
それでも人間の生活圏へ近づけば、山の中では拾わなかった匂いが流れてくる。排気ガス、洗剤、灯油、乾いた洗濯物。どこかの家で魚を焼いている匂いがしたかと思えば、別の方向から味噌汁らしい香りまで混じっていた。
(……出汁と味噌の香りは劇物だな、野生の身には応えるぜ)
実際には、それほど空腹ではない。それでも人間の食事の匂いは別だった。数か月も生肉や木の実を中心に食べていれば、焼いた肉や温かい汁物の香りだけで、以前の食卓を思い出してしまう。
そして夕方近く、雑木林の向こうから流れてきた匂いに、男はぴたりと止まった。
肉と油、それにニラとニンニク。焼けた小麦の香ばしさまで、今の鼻ならはっきり拾える。男はしばらく動かずに鼻を鳴らし、確信すると、わずかに首を上げた。
(……餃子だ、我が家は白菜派だったな)
林の向こうには何軒かの民家があり、そのうちの一軒から漂ってきているらしい。換気扇から吐き出された夕食の香りが風に乗り、木々の間を抜けている。
男はしばらくその場に留まったあと、匂いのする方向へ一歩だけ進んだ。
(いや、駄目だろ。ダクト飯はあの芸人の専売特許だし、人に見つかったら何されるかわからん)
自分で止めておきながら、もう一度嗅ぐ。
(クククク……餃子はビタミン ミネラル タンパク質 そして塩分が含まれている完全食だァ)
タフ・語録を使いこなしながらさらに一歩進んだ。
栃木県まで来たからといって、すべての家庭が毎晩餃子を食べているわけではないだろう。それくらいは分かっている。それでも、よりによって今この瞬間、近くの家で焼いている。皮の焼ける香ばしい匂いまで分かるせいで、余計な想像まで浮かんできた。
(この家の流儀は酢醤油かな? 俺は酢にコショウ入れる、孤独飯流なんだ)
そんなことまで考えながら、男はいつの間にか林の縁まで来ていた。民家の屋根が見えるほど近く、さすがにこれ以上はまずいと分かっているのに、身体はもう少しだけ前へ行きたがった。
そのとき、後肢に小さな感触が二度続いた。
振り返ると、二号が鼻先で後肢を押している。何を訴えているのかは分からないが、その顔を見たところで、男はようやく自分が何をしていたのか客観的に理解した。
人間の家から漂ってくる餃子の匂いを嗅ぐために、四メートルを超える黒い肉食恐竜が、夕暮れの住宅地へじわじわ接近していたのである。
民家を見て、二号を見て、もう一度民家を見る。
(お前に注意されるとは思わなかった)
さすがにまずい。
福島であれだけ騒ぎになったばかりである。ここで「栃木県の住宅地に温泉恐竜出現」などというニュースまで増やしたくない。それも餃子の匂いにつられて、では格好がつかなかった。
それに恐竜の密売ブローカーの話もよくニュースで見る。自分が人に追い回されたあげく、ブローカーに捕まったらどうなるかなんて考えたくもなかった。
(家に帰ったら食おう)
そう考えてから、男は少しだけ動きを止めた。
帰ったら。
以前なら、そんな言葉を頭の中で使っても、どこか遠い話だった。八王子がどれほど離れているのかも分からず、地図を手に入れるだけで苦労していた。
今は違う。栃木まで来た。このまま南へ行けば埼玉があり、その先には東京がある。
(餃子くらい、そのうち食えるだろ。小麦と肉と野菜だし)
人間の身体に戻れるわけではないし、店へ入って注文できるとも思えない。それでも以前よりは、ずっと現実味のある想像だった。
男は餃子の香りに背を向けた。二号が先に歩き出したので、その後を追いながら、もう一度だけ鼻を動かす。
(……いい匂いだったな)
少し未練は残ったが、今度こそ民家から離れた。
◇
平和な日が続くと、どうしても気が緩む。
