十一時三十五分、一頭が群馬の住宅地へ出た。
最初に捉えたのは、庭先に設置された防犯カメラだった。灰褐色の身体が道路へ現れ、周囲を見回したところで、道路の向こうにいた人影へ頭を向ける。
七十代の男性だった。
避難要請は聞いていた。それでも畑の様子が気になり、短時間なら大丈夫だろうと外へ出ていた。男性も恐竜に気づき、数秒だけ双方が止まったあと、先に男性が走った。
恐竜も走った。
「第三区画、東側農道に個体一! 住民一名が追われています!」
「最寄りの班は!」
「榊原班、二分で着く!」
男性は自宅へ戻るより、道路脇に停めた軽トラックを選んだ。七十を超えた身体では恐竜から走って逃げ切れない。鍵を開け、ドアを引いたところで、灰褐色の身体が十数メートルまで迫った。
銃声が響き、恐竜の横で土が跳ねた。
榊原だった。
当ててはいない。恐竜の頭が男性から外れた。
「乗れ!」
男性が車内へ転がり込み、ドアを閉める。それを確認した榊原は後退しながら恐竜の位置を見た。案の定、今度はこちらへ頭を向けている。
「そうなるよな」
正面から速さを競うつもりはない。農道脇の石垣と曲がり角を使い、後方にいる二人のハンターが安全な射線を取れる場所まで誘導する。
「西へ引っ張る! まだ撃つな、背中に家がある!」
「了解!」
角を二つ抜けると視界が畑へ開けた。榊原は進路から横へ外れ、追ってきた恐竜の背後から住宅が消えたことを確かめる。
撃てる。榊原が銃を構えた、そのときだった。
右手の林から枝の折れる音がした。
「右! 二頭目!」
別のハンターの声と同時に、二頭目が飛び出した。
一頭目と同じ灰褐色の身体だった。榊原は一瞬だけそちらを見たあと、銃口を下げた。
「撃ち方やめ! 山馬、下がれ!」
「こっちは射線、取れてます! 撃てますよ!」
「先の三頭を思い出せ、一撃では死なない。手負いの獣にするな、二頭そろってるなら、防衛以外で撃たない! 住民はもう車の中だ。目的は果たした!」
一頭目は榊原を見ている。二頭目は横から現れ、仲間と榊原たちの間で足を止めた。数秒だけ奇妙な膠着が生まれたが、榊原は撃たなかった。ここで一頭を傷つければ、二頭が同時にどう動くか分からない。男性の救出という最優先事項を果たした以上、危険を増やしてまで撃ち合いを続ける理由はなかった。
「ゆっくり下がれ。走るな。背中を見せるな」
ハンターたちが互いの位置を確認しながら距離を取る。
一頭目の頭が動いた。榊原を見ていた視線が二頭目へ向き、それから二頭はほぼ同時に林側へ身体を向け、木々の中へ消えていった。
追う者はいなかった。
軽トラックの中では、男性がハンドルを握ったまま動けずにいた。
榊原が近づいて窓を軽く叩くと、男性はようやく顔を上げ、震える手で窓を下ろした。
「登録ハンターの榊原といいます、怪我はありませんか」
「な、ない……。あんたら、あれ、本当に止められるのか」
榊原は一度だけ林のほうを見た。
「もちろんです。プロですから」
男性はしばらく榊原の顔を見ていたが、やがて小さく頷き、ハンドルから手を離した。
榊原は恐竜が消えた方向をもう一度見てから、無線を取った。
「榊原より本部。二頭とも確認、別れてはいなかった。住民一名救出、負傷なし。二頭は北西の林へ入った」
「本部了解。二頭を追跡しますか?」
「追跡はしない。外周を固めろ。林には入るな」
朝、自分で言ったことをそのまま実行しただけだった。
それでも、撃てるところまで持っていった相手を見送るのは、気分のいいものではなかった。
◇
同じころ、男は群馬県の山中で、木の陰に伏せていた。
頭上を、ヘリコプターが一機、低く飛んでいく。
ここまでの旅で覚えたことの一つが、空の音には隠れろ、だった。ドローンなら木の下へ、ヘリコプターなら崖の陰へ。黒い身体は、山中では比較的見えにくく、保護色による擬態もあるため発見はされにくい。しかし、市街地や各種センサーには無力なことも知っていた。二号も同じことを覚えたのか、男の腹の下へ潜り込んで動かなくなっていた。
ヘリコプターは旋回しなかった。速度も落とさず、まっすぐ西へ飛んでいく。
(……探しているのは俺じゃないのか)
音が遠ざかるのを待ってから、男は身体を起こした。
