本編は18時投稿予定
晩秋の山道を登っていた矢代は、斜面の脇に白い小さな花が二輪咲いていることに気づいた。周囲の草はすでに色を失い、木々も葉を落とし始めているというのに、そこだけがまだ白かった。
矢代は一度だけ視線を向け、そのまま花をまたいだ。綺麗だとも、珍しいとも思わない。そんなものを見に来たのではなかった。
視線はすぐ、その先の湿った土へ戻った。
足跡がある。
中型肉食恐竜のものだった。左の後肢をわずかに引きずり、歩幅は一メートル少々。三日前に沢沿いで見つけたものより、また少し狭くなっている。右へ身体を寄せる癖があり、爪の形にも見覚えがあった。昨日の雨より新しく、その足跡は斜面を下り、岩壁のある谷側へ続いている。
矢代はしゃがみ込み、指先で足跡の縁をなぞった。
「……お前だな」
口元が緩んだ。
「やっと近づいた」
立ち上がったときには、二輪の花のことなど忘れていた。
◇
その肉食恐竜を、人間たちは「片目」と呼んでいた。
正式な個体識別名ではない。右目を失った老練な中型肉食恐竜がいると、山を使うハンターたちの間でいつからかそう呼ばれるようになっただけだ。体格そのものは飛び抜けて大きいわけではなく、真正面からならもっと危険な種類はいくらでもいる。それでも片目を知るハンターの中には、若い大型種を相手にするほうがまだ楽だと言う者さえいた。
片目は人間が銃を持っていることを知っていた。銃口の向いている先へ不用意に身体を晒さず、車の音と人間の足音を聞き分け、追われれば藪や斜面を使って射線を切る。自分より強い相手には無理に挑まず、反対に子供や小型動物、負傷した恐竜、群れから離れた個体のような弱い相手を選ぶ。勇猛だから生き残ったのではなく、勝てるときにしか戦わなかったからこそ、片目は老いるまで山で生き延びていた。
矢代は、その右目を潰した人間だった。
そして片目は、矢代の左目を潰した恐竜だった。
◇
家族を失う前の矢代は、恐竜を憎んでいなかった。
好きだったわけでもない。ニュースで事故を見れば怖いと思い、山へ出かける前には出没情報を調べる程度には警戒していたが、それ以上でも以下でもなかった。妻と一人息子の三人で暮らし、仕事が終わればできるだけ夕食までには帰る。休日になると息子がどこかへ連れていけとうるさいので、妻と相談して行き先を決める。そんな、どこにでもいる父親だった。
息子が生まれてからは、写真を撮ることが増えた。最初は妻から「あなたも撮ってよ」とスマートフォンを渡されていただけなのに、いつの間にか矢代のほうが熱心になり、動物園へ行けば動物より息子の写真のほうが多くなった。運動会では場所取りのために早起きし、息子が転べば本人より悔しがったくせに、戻ってきた本人には「最後まで走ったならいいだろ」と格好をつけた。
「さっき私より落ち込んでたくせに」
「言うなよ。あいつが気にするだろ」
「聞こえてないって」
「そういう問題じゃないんだよ」
「はいはい。いいパパですね」
「そういう言い方されると腹立つな」
妻は笑い、矢代も笑った。
特別に立派な父親だったとは思っていない。仕事で帰りが遅くなることもあったし、疲れて息子との約束を翌週へ延ばしたこともある。妻と喧嘩もした。それでも、家族を愛しているかと訊かれれば、そんなことは考える必要さえなかった。
家族とは、守るべきものなどという大げさな言葉で考える対象ではなかった。ただそこにいるものだった。次の週末にも、その次の月にも、来年にもいる。息子は大きくなり、妻と二人でそれを見て、自分たちは少しずつ歳を取っていく。
それを疑ったことがなかった。
片目と出会ったのは、そんな休日の一つだった。
「パパ、あれ何?」
息子が木々の向こうを指さした。
家族で出かけた山間の自然公園だった。恐竜が出る可能性のある地域だとは知っていたが、遊歩道から大きく外れたわけでも、立入禁止区域へ入ったわけでもない。
