温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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第4章 山の外では

 翌朝になっても、身体の痛みは消えていなかった。

 

 むしろ眠る前よりひどくなっている場所さえあり、首を動かせば肩の奥が軋み、立ち上がろうとすると脇腹へ鈍い痛みが走った。前肢には昨日の肉食恐竜の攻撃が掠めた傷が残り、出血そのものは止まっているものの、傷口を地面へ触れさせると身体が反射的に引いてしまう。戦いが終わった直後には歩けたし、親子のところまで戻る余裕もあったのだから、昨日は興奮して痛みを感じにくくなっていたのだろう。一晩眠って緊張が抜けたことで、身体の各所がまとめて被害を訴え始めたらしい。

 

 男は木の根元へ身体を横たえたまま、しばらく動かなかった。本来なら今日も南へ進み、少しでも早く八王子へ近づくつもりだったし、自分の身体が急速に大きくなっている以上、小さいうちに距離を稼いだほうがいいという考えも変わっていない。しかし、ここで無理をして傷を悪化させれば本末転倒だった。人間だったころなら病院へ行くところだが、今の自分が診察室へ入れば、医師より先に警察とハンターが来るに違いない。

 

 抗生物質も鎮痛剤も包帯も使えない以上、今できることは休み、食べ、水を飲み、身体が治るのを待つことくらいしかなかった。問題は、その「食べる」という部分である。傷を治すには栄養が必要だが、獲物を捕まえるためには走らなければならない。身体を休めるために食べたいのに、食べるためには身体を酷使するという矛盾について考えていた男は、やがて昨日戦った沢の方向へ顔を向けた。

 

(……あるじゃん)

 

 巨大な食料が、丸ごと一頭。

 

 血の匂いを辿る必要さえなかった。沢へ近づくにつれて鼻が勝手に場所を教えてくれ、やがて昨日倒した肉食恐竜の死体が木々の向こうに見えてくる。改めて眺めると、やはり大きかった。昨日は必死だったから考える余裕もなかったが、よくこんなものと戦ったものだと思う。

 

 死んでいることは分かっていても、頭部へ近づくと無意識に足が止まった。腹は岩で裂け、首には自分がつけた深い傷が残り、右後肢も不自然な角度へ曲がっている。その痕跡を見ているうちに背中の痛みまで強くなった気がして、男は小さく息を吐くように鼻を鳴らした。

 

(よく勝てたな、俺)

 

 同じ地形があり、同じように相手を誘導できたとしても、もう一度やれと言われれば断りたい。昨日は何度も危ない場面があり、首へ噛みつく直前に少しでも判断を間違えていれば、ここに転がっていたのは自分だったかもしれない。

 

 だが、いつまでも昨日の恐怖を反芻していても仕方がない。男は死体の周囲を一周し、今度はまったく別の意味でその大きさを見直した。

 

(これ、何日分あるんだ?)

 

 昨日まで敵だったものが、今日は肉の塊に見える。それも、これまで食べてきた鳥や小動物とは比較にならない量だった。人間だったころの感覚が、同じ「恐竜」と呼ばれる生き物を食べることにわずかな抵抗を示したものの、考えてみれば自分はすでに哺乳類も鳥も食べている。肉食動物が別の肉食動物を食べること自体に、特別な倫理的問題があるとも思えなかった。

 

 何より、腹が減っている。

 

(……いただきます)

 

 人間だったころからの習慣で心の中だけでそう言って、男は肉へ噛みついた。

 

◇

 

 うまかった。それが少し悔しかった。

 

 もちろん調味料などなく、焼いてもいない。ただの生肉である。それなのに今の身体の味覚には十分すぎるほど美味で、小動物や鳥のように小さな身体から可食部分を探す必要もなかった。噛みついて引けば肉が取れ、それを飲み込んでもまだ次がある。いくら食べても目の前の食料がなくならないという状況そのものが、山へ入ってから初めての経験だった。

 

 途中で一度沢へ下りて水を飲み、戻ってからまた食べる。これまでの食事では、腹が完全に満たされる前に獲物のほうがなくなることが多かった。カエルなどを一匹を食べても、しばらくすればまた何かを探したくなり、食事は常に「次の食事をどうするか」という問題とつながっていた。しかし今日は違う。身体が要求するままに食べ続けても、まだ肉が残っている。