追われていないのなら、それに越したことはない。そのはずなのに、少しだけ拍子抜けしたのが自分でも可笑しかった。全国ニュースに何度も出た身としては、素通りされるのにも妙な寂しさがある。
(いや、寂しがってどうする)
西の空には、もう一機、別のヘリコプターが小さく見えていた。同じ方向へ向かっている。
向こうで何かあったのだろう。そう思っただけで、男はそれ以上考えなかった。
昼前、山道を下りきったところに、古い農家があった。
人の匂いは薄い。雨戸は閉まり、庭の物干し竿には何も掛かっていない。空き家か、留守が長い家なのだろう。男は敷地の端を回り込み、裏の畑を抜けて向こうの林へ入るつもりだった。
縁側の下から、猫が出てきた。
茶色と白のぶちで、片耳の先が欠けている。猫は男を見て、それから男の脚の陰にいた二号を見た。
二号が一歩前に出た。鼻先を伸ばし、匂いを確かめようとする。
猫の毛が逆立った。しゃあっ、と短い音がした。
二号は跳び上がり、そのまま男の後ろへ回り込んで、尾の付け根あたりに顔を押しつけた。小刻みに震えている。
(お前、草食とはいえ恐竜だろ)
猫は二号を追わなかった。代わりに、男を見上げた。
四メートルを超える肉食恐竜である。目方で比べれば、猫の何百倍あるのか見当もつかない。それなのに猫は逃げず、背中を丸めたまま、黄色い目で男をまっすぐに見ていた。
男は一歩、後ろへ下がった。
(……すみません)
なぜ謝っているのか、自分でも分からなかった。ただ、ここは向こうの家で、こちらは通りすがりだった。人間だったころから、よその家の猫には頭が上がらなかった気がする。
男は大きく遠回りして、畑の反対側から林へ入った。二号は最後まで、男の後ろにぴったりくっついていた。
林の手前で振り返ると、猫はもう縁側の下へ戻るところだった。勝った、という顔をしていた。
◇
御門が現場へ入ったのは、安全が確認されてからだった。
男性の軽トラックには恐竜が接触した跡はなく、農道には榊原が注意を引くために撃った弾の痕と、二頭分の足跡が残っている。御門は追跡開始地点から林へ消えた場所まで順番に確認し、榊原にもそのときの反応を詳しく聞いた。
「一頭目は、男性から榊原さんへ注意を移したんですね」
「ああ。俺が撃った直後だ」
「その後は?」
「ほぼ俺だけを見てた。角を二つ使って視界を切っても追ってきたし、開けた場所に出ても止まらなかった。二頭目が横から出てきて、そこでようやくこっちから意識が外れた」
御門は記録へ書き込んだ。眉間のしわは深く、目元のくまも濃い。化粧では隠し切れない疲労の痕跡が浮かんでいた。
「やっぱり、攻撃衝動亢進から自己保存への切り替えが弱い」
「これ以上はまずい、逃げろってなるためのブレーキが弱いってやつか」
「はい。攻撃性そのものが突出しているというより、一度始めた行動を中断したり、別の行動へ移したりする機能に問題がある可能性があります」
「俺には、追いかけてくる時点で十分凶暴だけどな」
「現場ではそれで構いません。原因を調べる側は、分けて考える必要があります」
御門は林へ続く二頭分の痕跡を見た。
「それと、二頭が別れたという推測は外れましたね」
「外れたな」
「沢を渡った跡が一頭分しかなかっただけで、もう一頭が別の経路を使った可能性を潰せていなかった」
「研究者でも外すんだな」
「外しますよ」
あまりに当然という調子で返され、榊原が御門を見る。
「そこは堂々としてるんだな」
「間違えない研究者がいたら、その人は研究していません。わからないことに対して何度も挑んで、何度間違えてもそれでも問い続けることが、我々の使命です」
榊原は何か言い返そうとして、御門のまなざしに込められた、煮えたぎる鋼のような何かを見て、やめた。
俺も若いころはこんな情熱があったかな、と内心でまぶしそうに眼を細めていると、そのとき無線が鳴った。
「航空監視班より各班。熱源二、南東へ移動中」
二人が同時に顔を上げた。
追跡は、まだ峠を越してはいなかった。
◇
昼を過ぎたころ、谷あいの集落の上を通っていると、どこかのスピーカーから女性の声が流れてきた。
「こちらは、市役所です。長野県で発生した、恐竜による人身被害について、お知らせします」
