いっぽう、男と二号は群馬の山中にいた。泥酔した男を救助したあと、栃木県を抜けて西へ進み、関東平野の人口密集地を避けるべく大回りして群馬の山中を移動している。赤城山を経由して伊香保温泉へ向かい、その後は埼玉県西部の山沿いを南下する予定だった。
救助代金として勝手に拝借してきた高級そうな日本酒が、バッグの中で揺れている。
(アルコールってどうなんだろう? 飲めるのか、そもそも代謝できるのか)
人間だったころも、アルコールにはそこまで強くなかった覚えがある。もはやおぼろげになりつつあるかつての飲み会では、日本酒や焼酎よりも、ビールなどの低度数の酒を好んでいたと思う。今の身体になってからは当然一滴も飲んでおらず、そもそも人工的に生み出された肉食恐竜に、人間と同じアルコール代謝能力が備わっているのかさえ分からなかった。
(周辺に気配はないし、ここから先に進めば人も増えて、試す機会もなさそうだ。ちょっと舐めてみるか……)
男は日本酒の瓶を前肢で押さえつつ、二号に栓を引っ張ってもらった。きゅぽん、と気持ちのよい音が響いた直後、芳醇な甘みを思わせる香りと、アルコール特有の刺激臭が漂ってくる。近くにあった岩のくぼみをペットボトルの水で洗い、落ち葉や砂を取り除いてから、そこへゆっくりと酒を注いでみた。
(おっとっとっと、もったいない。少しだけ、少しだけ)
透明な液体が岩肌を伝い、小さなくぼみの底に溜まっていく。瓶を傾ける加減が難しく、思ったより多く出てしまったが、それでもせいぜい数十ミリリットルといったところだった。男は慎重に瓶を起こすと、栓を戻してバッグの奥へしまった。
その様子を、二号が興味深そうに眺めていた。
「ぴ?」
(いや、お前は駄目だぞ)
二号がくぼみに鼻先を近づけたので、男は前肢を差し出して進路を塞いだ。小さな相棒は不満そうに鼻を鳴らしたが、酒の匂いを嗅いだ途端、妙な顔をして後ずさった。
「ぴっ」
(だろうな。俺も正直、ちょっと不安だ)
男は改めて岩のくぼみを覗き込んだ。
人間だったころなら、酒を飲むのにこれほど大げさな準備は必要なかった。グラスへ注いで口をつければ済む話だが、今の自分にはグラスを扱うのも一苦労である。ましてや、鋭い牙の並んだ口で瓶から直接飲もうものなら、ガラスを噛み砕いてしまうかもしれない。
(……なんか、野生動物の水飲み場みたいだな)
実際、そうなのだから仕方がない。
男は腹ばいになると、くぼみへ顔を近づけた。水とは明らかに違う香りが鼻腔へ入り込み、反射的に少し顔を引く。人間のころはそれなりに好ましく感じていた酒の匂いも、嗅覚が鋭くなった今では、随分と強烈だった。
(まあ、ほんの一口なら)
長い舌の先を、液面へそっと触れさせた。
ぴちゃり、と小さな音がした。
次の瞬間、男は勢いよく頭を引いた。
(うおっ、濃い!)
舌先に広がったのは、米由来と思われる柔らかな甘みと、複雑な香り、そして喉を刺激するアルコールの感覚だった。酒そのものが極端に辛いわけではない。むしろ人間だったころの感覚なら、かなり飲みやすい部類に入るのだろう。しかし、肉の味や血の匂いに慣れきった現在の味覚にとって、発酵した米から生まれる風味はあまりにも異質だった。
男はしばらく口を半開きにしたまま、舌を動かしていた。
(……あれ?)
最初の刺激が引くと、後からじんわりと甘みが戻ってきた。
(いや、これ、うまいんじゃないか?)
