午前六時四十分、群馬県に設置された対策本部には、すでに三種類の地図が並べられていた。
一枚は道路地図、一枚は地形図。最後の一枚には、長野県内で確認された足跡や監視カメラの映像、住民から寄せられた目撃情報が時刻とともに書き込まれている。数日前、違法輸送中の事故で逃げ出した五頭の中型肉食恐竜は、前日になって長野県内の人里へ現れ、大きな被害を出した。そのうち三頭はハンターによって駆除されたが、残る二頭は南東方向へ逃走し、深夜には県境付近の監視カメラに揃って映ったのを最後に、山林の中で位置を見失っている。
「状況を整理します。最終確認は昨夜二十三時四十八分、県境手前の山道。二頭を同時に視認しています。確度が高いのはここまでです」
県職員が地図へ磁石を置いた。
「以降は未確認情報。一時十三分、南東約七キロで大型動物らしき影。二時五十分、民家から家畜が騒いでいるとの通報。三時二十二分、さらに東でトラック運転手から目撃通報。いずれも裏は取れていません」
警察側から、それらが逃走個体で間違いないのかという質問が飛んだ。職員は首を振る。夜間の目撃情報は精度にばらつきがあり、二頭が今も一緒なのかさえ分からない。昨日からほとんど眠っていない者ばかりの室内だったが、その回答に不満を口にする者はいなかった。
通常の肉食恐竜なら、山林へ逃げ込んだ時点で危険度はある程度下がる。人間の活動圏から離れ、刺激を避ける方向へ動くことが期待できるからだ。しかし今回の二頭は、人間を見ても退くとは限らず、一度特定の対象へ注意を向けると異常なほど長く追い続ける。同じ施設から逃げた五頭が前日に多数の死傷者を出している以上、「山へ行ったからひとまず安心」と判断する選択肢はなかった。
「住民対応。該当区域の学校は本日休校、保育施設も休園。農作業は自粛要請を出していますが、従わない住民が出る前提で動いてください。主要な登山口は閉鎖済み、路線バスは一部運休です」
「林道は?」
「全線は塞げません。生活道路と兼用の区間があります。封鎖できているのは七割程度です」
別の職員が手を挙げた。
「SNSに「温泉恐竜を探しに来た」という投稿が出ています。位置情報は群馬県内。今回の二頭と温泉恐竜を混同している可能性があります」
会議室のあちこちで、疲れた顔がさらに疲れたものへ変わった。
「警察へ回してください。注意喚起の文面も更新を。黒色個体と今回の灰褐色二頭は別個体だと明記すること」
数人が同時に端末へ手を伸ばす。その様子を会議室の端から見ていた榊原宗一は、腕を組んだまま小さく首を振った。
「厄介な事態が始まったな、こればっかりは今の若いもんは、と言いたくなる」
「何がですか」
隣で資料を読んでいた御門優子が顔を上げると、榊原は地図ではなく、温泉恐竜を探しに来たという投稿が表示された端末を顎で示した。
「野次馬が入ってくる。ここからは恐竜より、人間を止めるほうに手を取られる。二本足の恐竜よりも、市街地が近ければ、えてして二本足のサルのほうがやっかいだ」
御門にも否定できなかった。
◇
午前七時のニュースは、どの局も長野の事件から始まった。
「昨日早朝、長野県の山間部で、違法に輸送されていた中型肉食恐竜五頭が集落に現れ、住民が次々と襲われた事件で、長野県は、死者が八人に上ったと発表しました。重傷者は六人、軽傷者は十三人です」
画面には、上空から撮った集落が映っていた。規制線の黄色いテープ。道の真ん中に止まったままの軽トラック。ブルーシートで覆われた一角。映像はそこで切り替わった。
「五頭のうち三頭は、県の要請を受けたハンターによって駆除されましたが、残る二頭は現在も見つかっていません。二頭は南東方向へ移動しているとみられ、群馬県は県北部の一部地域に屋内退避を呼びかけています」
亡くなった八人の中には、犬の散歩をしていた男性や、新聞を配達していた男性が含まれていた。近所の住民が、カメラの前で言葉を探していた。
「毎朝、同じ時間に、犬を連れてうちの前を通るんです。いつも、おはようって……」
声が途切れたところで、画面が切り替わった。
次に映ったのは、最初に恐竜に追われた配送車の運転手だった。顔は映らず、声も加工されている。
「窓は、開けませんでした。開けたら終わりだと思って。ずっと伏せて、警察の人と電話してました」
「専門家は、車の中にいる場合は窓やドアを開けず、身を低くして救助を待つよう呼びかけています」