 

 やがて腹の奥に、これまで感じたことのない重さが生まれた。空腹が消えただけではない。もう食べなくていい、と身体そのものが訴えている。

 

(……もう無理)

 

 男は死体から少し離れ、その場へ伏せた。腹が重く、何かに追われているわけでもないのに、ただ横になっていたい。

 

(幸せ……)

 

 人間だったころなら、生肉を大量に食べて沢の横で寝転がることを幸福とは呼ばなかっただろう。それでも今は本気で満足していた。食料を探さなくていい。それだけで、一日の大部分が自由になる。

 

 日当たりのいい場所へ移動して身体を横たえると、秋へ向かう青森の涼しい空気の中で、背中へ当たる日差しが心地よかった。傷がある以上、今日は無理に動く必要もない。食料は目の前にあり、水もすぐ近くを流れている。周囲に危険な気配がないことだけ確認しておけば、一日くらい休んでも罰は当たらないだろう。

 

 そうして前肢へ顎を載せてから十分ほど経ったころ、男は重大な問題に気づいた。

 

(……暇だな)

 

 生きることに余裕ができた途端、娯楽が欲しくなった。

 

(スマホ……)

 

 またそれだった。動画が見たい。ゲームもしたい。漫画でも小説でもいいし、テレビでも構わない。山の中には食料も水もあるが、人間だった自分が「暇な時間を埋めるために使っていたもの」が何一つない。食料を探している間や移動している間は気にならなかったのに、満腹になって休むしかなくなると、人間だったころなら何の苦労もなく埋めていた時間が丸ごと残ってしまう。

 

 蛇口をひねれば水が出る。店へ行けば食料が並んでいる。怪我をすれば病院へ行けるし、暑ければ冷房をつけ、寒ければ暖房を使う。そのうえ、生きるための作業をしなくていい時間には映画を見たり、ゲームをしたり、何の役にも立たない動画を眺めたりできる。

 

(人間って、すごい生活してたんだな)

 

 山で暮らして初めて、その異常な豊かさが分かった。

 

(帰りたいな)

 

 自然に浮かんだ言葉だったが、以前ほど絶望だけを伴ってはいなかった。帰るために南へ進んでいるし、現在地が青森であることも分かっている。八王子まではまだ遠いものの、少なくとも目的地は存在している。今日は休み、傷が治ったらまた進めばいい。そう考えられる程度には、この身体で生きることにも慣れてきていた。

 

◇

 

 結局、男はその場所に数日間滞在した。

 

 朝になれば沢で水を飲み、倒した恐竜の肉を食べ、満腹になったら日当たりのいい場所で休む。傷口の様子を確認し、ときどき周囲を歩いて危険な動物が近づいていないか確かめ、眠くなれば眠った。人間だったころの感覚で言えば恐ろしく怠惰な生活だったが、この身体になってから初めて得た休暇だと思えば悪くない。宿泊場所が青森の山中の木の根元で、食事が自分を殺そうとした恐竜の生肉であることを除けば、だが。

 

 十分な食料と休息を取ったことで、身体の状態も目に見えて改善した。前肢の裂傷はまだ痕が残っているものの腫れはひどくならず、肩や背中の痛みも初日より明らかに軽くなっている。ただし、傷が瞬時に閉じるような都合のいい再生能力があるわけではない。若い身体だから治りが早いのか、人工恐竜そのものが頑丈なのか、単純に栄養と休息が十分だからなのかは判断できず、男は無理に答えを決めないことにした。自分の身体については、まだ分からないことのほうが圧倒的に多い。

 

 それより気になったのは、傷ではなく身体そのものの変化だった。三日目の朝、沢で水を飲んでいると、水面に映る首が以前より太くなり、胴も少し長くなっていることに気づいた。後肢には目に見えて筋肉がつき、前肢の爪も大きくなっている。目覚めた直後から成長の速さは感じていたが、大量の肉を自由に食べるようになってから、さらに加速したように見えた。

 

(食えば食うほど育つのか?)

