栃木県と福島県の県境に近い山中を、一台の軽トラックが走っていた。
時刻は午前一時を過ぎている。十二月の山道には薄く雪が積もり、路肩の反射板だけが、頼りないヘッドライトの光を受けて浮かび上がっていた。周辺は野生の恐竜が生息する危険区域であり、自治体が設置した警告看板には、肉食恐竜のシルエットとともに夜間通行を控えるよう記されている。まともな運送会社なら、よほどの事情がない限り、こんな時間に軽トラックを走らせることはない。
ところが、その軽トラックの運転席では、濃紺のスーツを着た大男が、たいそう上機嫌にハンドルを握っていた。
「いやァ、莉奈さん! 今回の案件は実にエキサイティングですね! まさにロジスティクスの最前線! 我々のビジネスキャリアにおける、新たなマイルストーンと言っても過言ではありません!」
「過言よ! ただの荷物運びでしょうが!」
助手席の莉奈は、苛立たしげにスマートフォンを操作していた。画面には圏外の表示が出ており、指定された待ち合わせ場所が本当に正しいのか、確認することもできない。車内には暖房が効いているものの、荷台からは固定金具が擦れる音が絶えず聞こえ、そのたびに彼女の機嫌は悪くなっていった。
ハンドルを握る大男の名は、プルゴリ。
濃紺のスーツは相変わらず身体に合っておらず、肩から上腕にかけての布地は筋肉で引き伸ばされ、太腿に至っては座席へ収まりきっていない。浅黒く日焼けした顔には真っ白な歯が並び、笑うたびにその歯が車内灯を反射して、妙に眩しかった。
「しかし、こうして現場へ赴くと、改めてビジネスのダイナミズムを実感しますね! デスクワークでは得られない、リアルなエクスペリエンスです!」
「借金のカタに密輸の片棒を担がされてるだけでしょうが!」
「そこはポジティブにリフレーミングしましょう!」
「何をどう言い換えても犯罪なのよ!」
莉奈が思わずダッシュボードを叩くと、プルゴリは豪快に笑った。
彼は、詐欺の勧誘をしているときだけ横文字を使うわけではなかった。朝食のパンを買うときには「モーニング・フード・ソリューション」、コンビニでトイレを借りるときには「パーソナル・メンテナンス」、財布を忘れたときには「キャッシュフローの一時的なボトルネック」と言う。本人に悪気はなく、むしろ自分の語彙力に相当な自信を持っているらしかった。面倒くさい。
莉奈は、この大男と知り合ったことを心の底から後悔していた。もっとも、後悔したところで状況がよくなるわけではない。彼女たちには、返さなければならない金があった。
◇
三浦健一を騙し損ねたことが、すべての始まりだった。初めてやったロマンス詐欺は、途中まで順調だった。半年かけて関係を築き、結婚を約束し、親族への顔合わせまで予定していた。あとは用意した投資話に乗せて五百万円を振り込ませれば、莉奈には十分な成功報酬が入るはずだった。
それまでにもキャバクラなどで仕事をしたことはあったが、健一は特に扱いやすいタイプの相手だと思っていた。真面目で、穏やかで、他人を疑うことが苦手そうだった。結婚への期待も大きく、莉奈が少し寂しそうな顔をすれば、いつも自分から折れてくれた。だから今回も、最後に少し背中を押せば金を出すと考えていたのである。
ところが、最後の最後で失敗した。しかも、原因ははっきりしていた。
「だから私は言ったのよ! もっと自然な事業説明にしてって! 何なのよ、あのグラフ!」
莉奈は助手席から身を乗り出し、運転中のプルゴリを睨んだ。
「右肩上がりの線しか描いてないじゃない! 縦軸も横軸も数字がないし、会社が何を売るのかも分からないし!」
「いやァ、あれはビジョンを可視化したコンセプチュアルなチャートでして!」
「ただの斜め線よ!」
「シンプル・イズ・ベスト!」
「最悪だったわよ!」
健一が逃げ出したあと、莉奈は何度も連絡を試みた。だがメッセージは既読にならず、電話もつながらなかった。数日後にはアカウントをブロックされ、計画は完全に失敗した。