画面は東都大学の研究者へ移った。
「今回の個体は、音や車両に対して退く反応が弱いことが分かっています。見かけても、追い払おうとしない。撮影しようとしない。近づかない。とにかく、建物か車の中に入ってください」
「警察は、横転したトラックの荷台から見つかった薬剤や器具などから、輸送の依頼元について捜査を進めています。また、インターネット上では、今回の個体と、各地で目撃されている黒色の大型個体、いわゆる「温泉恐竜」とを混同した投稿が相次いでいます。警察は、両者はまったく別の個体だとしたうえで、目撃情報を求めて現地を訪れることは絶対にやめるよう呼びかけています」
群馬の対策本部の隅でも、音を絞ったテレビが同じニュースを流していた。
誰も画面を見ようとはしなかった。それでも、死者八人という字幕だけは、部屋にいる全員の目に入っていた。
◇
【長野】中型肉食恐竜五頭逃走、死者八人【群馬警戒】Part4
001:名無しの観測者
長野で違法輸送中の中型肉食恐竜五頭が逃走、集落で死者八人
三頭駆除、二頭は逃走中。群馬県北部に屋内退避
※温泉恐竜とは別個体です
※現地に行くな。絶対に行くな
002:名無しの観測者
死者だけで八人か……死傷者じゃなくて、死者で八人なんだよな
003:名無しの観測者
朝起きてニュース見て固まった
犬の散歩してた人、毎朝同じ時間に同じ道歩いてたんだろうな
その「いつもの朝」の途中で、いきなり終わったんだと思うと、なんかもう、言葉が出てこない
004:名無しの観測者
違法輸送に関わった業者は全員実名と顔写真を公表しろ
運んだ奴も、依頼した奴も、買おうとしてた奴も全員同罪。八人殺したのと同じだろ
財産没収して、遺族に全部払わせろ。恐竜で金儲けしてる連中は一回痛い目見ないと分からない
警察が甘いなら、ネットで特定して晒すしかない
005:名無しの観測者
>>004
気持ちは分かるけど、運んでた側も死んでるらしいぞ
それにネットで特定とか晒すとか、それやって違う人を晒したらどうすんの
依頼元は警察がたどってる。私刑を煽るのはやめろ
006:名無しの観測者
中型肉食恐竜がこんなにやばいとは思わなかった
今まで、こんな被害出てなかっただろ
007:名無しの観測者
>>006
いままでの普通の個体は人間を避けるからな?
クラクション鳴らして人が集まれば、ほとんど山へ帰ってく
今回のがおかしいだけ
008:名無しの観測者
>>007
おかしいのが出てきてる時点で全部アウトだろ
人工恐竜なんか最初から作るべきじゃなかったんだよ
国内にいる個体、今すぐ全部殺処分しろ。山に何頭いるか知らんけど、自衛隊でもなんでも出して山ごと焼けばいい
人間が八人死んでるのに、恐竜の命がどうとか言ってる場合か
009:名無しの元ハンター
>>008
元登録ハンターだから少し書く
全頭処分は無理。国内に何十万頭いると思ってる。山に入って一頭ずつ探して撃つんだぞ。何年かかるか分からないし、その間に人手が全部そっちに取られる
山を焼くのはもっと無理。冬の乾いた山に火つけたら、恐竜より先に麓の町が燃える
それに、異常なのは今のところ一部だけ。ほとんどの恐竜は今も人間を避けて暮らしてる
怒る気持ちは分かる。でも、いちばん足りない人手を、いちばん要らないところに使うことになる
010:名無しの観測者
>>009
そうやって現場がのんびりしてるから八人も死んだんだろ
ハンターが無能だっただけじゃねえの。五頭相手に何やってたんだよ
011:名無しの元ハンター
>>010
中型(三メートル級)は、普通ならクラクションと人数で十分下がる。今回の映像見たけど、撃たれても寄ってくるのは本当に異常
最初に現場に入れたのは九人。五頭がばらばらに散ってる状態で三頭止めて、ハンター側の死者なし
無能って言うなら、あんたが行ってくれ。本気でそう思う
012:名無しの観測者
>>011
でも八人死んでるんだぞ
013:名無しの元ハンター
>>012
分かってる。さっきの書き方は悪かった
「よくやった」じゃなくて「あれ以上は無理だった」って書くべきだった。すまん
014:名無しの観測者
なんで最初から麻酔で捕まえないの? 殺す必要ある?
恐竜だって好きで逃げたわけじゃないだろ。違法輸送の被害者みたいなもんじゃん
015:名無しの観測者
>>014
麻酔は効くまで時間がかかる。効くまでの間、そいつは走り回る
住宅地に五頭いて、それやる?