事故というものは、あとから理由を並べればいくらでも回避できたように見える。あの道ではなくこちらを通ればよかった。昼食を食べたあと、もう少し早く帰ればよかった。息子が疲れたと言ったとき、そのまま引き返していればよかった。
矢代は、その全部を何百回も考えた。
けれど、その日の夕方に戻ることだけはできなかった。
「ねえ、戻ろう。ゆっくり」
妻の声が変わっていた。
矢代が視線を向けた先で、一頭の肉食恐竜が木々の間からこちらを見ていた。まだ両目が健在だったころの片目だった。
後になって専門家から聞いた話では、その個体は人間を専門に狙っていたわけではなかったらしい。ただ、弱い獲物を選ぶ傾向が強かった。三人の人間を見つけ、その中から最も小さな一人を選んだ。それだけのことだったのだと説明された。
矢代には、そんな理屈は関係なかった。
片目が動いた瞬間、妻は息子を抱き寄せ、矢代も二人の前へ出ようとした。そこから先の記憶は、長い年月を経ても妙なところだけが鮮明だった。妻の靴が土を滑ったこと。息子の帽子が落ちたこと。自分が咄嗟に拾った枝が、あまりにも頼りなく見えたこと。そして肉食恐竜の口が開いたとき、その奥が思っていたより白かったこと。
矢代は家族を守れなかった。
騒ぎを聞いて駆けつけた管理員も片目に襲われ、持っていた銃を弾き飛ばされた。矢代は地面を転がったそれへ飛びつき、使い方もろくに分からないまま銃口を向けた。片目がこちらへ顔を向けた瞬間、ほとんど反射だけで引き金を引き、弾丸は頭蓋を外れながらも右目を破壊した。
直後に飛びかかられ、矢代も顔の左側を深く裂かれた。
意識を取り戻したのは病院だった。左目は戻らず、妻と息子も戻らなかった。
片目だけが、山へ消えていた。
◇
退院して家へ戻った日、矢代は玄関で一時間近く座っていた。
息子の靴が残っていた。妻の靴もあった。洗面所には三本の歯ブラシがあり、息子の部屋には途中まで組み立てた模型が置かれている。居間には家族で撮った写真が何枚も飾られていた。矢代自身が撮ったものが多いから、三人で写っている写真は意外なほど少なかった。
何をどこへ動かせば「片づけた」ことになるのか分からなかった。
何週間か経ったころ、片目が生きているという情報を聞いた。
その夜、矢代は久しぶりによく眠れた。
(俺が殺す)
最初は、それだけだった。
(あいつを見つける。俺が見つけて、俺が殺す。それが終わったら――)
その先には何も浮かばなかった。
だから考えるのをやめた。
退院してから一年も経たないうちに、矢代は登録ハンターになった。
資格を取り、訓練を受け、班に入り、危険個体の追跡や住民の避難、農地へ入り込んだ恐竜の追い払いを覚えた。左目を失っているからこそ死角の扱いには人一倍敏感で、射撃では身体の向きを徹底的に矯正した。最初に討伐したのは人を襲った肉食恐竜で、引き金を引くことに迷いはなかった。
それ以上に上達したのは、追跡だった。
足跡の深さから体重を推測し、歩幅から速度を読み、折れた枝の高さや糞の乾き方から通過した時刻を絞る。沢を使う個体、尾根を選ぶ個体、人間の道路を避ける個体。それらは本来、仕事のために覚えた知識だった。
矢代は、覚えたことをすべて片目へ使った。
自宅の一室から、家族の写真が少しずつ減っていった。捨てたわけではない。別の部屋へ移しただけだった。
空いた壁には地形図が貼られた。
目撃地点には印を付け、日付、時刻、天候、気温、目撃方向を書き込んだ。家畜被害が出れば傷口の高さを確認し、足跡の写真が出れば過去の記録と比較する。片目ではない可能性が高い情報も捨てず、確度ごとに分類した。
かつて息子の成長を撮った写真を日付順に整理していた棚には、右目のない恐竜の写真が年代順に並ぶようになった。
ある夜、班の仲間が地図を見ながら言った。
「お前、ちょっとおかしくなってるぞ」
「知ってる」
矢代は写真から目を離さなかった。
「知ってるなら休め。片目だけ追うの、もう何年目だ」