問題は、今回の案件に多額の経費を使っていたことだった。
高級レストランでの食事、旅行、衣装、アクセサリー、レンタルオフィス。健一から受け取るはずだった金を見込んで、裏で資金を貸していた連中から前借りまでしていたのである。莉奈は報酬が入れば返せると考えていたし、プルゴリも例によって「キャッシュフローはエグジットで解決です!」と笑っていた。
莉奈は意外にも食事や旅行代は割り勘にしていた。それは信頼を得るためでもあるし、まあまあ楽しかったという実情もある。
しかし、エグジットどころか入口で転倒した。
金主から呼び出された二人は、窓のない事務所で三時間ほど正座で説教を受けた。空前絶後の足のしびれに苦悶しつつ、その結果、紹介されたのが今回の仕事だった。
指定された荷物を指定された場所へ運び、別の業者へ引き渡す。それだけで借金の一部を帳消しにしてくれるという。普通の運送では考えられない報酬だったが、荷物の中身は教えてもらえず、警察に見つかった場合も一切責任は負わないという条件がついていた。
まともな仕事でないことくらい、莉奈にも分かっていた。それでも、断るという選択肢は事実上なかった。
「だいたい、何が入ってるのよ、あれ。すごく重かったんだけど」
莉奈は背後の荷台へ視線を向けた。
幌の下には、黒い樹脂製の大型ケースが一つ積まれている。小柄な人間なら入りそうなそのケースの表面には輸送用の管理番号らしい数字が印刷されているものの、品名は記されていない。ケースの隙間からは金属製の固定具がのぞき、揺れるたびに鈍い音が響いていた。
「さあ? おそらくハイバリューなスペシャル・プロダクトでしょう!」
「分からないなら分からないって言いなさいよ」
「アンノウンです!」
「英語にしただけでしょうが!」
プルゴリは愉快そうに笑い、アクセルを踏み込んだ。莉奈は窓の外へ顔を向けた。黒い森が、どこまでも続いていた。
◇
待ち合わせ場所に着いたのは、午前一時四十分だった。
林道から少し外れた場所に、古い木材集積場があった。以前は伐採した木材の一時保管に使われていたらしく、錆びた重機と崩れかけたプレハブ小屋が残っている。周囲に街灯はなく、ヘッドライトを消すと、月明かりのほかに頼れる光はなかった。
プルゴリは車を停めると、スマートフォンを確認した。
「パーフェクト! ジャスト・イン・タイムです!」
「十分遅れてるわよ」
「ビジネスにおいて重要なのは、時間そのものよりタイミングです!」
「何も言ってないのと同じじゃない」
莉奈は助手席から降り、冷たい空気に思わず肩をすくめた。
山の夜は想像以上に寒かった。都会では見かけないほど大きな霜柱が地面を覆い、吐いた息はヘッドライトの光の中で白く広がる。遠くで沢の流れる音がしていたが、鳥の声も虫の声もなく、森全体が眠っているようだった。
「相手はどこなの?」
「メッセージによれば、ここでピックアップする手筈ですね!」
「それは聞いた。車がないじゃない」
指定の時刻を過ぎても、取引相手は現れなかった。
五分、十分と経っても状況は変わらず、スマートフォンにも連絡は入らない。莉奈は寒さに耐えかねて車内へ戻り、暖房を最大にした。プルゴリは外で腕立て伏せとスクワットを始めたが、三十回ほど続けたところで莉奈に怒鳴られ、ようやく運転席へ戻ってきた。
「ねえ、本当にここで合ってるの?」
「もちろんです! ロケーションは事前にクロスチェック済みですから!」
「じゃあ、相手は何してるのよ。いえ、クロスチェック? 誰と!?」
「心の中のバディです! カスタマーにはおそらく何らかのイレギュラーが発生しているのでしょう!」
「それを聞いてるんじゃないの!」