男がそれを思い知ったのは、翌日の午後だった。宇都宮の市街地を大きく避けて南下し、畑と雑木林が入り交じる地域まで来ていた。人間の姿はほとんどなく、時折遠くから農業機械の音が聞こえる程度で、二号は男の少し前を歩きながら、地面に落ちている木の実を見つけては寄り道していた。
男も急いでいなかった。八王子へ近づいていると実感できるようになったことで、以前ほど一日ごとの移動距離を気にしなくなっている。だから、自然の中ではあまり聞かない小さな金属音が耳に届くまで、人間が近くにいることに気づかなかった。
顔を上げて風向きを確かめると、かなり近くから人間の匂いがする。
(まずい、ぼーっとしてた)
二号へ尾を伸ばして自分の後ろへ押し、身体を低くしながら木々の間を探る。迷彩柄の上着と背負った装備が見え、その人物が手にしているものを認識した瞬間、男の身体に緊張が走った。
(冗談きついぜ、よりにもよってハンターかよ)
相手も、ほぼ同時にこちらへ気づいた。
◇
地元で活動している恐竜ハンターにとって、その日は特別な仕事になる予定ではなかった。
農地近くへ出るようになった小型の草食恐竜を追っていただけだった。家畜や資材への被害が出る前に山側へ追い返し、難しければ捕獲する。そのために獣道を確認し、通りそうな場所には捕獲用の罠も仕掛けてある。危険はあるが、普段から扱っている範囲の仕事だった。
だから木々の向こうに黒い巨体を見つけた瞬間、最初は追っていた個体だと思った。
だが、すぐに違うと分かった。大きさも体色も違ううえ、肩から大きなバッグを提げ、その横には小型恐竜までいる。
「冗談きついぜ、よりにもよって温泉恐竜かよ」
写真や映像なら何度も見た。青森で親子の前へ割って入り、宮城では大型肉食恐竜と戦い、山形では温泉に入り、福島では市街地で六メートルを超える肉食恐竜と戦った個体――温泉恐竜が、二十メートルほど先に立っていた。
映像で見るのと、実物を見るのとではまるで違う。四メートルを超える肉食恐竜は、ただ立っているだけでも大きく、福島で負った傷らしい痕も残っている。何より、あの身体で自分より大きな肉食恐竜へ突っ込んでいく映像を、ハンター自身が何度も見ていた。
反射的に銃を構えた。
すぐに撃つつもりだったわけではない。だが、この距離で大型に届かんという肉食恐竜と向かい合いながら、構えずにいられるほど楽観もできなかった。
◇
男は自分へ向けられた銃口を見て、どうしたものかと考えた。
(結構人助けとかしたつもりだけど、肉食恐竜だもんな。そうそう仲良しとはいかないか)
人間、それも銃を持った人間との遭遇は、今でも最優先で避けたいものの一つである。福島で警察官から敬礼されたからといって、全国のハンターが自分を安全な動物として扱ってくれる保証などないし、そもそも自分が危険な大型肉食恐竜であること自体は事実だった。
男は二号を尾でさらに後ろへ下げた。その動きに合わせてハンターの銃口がわずかに動いたが、撃ってくる気配はない。こちらを追っているわけではないものの、警戒を解いてもくれないらしい。
(落ち着け。俺は何もしない、この先に行きたいだけだ)
言葉が通じれば簡単なのだが、口から出せるのは人間の言葉ではない。仕方なく男はゆっくり一歩下がり、相手の反応を確認してからもう一歩距離を取った。
ハンターは動かなかった。
(よし。よし、このままゆっくりと何事もなく離れればいい)
互いに何もしない。それが一番平和だった。
(そうだ、この人に文字でコミュニケーション取れないかな)
そう考えて足元を見る。そこは落ち葉と腐葉土でおおわれており、爪で文字をかけそうな状態ではなかった。しかし少し前にちょうど乾いた土がのぞいている。
男はそこに向けて前進し、爪で文字を書くべく前傾姿勢となる。
チリと、首筋に嫌な予感が走り、前を見ると銃口がこちらの心臓に狙いを定めていた。
ハンターの額には汗が浮いており今にもトリガーがひかれそうである。
(――っ!!)
