午前九時を過ぎた頃、御門の机には長野の五頭に関する資料が揃い始めていた。
横転現場からたどって見つかった、違法飼育施設の記録である。五頭は同じ種類で、ほぼ同じ年齢。同じ施設で育てられ、幼体期には目立った異常がなかった。それが成長に伴って、人間や車両への過剰な反応を増やしている。そして五頭すべてに共通しているのが、相手から離れるという行動の弱さだった。
「攻撃性が高い、だけじゃない。自分の身を守る方向に、行動が切り替わらない……」
御門は集落の映像を止めた。犬が逃げ、人間も逃げる。恐竜は人間を選んで追う。別の映像では、後退する車を追い、発砲されると、普通なら距離を取るべき場面で撃った相手へ近づいていく。
恐怖がないわけではない。警戒反応そのものは見られる。問題は、その後だった。刺激から離脱する判断が弱く、興奮すると対象へ固執し、負傷してもその状態が切れない。
以前から見てきた異常個体と、同じ異常行動の傾向だった。
◇
ブラボーと呼称される個体は、住宅地へ入る直前で見つかった。
道路の向こうには住宅が並び、その先には避難所へ向かう住民を乗せた車両がまだ残っている。警察はパトカーを横向きに停めて進路を塞ぎ、サイレンと拡声器を使って恐竜を住宅から離そうとしていた。
恐竜は光と音を警戒していたが、逃げなかった。パトカーへ近づき、警察官は車両の陰へ下がる。恐竜が前部へ噛みつき、車体が揺れた。
「ハンター到着まで持たせろ! 撃つな、後方に住宅、避難まだ!」
警察官たちは発砲しなかった。銃を持っていることと、安全に撃てることは違う。
数分後、追跡していたハンターたちが到着した。
「状況!」
「一部民間人あり、東の住宅側へは行かせたくない! 西は避難済み、発砲可能!」
「中央通りから押し出して、西へ出して撃つ!」
警察車両を一台動かすと、恐竜が反応した。さらに下げれば、追ってくる。警察は車そのものを囮にして、住宅から十メートル、二十メートル、三十メートルと引き離していった。
ハンターが射線へ入る。恐竜はパトカーを追っている。
警察官がアクセルを踏み、恐竜が走る。住宅が射線から外れた。
「まだだ、まだ、今! 撃て!」
一発目で恐竜が振り返り、二発目を胴体に受けると、発砲したハンターへ向かって走り出した。
「胴に着弾、こっち来るぞ、食いついた!」
射手が塀の陰へ下がり、別方向から撃つ。恐竜がそちらを見て、また走る。撃つ。移動する。撃つ。同じ場所に留まらず、一人へ追跡を集中させない。恐竜は傷を増やしながら、それでも人間を追い続けた。
「なんで下がらねえんだよ……! 痛くねえのか」
「そういうやつだ! 考えるな!」
道路脇から飛び出した恐竜が、一人のハンターへ迫る。撃った弾は掠めただけだった。
「右、来るぞ!」
別のハンターの叫びで射手が横へ飛び、恐竜の顎が、直前まで人間の肩があった場所で閉じた。転がったハンターが起き上がろうとする。恐竜も向きを変える。
「ええい、ままよ!」
そこへパトカーが突っ込んだ。速度は低い。だが恐竜の側面へ車体を当て、数メートル押し出した。
「今だ! こっちは車内で伏せる、構わず撃て!」
警察官が車内で身を伏せ、射線が開く。三人のハンターが撃った。恐竜は被弾して大きく体勢を崩したが、まだ前肢が動いている。
「撃ち方やめ! 周囲警戒、様子を見ろ」
誰も近づかない。恐竜は一度だけ頭を上げ、長く息を吐き、そして頭が地面に落ちた。
三頭目、ブラボーの駆除が確認されたのは、午前九時二十七分だった。
パトカーの運転席から警察官が出てきた。
「怪我は無いか」
先ほど襲われかけたハンターが、自分の身体を確かめる。
「服だけだ。運がよかったな」
肩口が裂けている。歯ではなく、転倒したときに引っかけたらしい。
「……こんなのが増えたら、人手どころか命がいくつあっても足りなくなるぞ」
誰かが言った。三頭倒したという達成感は、まだなかった。逃げた恐竜は五頭いた。
残りの二頭が、どこにもいなかった。
◇
午後になると、戦いの形は捜索へ変わった。
警察と自治体は封鎖範囲を広げ、山間部へ続く道路を規制した。消防は負傷者の搬送を進め、ドローンとヘリコプターが上空から捜索する。学校は臨時休校となり、周辺住民には屋内待機が呼びかけられた。