莉奈は苛立ちながら、受け取っていた指示書を開いた。待ち合わせ場所の説明には、集積場の奥の作業道を少し進んだところで車両を停めるよう書かれていた。二人は入口の広場で待っていたのだから、相手がさらに奥へ入っている可能性もあった。
「……ちょっと見に行くわよ」
「ナイスアイデア! アクティブなソリューションですね!」
「うるさい!」
二人は懐中電灯を持ち、集積場の奥へ向かった。最初に異変に気づいたのは、莉奈だった。
「……何、この臭い」
腐った生ごみのような、ひどく不快な臭いが漂ってきた。それだけではない。鼻の奥へまとわりつくような酸っぱい臭気に、獣の体臭と、錆びた鉄を思わせる生臭さが混じっている。風向きが変わるたびに強くなり、莉奈は思わず口元を袖で覆った。
「ちょっと、プルゴリ。何か臭くない?」
「確かに! 非常にストロングなスメルですね!」
「そういうこと言ってる場合じゃないでしょう!」
「これは何らかのバイオロジカルな――」
「黙って!」
莉奈は足を止めた。前方の暗闇から、奇妙な音が聞こえていた。
最初は木が軋んでいるのかと思った。ところが耳を澄ますと、一定の間隔で硬いものが砕けるような音が混じっている。重たい金属を無理やり折り曲げたときのような、耳障りな破裂音だった。続いて、何かが地面へ落ちた。ごとん、と鈍い音が響いたあと、砂利を引きずるような音がした。
「……何かいる」
莉奈が囁くと、プルゴリは懐中電灯を前方へ向けた。
「ハロー! エクスキューズミー! デリバリーの者ですがァ!」
「馬鹿! 大声出さないで!」
莉奈は慌てて彼の腕を掴んだ。しかし、もう遅かった。暗闇の奥で、何かが動いた。
◇
最初に見えたのは、車だった。正確には、車だったものだ。
大型の四輪駆動車が、作業道の脇に横倒しになっていた。車体は中央から大きく潰れ、屋根が内側へめり込んでいる。片側のドアは完全に引き剥がされ、車輪の一つは数メートル離れた場所に転がっていた。
その車体の上に、巨大な何かが覆いかぶさっている。
莉奈は最初、倒れた木の幹だと思った。太く、黒ずんでいて、表面が不規則に盛り上がっていたからだ。しかし懐中電灯の光を動かすと、それがゆっくりと上下していることに気づいた。表面には濡れた鱗が並び、泥と血に汚れた皮膚の下で、途方もなく大きな筋肉が動いていた。
生き物だった。巨大な肉食恐竜が、車を食べていた。
いや、車の中にいた人間を食べようとして、車ごと噛み砕いているのだった。長大な顎が閉じるたびに金属が悲鳴を上げ、窓ガラスが砕け散る。巨大な頭が持ち上がると、千切れた配線や内装材が口元から垂れ下がった。咀嚼するたびに喉の奥から湿った音が響き、何かを飲み込むように首の筋肉が波打っている。
莉奈は、その場で凍りついた。
全長十メートルを超える巨体だった。テレビで見る大型肉食恐竜とは、まるで違う。身体の各所には古い傷が走り、鱗の一部は不自然に変色している。腹部は異様に膨らみ、背中から尾へ続く筋肉は、痩せた部分と肥大した部分が入り混じっていた。鼻先からは粘ついた液体が垂れ、口を開くたびに、腐った肉と胃液のような臭いが漂ってきた。
車内には、取引相手だった人間がいたのだろう。しかし、もう人間の形をした姿は確認できなかった。車から溢れた粘つく液体が、オイルなのか血液なのか、深夜の暗さでは判別できなかった。
「……うそ」
莉奈の声は、ほとんど息のように漏れた。
プルゴリも立ち尽くしていた。いつもなら何にでも横文字を当てはめるのに、さすがに目の前の光景をどう表現すればいいのか分からないらしい。口を半開きにしたまま、懐中電灯を握る手だけが小刻みに震えていた。
巨大な恐竜は、まだこちらに気づいていなかった。潰れた車の中へ再び頭を突っ込み、残されたものを探るように顎を動かしている。莉奈は、ゆっくりと後ずさった。足元の砂利が、小さく鳴った。
その瞬間、プルゴリが口を開いた。
「……ビッグ」
「……何?」
「ビッグ……」
プルゴリは、巨大な恐竜を指差した。