 

 成長期の身体が、これまで栄養不足に近い状態だった可能性はある。鳥やカエルを捕まえて食いつないでいたころは、生命維持と最低限の成長へ栄養を使っていた。それが大量の肉を得たことで、本来の成長速度へ戻ったのかもしれない。

 

 大きくなれば強くなる。昨日まで苦戦していた獲物も、いずれ簡単に捕まえられるようになるかもしれない。一方で、身体が大きくなれば隠れることは難しくなり、必要な食料も増え、道路を一本横断するだけでも人目につきやすくなる。

 

 水面に映る黒い身体を見ているうちに、男は以前ニュースで見た巨大な人工恐竜を思い出した。東京で銃撃を受けながら暴れ、最後には一人のハンターと接近戦になった、あの異様な捕食者。自分があそこまで巨大になるのかは分からないが、黒い体表と長い尾を持つ姿には、否応なく似たものを感じる。

 

(急がないとな)

 

 八王子までの距離は変わらないのに、自分だけが大きくなっていく。

 

 それでも、傷が残っているうちに焦って出発するつもりはなかった。四日目になると死体の一部から傷んだ匂いが混じり始め、夜には他の動物らしい気配も遠巻きに感じるようになった。死体の匂いに引き寄せられた熊や別の大型肉食恐竜と鉢合わせするのは避けたい。肩の痛みもほとんど消え、軽く走る程度なら問題がなくなったところで、男はようやく旅を再開することにした。

 

 出発する朝には、新鮮そうな場所を選んで最後の肉を腹へ入れ、沢で十分に水を飲んだ。肩を回しても強い痛みはなく、前肢の傷も塞がり始めている。数日間世話になった巨大な死体を振り返り、男は心の中で「ごちそうさまでした」と告げた。

 

 命懸けで戦った相手である。あれほど怖かった存在が、死んだあとは自分を数日間養い、傷を癒やすための栄養になった。野生では、死ねば別の生き物の食料になる。おそらく自分だって例外ではない。それを以前ほど残酷だとは感じなくなっていることに気づきながら、男は南へ身体を向けた。

 

 以前より視線が高く、脚にも力がある。数日前までなら慎重に越えていた倒木も、今ではほとんど助走をつけずに飛び越えられた。着地してから試しに少し速度を上げると、傷が治っただけでなく、身体そのものが一段階強くなったことが分かる。

 

(まあ、強くなるのは悪くないか)

 

 八王子まで帰ることだけを考えれば、弱いより強いほうがいい。そう考えながら森を歩き始めた男は、数十メートル進んだところで何となく振り返った。当然、そこにあるのは数日間過ごした沢と、自分が倒した恐竜の死体だけだった。

 

 それでも、不意にあの親子のことを思い出した。父親の怪我は治るだろうか。子供からもらった燻製肉は本当にうまかった。そして何より、自分へ向けられた「ありがとう」という言葉が嬉しかった。

 

(まあ、無事だろ)

 

 人間には救急車があり、病院もある。今の自分とは違う。男はそう考えて再び南へ歩き出した。

 

 だから、自分があの親子を助けた出来事が、すでに山の外で別の形を持ち始めていることなど知る由もなかった。

 

◇

 

 映像は、助けられた父親が撮影したものではなかった。

 

 親子が襲われた場所から少し離れた林道の、風下のほうに別の登山客がいた。最初に大きな鳴き声を聞き、何事かと思ってスマートフォンを向けたときには、すでに黒い小型恐竜が大型の肉食恐竜を親子から引き離したあとだった。木々に遮られて追跡の様子までは映っていなかったものの、しばらくして血まみれの黒い恐竜だけが戻ってくる場面は、遠くからとはいえ記録されていた。

 

 撮影者自身も、その場では何が起きたのか理解できていなかった。だが救急と警察が到着し、負傷した父親と子供から「別の恐竜が襲ってきた恐竜を連れていった」という話を聞いたことで、映像の意味が変わった。

 

 さらに、救助を待っている間に子供が燻製肉を置いた場面も撮影されていた。

 

『これ、あげる』

 

 画面の奥で子供が肉を地面へ置き、黒い恐竜はすぐには近づかなかった。親子が離れたことを確かめるようにしばらく待ち、それからゆっくり近づいて肉を食べる。そこまでは野生動物として説明できたかもしれない。

 

 問題は、そのあとだった。

 

『ありがとう』

 

 子供がそう言うと、黒い恐竜は数秒間その場に留まり、やがて明らかに頭を下げた。

 