「俺が間に合わなかったらどうするんだよ」
相手が黙った。
「あいつはお前を待ってるわけじゃないぞ」
「分かってるよ」
即答した。
それが一番腹立たしかった。
片目は矢代を待っていない。妻と息子を殺したことに罪悪感などなく、矢代の左目を奪ったことも、自分の右目を奪われたことも、人間のような意味では考えていないのだろう。
山で食い、眠り、獲物を探して生きている。
自分だけが、あの日から動けずにいる。
「だから俺が行くんだよ」
「……片目を殺したあと、お前どうするんだ」
矢代は答えなかった。
◇
片目は、簡単には見つからなかった。
あるときは数百メートル先で姿を捉えた。スコープの中に古傷で潰れた右目が映り、矢代が引き金へ指をかけた瞬間、片目は木々の向こうへ消えた。
「待て!」
矢代は立ち上がり、そのまま追った。
「おい、待て! ふざけんな!」
枝が顔へ当たり、何度も足を滑らせた。それでも、わずかな物音を拾うたびに方向を変えた。
「俺はここにいるぞ!」
片目には理解できない。
「こっちはずっとお前を探してんだぞ!」
分かっている。
「お前が殺したんだろ! だったら逃げんなよ!」
その夜、矢代は山を下りなかった。
翌日も探し、三日目には捜索範囲を広げた。五日目の出動を断り、七日目には班長が別のハンターを連れて迎えに来た。
その捜索のあと、矢代はしばらく単独行動を禁じられた。
それでも追跡はやめなかった。
片目の情報が入れば、出動予定を入れ替えてでも現地へ向かった。許可が下りなければ休日に行き、現場へ出られない日は過去の記録を洗い直した。片目が使った可能性のある沢筋を季節ごとに比較し、餌になる動物の分布まで調べた。
やがて、恐竜を見る目そのものも変わっていった。
「撃つなよ、そいつもう逃げるぞ」
ある日の山中で、同行していたハンターが言った。
若い肉食恐竜だった。家畜を狙って集落近くまで下りてきたため追い払いの依頼が出ていたが、威嚇射撃で十分に山側へ向きを変えている。
「また下りてくる」
「そのときはそのときだ。今日は追い払いだぞ、人の被害も出ていないし、異常行動個体でもない」
その恐竜は片目ではない。両目もあり、種類すら違う。
しかし、矢代は足元の石を蹴った。
逃げていく恐竜の腹部へ当たる。驚いた個体が振り返ったところへ、さらに地面へ一発撃ち込んだ。
「おい、何してる!」
恐竜が威嚇し、こちらへ数歩踏み出した。そこで矢代は銃口を上げた。
「接近してきた」
「お前がさせたんだろ!」
「人が死んでからじゃ遅いんだよ」
発砲した。
恐竜は数歩走り、倒れた。その件で矢代は出動停止になった。
反省文を書き、事情聴取を受け、しばらく銃を預けた。だが処分が明けると、また山へ戻った。
片目がまだ生きていたからだ。
いつしか矢代は、自分自身が「片目の怪物のようなハンター」と呼ばれ、最も憎む存在と同じものになりつつあることに気が付いていなかった。
◇
追跡を始めて何年目か、矢代は別の恐怖を覚えるようになった。
片目が老いている。
最初に気づいたのは歩幅だった。過去の記録と比べると明らかに狭くなり、以前からある左右差とは別に、左の後肢を庇う跡が増えている。目撃写真を年代順に並べると、身体の厚みも落ちていた。大型の獲物を仕留めた形跡が減り、食痕は小型動物や幼い恐竜へ偏っている。
「……老けてる」
矢代は、何度も写真を見直した。
同種の野生下での寿命を調べた。飼育個体の記録にも目を通し、老齢個体に多い病気や関節障害、歯の摩耗についても調べた。専門用語が分からなければ調べ直し、それでも分からなければ研究者へ訊いた。
「あと、どのくらい生きる」
「個体差があります。野生ですし、正確には分かりません」
「大体でいい」
「数年生きてもおかしくありません。ただ、高齢ですから、事故や病気で明日死ぬ可能性だってあります」
「明日?」
「極端な例です」