「……ビッグ・マック……」
「違うでしょうが!」
思わずツッコミが出た、プルゴリと一緒に仕事をする中で刷り込まれた習性だった。莉奈は慌てて口を押さえたが、巨大な恐竜の顎は、もう止まっていた。
◇
車体から、頭がゆっくりと持ち上がった。鼻先が左右に振られ、濁った眼球が、二人のいる方向へ向けられる。その目を見た瞬間、莉奈は背筋が凍りつくのを感じた。
獲物を見つけた肉食恐竜の目だった。だが、そこには野生動物らしい警戒心も、相手の大きさを測る慎重さもなかった。焦点の合わない眼球が、何かを探すように動き続けている。顎の間からは粘液が垂れ、喉の奥では苦しげな呼吸音が繰り返されていた。
恐竜は二人を見つめ、そして、ゆっくりと口を開いた。
「逃げるわよ!」
「イエス! エマージェンシー・エスケープ!」
「黙って走って!」
二人は同時に踵を返した。背後で木材が折れ、砂利が跳ね、何か重たいものが地面を踏みつけた。振り返らなくても分かった。あれが、こちらへ向かってきている。
足元は凍っていて、何度も滑りそうになった。暗い林道を懐中電灯で照らしながら、莉奈は息を切らして軽トラックを目指した。後ろではプルゴリが大きな足音を立てて走っており、なぜかまだ喋っていた。
「莉奈さん! これは非常にシリアスなプロブレムでクリティカルなシチュエーションです!」
「分かってるわよ!」
「早急なリスクマネジメントが必要かと!」
「走る以外に何があるのよ!」
「フィジカル・パフォーマンスにはコンセンサスをアグリーして、サクセスにコミットしてます!」
「だったら黙って走れ!」
プルゴリの筋肉は、少なくともこの場面では役に立っていた。普段から鍛えているだけあって足は速く、濃紺のスーツを着た巨体が、凍った林道を驚くほどの速度で駆け抜けていく。莉奈は何度も置いていかれそうになり、そのたびに怒鳴って速度を落とさせた。
ようやく、ヘッドライトを消したまま停まっている軽トラックが見えた。
莉奈は助手席に飛びつき、プルゴリも運転席へ滑り込んだ。キーを回す。セルモーターが回る。エンジンは、かからなかった。
「……は?」
プルゴリがもう一度キーを回したが、エンジンは短く咳き込んだだけだった。
「ちょっと、何してるのよ!」
「少々お待ちを! エンジンのスタートアップにトラブルが!」
「スタートアップって言うな!」
三度目で、ようやくエンジンがかかった。
「イエス! リカバリー成功!」
「早く出して!」
軽トラックが急発進した。後輪が凍った地面で空転し、車体が大きく横滑りする。プルゴリは慌ててハンドルを切り、どうにか林道へ戻した。荷台では黒いケースが激しく揺れ、固定金具が悲鳴を上げていた。
背後の森から、低い唸り声が聞こえていた。
「……来てる?」
バックミラーを見たプルゴリの顔から、笑みが消えた。
「……イエス」
莉奈は振り返った。ヘッドライトの届かない暗闇の奥で、木々が揺れていた。姿は見えない。けれど何か巨大なものが、林道と並んで移動している。木が折れる音と、地面を踏みつける振動が、確実に近づいていた。
「もっとスピード出して!」
「フルスロットルです!」
「軽トラでしょうが! 何でこんな車なのよ!」
「コストパフォーマンスを重視した結果かと!」
「今それ言う!?」
軽トラックは狭い林道を跳ねるように走った。路面の凍結を考えれば、すでに危険な速度だった。だが背後から迫るものを思えば、速度を落とすことなどできなかった。
莉奈はスマートフォンを取り出した。相変わらず、圏外だった。
「何で圏外なのよ! 今どき山の中でもつながるでしょうが!」
「インフラストラクチャーのカバレッジに問題が――」
「もう喋らないで!」
そのときだった。林道の左側で、木が一本、根元から折れた。続いて、巨大な影が道路へ飛び出してきた。
◇
プルゴリは反射的にハンドルを切った。