そいつが走り回ってる間に、お前の家族の前に出てきたらどうする
016:名無しの観測者
>>014
自分の家の前にいても同じこと言えるか
被害者みたいなもんってのは分かるよ。俺もそう思う。でも、それと人を食う恐竜を放っておくのは別の話だろ
017:名無しの子持ち
群馬県南部に住んでて、こっちはまだ警報出てないけど今朝は子供を学校休ませた
二頭がどこに行ったか分からないのが一番怖い
大型と違って、中型って見つからないのがこんなにヤバいとは思わなかった
登校班の旗振りしてる近所のおじいちゃんに、今日は休みますって電話したら、それがいいって言ってくれた
018:名無しの観測者
学校休校とか生ぬるい。群馬県北部の住民は全員、今すぐ強制的に避難させろ
二頭がどこにいるか分からないんだろ? じゃあ全部危ないってことだろ
知事は何やってんだよ。対応が遅すぎる。死人が出てからじゃ遅いんだよ。辞職しろ
019:名無しの観測者
>>018
全員避難って、どこに何万人を移すの。バスは? 受け入れ先は? 寝たきりのお年寄りは?
動かすほうが危ない人もいるんだよ。屋内退避が出てるのは、そういうこと全部考えた結果だろ
020:名無しの観測者
>>018
死人が出てからじゃ遅いって、もう八人死んでるんだよ
怒る相手、間違えてないか
021:名無しの観測者
群馬の北のほう住み。防災無線が朝から鳴りっぱなし
畑に行こうとしたじいちゃんを止めた。めちゃくちゃ怒られたけど、玄関の前に座り込んで止めた
022:名無しの観測者
>>021
えらい
畑は逃げないけど、じいちゃんは逃げ切れない
人の味を覚えたり、狩りやすい食料だって学習されたら、それこそ終わりだ
023:名無しの観測者
温泉恐竜も同じ違法輸送のやつなんじゃないの?
っていうか、黒いのが一番危ないと思ってる。人間に慣れた肉食とか最悪だろ
福島の件だって、たまたま赤いのと獲物の取り合いしてただけかもしれないじゃん
英雄扱いしてる奴らは、あの黒いのが自分の子供を食ったときも同じこと言えんの? 今のうちに駆除しとけ
024:名無しの観測者
>>023
テンプレ読め。別個体
それに、福島の映像見てないだろ。母娘の前に立って、赤いのと戦って、ハンターと一緒に倒してる
獲物の取り合いで、わざわざ人間の前に立つ肉食恐竜がいるか?
025:名無しの観測者
>>024
それも憶測だろ。どっちも本当のところは分からん
でも今その話をするスレじゃない。長野の二頭の話をしてくれ
026:名無しの観測者
温泉恐竜って青森から南下して栃木で見つかったじゃん、だから探しに群馬来たw
逃げたやつらもついでに見れたらラッキー
配信もするから、みんな見に来て
027:名無しの観測者
>>026
通報した
028:名無しの観測者
>>026
八人死んでるスレでよくそれ書けるな
こういう奴は襲われても助けなくていい。完全に自己責任
むしろ一回恐竜に喰われて、反面教師になってくれ
029:名無しの観測者
>>028
それは言いすぎ。こいつが山で動けなくなったら、助けに行くのはハンターと警察なんだぞ
こいつが痛い目を見ればいいんじゃない。こいつが来なきゃいいんだよ
030:名無しの警察関係者(自称)
自称でいいから書く
現場に野次馬が来ると、封鎖と誘導に人を取られる。一人来れば、一人分の警官がそっちへ行く。その分だけ捜索が遅れる
襲われたら、当然助けに行く。助けに行くのが仕事だから。そのあいだ、封鎖線が一つ空く
本当に頼むから来ないでくれ
031:名無しの観測者
>>030
自称って付けるところに好感が持てる
032:名無しの観測者
ハンターって何人いるの? 九人で五頭ってきつくない?