防災無線だった。山に反響して、言葉が少し遅れて重なる。男は足を止めた。
「昨日、長野県で、逃げ出した恐竜に住民が襲われ、八人が亡くなりました。逃げた恐竜のうち二頭は、現在も見つかっておらず、県内の西部へ移動しているとみられます。市内では、現在のところ目撃情報はありませんが、県境付近の山林への立ち入りは、控えてください。恐竜を見かけた場合は、近づかず、すぐに一一〇番通報してください」
同じ内容が、もう一度繰り返された。
八人、という言葉を、男は頭の中でもう一度聞いた。
長野。昨日。逃げ出した恐竜。
自分のことではない。それは分かる。黒い大型の、とは一度も言っていなかった。
それでも、恐竜が人を八人殺したという知らせを、恐竜の身体で聞いているのは、ひどく居心地が悪かった。足元で二号が男を見上げている。男は何も返さずに、また歩き出した。
(群馬、か)
地図を出すまでもない。今いる場所が群馬だった。
そして、その先には、東京がある。
嫌な考えが浮かびかけたところで、男はそれを払った。分からないことを、分からないまま心配しても仕方がない。
午後、山を下りた道路脇に、自動販売機が一台だけ立っていた。
周りに人家はなく、車もしばらく来ない。男は木陰から道路の左右を確かめてから、自販機の前へ出た。スポーツバッグの外ポケットには、ここまでの道中で手に入れた小銭が入っている。
いつものようにコーラのボタンへ爪を伸ばしかけて、止まった。
下の段に、「あったか〜い」の赤い札が並んでいる。季節が変わったのだと、そこで改めて気づいた。もう年末も近い、さすがに屋外でキンっキンに冷えてやがる、犯罪的なコーラを飲むのはためらわれた。
温かいお茶のボタンを押した。
がこん、と缶が落ちる。前肢の先で取り出すと、思っていたより熱かった。
缶を持ったまま、男はしばらく動かなかった。
前にも一度、寒い夜に、これを誰かのために買った気がする。自分の分はコーラで、相手にはこれ。コンビニの明かりの前で渡して、受け取った手がひどく冷たかった。
誰に渡したのかは、思い出せなかった。
ただ、渡したときに何か文句を言われたことだけは覚えていた。言われて、それでも少しほっとしたことも。どうしてだろうか、以前は気にならなかったが、ここ数か月で人間としての記憶が思い出しにくくなっている。
(……誰だっけな、身近な人だったような)
男は缶をスポーツバッグへしまった。飲むつもりで買ったわけではない。持って帰る理由も、特になかった。それでも、置いていく気にはなれなかった。
二号が鞄の匂いを嗅いでいる。
(お前のじゃない、カフェインも入ってるからな、やめときな)
二号は聞いていなかった。
昼下がり、男は小さな公園の裏手に出た。
木立の向こうに、休憩所らしい平屋が見える。窓が大きく、中に置かれたテレビの画面が、外からでもよく見えた。年配の男性が二人、ベンチに座ってそれを眺めている。
画面には、どこかの山を上空から撮った映像が流れていた。右上に、灰色がかった生き物の写真が小さく出ている。
音は聞こえない。字幕も、この距離では読めなかった。
男はしばらく、それを見ていた。
近づくわけにはいかない。人がいる。まだ明るい。
ただ、夜になればあの二人も帰るだろう。テレビがつけっぱなしなら、暗い中でも画面は見える。
男は場所を覚えた。公園の裏の林、植え込みの切れ目、そこから窓までの距離。
それから二号に短く二度、喉を鳴らし、いったん林の奥へ戻った。
◇
午後に入ってから、人間側は少しずつ二頭の移動範囲を狭めていった。
足跡、防犯カメラ、ドローン、住民からの通報を一つずつ重ね、誤報を潰し、警察車両で人のいる側への出口を塞ぐ。恐竜を直接追えば山へ深く入り込ませる危険があるため、外周を広く取りながら、二頭が自分たちから開けた場所へ出るのを待った。
午後二時を過ぎたころ、ドローンがようやく二頭を同じ画面へ捉えた。
河川敷から山際へ延びる資材置き場、そのさらに奥にある使われなくなった造成地だった。
「航空監視班より本部。二頭とも確認。灰褐色、体格一致」
「周辺に人は?」
「作業員は退避済み。住宅なし」
「道路封鎖を開始。ハンター班は東、西、南へ」
情報が対策本部へ集まり、ほとんど同時に現場へ返されていく。