ハンターたちは休憩を交代で取りながら、二頭の痕跡を追った。血痕、足跡、折れた枝、泥に残った爪痕。しかし、二頭とも負傷しているとは限らない。五頭のうち、直接交戦したのは三頭だけだった。
「この二頭は厄介だな」
指揮役のハンターが地図を見た。
「無傷なら、一晩でかなりの距離を動ける」
「山へ戻ってくれればいいんですが」
「普通のやつならな。こいつらはそうじゃない。自分の身を守ることを考えないなら、飲まず食わずでも動き続けるかもしれん」
山へ戻ってくれるという期待を、本気で信じている者はいなかった。
午後三時過ぎ、林道で新しい足跡が見つかった。二頭分で、南東へ向かっている。
「二頭で一緒に動いてる?」
「少なくとも、この時点では同じ方角に向かってる」
「追いますか?」
指揮役はすぐには答えなかった。日は傾き始めている。山中に二頭。異常行動。視界の悪い森。
「だめだ。今は追わない」
若いハンターが顔を上げた。
「でも、このままだと捕捉できなくなります。最悪、山梨から都内にも」
「暗い山へ入って二頭に襲われたら、こっちが死体を増やすだけだ。出口を押さえる。ドローンを上げろ。道路側へ人を回して、市街地への侵入だけは防ぐ」
「逃がすかもしれません」
「だからって我々が死んでいい理由にはならん。ハンターにも、帰りを待ってる家族はいる。ハンターが一人減れば将来助けられる百人も死ぬかもしれない」
福島で多くのハンターが死んでから、現場ではその判断が以前より重く受け止められるようになっていた。倒せるかどうかではなく、追うべきかどうか。戦わない判断も、仕事の一部だった。
夜まで捜索は続いたが、結局二頭は見つからなかった。
◇
最終的な人的被害がまとまったのは、日が暮れてからだった。
死者八人、重傷者六人、軽傷者十三人。避難中の交通事故や転倒による負傷も含めれば、被害者はさらに増える。家畜の被害、車両の破損、住宅や農業施設の損壊は、後から数えればいい。人間は戻らない。
会見で県の担当者は、五頭のうち三頭を駆除したと発表した。残る二頭については捜索を継続し、周辺地域へ警戒を要請する。不要不急の山林への立ち入りは禁止。単独行動を避け、目撃した場合は近づかず、撮影しようとせず、建物または車両内へ退避する。
そして、今回の個体には通常の肉食恐竜と同じ反応を期待しないこと。逃げれば追わないとは限らない。威嚇すれば退くとは限らない。車に乗れば必ず安全とも限らない。
それが、朝から二十数人の死傷者を出して得た教訓だった。
◇
夜の対策本部では、二頭の移動先が検討されていた。地図には目撃情報と足跡が時系列で書き込まれている。
「最後の痕跡はここです」
担当者が長野県南東部を指した。
「南東方向へ移動しています」
「群馬、山梨側は?」
「共有済みです。県警、自治体、登録ハンターへ警戒情報を出しています」
「道路を避けるとは限らない。夜間の検問は?」
「主要道だけです。山林までは塞げません」
誰も、完全な封鎖が可能だとは考えていなかった。三メートルの肉食恐竜は、自動車ほど大きくない。森を抜け、沢を渡り、道路を横切る。人間が引いた県境など知らない。
「東京と埼玉側にも情報を回してください」
一人が言った。
「東京もですか?」
「今すぐ行くという意味じゃない。群馬と山梨を抜けた場合、その先も考えておくべきです。群馬でも山梨でも人は多い。でも東京と埼玉、首都圏は桁が違う。人の密集地に入り込まれたら、銃が使えないまま戦うことになりかねない」
地図を見る。長野から群馬。さらに東へ進めば、東京都西部、そして八王子へつながる。
「了解。都庁と警視庁、埼玉県庁にも共有します」
警戒範囲が、また一つ広がった。
◇
同じ頃、御門は都内の研究室で長野の五頭の記録を見ていた。
五頭は同じ繁殖元から違法施設へ流れ、ほぼ同じ時期に育てられている。幼体期の記録には、現在のような異常行動は残っていなかった。それが成長するにつれて変わった。威嚇に対して引かない。人間へ近づく。一度対象を追い始めると長時間追跡し、負傷しても離脱しにくい。今日の映像は、それが管理施設の中だけで起きていた問題ではないことを証明してしまった。
御門は各地の異常個体の資料を並べた。小型種、中型種、そして海外で確認された大型種。