033:名無しの元ハンター
>>032
きつい。県がすぐ出せる人数なんて、だいたいそんなもん
今日の群馬はもっと集めてるはず。それでも人はいつも足りてない
034:名無しの観測者
亡くなった人の中に、新聞配達の人もいたって
いつもの朝だったんだろうな
035:名無しの観測者
>>034
うちも毎朝来てくれる
さっきポストに新聞が入る音がして、なんか泣きそうになった
今日も来てくれたんだって思ったら、急に怖くなった
036:名無しの観測者
テレビの専門家、「追い払おうとしない、撮影しない、近づかない」ってずっと繰り返してた
何回も言うってことは、そういうことなんだろうな
037:名無しの観測者
残りの二頭どこ行ったんだろうな
038:名無しの観測者
>>037
見つかってくれ
これ以上、誰も死なないうちに
スレッドは、そのあとも伸びていった。
◇
午前七時十八分、御門は警察車両に乗って現地へ向かった。
前日に駆除された三頭については、すでに専門施設で組織採取が始まっている。本来なら御門もそちらへ張りつきたかったが、現在進行形で逃走している二頭については、現場でしか拾えない情報が多すぎた。どこを通り、何を避け、どのような地形を選んでいるのか。異常な攻撃行動と移動行動に関連があるかを調べるには、痕跡が新しいうちに確認する必要があった。
車が止まったのは、山際にある小さな農道だった。入口を警察車両が塞ぎ、その先には規制線が張られている。御門は長靴と防護装備を確認してから現場担当者と中へ入り、ぬかるんだ畑の端に残された足跡の前でしゃがみ込んだ。
「ここを通ったのは一頭分。ただ、単独での通過とは断定できません。もう一頭が別の経路を取った可能性は残ります」
スケールを置いて撮影し、前日に記録された五頭の足跡と大きさを比較する。さらに先へ進むと低木の枝が新しく折れ、その向こうでは農地を囲う金網が大きく歪んでいた。
「出血痕は?」
「確認されていません」
「突破したというより、押したら動いたのでそのまま抜けた、という跡ですね。これだけで知能は評価できません」
「それ、昨日のオンライン会議でも何度か言ってましたね」
「言わないと皆さん、すぐ賢くしたがるので」
現場担当者が少し笑った。
御門は立ち上がって周囲を見渡した。山と畑、その間を縫う農道、点在する住宅。人間にとっては私有地、市町村、県、道路管理者と境界だらけの場所だが、恐竜にとっては地面が続いているだけだった。
「この先は沢、その向こうが林道です。ドローンを二機上げていますが、熱源反応は今のところ鹿だけです」
担当者の言葉に、御門は空を見上げた。山の上を小型ドローンが飛んでいる。相手は二頭なのに、行政や警察まで含めれば百人を超える人間が、その位置を知るためだけに動いていた。
それでも、見つからない。
◇
同じころ、榊原は別の場所でハンターたちを集めていた。
応援を含め、現地へ入った登録ハンターは十五人。全員が長野での戦闘映像と報告書に目を通しており、逃走中の二頭が通常の肉食恐竜と同じ反応をするとは考えていなかった。榊原は車のボンネットへ地図を広げ、全員が位置関係を確認するまで待ってから話し始めた。
「長野の映像は全員見たな。あれの再現はするな。昨日は住宅地に出た個体を、その場で止める必要があった。今日は条件が違う。こっちから山へ入って追い回す必要はない」
「でも、居場所が分からないと始まらないでしょう」
「居場所はドローンとカメラが探す。俺たちは出口を塞ぐ」
榊原は地図上の沢筋を、指で三本なぞった。
「集落側へ抜けられる沢はこの三本だ。各班、この線より山側へは入るな。ここが封鎖線だ」
山へ深く入り込ませれば、こちらも追跡のために人員を割かなければならない。逆に住宅地へ押し出せば、今度は住民を巻き込む。榊原が引いた線は、その二つの間にあった。
「優先順位を言っておく。一つ、人のいる側へ出さない。二つ、全員帰る。三つ、駆除。順番を間違えるな」
何人かが頷いた。
「山の中で見つけても単独で仕掛けるな。駆除許可が出てるからって、射線が取れたら撃っていいわけじゃない。撃つのは、背中に人家がないときと、二人以上で狙えるときだけだ。長野でどうなったかは知ってるな。こいつらは手負いになっても素直には退かない。手負いのまま住宅地へ抜けられたら、それが一番まずい」
山馬が神妙な表情で手を挙げた。
「二頭同時に出た場合はどうしますか」
「撃つな。位置を知らせて下がれ。向こうから来たら、生きて帰ることを優先しろ。一般人が襲われてるなら別だが、そうでなけりゃ撃つかどうかは俺が決める。一人で抱え込むな」
榊原は地図を軽く叩いた。
「二頭とも止めて、全員帰る。以上。質問は」