北側は急な法面、西には川、東側には金網と山林があり、南だけが舗装道路へ開けている。午前中から二頭に振り回され続けた人間側に、初めてはっきりした好機が来ていた。
榊原は現地へ向かう車の中で、無線から流れる配置報告を聞いていた。
御門は別の車両で、二頭が造成地へ入る直前の移動記録を確認している。
二頭を見つけた。一般人はいない。十分な人員もいる。安全な射線を作れる地形まである。
今度こそ止められる。
その時点では、現場にいる誰もがそう考えていた。
◇
そのころ、男と二号は伊香保温泉から少し離れた山中にいた。
もっとも、男たちは伊香保温泉の旅館街へ入ったわけではない。石段街の周辺には観光客が多く、道路には車が絶えず行き交っている。いくら温泉が好きでも、体長四メートルを超える黒い肉食恐竜が堂々と観光地へ現れれば、入浴どころではなくなることくらいは分かっていた。
そこで男は、人の少ない山中を歩きながら、温泉特有の硫黄臭や温かな水の流れる音を頼りに、湯の湧いている場所を探していた。温泉地の周辺だからといって、都合よく入浴できる野湯が見つかるとは限らない。実際、いくつかの沢を調べても冷たい水が流れているだけで、途中からは自分でも何をしているのか分からなくなりかけていた。
(……いや、せっかく伊香保まで来たんだぞ。温泉に入らず帰るなんて、そんな馬鹿な話があるか)
人間だったころなら、旅館へ電話を一本入れれば済んだ話である。今の自分には電話で予約することも、入浴料を払って大浴場へ入ることもできないのだから、少々の苦労は仕方がない。
そうして山中を歩き回ることしばらく、男は沢沿いの岩場で、ようやく目当てのものを見つけた。
斜面の一角から細い湯気が立ち上り、岩の隙間を伝って流れ出した温かな水が、小さなくぼみに溜まっている。近づいて確かめると、水は周囲の沢より明らかに温かく、かすかに鉄を思わせる匂いがした。湧出量は多くないものの、岩場の下流側には長い年月をかけて水が削ったらしい、ちょうどよい大きさの淵までできている。
(おおっ、あった!)
男は思わず足を速めたが、淵の縁まで来たところで慎重に立ち止まった。以前、温泉を見つけたときにも経験したことだが、湯気が出ているからといって適温とは限らない。場所によっては火傷するほど熱いこともあれば、温泉水が冷たい沢水に混じり、ほとんど水風呂になっていることもある。
まず前肢の先で水温を確かめ、次に浅い場所へ足を入れてみる。熱すぎず、冷たすぎず、身体を沈めても問題なさそうだった。念のため岩の底を探ってみたところ、鋭い突起や深い穴もなく、少なくとも休憩するには十分な場所らしい。
(……素晴らしい。実に素晴らしい)
男は感動していた。
青森の山奥で目覚めて以来、危険な肉食恐竜との遭遇や、食料の確保、人間の目を避けるための迂回など、気の休まらない出来事が続いてきた。それでも旅の途中で見つけた温泉だけは、いつも男に人間だったころの感覚を思い出させてくれた。湯に浸かって身体を温めるという行為は、肉食恐竜の身体になった今でも、何一つ魅力を失っていなかった。
男はスポーツバッグを乾いた岩の上へ置き、周囲に危険な生き物の気配がないことを確かめてから、ゆっくりと淵へ入った。
温かな水が後肢を包み、腹の下を通り、胸のあたりまで満ちていく。身体を沈めるにつれて、歩き続けて硬くなっていた筋肉が少しずつ緩んでいくようだった。長い尾を邪魔にならない位置へ伸ばし、岩の縁へ顎を載せると、男は心の底から満足した。
(あああ……生き返る……)
実際、死にかけた経験なら何度もあった。
男が気持ちよさそうに目を細めていると、二号も淵の縁へ近づいてきた。小さな相棒は水面を覗き込み、前肢で水をかいてから、浅いところへ慎重に足を入れる。どうやら温度は気に入ったらしく、そのまま腹が浸かるところまで進んで、男の隣へ腰を下ろした。
「ぴ、ぴ」
(お前も温泉好きになったなあ)
二号は返事をするように小さく鳴き、目を細めた。
男はその様子を眺めながら、これまでの旅を振り返った。最初のころは、二号が何を考えているのかも分からず、どう接すればよいのか戸惑うことが多かった。それが今では、食べ物を欲しがっているのか、何かに怯えているのか、それとも単に構ってほしいだけなのか、仕草を見ればおおよその見当がつくようになっている。