思わず、もう一度くぼみへ顔を近づける。
今度は先ほどより慎重に、舌の表面へ少量を含ませた。口内へ広がる香りを確かめながら、ゆっくりと飲み込む。喉の奥を通り過ぎたところで、胸のあたりにほのかな温かさを感じた。
(おお……日本酒だ)
当たり前の感想だった。
しかし、その当たり前が妙に嬉しかった。
青森の山中で目覚めてからというもの、男の食生活は大きく変わっていた。生肉を食べ、獲物を追い、時には骨ごと噛み砕く。人間だったころには考えられなかった食事にも、今ではすっかり慣れている。それでも、コーラの甘さや温泉上がりの飲み物に喜びを感じるあたり、かつての味覚が完全に失われたわけではないらしい。
そして、どうやら日本酒もその仲間に入るようだった。
(高そうなだけあるな。あのおっさん、なかなかいい酒を持ってたじゃないか)
男は満足げに喉を鳴らした。
もっとも、その酒の持ち主がどう思うかは別問題である。泥酔していたところを助けたとはいえ、勝手に酒を持ち去ったことに変わりはない。人間だったころの自分なら、窃盗だと指摘されても反論できないだろう。
(……救助費用ということで、ひとつ)
男は心の中で、見知らぬ酒の持ち主に手を合わせた。
もちろん、前肢を合わせると爪が邪魔になるので、実際には何もしていない。
◇
さて、問題はここからだった。
男は酒の味を楽しみながらも、身体の変化を注意深く観察していた。アルコールが毒として作用する可能性は否定できず、肝臓がどの程度処理できるのかも分からない。体重が人間だったころの何倍にも増えているからといって、酒に強くなったと決めつけるのは危険だった。
幸い、舐めた程度の量では、目立った異常は起きなかった。
呼吸は普段どおりで、視界もはっきりしている。心拍が少し速くなったような気もするが、慣れない酒を飲んだ緊張によるものかもしれない。四肢の動きにも問題はなく、立ち上がって数歩歩いてみても、ふらつく様子はなかった。
(……よし。少なくとも即効性の毒ではなさそうだ)
もっとも、これで安全性が確認できたわけではない。男はそのことを理解していたが、岩のくぼみに残った酒を見ると、少しばかり惜しい気持ちになった。
(せっかくの高級酒だしなあ)
もう一度だけ、舌を伸ばした。その瞬間、二号が横から顔を突っ込んできた。
「ぴっ!」
(だから、お前は駄目だって!)
男は慌てて前肢を差し込み、二号の鼻先を押し戻した。二号は不満そうに鳴きながら身体をよじり、今度は反対側からくぼみへ回り込もうとする。男がそちらを塞ぐと、今度は背後へ回り、尾の下をくぐって近づこうとした。
(こらこら、そんなに欲しいのか。さっき匂い嗅いで嫌がってただろうが)
どうやら二号は、酒そのものよりも、男だけが何か特別なものを楽しんでいることが気に入らないらしかった。男が顔を近づけると自分も近づき、男が舌を伸ばすと真似をしようとする。その仕草は、獲物の食べ方を学ぼうとする幼体にも見えた。
男はしばらく考えたあと、バッグからペットボトルの水を取り出した。
そして、少し離れた別の岩のくぼみへ注いでやった。
「ぴ?」
二号は不思議そうに水面を見つめたが、男が自分の酒を舐める仕草を見せると、すぐに真似をして水を飲み始めた。
(よしよし。そういうのでいいんだよ)
二号は満足そうに喉を鳴らした。
男はその様子を眺めながら、ふと考えた。
(……これ、完全に子供と晩酌してるお父さんだな)
もちろん、自分に子供はいない。
それどころか、現在の身体が生物学的に何歳に相当するのかさえ、よく分かっていなかった。
しかし、こうして山奥で二号と並んでいると、不思議と落ち着いた気分になる。危険な恐竜が徘徊する山林の中で、片方は高級日本酒を舐め、もう片方は岩のくぼみから水を飲んでいる。傍から見れば奇妙な光景だろうが、少なくとも当人たちは満足していた。
(……悪くないな)
男は、残りの酒をもう一口だけ味わった。
芳醇な香りが口の中に広がる。
そして、数秒後。
(……ん?)