軽トラックは大きく横滑りし、路肩の雪を跳ね上げながら斜面へ突っ込んだ。車体が激しく揺れ、莉奈の身体がシートベルトに押しつけられる。荷台の固定具が一つ外れ、窓の外を飛んでいった。
それでも、車は横転しなかった。プルゴリは必死にハンドルを戻し、どうにか林道へ復帰した。
「ナイス・ドライビング!」
「自分で言わないで!」
莉奈は叫びながら、背後を振り返った。巨大な恐竜が、道路の真ん中に立っていた。月明かりの下で、その全身が初めてはっきりと見えた。
あまりにも大きかった。長い尾が道路を横切り、持ち上げた頭は、道沿いの木々の低い枝を押し分ける高さにある。全身の鱗は泥と血に汚れ、肩から背中にかけて古い傷が幾筋も走っていた。腹部は不自然に膨れ、呼吸のたびに脇腹が大きく動いている。その口元には、さっき噛み砕いていた車の破片が、まだ引っかかっていた。
「……何なのよ、あれ」
莉奈の声は震えていた。プルゴリは答えなかった。エンジンの音に反応したのか、恐竜がゆっくりと頭を傾けた。
次の瞬間、走り出した。その巨体からは想像もできない速度だった。後肢が地面を蹴るたびに土砂が跳ね、長い尾が左右へ振られる。周囲の木々を押し倒しながら、巨大な身体が林道を追ってくる。
「速い! 速い速い速い!」
「これは……!」
プルゴリが、ハンドルを握りしめた。
「……アンビリーバブル!」
「感想いらない!」
軽トラックは必死に逃げた。だが相手は、山の中を自在に走る巨大な肉食恐竜だった。舗装もされていない狭い林道を走る軽トラックとは、まるで勝負にならなかった。
巨大な影が、横に並んだ。莉奈は窓の外を見た。そこに、巨大な眼球があった。濁った瞳が、車内を覗き込んでいた。
「いやああああああっ!」
「オーマイガァァァッ!」
巨大な顎が開いた。ヘッドライトの光が、牙の内側を一瞬だけ照らした。そして、軽トラックの前が、突然持ち上がった。
◇
何が起きたのか、莉奈には分からなかった。車体が大きく傾き、シートベルトが胸へ食い込んだ。フロントガラスに無数の亀裂が走り、ダッシュボードから細かな破片が飛び散る。前輪が空転し、エンジンが悲鳴のような音を立てていた。
軽トラックが、宙に浮いていた。巨大な恐竜が、車体の前部を噛み上げたのだった。莉奈は必死にドアへ手を伸ばした。何度引いても、歪んだドアはびくともしなかった。
「開けて! 開けてよ!」
「莉奈さん! ここはクイックな――」
「早くして!」
プルゴリが助手席の側へ手を伸ばし、全身の筋肉を使ってドアの取っ手を引いた。それでも、動かなかった。
巨大な顎に、さらに力がこもった。金属が潰れる音がした。莉奈は、目の前のプルゴリを見た。あれほど陽気だった大男の顔から、すべての笑みが消えていた。
「……プルゴリ」
彼は、真っ白な歯を見せた。笑ったのではない。恐怖で、顔が引きつっていた。
「……これは、非常に……」
言葉は続かなかった。
その瞬間、莉奈はようやく理解した。自分たちが運んでいた荷物のことも、借金のことも、健一から奪い損ねた五百万円のことも、もう何の意味もなかった。今、自分たちを捕らえているのは、交渉も説得も通じない巨大な肉食恐竜だった。
車体が、大きく振り回された。天地が逆さまになり、次の瞬間、軽トラックは地面へ叩きつけられた。車内の明かりが消えた。
恐竜は、すぐには次の動きを見せなかった。叩きつけられた衝撃で、エンジンがかえって大きな唸りを上げ、空転したままの前輪が雪を跳ね上げていた。恐竜の頭は、その音のほうへ向いていた。巨大な前肢がボンネットを押さえつけ、顎が、まだ動き続けているエンジンへ食い込んでいく。
その暗闇の中で、少女の声が聞こえた。
「……誰か、いるの?」
莉奈は最初、幻聴だと思った。だが、もう一度、確かに聞こえた。
「……助けて……」
荷台のほうからだった。プルゴリも気づいて、顔を上げた。
「……莉奈さん」
「分かってる!」