海外の報告は、日を追うごとに重くなっていた。南米の山間部では、人口二百人ほどの村が、大型肉食恐竜を含む群れに一晩で襲われ、翌朝の航空写真には、屋根の抜けた家と、焼け焦げた車しか写っていなかった。東アフリカの保護区の周辺では、柵のない集落がいくつも放棄され、住民は町へ逃げ込んだ。東南アジアの島では、小型の群れに水源地を押さえられた村が、救援の船が着くまでの四日間、外へ出られなかった。どの報告にも、同じ一文が添えられていた。現地の対処能力を超えている。
それに比べれば、日本はまだ持ちこたえていた。個体の登録制度があり、各地に登録ハンターがいて、警察も自治体も、事件が起きれば数時間で動ける。今日の長野も、八人の命が失われた。それでも、集落が丸ごと消えることはなかった。
けれど御門は、それを日本の仕組みが強いからだとは思っていなかった。事件の数が、まだ仕組みの限界を超えていないだけだ。海外の村々は、明日の日本の山あいの集落の姿かもしれなかった。
御門は、画面を海外の資料から国内の資料へ戻した。身体の大きさも、食性も、作られた施設も違う。感染症を示す共通所見はなく、同じ薬物も検出されない。遺伝的な系統も一つではない。
それでも、行動には似た異常性があった。恐怖そのものが消えているのではない。危険は認識しているし、音にも痛みにも反応する。それなのに、そこから離れるという判断へつながらない。
「ブレーキが弱まっている……。獰猛さを強める病気はあるけど、恐竜の一部の個体にだけ出るなんて、あるのかしら。狂犬病や類似のウイルスも、死体からは出なかったし……」
御門は小さく呟いた。攻撃するための何かが強くなっているというより、攻撃をやめる側の機能が弱くなっている。そう考えれば、これまでの映像とも合う。
ただし、それがなぜ起きるのかは別の問題だった。
御門は数年前の海底火山噴火に由来する地磁気観測データを開いた。異常個体の現在地と重ねても合わない。出生地へ戻すと少し近づき、幼体期の生息域まで遡ると、さらに近づく。しかし、まだずれている。場所だけではなく、時期も合っていなかった。現在いる場所で何かを浴びた直後に異常になる、という単純な現象ではない。もっと前に何かがあり、その影響が成長した後に表面化する。
そもそも現代の恐竜はかつてのオリジナルから遺伝子を取り出し、つぎはぎで再現したものだ。つまり、遺伝子という純粋な設計に基づき作られた生命ではない。
世代を重ねることで遺伝子は混ざり合い、カオスを形成し、行く末は未確定だった。
それこそ、ギリギリで均衡を保っていた生物としての設計を、外的要因によりほんの少し押されてしまえば、不具合がでて然るべきである。その不具合の原因はおおよそ見えてきた、あとは確証を得ることと、発生を防ぐための手段が暗闇に覆われている。
御門は椅子へ深く座り直した。画面には、長野で駆除された三頭の写真が表示されている。残り二頭は生きていて、今も移動している。原因を突き止めることと、目の前の二頭を止めることは別だった。研究者が答えを出すまで、現場は待ってくれない。
御門は端末を取り、長野で駆除された三頭について、脳組織を含む詳細な検体保存を依頼した。正常個体との比較も必要になる。出生から現在までの環境履歴も、可能な限り遡って集めてもらう。
送信を終えたあと、画面の隅に表示された被害者数を見た。
死者八人。
御門はしばらく、そこから視線を動かさなかった。やがて資料へ戻る。自身にできる最善を尽くして、止めるしかなかった。次に同じことが起きる前に。
◇
同じ夜、永田町の、ある建物の地下の小さな会議室には、まだ明かりが点いていた。
長机を囲んでいるのは、五人だけだった。内閣官房の副長官の一人である久我と、警察庁の警備局の幹部、防衛省の運用担当の審議官、内閣危機管理監室の若い参事官。そして、部屋の隅の椅子に、肩書きの紹介されなかった人物が一人、座っていた。
「長野の件は、報告のとおりだ」
久我は、手元の資料を閉じた。白髪を短く刈り込んだ、六十過ぎの官僚だった。
「死者八人。二頭は逃走中。同じ週に、北海道と九州でも事案が続いている。……海外の状況は」
参事官が、タブレットの画面を机の中央へ滑らせた。
「南米で集落一つが消滅。東アフリカで複数の村が放棄。欧州でも、農村部の避難区域が先月の倍に広がっています。どこの国も、軍を出して、それでも追いついていません」
「我が国は」
「持ちこたえています。今のところは」