「後肢を引きずってる。あれは昔の怪我か、関節か。最近は大型獲物を襲ってない。歯が駄目になってる可能性は?」
「矢代さん、ちょっと待ってください」
「待てない」
「何をそんなに――」
「死ぬかもしれないんだろ」
「それは野生動物なら、どの個体でも――」
「だから待てないんだよ」
矢代は手帳を握りしめていた。
「勝手に死なれたら困る」
研究者が言葉を失う。
「俺が殺すんだ」
それからは、目撃情報が途切れるたびに眠れなくなった。
片目が山の奥で死んでいる夢を見る。誰に撃たれたわけでもなく、ただ老いて倒れ、落ち葉に半分埋もれている。夢の中の矢代は必死に走るが、いつも間に合わない。
目を覚ますと、暗い部屋で一人だった。
「違うだろ」
誰もいない部屋で呟く。
「そんな終わり方じゃないだろ」
壁には妻と息子の写真が一枚だけ残っていた。周囲に張り巡らされた片目の資料に圧し潰され、肩身が狭そうにしているが、矢代は気が付かなかった。
「俺がやるんだよ」
答える者はいなかった。
片目の目撃が半年近く途絶えたときには、班長から再び出動停止を言い渡された。通常の任務中まで片目らしき痕跡を探し、担当区域を外れかけたためだった。
矢代は家へ戻り、棚の上にある家族写真の埃を拭いた。
「忘れてないからな」
写真の中の妻と息子は笑っている。いったい何を忘れてないと言うのだろうか、妻と息子の笑い声を思い出した日がいつかも分からないのに。
「ちゃんと見つけるから」
そこで手が止まった。
妻にも息子にも、そんなことを頼まれたことはなかった。
矢代は写真立てを元の場所へ戻した。
まっすぐ目を見ることが出来なかった。
◇
そして晩秋、山中の監視カメラが右目のない個体を捉えた。
傷痕、左後肢、尾の古傷。
矢代には、一枚見ただけで分かった。
「……生きてた」
何度も写真を拡大する。
「生きてた……!」
その晩は、久しぶりによく眠れた。
白い花の脇で見つけた足跡を、矢代は追っていた。
もう間違いなかった。片目である。
何週間もかけて行動範囲を絞り、足跡、糞、食痕をつないできた。右側から近づいた人間へ過敏に反応するという目撃情報も一致する。
さらに妙な痕跡があった。
片目は同じ岩壁の周囲を何日にもわたって歩き回っていた。古い足跡の上に新しいものが重なり、最近の食痕は小型動物や幼い恐竜に偏っている。
今日見つけた歩幅は、また狭くなっていた。
左の後肢を引きずる跡も深い。
「ふざけんなよ」
矢代はしゃがみ込み、足跡へ指先を重ねた。
「ここまで待たせといて、勝手に死ぬなよ」
返事はない。
「俺が来たぞ」
銃を握り直す。
「俺が殺すまで、勝手に死ぬな」
そのまま一人で山へ入った。
誰にも知らせなかった。知らせれば、止められるからだった。
◇
最初の一発は外れた。
片目が頭を下げたのは、矢代が引き金を引くより一瞬早かった。
「……やっぱり、お前か」
木の陰へ消える。
矢代は追った。老いている。昔より遅く、左の後肢も悪い。それでも、距離を取ってはこちらの位置を確かめ、銃口が通る場所には長く留まらない。
「まだやれるじゃねえか」
矢代は笑った。
「そうだよ。それでいい」
片目が低く唸る。
「俺が来るまで死ななかったな。偉いぞ」
片目の姿が消えた。
矢代は反射的に左へ銃口を向けかけ、すぐに身体ごと回った。左目がないことを、片目はとっくに学んでいる。ならば死角へ来る。
藪が揺れた。
「そっちは見えねえよ。だから来ると思った」
飛び込んできた片目へ発砲する。弾丸が肩を削った。
片目は身を翻し、木々の向こうへ消えた。
「お互い、嫌なところばっかり覚えやがる」
矢代は追った。
そこから先は、普通の狩りではなかった。
片目は矢代の左側へ回り込もうとし、矢代はそれを読んで身体ごと射線を作る。逆に矢代が右目のない側を取ろうとすれば、片目は木や岩を壁にして死角を補った。何年も追い、逃げられ、痕跡を読み続けた時間が、そのまま互いの戦い方になっていた。