莉奈は歪んだドアを必死に押した。やはり、動かない。
そのとき、プルゴリが運転席から身体をねじり、助手席のドアへ両足を突っ張った。
「……フィジカル!」
「何!?」
「フィジカル・ソリューションです!」
プルゴリは、全身の筋肉を使ってドアを蹴り飛ばした。金属が大きな音を立て、歪んだドアが外へ弾け飛ぶ。
「……開いた」
「パワー・イズ・ジャスティス!」
「今だけは認めるわ!」
莉奈はシートベルトを外して外へ転がり出た。プルゴリも続いて這い出し、二人は荷台へ回った。すぐ向こうでは、恐竜がエンジンを噛み砕く音が続いていた。
荷台では、黒いケースの一つが、内側から小さく揺れていた。留め具に鍵はかかっていなかった。蓋を開けると、毛布にくるまった少女がいた。
十四、五歳ほどだろうか。髪は乱れ、顔には涙の跡が残っている。手首には細い結束具が巻かれていたが、片方はもう外れていた。少女は、莉奈を見上げた。
「……助けて」
自分たちが運んでいた荷物の中に、人間がいた。しかも、子供だった。莉奈は一瞬、言葉を失った。プルゴリも、珍しく黙っていた。
背後で、エンジンの唸りがぷつりと途切れた。恐竜が、顔を上げる気配がした。
「プルゴリ」
「……はい」
「この子、連れて逃げるわよ」
プルゴリは少女を見て、それから巨大な恐竜のほうを見た。そして、力強く頷いた。
「……イエス」
プルゴリが少女を毛布ごと抱え上げた瞬間、背後で巨大な咆哮が響いた。
◇
逃走は、ほとんど無我夢中だった。
軽トラックはもう走れない。三人は林道を走って逃げるしかなかった。少女は自分では走れそうになかったが、プルゴリが抱えていたおかげで、どうにか速度を保つことができた。
「莉奈さん! このままではランニング・パフォーマンスに限界が!」
「分かってる! どこか隠れられる場所を探して!」
「アンダーストゥッド!」
背後では、巨大な恐竜が軽トラックの残骸を噛み砕く音が続いていたが、やがてそれも聞こえなくなった。代わりに、森の奥から低い唸り声が響いた。
追ってきている、と莉奈は直感した。前方に、古い作業小屋が見えた。
「プルゴリ! あそこ!」
三人は小屋へ飛び込み、扉を閉めた。中には古い工具や木材が積まれており、埃っぽい臭いがした。窓は小さく、外から中の様子はほとんど見えない。プルゴリが少女を床へ下ろし、莉奈は震える手で扉の内側から鍵をかけた。
その直後、外で巨大な足音が響いた。地面が揺れ、小屋の壁がわずかに軋んだ。莉奈は息を止めた。少女も両手で口を押さえている。プルゴリでさえ、何も言わなかった。
足音が、小屋のすぐ外で止まった。荒い呼吸の音がした。湿った鼻息が、壁の板の隙間から吹き込んでくる。何かを嗅いでいる。腐った肉と胃液の臭いが、小屋の中にまで流れ込んできた。
莉奈は目を閉じた。今度こそ終わりだと思った。だが、やがて呼吸の音は苦しげに乱れ、足音は重たく、ふらふらと揺らぎながら、千鳥足のように遠ざかっていった。まるで、それ以上動き続けることができないかのように。
三人は、それでもしばらく動かなかった。十分ほど経ってから、ようやくプルゴリが小さく息を吐いた。
「……サバイバル」
莉奈は、彼を睨んだ。
「……今、何て?」
「……サバイバル・サクセス」
「……うるさい」
けれど、その声には、もう怒鳴るだけの力が残っていなかった。暗い小屋の隅で、少女がぽつりぽつりと話し始めた。家出をしていたところを、親切そうな大人に声をかけられたこと。泊まる場所を用意してくれると言われ、車に乗ったこと。そのあと何かを飲まされて、気がついたときには暗い箱の中にいたこと。
莉奈は黙って聞いていた。詐欺をしていた自分が言えた義理ではない。それでも、子供を荷物として運ばせるなど、聞いていなかった。
「……あいつら」
莉奈は、唇を噛んだ。
◇
夜明け前、三人はようやく山を下りた。