即座に飛びのく。お互いの距離が離れて様子をうかがう状態に戻った。銃口はまだ下がっていない。
(いきなりどうして!? 俺は文字を書こうとしただけ……!)
男は文字を書くことに気を取られ、自分が中型でも大柄な部類の肉食恐竜だということを一瞬失念していた。ハンターとしては当然だ、目の前で前傾姿勢になり前肢の爪をとがらせた肉食恐竜なんて、攻撃態勢以外の何物でもない。
(まずい、このままだと、誤解で撃たれてここで死ぬ!)
そう判断してさらに後肢を下げたところで、足の裏に積もっていた乾いた落ち葉がまとめて滑った。体重を支えていた後肢が横へ流れ、立て直そうと前肢を出したものの、その先にも落ち葉が積もっている。四メートルを超える巨体はそのまま大きく傾き、枝と枯れ葉を巻き込みながら斜面を数メートル滑り落ちた。
ようやく止まったとき、男は半ば横倒しになっていた。幸いどこも痛くはないが、状況としては非常に格好が悪い。
(……距離を取るための緊急避難だし)
何事もなかったことにしたい。
そんな期待を込めながら顔を上げると、斜面の上にいるハンターと目が合った。相手もどう反応すればいいのか分からないらしく、銃を構えたまま固まっている。
男はできるだけ平然と身体を起こそうとした。
その動きに反応してハンターが一歩下がった瞬間、今度は人間の踵が木の根に引っかかった。
「うおっ」
銃だけは手放さなかったものの、今度はハンターが尻から地面へ落ちた。
男は斜面の下から相手を見上げ、ハンターは尻餅をついたままこちらを見る。ほんの数秒前まで肉食恐竜と武装した人間として緊張したにらみ合いをしていたはずなのに、今は双方とも先ほどの失敗をどう扱えばいいのか分からない。
二号だけが、少し離れた場所から両者を交互に眺めていた。
(……今のは、お互い見なかったことにしよう)
通じるはずもないが、男にはハンターも同じことを考えているように見えた。
先に立ち上がったハンターは咳払いを一つして服についた土を払い、何もなかったような顔で銃を持ち直した。男もゆっくり身体を起こし、斜面を登り直すのではなく、少し横へ回ってその場から離れることにする。
ところが、距離を取ろうとしたハンターも同じ方向へ動いた。
男が止まると、向こうも止まる。
(そっち行くのか?)
ならばと反対側へ向きを変えたところ、今度もほぼ同時にハンターが同じ方向へ動いた。再び双方の動きが止まり、先ほどとは別の意味で気まずい視線が交わされる。
(道ですれ違う時起きるやつ)
しばらくして、ハンターが小さく手を上げた。自分は左へ行くというように一方を指し、それから男に反対側を示す。
(ああ。じゃあ俺がそっちな)
今度こそ互いに別方向へ動けた。それだけのことなのに、妙な達成感がある。
男は二号がついてきていることを確認し、畑の縁に沿って歩き始めた。視界の端ではハンターもこちらを警戒しながら距離を取っているものの、銃口は先ほどより明らかに下がっている。このまま何事もなく別れられそうだと思い、男もようやく肩の力を抜きかけた。
その直後、前肢が草の間を踏み抜いた。
(何だよぉおもおおお!またかよぉおぉぉおおおお)
畑と雑木林の境には、伸びた草に覆われた農業用の水路が走っていた。幅そのものは大したことがないが、四足で歩いている最中に前肢を落とせば、今の巨体でも姿勢は崩れる。慌てて反対側の前肢を出したところ、そちらも水路の縁で滑り、結局、上半身ごと低い溝へ突っ込むことになった。
幸い、水はほとんど流れていなかった。怪我もなく、バッグにも問題はない。今日二度目の醜態を、よりによって同じ相手に見られたことを除けば。
「……大丈夫か?」
思わず、といった調子でハンターが声をかけてきた。水路に頭を突っ込んで尻だけ天高く突き出している肉食恐竜は、熟練のハンターであってもどう扱うべきか悩むところだろう。
男が水路から頭を上げると、相手の口元がわずかに動いた。
(……笑っただろ)