 撮影者がSNSへ投稿した動画は、最初の数時間こそ地域の珍しい動物映像として扱われていた。しかし、「これ会釈してない?」「子供の言葉分かってるように見える」「いや偶然だろ」「そもそも最初の恐竜をどこへ連れていったんだ」という反応が増え、地元のニュースアカウントが取り上げたころには、再生数が一気に伸び始めていた。

 

 もちろん、映像だけで「人間を助けた」と断定できるわけではない。大型肉食恐竜へ攻撃したのも縄張り争いだった可能性があり、子供への会釈に見える動作も偶然かもしれない。専門家ほど慎重であり、自治体も正体不明の人工肉食恐竜が山中にいる以上、決して近づかないよう注意を呼びかけた。

 

 それでも、映像を見る人々にとって、黒い恐竜の行動は妙に引っかかった。

 

 人間を襲わなかっただけではない。負傷した親子へ戻ってきても距離を保ち、肉を与えられてもすぐには近づかず、最後には頭を下げて立ち去っている。偶然として片づけるには、あまりにも人間が「意味」を読み取りたくなる動きが多かった。

 

 まだ全国的なニュースになるほどではない。数あるネット動画の一つとして、一部で話題になっているにすぎなかった。

 

 ただし、黒い人工恐竜について残された最初の鮮明な映像として、それは確実に保存された。

 

◇

 

 そのことを知らない本人は、数日後の夕方、山の斜面から眼下の町を眺めながら、まったく別のことで悩んでいた。

 

(テレビが見たい)

 

 切実だった。

 

 人間だったころは、テレビにそこまで執着していたわけではない。むしろスマートフォンを触っている時間のほうが長く、テレビをつけても横目で眺める程度の日も多かった。それが山へ入って三週間程度、動画もゲームも漫画も音楽もSNSもない生活を続けていると、どうでもいいバラエティ番組ですら恋しくなってくる。

 

 以前、山中を移動した際に偶然近くを通った集落を、遠くから眺めたときに窓越しのテレビの光を見たことがあり、その記憶が頭から離れなかった。食料には困っていない。傷もほとんど治り、大量の肉を食べたおかげで体調もいい。以前より明らかに大きくなった身体もよく動き、少なくとも山の中で今日明日の生存を心配する段階からは抜け出しつつある。

 

 だからこそ、生き延びるためには必要のないものが欲しくなった。

 

 眼下に見える町は、以前の集落より少し大きかった。住宅がまとまり、小さな商店らしい建物もあり、一本の県道らしき道路には日が暮れてからも時折車が走っている。人間に見つかれば騒ぎになるし、通報されれば警察が来る。肉食恐竜だと判断されれば、場合によってはハンターまで呼ばれるだろう。

 そしてハンターと考えた瞬間、頭に浮かぶのは、以前映像で見たあのハンターだった。

 

(さすがに、あの人が青森の小さな町まで来ることはないよな)

 

 東京で巨大な人工恐竜をマチェットで倒したハンターである。活動範囲まで詳しく知っているわけではないが、少なくとも恐竜一匹がテレビを少し覗いた程度で、青森の小さな町まで出向いてくるとは思えないとは思えない。

 たぶん。

 男は自分を納得させ、日が完全に沈むまで山の中で待った。

 

◇

 

 夜になってから町へ下りると、山と人間の生活圏がまるで別の環境であることをすぐに思い知らされた。

 

 道路には出ず、畑の脇や用水路沿いを選び、建物の陰から陰へ移動する。夜目が利くのは大きな利点で、人間なら懐中電灯が必要な暗さでも周囲の形を十分に把握できた。黒い身体も夜間ではそれだけで見つかりにくく、危険を感じたときには物陰で動きを止めれば、体表を周囲へ馴染ませることもできる。

 

 しかし山には木も藪も岩もあるのに対し、町の道路は開け、街灯があり、民家には防犯灯までついている。最初の失敗は、町へ入って十分もしないうちに起きた。住宅の横を通り抜けようとした瞬間、頭上から突然強烈な光を浴びせられ、男は考えるより早く数メートル走って物陰へ飛び込んだ。

 

 追ってくる人間はいない。

 

 振り返ってようやく、センサーライトだったことに気づいた。

 

(……心臓に悪いな)

 