片目が銃声に合わせて身体を沈め、そのまま低い姿勢で距離を詰める。矢代は左から迫る気配を音で拾い、飛び込んできた顎を銃床で逸らして撃ち返した。弾丸は片目の後肢へ入り、その直後には爪が矢代の脇腹を裂いた。
血が流れた。
それでも矢代は笑っていた。
「来いよ」
片目が木の向こうからこちらを窺う。
「俺はここにいるぞ。もう逃げんな」
片目には通じない。
矢代は構わず続けた。
「お前が死ぬ夢、何回見たと思ってんだ。俺の知らないところで腐ってる夢だよ。ふざけんな。そんな終わり方、認められるか」
片目が身体を低くする。
「お前は俺が殺す」
矢代も銃口を上げた。
「そのために、ここまで来たんだ」
片目が飛び込んだ。
矢代は横へ避けたが、靴が崩れた土を踏んだ。片目も傷ついた後肢では踏ん張りきれず、人間と恐竜はもつれたまま斜面を転がり落ちる。
枝を折り、土を巻き上げ、何度も身体を打ちつけた。途中で銃が手を離れ、矢代は片目を蹴って離れようとしたが、すぐにまた身体がぶつかった。
ようやく止まる。
矢代は咳き込みながら身体を起こした。
見覚えのある斜面だった。
朝、足跡を見つけた場所のすぐ下まで戻ってきていた。
少し離れたところで片目も立ち上がる。
そして、二頭とも同時に別の気配へ気づいた。
◇
岩壁の窪みに、幼い肉食恐竜が二頭いた。
その前には成体が一頭立っている。
母親なのだろう。突然転がり込んできた二頭へ身体を大きく見せながら、幼体を背後へ押し込んでいる。逃げないが、自分から襲ってもこない。低い威嚇音を出しながら、ただ子供と侵入者の間に立っていた。
一頭の幼体が、母親の後肢の横から顔を出した。
母親が尾で押し戻す。
『もう、そっち行っちゃ駄目って言ったでしょう』
妻の声が蘇った。
何年も思い出していなかった、何でもない日の声だった。片目が動いた。
矢代も現実へ戻る。
片目は母親ではなく、その向こうの幼体を見ていた。肩を撃たれ、後肢にも傷を負い、老いた身体では大きな獲物とまともに争う余力も残っていない。それでも目の前には、自分より遥かに小さな獲物がいる。
「……これか」
片目が踏み込む。
「お前、子供を狙ってたのか」
母親が咆哮した。片目は止まらず、その脇を抜けて幼体へ向かおうとする。
「……そうだよな」
矢代は呟いた。
「お前は、そういう奴だった」
片目の意識が矢代から外れた。
落とした銃は、すぐそばにある。
矢代は地面へ飛びついて銃を掴み、そのまま片膝をついた。母親が進路を塞ぎ、片目が横へ回る。
左耳の後ろが見えた。
「もう、疲れた……」
引き金を引いた。口から無意識に漏れた言葉は、銃声に溶けて自分の耳にすら届かなかった。
至近距離から放たれた弾丸は、片目の左耳の後ろから首の付け根へ入る。
片目の身体が大きく傾き、勢いのまま二歩だけ進んで崩れた。残った左目は開いたままだったが、もう何も見ていなかった。
◇
矢代は銃を下ろした。
何年も夢に見た光景だったはずだ。家族を殺し、自分の左目を奪い、追っても追っても逃げ続けた恐竜が、ようやく自分の撃った弾で倒れている。
「……終わった」
声に出してみた。何も起きなかった。
妻は戻らない。息子も戻らない。左目も戻らない。
老いた中型肉食恐竜が一頭死んでいる。
ただ、それだけだった。
「……お前だけは、殺したかった」
その言葉だけは、最後まで嘘ではなかった。
背後で枝が折れ、その音に気づいたときには遅かった。
横から受けた衝撃で身体が宙へ浮き、地面へ叩きつけられた。銃が手から離れ、肺から空気が抜ける。脇腹から胸にかけて熱いものが一気に広がり、息を吸うたび身体の奥で何かが軋んだ。
視界が揺れる中、もう一頭の成体が見えた。
父親なのだろう。
矢代たちが転がり落ちてきた方向とは別の斜面から、巣へ戻ってきたらしい。母親が短く鳴くと幼体も声を返し、父親は倒れた矢代へ追撃することなく、すぐに家族の前へ戻った。
身体を横にして、母親と幼体を隠す。
「……そうか」