「笑ってない」
こちらの表情から何か伝わったらしい。
(絶対笑っただろ)
言葉にできないのが腹立たしい。しかも二号まで水路の縁からこちらを覗き込んでいる。
男は前肢をかけて身体を引き上げた。
水路から出たところでハンターを見ると、もう銃を構えてはいなかった。もちろん警戒そのものが消えたわけではないだろうが、福島の映像から感じていた緊張のいくらかは、目の前の黒い恐竜が落ち葉で滑り、水路へ突っ込んだことで薄れたらしい。
「……俺は別のやつを追ってるんだ。お前に用はない」
男は軽く頭を下げた。
その瞬間、ハンターの表情が止まった。
「本当にやるんだな、そのお辞儀」
男は顔を上げ、福島で警察官たちに敬礼された光景を思い出した。自分ではただ頭を下げただけなのに、あの場面はテレビでも繰り返し流されているらしい。
(民家のテレビ盗み見するとたまにやってたけど……)
妙な気恥ずかしさを覚え、男は今度こそ立ち去ることにした。二号を連れてハンターから距離を取り、さすがに今度は足元をよく確認しながら進んでいく。
しばらくして一度だけ振り返ったときには、ハンターはすでに別の恐竜を追って雑木林の奥へ消えていた。
◇
日が傾く頃には、男はかなり南へ進んでいた。
途中で一度だけ地図を広げ、現在地のおおよその見当をつける。宇都宮の文字は少しずつ北へ移り、その下にはさらに多くの町と道路が続いている。東京はもう、地図の端にある遠い目的地ではなかった。
二号が地図の横で木の実を齧っている。
男はスポーツバッグへ地図を戻しながら、この二日のことを思い返した。妙な感覚のする場所で卵を見つけ、何となく別の温かい場所へ移した。餃子の匂いにつられて民家へ近づきかけ、二号に止められた。その翌日には地元のハンターと出くわし、互いに落ち葉で転び、自分だけは水路にまで落ちた。
(……心はハートで、ガラスはガラス、羞恥心でメンタルはボロボロだが、まあ概ね平和か)
基準がおかしくなっている気もする。
それでも、この数日で誰も死んでいない。銃を持った人間と遭遇しても撃たれず、自分も誰かを傷つけなかった。二号も無事で、バッグも地図も残っているのだから、今の男にとっては十分に良い旅だった。
地図をしまって立ち上がると、二号も残っていた木の実を食べ終え、当たり前のようについてくる。男は南へ身体を向け、その先にある八王子を思い浮かべながら歩き始めた。
しばらくすると風向きが変わり、遠くの住宅地から何かを焼く匂いがかすかに届いた。男は反射的に鼻先を上げて確かめたものの、昨日嗅いだものとは違う。
(……餃子ではないな、生姜焼きかな)
二号が後肢の近くまで寄ってきた。
(分かってるよ。行かないって)
昨日の一件以来、どうにも監視されているような気がする。
男はもう一度だけ遠くの住宅地を見たあと、進路を変えずに歩き続けた。二号もその横をついてくる。
今度は、強靭な意思で民家のほうへ曲がらなかった。
栃木県も後少し。この後、深夜の温泉で酔っ払いを助けることになるとは、つゆとも思っていない、温泉恐竜であった。
第24章 餃子は家に帰ってから 了
この後あたりに
断章7 人生最後?の温泉
が来てます。
のんびりしていた栃木県編はこれで終わり。
感想が荒れる前に断章の扱いは決めておきます
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情報不足は許容するので本編だけにして
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重要情報だけ断章にして他視点は不要
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いいから持ってる断章全部出すんだよ
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お前の始めた物語だろ