 それからは建物へ近づく前に、壁や軒下まで確認するようになった。防犯カメラ、人感センサー、ライト。人間だったころなら存在さえ意識しなかった設備が、今はすべて自分を発見するための罠に見える。

 

(泥棒みたいだな、俺)

 

 正確には泥棒より状況が悪い。泥棒なら警察が来るだけだが、自分の場合は猟銃を持った人間まで追加されかねない。

 慎重に町の奥へ進んでいると、古い一軒家の横で人間の声が聞こえた。男は即座に足を止め、誰かが外にいるのかと身体を低くしたが、耳を澄ませているうちに違和感に気づいた。

 

『――明日の県内は、朝から雲の多い一日となるでしょう』

 

(ラジオだ)

 

 少し開いた窓から、天気予報が漏れている。

 男は周囲に人がいないことを確かめて家の裏側へ回り、窓から少し離れた場所へ伏せた。中を見ることはできないが、音なら十分に聞こえる。青森県内の天気、交通情報、地域の催し、スーパーの宣伝。以前なら聞き流していたようなどうでもいい話題ばかりなのに、それがたまらなく懐かしかった。

 

 自分が山で鳥やウサギを追いかけている間にも、人間の世界では道路が渋滞し、スーパーがセールをし、誰かが明日の天気を心配している。番組が天気予報から音楽へ変わり、知らない曲が流れ始めると、それだけで妙に嬉しくなった。

 

(音楽だ……)

 

 山にも鳥の声や沢の音はあるが、人間が意図して作った音はまったく違った。気づけば十分、十五分とその場へ留まり、二十分を過ぎたころには前肢へ顎を載せて完全にくつろいでいた。家の中から足音が聞こえなければ、そのまま番組が終わるまで聞いていたかもしれない。

 

 慌てて離れた男は、今度こそテレビを探すことにした。

 

◇

 

 町の中を歩いているうちに、いくつか新しい規則が増えた。カーテンが閉まっている家は諦める。道路に面した窓へは近づかない。防犯カメラのある家を避ける。そして何より、犬のいる家には絶対に近づかない。

 

 犬は厄介だった。人間なら気づかない距離からこちらの存在を察知するらしく、一度住宅へ近づいただけで家の中から激しく吠えられ、男はすぐにその場を離れた。逆に猫は意外なほど静かで、路地で一匹と鉢合わせしたときには、互いに数秒間じっと見つめ合うことになった。

 

(食わないぞ)

 

 今は腹も減っていないし、そもそも人間の飼い猫かもしれない。男が何もしないでいると、猫は全身の毛を膨らませたあと、凄まじい勢いで逃げていった。

 

(まあ、そうなるよな)

 

 自分も反対方向へ進む。

 やがて見つけたのは、道路から少し離れた平屋だった。庭には植木があり、犬の匂いもない。何より居間のカーテンが半分だけ開き、その向こうにテレビの画面が見えていた。

 

(あった)

 

 男は植木の陰を使って少しずつ近づき、窓から数メートル離れた場所へ伏せた。身体を動かさずに待っていると、黒かった体表が庭の土や植木の色へ少しずつ馴染んでいく。

 テレビで流れていたのは、何の変哲もないバラエティ番組だった。

 出演者が料理を食べ、芸人が大げさに驚き、スタジオから笑い声が上がる。以前ならスマートフォンを触りながら何となく流していたような番組なのに、今は驚くほど面白かった。企画が特別優れているわけではない。ただ、人間が普通に喋り、笑っていることが嬉しい。

 

 CMに切り替わっても、男は目を離さなかった。コンビニの新作スイーツを見れば食べたくなり、スマートフォンの広告を見れば欲しくなる。自動車が映れば乗りたくなり、旅行の広告を見れば行きたくなる。そして画面いっぱいに焼肉が映った瞬間、満腹に近かったはずの腹が反応した。

 

(飯テロって、本当にテロだったんだな)

 

 窓の外で擬態しながらテレビを見る黒い人工肉食恐竜という、自分の置かれている状況を客観的に考えればかなり異様だったが、本人にそんなことを気にする余裕はなかった。

 

 やがてバラエティ番組が終わり、ニュースが始まる。帰ろうとしていた男は、少し考えてその場へ伏せ直した。娯楽だけでなく、今の社会で何が起きているかを知ることは生存にも役立つ。全国ニュースが終わり、地域ニュースへ切り替わっても、そのまま画面を眺め続けた。