男は首を傾げた。何となく、身体が温かい。
最初は気のせいかと思ったが、胸の奥からじんわりと熱が広がってくるような感覚があった。外気温は低く、周囲にはまだ冬の名残があるというのに、妙に心地よい。先ほどまで張り詰めていた肩の筋肉も、少し緩んできた気がする。
(おお、これが酒か。久しぶりだなあ)
懐かしい感覚だった。
人間だったころ、仕事帰りに飲んだビールのことを思い出す。何か特別な出来事があったわけでもない。ただ、疲れた身体で椅子に座り、冷えた飲み物を口にして、ようやく一日が終わったと感じる。そんな平凡な時間が、かつての自分にも確かにあった。
男は、目を細めた。
(……帰りたいなあ)
不意に、そんな思いが浮かんだ。
もちろん、今も帰る途中である。青森からここまで南下し、ようやく関東地方へ入った。八王子まではまだ距離があるものの、出発したころに比べれば、確実に近づいている。
それでも、酒のせいか、妙に人恋しくなった。
家族の顔がおぼろげに浮かぶ。
父親の声。母親の料理。妹の遠慮のない物言い。実家の居間に置かれていたソファや、何年も使っていた食器棚の位置まで、次々と思い出された。
(意外と忘れてないもんだなぁ。帰ったら、何しようかな。パソコンと棚の奥の件はさておき)
男は岩に顎を載せた。
まずは、家族に会いたい。それから、風呂に入りたい。できれば、コーラも飲みたい。そして、何かうまいものを食べたい。
(餃子なんかいいな。焼きたてのやつ)
思い浮かべた途端、腹が鳴った。
男は思わず苦笑した。
(……さっき食ったばかりだろうが)
この身体になってから、食欲だけは一向に衰える気配がなかった。体長が四メートルを超えてなお成長が続いていることを考えれば、仕方のないことなのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、二号が水を飲み終えた。
「ぴ、ぴ」
小さな相棒は男の隣へやってくると、当然のように身体を寄せてきた。男は尾を少し動かして場所を空け、二号が座りやすいように姿勢を変えた。
しばらく、二頭は何もせずに過ごした。
山の向こうから風が吹き、木々の梢が揺れる。遠くで鳥が鳴き、落ち葉の下を小動物が走る気配がした。人間の生活音は聞こえず、ここが関東地方であることさえ忘れてしまいそうな静けさだった。
男は、残っていた日本酒を見つめた。
(……さて)
もう少し飲みたい気もする。
しかし、ここは安全な家の中ではない。山中には野生化した恐竜がいるし、何より二号を守らなければならない。酔って判断力が鈍れば、それだけで命取りになる可能性があった。
(今日はここまでだな)
男はくぼみに残った酒を飲み干すことなく、瓶をしっかり閉めてバッグへ戻した。残った液体は岩の表面を伝って地面へ流れ、ほのかな酒の香りだけがその場に漂った。
(続きは、もっと安全な場所で)
そう考えたところで、男はふと気づいた。
(……いや、実家に帰ったら飲めるのか?)
家族の前で、四メートルを超える肉食恐竜が日本酒を飲む。
想像してみた。母親は怒るだろうか。父親は一緒に飲もうと言うだろうか。
妹は間違いなく写真を撮るだろう。
(……絶対、ネットに上げるなよ)
まだ会えてもいない妹に、心の中で釘を刺した。
それから男は、ゆっくりと立ち上がった。
多少身体が温かく感じられるものの、動きに異常はない。念のためもう一度歩き方を確かめ、周囲の気配を探る。二号もすぐに立ち上がり、いつものように男の後を追う準備を整えた。
「ぴっ」
(よし、行くか)
男はバッグを咥え直し、山道へ向かって歩き始めた。
目的地は、伊香保温泉。
日本酒の味を覚えたところで、温泉への情熱が薄れるわけではない。むしろ、久しぶりに人間らしい嗜好品を楽しんだことで、温泉へ入りたい気持ちは一層強くなっていた。
(日本酒に温泉か……)
男は、ふと足を止めた。
(……いや、さすがに飲酒後の入浴は危ないな)
人間だったころの常識が、こんなところで役に立った。
今の身体でも同じ危険があるかどうかは分からないが、少なくとも試す必要はない。伊香保へ着くころには十分時間が経っているだろうし、何より温泉そのものを楽しめれば、それで満足だった。
男は鼻を鳴らし、再び歩き出した。
その後ろを、二号が軽快な足取りでついていく。
群馬の山中には、まだ冬の冷たい風が吹いていた。しかし男の気分は悪くなかった。バッグの中には飲みかけの高級日本酒があり、隣には元気な相棒がいて、進む先には温泉が待っている。
そして、そのずっと向こうには、家族のいる八王子があった。
(……帰ったら、みんなで乾杯でもするか)
男はそんなことを考えながら、木々の間へ消えていった。
◇