血が喉へ上がった。
父親は自分を殺しに来たのではない。獲物として狙ったわけでも、自分という人間に恨みがあったわけでもない。
帰ってきたら、巣に武器を持った人間と別の肉食恐竜がいた。
だから家族の前へ出た。それだけだった。
矢代は身体を動かそうとして、自分が何の上に倒れているのか気づいた。
片目だった。
あれほど追い続けた恐竜と、最後には重なるように倒れている。矢代の残った右目のすぐ近くに、片目の残った左目があった。
「……ひでえ面だな、俺もお前も。怪物になり果てちまって、山の中で無残に死ぬのか……」
自分と片目に違いはあったのだろうか。少なくともここ数年は似たようなものだろう。獲物に執着しそのためなら何でもする、血に酔って死に魅入られた怪物だった。
自嘲気味に笑ったつもりが、血の混じった咳になった。
親子はしばらくこちらを警戒していたが、やがて母親が幼体を促して歩き始めた。二頭の子供がそのあとを追い、父親は最後まで矢代へ身体を向けたまま後退する。十分に距離が開いてから向きを変え、家族のあとを追っていった。
矢代はその姿を見ていた。
ずっと昔、自分にも家族がいた。
帰れば妻がいて、息子がいた。次の休みにどこへ行くかを話し、出かければ写真を撮った。息子が転べば本人より落ち込み、妻に笑われ、それでも本人の前では父親らしい顔をした。
何かを守るなどと、大げさに考えたことはなかった。ただ、あの二人が危ない目に遭えば、自分が前へ出るつもりではいた。
実際には、守れなかった。だから片目を殺したかった。
そこまでは、今でも間違っていたとは思えなかった。矢代は遠ざかっていく親子を見た。
(……いつから、他の奴までお前に見えるようになったんだろうな)
片目を追う年月の中で殺した恐竜たちを思い出した。人を襲った個体もいたし、放っておけば誰かが死んでいた個体もいた。だが、山へ逃げようとしていた若い個体もいた。威嚇しただけの個体も、こちらから刺激しなければそのまま人間から離れていったはずの個体もいた。
あいつらは片目ではなかった。そんな当たり前のことを、矢代はずっと知っていたはずだった。
知っていて、見ないふりをした。
片目が見つからない日も、自分の知らないところで老いていく日も、恐竜を一頭殺せば少しだけ落ち着いたからだ。
父親恐竜が最後に一度だけ振り返り、そのまま木々の向こうへ消えた。
矢代は銃を探さなかった。もう撃つ理由がなかった。
風が吹き視界の端で、白いものが揺れた。
花が二輪、斜面に残っていた。
朝、自分がまたいだ花だった。
あのときは綺麗だとも珍しいとも思わず、片目の足跡を見つけた瞬間には存在そのものを忘れていた。
いまは、なぜか目が離れなかった。
二輪並んでいる。
風が吹けば一緒に揺れ、止めばまた静かになる。
それを見ているうちに、ずっと忘れていた声が聞こえた気がした。
『何してるの? 置いてくよ』
妻だった。
少し先では、息子が手を振っている。
三人で出かけた、何でもない休日だった。写真にも残していない。何を食べたのかも、どこへ行った帰りだったのかも、もう曖昧になっている。
それでも、その日の自分が幸せだったことだけは覚えていた。
妻が先を歩いている。息子がその横を歩いている。
自分だけが少し遅れている。
『パパ、遅いよ』
息子まで振り返った。
矢代は、ほんの少し笑った。
(……今行くよ、ごめんな、待たせて)
残った右目を閉じた。
そして二度と、その目は開かなかった。
右目を失った老いた肉食恐竜と、左目を失ったハンターは、山の中で重なるように死んでいた。
その少しあと、生命の絶えた斜面を黒い恐竜が下りてくる。
自分と片目のそばに、季節の終わりまで咲き残った二輪の野菊が置かれることを、矢代は知らない。
こうして片目と呼ばれた怪物たちは、同じ時、同じ場所で、ともに大地へ帰るのだった。
断章11 野菊は見ていた 了
第21章の冒頭を再読してみてね
お疲れさん