 

 天気、農作物、交通事故、野生動物の出没情報。人間だったころなら聞き流していた内容を、今は一つずつ真剣に確認する。

 

 そして。

 

『続いて、県内で撮影されたこちらの映像です』

 

 画面が切り替わった瞬間、男の身体が固まった。

 黒い恐竜が映っている。

 

(……俺じゃん)

 

 見間違えようがなかった。映像の向こうには木へ背を預けた父親と、そのそばにいる少年が映っている。そして少し離れた場所には、口元を血で汚した黒い幼体――自分がいた。

 

『山間部で肉食恐竜に襲われた親子を、別の人工恐竜が助けた可能性があるとして、インターネット上で話題となっています』

 

 どうやら全国的な大騒ぎになっているわけではないらしい。しかしネット上ではすでに映像が拡散され、一部でかなり話題になっているという。画面にはSNSへ投稿された実際の映像が流れ、少年が燻製肉を地面へ置くところまでしっかり映っていた。

 

『ありがとう!』

 

 音声まで残っている。

 

(そこまで撮られてたのか……)

 

 映像の中の自分が肉へ近づき、一口で食べる。そして少年のほうを見たあと、ゆっくりと頭を下げた。

 ニュースでは、映像を見た人々から「礼をしているように見える」「言葉を理解しているのではないか」「人間を助けたのではないか」といった声が出ていることが紹介された。一方で、画面に登場した専門家はかなり慎重だった。

 

『非常に興味深い行動ではあります。ただし、映像だけから意図的な救助だったと断定することはできません。大型個体への攻撃が縄張りや競争によるものだった可能性もありますし、頭を下げた行動についても、人間側が善意や感謝といった意味を読み込むのは危険です』

 

(いや、普通に礼したんだけど。文字を書けばよかっただろうが、こちらも傷を負っていた上に、これ以上親子を刺激するのも怖かったからな……)

 

 男は心の中で反論したが、専門家の説明自体が間違っているとは思わなかった。映像だけを見れば、そう判断するしかない。むしろ「この恐竜は人間の心を持っています」などと断言する専門家がいたら、そちらのほうが信用できないだろう。

 

『一方で、少なくとも映像に記録された範囲では、この個体が負傷した親子へ積極的な攻撃行動を示した様子は確認されていません。自治体では個体の特定を進めるとともに、発見した場合には絶対に近づかず、警察や自治体へ連絡するよう呼びかけています』

 

(……通報対象になってる)

 

 当然といえば当然だった。人間を助けたからといって「安全な恐竜」と認定されるわけではない。むしろ、正体不明の肉食恐竜が山中にいることが映像で確認されたのだから、行政が調査するのは当たり前である。

 幸い、駆除が決まったという話ではなかった。それでも今後は、これまで以上に人間へ見つからないよう注意したほうがいいだろう。

 

(助けても目立つのか……)

 

 そこまで考えてから、当たり前だと自分で訂正する。

 次からは気をつけよう。

 そう決めたものの、もし同じように子供が目の前で襲われていたら、本当に何もせず立ち去れるかと問われれば、自信はなかった。

 

◇

 

 テレビを見終えるころには、かなり夜が深くなっていた。男は山へ戻る前に、何か食べられるものがないか町外れを歩いた。人間から食料を奪わない、家畜を襲わない、家へ侵入しないという規則は守るつもりだったが、飲食店の裏手を通ったところで、蓋のついた大きな容器から肉や魚の匂いが漂っていることに気づいた。

 

(……生ゴミはどうなんだ?)

 

 人間が捨てたものなら、奪ったことにはならないのではないか。かなり都合のいい理屈ではあるが、少なくとも家へ忍び込んで冷蔵庫を漁るよりはましだろう。

 

 爪を蓋へ引っかけて慎重に持ち上げると、中には食べ残しや調理くずが入っていた。肉、魚、野菜、脂。包装材や明らかに古そうなものを避け、匂いを確かめながら安全そうな肉や魚だけを選ぶ。人間として持っている知識は、こういうところでも役に立った。

 

 必要な分だけ食べ終えると、男は蓋を元へ戻した。完全に同じ位置へ戻せたかは怪しいが、容器を倒したり袋を破ったりするよりはいい。

 