その夜、群馬の対策本部の奥に借りた小さな会議室で、御門は一人、ノートパソコンの前に座っていた。
研究班の臨時の作業部屋として、机を二つと折り畳み椅子を三脚だけ置かせてもらった部屋だった。壁際には採取した試料の保冷箱が積まれ、ホワイトボードには長野の五頭の行動記録が、細かい字でびっしりと書き込まれている。時計は、午後十時を回っていた。
栃木県警から転送されてきたファイルを開いたのは、ほんの気まぐれだった。件名は、恐竜による人命救助の事案について(参考送付)。最初は、二頭の件とは関係ないと思って後回しにしていた。長野の資料を一区切りつけて、冷めたコーヒーを一口飲み、何気なく開いた。
最初の一行で、手が止まった。
栃木県北部の山中で泥酔し、低体温状態にあった会社員を、黒色の肉食恐竜が麓の交番まで搬送。
御門は、添付の動画を開いた。交番の軒先の、防犯カメラの映像だった。
画面の端から、黒い恐竜が現れる。前肢に、ぐったりとした人間を抱えている。恐竜は、街灯の下にその人間をそっと寝かせた。地面に頭がぶつからないように、最後まで前肢を添えていた。それから、口に咥えていた瓶を、雪の上に置いた。
そして、カメラのほうを見た。黒い恐竜は、ゆっくりと、頭を下げた。
御門は、映像を止めた。巻き戻した。もう一度、再生した。
頭を下げている。間違いなく。カメラに向かって。ここに人間の目があることを分かったうえで、その目に向かって、頭を下げている。
映像の中で、黒い恐竜は交番の扉へ近づき、前肢の爪で、扉を叩いた。
こん、こん。
音声まで、はっきりと記録されていた。御門は、また映像を止めた。
扉を、叩いている。二回。間を置いて、もう二回。扉の向こうに人がいることを知っていて、その人を呼ぶために、叩いている。扉を叩くという行為が、人間の社会でどういう意味を持つのかを、理解したうえで。
警察官が扉を開けた。黒い恐竜は、街灯の下の人間へ鼻先を向けた。警察官の視線がそちらへ動くのを待って、もう一度、鼻先で示した。それから、瓶を咥え直し、小さな恐竜を連れて、画面の外へ去っていった。
添付資料は、まだあった。病院で意識を取り戻した会社員の、聞き取りの記録だった。
『温泉に浸かってたら、黒い恐竜がいて、一緒に入りました。俺の話を、最後まで黙って聞いてくれました。泣いてたら、隣にいてくれました。肩組んで、写真も撮りました。すげえ困った顔してました』
御門は、その一文を、三回読んだ。
すげえ困った顔してました。すげえ困った顔してました。すげえ困った顔してました。
困った顔。困惑。人間に肩を組まれて、困惑する肉食恐竜。
御門は、ノートパソコンの横のメモ帳を引き寄せた。冷静に、と自分に言い聞かせた。記録すべき項目を、一つずつ書き出していく。搬送行動。対象の保護を優先した姿勢。防犯カメラへの反応。扉を叩く行為の反復。人間の音声に対する反応。持ち去り行動(酒瓶)。
酒瓶。御門は、ペンを止めた。黒い恐竜は、救助した人間の酒を、持っていったのだ。おそらく、勝手に。
救助費用、だろうか。そんなことを考えるのは、研究者のやることではない。観察された行動から、意図を推測するのは慎重でなければならない。分かっている。分かっていた。
けれど、頬が、勝手に緩んだ。
鼻の奥が、熱くなった。
あ、と思ったときには遅かった。メモ帳の上に、赤いものがぽたりと落ちた。御門は慌ててティッシュを引き抜き、鼻に押し当てた。押し当てたまま、もう一度、映像を再生した。
黒い恐竜が、頭を下げる。
こん、こん。
気がつくと、御門は椅子から立ち上がっていた。
鼻にティッシュを当てたまま、狭い会議室の真ん中で、両手を小さく握りしめていた。足が、勝手に床を踏み鳴らした。右へ二歩。左へ二歩。くるりと、その場で一回転。白衣の裾がふわりと広がった。
「……ノック……ノックした……」
声が、震えていた。
「二回……間を置いて、二回……っ」
もう一回転した。それから、両手を天井へ突き上げた。会議室の扉が、開いた。研究班の佐倉が、両手に湯気の立つ紙コップを二つ持って、立っていた。
二人の目が、合った。
鼻にティッシュを詰め、両手を天井へ突き上げ、片足を浮かせたまま止まっている上司。その足元の床に、点々と散った赤い染み。佐倉は、何も言わなかった。
表情一つ変えずに、紙コップを二つ持ったまま、静かに一歩下がった。そして、音を立てないように、ゆっくりと扉を閉めた。
かちゃり、と、扉の閉まる音がした。
御門は、両手を天井へ突き上げたまま、しばらく動けなかった。やがて、扉の向こうで、控えめな音がした。
こん、こん。
……ノック……ノックした……二回……間を置いて、二回……っ! ザワ……ザワ……慮外の行為、埒外の振る舞い! まさかの無言の退出からの再訪ッ!