参事官は、少し言葉を選んだ。
「ただ、今日の長野のような事案が、同じ日に三か所で起きれば、現場は回りません。自衛隊の派遣要請は、手続きだけで半日かかっている。その間に、次が起きます」
久我は、防衛省の審議官を見た。
「派遣の手続き、縮められるか」
「規程の運用で、ある程度は。要請を待たずに、部隊を事前に近くまで動かしておくことも、訓練の名目なら可能です。ただ……」
審議官は、言いよどんだ。
「大規模な事前展開には、毎回、どこからか待ったがかかります。費用がかかる、観光地の印象が悪くなる、地元の産業に配慮しろ、と。恐竜関連の業界から献金を受けている先生方が、何人かいらっしゃいますので」
警察庁の幹部が、低く息を吐いた。
「こちらも同じです。違法な飼育施設の捜査に踏み込もうとすると、必ずどこかで止まる。今回の長野の五頭も、依頼元をたどれば、どこに行き着くか、現場はおおよそ見当がついています。それでも、上へ上げると、慎重に、という言葉が返ってくる」
会議室が、しばらく静かになった。久我は、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「……その、慎重に、は、今夜で終わりにする」
三人が、顔を上げた。
「私の名前で、各省の該当する通達と指示を、全部洗い直させる。現場の判断を縛っているものは、一つ残らずだ。誰の顔を立てるための文言なのか、一行ずつ確認する。文句を言ってくる先生方には、私が会う」
「副長官、それは」
「分かっている。一晩ではびこった悪習と欲深どもの根を全部は抜けない。根は深く広い。だが、抜き始めなければ、ずっと刺さったままだ」
久我は、警察庁の幹部を見た。
「長野の依頼元は、相手が誰であっても、最後まで追ってくれ。必要なら、上は私と専門の人員が止めておく」
それから、防衛省の審議官へ。
「北海道と九州に派遣されている部隊の交代要員を、関東と関西、行けるなら中部に前もって置いておけ。名目は、何でもいい。次は、要請が来てから動くのでは遅い」
二人が、短く頷いた。
久我は、最後に、部屋の隅を見た。
肩書きのない人物は、会議のあいだ、一言も発していなかった。ただ、椅子に浅く腰かけて、机の上のタブレットに映る世界地図を眺めていた。
「そちらには、改めて頼みたいことがある」
久我は、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「国内がこれだけ混乱すれば、必ず、外から手が伸びてくる。恐竜を盗みに来る者、技術を盗みに来る者、混乱そのものを利用しようとする者。警察も自衛隊も、恐竜の相手で手一杯だ。人間の相手まで、手が回らない」
肩書きのない人物は、黙っていた。
「恐竜には、手を出さなくていい。それは、表の仕事だ。だが、国境の外から入ってくる人間の手は、一本残らず止めてくれ。……今まで以上に」
しばらくして、その人物は、小さく頷いた。
「承知しました」
それだけだった。声は低く、穏やかで、どこにでもいる会社員のようだった。その人物は立ち上がり、誰にも会釈せずに、会議室を出ていった。扉の閉まる音さえ、ほとんどしなかった。
参事官が、閉じた扉を見つめたまま、小さく言った。
「……あの方、どちらの」
「聞かないほうがいい」
久我は、眼鏡をかけ直した。
「名前のない部屋の住人だ。名前がないからこそ、人間相手なら無類のやりてと言える」
会議室の時計は、午後十一時を回っていた。
久我は、もう一度、机の上の世界地図を見た。赤い印が、大陸という大陸に散らばっていた。日本列島の上にも、いくつも。まだ、他の国ほど密集してはいない。けれど、来月には、どうなっているか分からなかった。
「……持ちこたえろよ」
久我は、誰にともなく呟いた。それは、現場のハンターたちに向けた言葉でもあり、警察官たちに向けた言葉でもあり、そして、自分自身に向けた言葉でもあった。
◇
午後十一時四十八分、長野県南東部に設置された山道の監視カメラが、二つの影を記録した。
一頭目が道路を横切り、少し遅れて二頭目が続く。どちらも止まらない。映像に人間はいなかった。二頭は道路を越え、そのまま暗い山の中へ消えた。
東進、カメラが映した方角の先には、群馬県、そして不夜城・東京があった。
第26章 ミスターアンドミセス ラプトル 了