人間と恐竜という違いはあっても、一緒に暮らしていれば分かることは増えるものらしい。
(……まあ、俺も恐竜なんだけどな)
男は心の中で自分に突っ込みを入れた。
しばらく二頭は、山の静けさに包まれながら湯を楽しんだ。頭上では木々の枝が風に揺れ、時折、乾いた葉が水面へ落ちてくる。遠くから鳥の声が聞こえる以外、人間の生活音はほとんど届かなかった。
男は岩の上に置いたスポーツバッグへ視線を向けた。
その中には、栃木県で泥酔した男性を救助した際、救助代金として勝手に拝借してきた日本酒が入っている。
(……温泉に日本酒、か)
何とも魅力的な組み合わせだった。
以前、山中で試しに舐めてみたところ、芳醇な香りと柔らかな甘みは予想以上に好みに合っていた。人間だったころはそれほど酒に強くなかったはずだが、少なくとも現在の味覚でも日本酒をおいしいと感じられることは確認できた。
温泉に浸かりながら、あの酒をもう少し楽しめたら。
そう考えたところで、男は首を振った。
(……いやいや、駄目だろ)
今いるのは、人里離れた山中である。周辺に危険な肉食恐竜が潜んでいないとも限らず、いつ人間の捜索隊やハンターに発見されるかも分からない。もし酒に酔って判断力が鈍った状態で何か起きれば、自分だけでなく二号まで危険に晒すことになる。
そもそも、この身体がアルコールをどの程度代謝できるのかも、まだ分かっていない。
(味はいいんだけどなあ。酔っ払って山の中をぶらつくわけにもいかないし……)
男は残念そうにバッグを見つめた。
体重が増えたから酒にも強くなっている、などという保証はどこにもない。人間だったころのように、酔ったら家で寝ていればいいという環境でもなかった。酔っ払った肉食恐竜が山中を徘徊するなど、危険である以前に、世間に知られたら何を言われるか分かったものではない。
(『温泉恐竜、今度は泥酔して山中を徘徊』……うん、絶対ニュースになるな)
男は容易に想像できてしまう見出しに、喉の奥を鳴らした。
もし映像まで撮られたら、御門あたりに真剣な顔で問い詰められそうだった。もっとも、彼女なら飲酒の是非を叱る前に、人工恐竜のアルコール代謝について研究を始めるかもしれない。血液検査を求められ、摂取量を確認され、挙げ句の果てには論文の題材にされる未来まで想像できた。
(……やめよう。うん、やめよう)
酒はおいしい。
しかし、今は我慢するしかない。
男は名残惜しそうにバッグから目を離すと、岩へ顎を戻した。
(実家に帰ったら、ゆっくり飲めばいいか)
そう考えると、不思議と未練は薄れた。
家族の待つ八王子までは、もうそれほど遠くない。青森からここまで歩いてきた距離を考えれば、残された道のりはわずかなものだった。もちろん、関東平野の人口密集地を避ける必要があり、埼玉県へ入ってからも慎重に進まなければならないが、それでも旅の終わりが近づいていることは確かだった。
帰ったら、何をしよう。
母親の料理を食べたいし、父親とも話したい。妹には聞きたいことが山ほどあるし、自分のことも説明しなければならない。身体がこんなことになってしまった以上、以前とまったく同じ生活には戻れないだろうが、それでも家族と同じ家で過ごせるのなら、きっと何とかなる。
そのとき、隣にいた二号が身体を寄せてきた。
「ぴ?」
男は目を開き、小さな相棒を見下ろした。
(……もちろん、お前も一緒だぞ)
二号が言葉を理解したのかどうかは分からない。ただ、男が尾を少し動かして場所を空けると、嬉しそうに鳴きながら、さらに身体を寄せてきた。
男は再び目を閉じた。
温泉の湯は心地よく、山の空気は澄んでいた。バッグの中には飲みかけの高級日本酒があり、隣には二号がいる。危険な旅の途中であることを忘れそうになるほど、穏やかな時間だった。
(……あと少しだな)
男は胸の内で呟いた。
八王子まで、あと少し。
そう思いながら、男はもうしばらく、伊香保の山中で見つけた湯を楽しむことにした。
そのころ、群馬県内では二頭の中型肉食恐竜を包囲するため、ハンターと警察が配置につき始めていた。
男は、そのことをまだ知らなかった。
第29章 もちろんです、プロですから 了