誰も手を挙げなかった。
◇
午前九時を過ぎるころには、対策本部の仕事量が恐竜の数とまったく釣り合わなくなっていた。
九時十二分、大型肉食恐竜が道路を横切ったという通報を受けて警察とハンターが向かったが、現場に残っていたのは大型草食恐竜の足跡だった。九時二十九分には物置の裏で大きな音がしたという通報が入り、確認するとイノシシだった。
九時四十一分には、黒い恐竜を撮影したという写真が届いた。
「……温泉恐竜じゃねえか」
画像を確認した職員が呟いた。本当に黒い。しかも肩には見覚えのある大きなスポーツバッグまである。
「写真の撮影日時と場所は?」
「三日前の栃木です」
「関係ない!」
怒鳴った直後、別の電話が鳴った。
「はい、恐竜対策本部です。……落ち着いてください。色は? 灰色? 大きさは……犬くらい? それは今回の個体ではありません。ただし近づかないでください。いえ、犬くらいでも恐竜には近づかないでください」
電話を切る前に隣の電話が鳴り、さらに無線が入った。航空監視班から映像が届き、道路管理者から倒木の報告が来る。学校からは保護者への通知内容について確認を求められ、ハンター側からは配置変更の要請、市役所からは高齢者世帯への戸別訪問をどうするかという問い合わせが入った。
探している恐竜は二頭しかいなかった。
人間側には、その二頭を探すための仕事が数百個あった。
大半の人間は、この狂暴化に伴う事件の増大が、いまに人間のキャパオーバーが目前に迫っていることを感じていた。人間が一方的に共存・すみわけできていると思っていた、今の社会はもろくも崩れそうになっていた。
◇
午前十時十七分、ようやく本物が見つかった。
「航空監視班より本部。林道第四カメラ、九時五十八分の記録に灰褐色の個体一。進行方向、南東」
群馬県側へ入った林道の監視カメラに、灰褐色の身体が一頭映っている。映像が確認された時点ですでに十九分が経過していたが、これで少なくとも一頭が県境を越えたことは確定した。
対策本部の地図に新しい印が置かれ、付近のドローンとハンター班が移動を始める。御門が調査していた場所も近かったため、本部から即座に退避指示が飛んだ。
「本部より御門先生。目撃地点に近すぎます。車両へ戻ってください」
「嫌です、戻りません」
無線から返ってきた声に、室内の何人かが顔を上げた。
「現在地から目撃地点まで三・八キロ。間に沢があります。警察の同行もあります。それより、こちらで新しい痕跡を見つけました。昨夜の経路が割れれば、二頭目の位置も絞れるかもしれません」
別回線から榊原が割り込んだ。
「御門、車まで何メートルだ」
「目算ですが200メートル」
「なら、それ以上離れるな。決してすぐに戻れる範囲から出るな。山側へも入るな」
少し間があった。
「了解しました、すみやかに撤退できる距離を維持します」
「ずいぶん素直だな」
「現場の判断は、榊原さんのほうが正しいので」
「一言多いんだよ」
通信が切れると、指揮担当者が榊原のいる回線を見た。
「あの厄介な先生の扱い、慣れてますね。心強いです」
「いいか、困っても俺に振るなよ」
◇
御門が見つけたのは、沢の脇に残った一頭分の足跡だった。
歩いてきた跡が水際で集中し、同じ場所を何度か踏んだあと、上流側へ向きを変えている。警察官が水を嫌ったのではないかと尋ねると、御門は返事を急がず、上流へ双眼鏡とレーザーポインターを向けた。
数十メートル先に、倒木が沢を跨いでいる。
「望遠で根元を撮ってください、あのポインターのあたり」
撮影した画像を拡大すると、泥と爪痕が残っていた。反対側にも同じ跡がある。
「沢を渡っていますね」
「倒木を橋にしたんでしょうか?」
「そこまでは言えません。沢沿いに移動した結果、たまたま渡れる場所に行き当たっただけかもしれない。「橋を探した」と判断するには材料が足りません、恐竜がこの程度の沢をいやがるとも思えませんし」
御門は画像と位置情報を本部へ送った。ほどなく榊原から通信が入った。
「どうだ、痕跡は一頭分だけか?」
「はい、現時点では」
「なら、別れた可能性が高いな。一頭ずつなら危険が半分、とはならない。探す場所が二つになる。ドンパチやっているところに乱入されれば厄介だ」
「同じ意見です、単純に捜索範囲が二倍になります。必要な人員数は三倍でしょう」
二頭まとまっていれば、遭遇した際の危険度は高い。しかし捜索する側からすれば、一つの場所を追えばよかった。別行動を始めたのなら、人員も監視網も分散させなければならない。
いつだって、野生は人の予想などたやすく飛び越え行くのだと、ここに至ってもまだ誰も気が付いていなかった。
第27章 キャッチ ラプトル イフ ユーキャン