「……先生。コーヒーと、ティッシュの箱、扉の前に置いておきますね」
佐倉の足音が、廊下を遠ざかっていった。
御門は、ゆっくりと両手を下ろした。鼻のティッシュを、新しいものに替えた。それから、誰もいない会議室で、小さく咳払いをした。
御門は扉を開け、廊下に置かれたコーヒーとティッシュの箱を回収した。それから椅子に座り直し、もう一度だけ、黒い恐竜が頭を下げる場面を再生した。今度は、踊らなかった。そのかわり、メモ帳の一番上に、少しだけ震える字で書き足した。
この個体は、人間に助けを求めるということを知っている。
◇
同じころ、実家の自分の部屋で、三浦健一は、スマートフォンの画面を前に、もう三十分も固まっていた。
画面には、SNSの投稿画面が開いていた。添付してあるのは、一枚の写真。湯気の立つ野湯で、酒瓶を掲げて満面の笑みを浮かべる自分と、首に腕を回されて、明らかに困った顔をしている黒い肉食恐竜。下のほうでは、小さな恐竜が湯から顔を出している。
本文の欄には、こう打ってあった。
『人生最後のつもりで入った温泉で、温泉恐竜と混浴しました。命の恩人です』
あとは、投稿のボタンを押すだけだった。
押せば、どうなるかは分かっていた。たぶん、とんでもなくバズる。温泉恐竜が人間と肩を組んで写っている写真なんて、世界中の誰も持っていない。テレビ局から連絡が来るかもしれない。会社の同期は腰を抜かすだろう。半年間、詐欺師に騙されていた間抜けな会社員が、一晩で、温泉恐竜に助けられた男になる。
悪くない、と思った。正直に言えば、ちょっと押したかった。
健一は、投稿ボタンの上で親指を止めたまま、もう一つの画面に切り替えた。夕方から、ずっと開いたままにしていたニュースの画面だった。
『長野の中型肉食恐竜、死者八人に 逃走中の二頭、群馬へ』
その下に、関連記事が並んでいた。
『「温泉恐竜を探しに来た」SNSに投稿相次ぐ 警察「現地に行かないで」』
健一は、その記事を開いた。群馬の山へ、温泉恐竜を探しに来たという投稿が、何件も紹介されていた。写真付きのものもあった。立ち入り禁止の看板の前で、笑ってピースをしている若者。逃げた二頭がまだ見つかっていない山に、わざわざ入っていく人間たち。
記事の最後には、警察のコメントが載っていた。野次馬が来れば、その対応に人員を取られ、捜索が遅れる。
健一は、自分の写真を見た。これを上げたら、どうなる。
温泉恐竜は人に懐く。一緒に温泉に入れる。肩だって組める。そう思う人間が、きっと何人も出てくる。あの黒い恐竜を探して、山に入る人間が増える。今、山には、人を襲う恐竜が二頭うろついているのに。
それに、あの温泉。
写真の背景には、あの岩場が写っている。湯気の向こうの岩の形や、沢の流れを見れば、詳しい人間なら場所の見当をつけるかもしれない。友人がこっそり教えてくれた、地元の人間でも滅多に行かない場所だった。そこへ、写真を見た人間が押し寄せる。ごみを捨てていく。騒ぐ。もしかしたら、誰かが怪我をして、また誰かが助けに行かなければならなくなる。
あの黒い恐竜が、静かに湯に浸かっていた場所だった。健一は、親指を、投稿ボタンから少しだけ離した。
それから、なんとなく、写真を拡大した。黒い恐竜の困った顔を、もう一度よく見ようと思ったのだ。
指が、少しずれた。
拡大されたのは、恐竜の顔ではなかった。湯から上半身を出して、酒瓶を掲げている、自分の腹だった。ミートパイって感じだった。
「…………」
健一は、しばらく無言で画面を見つめていた。
湯気越しでも分かった。腹が、出ていた。思っていたより、ずっと出ていた。半年間、莉奈と高いレストランに通い、旅館で豪華な夕食を食べ、やけ酒を飲み続けた結果が、そこに、くっきりと、段になって写っていた。
「……誉は浜で死にました」
声に出していた。
健一は、静かに投稿画面の本文を全部消した。写真の添付も外した。下書きにも保存しなかった。
それから、写真のフォルダを開き、あの一枚だけを、新しいアルバムに移した。アルバムの名前を少し考えてから、こう打った。
『命の恩人(非公開)』
スマートフォンを伏せて、ベッドに仰向けに寝転がった。天井を見上げながら、健一は、ぼんやりと考えた。
あの黒い恐竜は、今ごろ、どこにいるのだろう。ちゃんと、どこかの湯に浸かっているだろうか。三万円の酒は、うまかっただろうか。
「……飲んでんのかな、あいつ」
健一は、少しだけ笑った。それから、自分の腹に手を当てて、真顔になった。
明日から、少し歩こう、と思った。
第28章 ハングオーバー!未遂 了