(ごちそうさまでした)

 

 誰に言うでもなく頭を下げてから、山へ向かう。

 

 帰り道では、行きよりさらに慎重になった。道路を渡る前には車だけでなく家の窓も確認し、防犯カメラや人感ライトを避け、犬の匂いがすれば遠回りする。人間だったころには意識もしなかった町の構造が、今ではまったく別の意味を持って見えていた。道路は見通しが良すぎる危険地帯であり、側溝や生け垣は便利な移動経路になる。駐車場や空き地は身を隠せないので避けたほうがいい。

 

 そして、自動販売機は何の役にも立たない。

 一台の自動販売機の前で、男はしばらく足を止めた。明るい照明の向こうに飲み物が整然と並び、その中には見覚えのある赤いラベルの炭酸飲料もある。

 

(コーラ飲みたい)

 

 金がない。仮に硬貨を拾ったとしても、この爪で投入口へ入れるのは難しい。電子マネーもなければスマートフォンもない。

 

(スマホがあれば……いや、スマホがあっても今の俺じゃ契約止まってるか)

 

 くだらないことを考えながら、それでも名残惜しく自動販売機を眺めた。目の前にあるのに手に入らない。山で獲物を捕まえるより、百数十円のコーラを買うほうが難しいというのだから、身体が変われば物の価値まで変わるらしい。

 

 やがて背後から車の音が聞こえ、男はすぐ道路脇へ移動して身体を伏せた。体表を周囲へ馴染ませたまま待っていると、数十秒後に一台の車が通り過ぎていく。テールランプが完全に見えなくなるまで動かず、それからようやく身体を起こした。

 

 今夜は楽しかった。ラジオを聞き、音楽を聞き、テレビを見て、ニュースでは自分まで見た。山で一日中獲物を探しているより、よほど人間だったころに近い夜だった。

 

(また来よう)

 

 頻繁に同じ町へ来れば、いつか見つかるだろう。だから毎日は無理だ。それでも八王子までの長い旅を、ずっと山だけを見ながら過ごす必要もない。人間に迷惑をかけず、見つからない範囲なら、ときどき文明を少しくらい借りてもいいはずだった。

 そうして男は、久しぶりに覚えた娯楽の楽しさを反芻しながら山へ戻っていった。

 

◇

 

 翌朝、町では小さな異変がいくつか見つかった。

 

 飲食店の裏に置かれていた生ゴミから、肉や魚の一部だけがなくなっていた。袋は必要以上に荒らされず、容器も倒されておらず、蓋まで少しずれてはいるものの閉じられている。近所の人間は最初、猫か何かだろうと考えたが、容器の周囲に残っていた足跡は明らかに猫のものではなかった。

 

 少し離れた住宅では、夜中に飼い犬が突然激しく吠えたという話があり、別の家では人感ライトが一度だけ点灯していた。防犯カメラの多くには何もはっきり映っていなかったが、町外れに設置された古いカメラだけが、道路を横断する奇妙な影を数秒間記録していた。

 

 画質は悪く、身体の輪郭もほとんど闇へ溶けている。

 それでも、長い尾だけは確認できた。昼過ぎになると、その画像が地域のSNSへ投稿された。

 

『昨日ニュースに出てた黒い恐竜、もしかして町まで来てない?』

 

 数日前までなら、黒い影が映っただけの画像が注目されることはなかったかもしれない。しかし今は、親子を助けたように見える黒い幼体の映像がすでに出回っている。体格と色、長い尾という特徴が似ていたため、二つの出来事を結びつける人間が現れるまで時間はかからなかった。

 

 一方、そのころ当の本人は、町からかなり離れた山中で眠っていた。

 

 昨夜遅くまでテレビを見ていたせいで、いつもより目を覚ますのが遅い。本人にとっては、恐竜の身体になってから初めての夜更かしだった。

 

 山の外で自分の映像がどれほど再生されているのかも、見知らぬ人間たちが自分の行動について議論を始めていることも知らない。目を覚ませば水を飲み、食料を探し、南へ歩く。八王子へ帰るという目的は何も変わっていなかった。

 

 ただ、これまで男が人間の世界を一方的に遠くから眺めていたのに対し、人間の世界の側もまた、少しずつ黒い恐竜の存在へ気づき始めていた。

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