作業小屋から林道を慎重に進み、途中で舗装された県道へ出ることができた。少女はプルゴリに抱えられたまま眠っており、莉奈も何度か足を止めなければならないほど疲れ切っていた。
やがて、遠くに街灯が見えた。その下に、小さな交番があった。莉奈は、思わず笑った。
「……警察だ」
「……ポリス」
「そうよ。警察よ」
「……リーガル・ソリューションですね」
「もう何でもいいわよ」
中から出てきた警察官は、泥だらけの男女と、大男に抱えられた少女を見て、目を丸くした。
「どうしました!?」
莉奈は説明しようとした。けれど、言葉が出てこなかった。巨大な恐竜も、噛み砕かれた車も、荷台にいた少女も、逃げ続けた山道も、すべてが頭の中で混ざり合い、何から話せばいいのか分からなかった。
結局、最初に口を開いたのはプルゴリだった。
「……エマージェンシーです」
「はい?」
「……ビッグなダイナソーに……」
プルゴリは、少女を抱え直した。
「……アタックされまして……」
莉奈は、思わず彼の背中を叩いた。
「普通に説明しなさいよ!」
警察官は困惑した顔で、それでも聞き返した。
「恐竜って……もしかして、黒いやつですか。最近この辺に出た、温泉の」
「違う」莉奈は首を振った。「もっと大きいの。十メートルくらいあった。泥だらけで、臭くて、ボロボロで……」
警察官の顔から、困惑が消えた。彼は少女の様子をもう一度見ると、表情を引き締め、すぐに無線で応援と救急車を要請した。それから、少し迷ってから、県の恐竜対策の窓口へも連絡を入れた。
莉奈は、交番の前のベンチへ座り込んだ。プルゴリも、その隣へ腰を下ろした。
濃紺のスーツは泥だらけで、片方の袖は破れ、肩の縫い目は完全に裂けていた。あれほど誇らしげだった筋肉も、今は寒さと疲労で小刻みに震えている。莉奈はしばらく何も言わなかったが、やがて、隣のプルゴリを見た。
「……ねえ」
「……はい」
「もう、こういう仕事やめましょう」
プルゴリは、深く頷いた。
「……イエス」
「詐欺も、密輸も、変な投資話も、全部やめるの」
「……アンダーストゥッド」
「普通に働くのよ。普通に」
プルゴリはしばらく考え込み、それから、真剣な顔で言った。
「……では、次はインフィニティなソーシャルワールドへのキャリアチェンジを――」
「それはいいわよ!」
莉奈は思わず怒鳴り、それから、笑ってしまった。プルゴリも、つられて笑った。二人とも、笑いながら泣いていた。
寒さと疲労で身体は震え、服は泥だらけで、借金も残っている。警察には事情を説明しなければならないし、場合によっては逮捕されるかもしれない。
それでも、少なくとも生きていた。少女も助かった。今は、それだけで十分だった。
莉奈は両手で顔を覆った。
「……もう、やだぁ……」
プルゴリは空を見上げた。
「……ノーモア……映画泥棒」
莉奈は、涙声で叫んだ。
「こんな危ない仕事、もう懲り懲りだぁぁぁ!」
プルゴリも、両手を上げて叫んだ。
「ノーモア・デンジャラス・ビジネスゥゥゥ!」
冬の山あいに、二人の情けない叫び声が響き渡った。交番の窓から警察官が顔を出し、何事かと周囲を見回したが、莉奈もプルゴリも構わず泣き続けていた。
やがて、夜明けの薄い光が山の稜線を照らし始めた。
その光の中で、泥だらけの男女が並んで座り、泣きながら笑っている。まるで古いコメディ映画のラストシーンのように、二人を囲む景色がゆっくりと狭まっていく。
最後に残ったのは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった莉奈の顔と、その隣で白い歯を見せながら泣いているプルゴリの顔だった。
そして、二人の情けない叫び声を残したまま、視界は小さな円となって閉じていった。
第31章 アイリスアウト 了
なんかこの二人は書いてて楽しい
ポケモンのロケット団の二人とか、なんか日朝アニメの悪役のイメージ
評価や感想をいただけると、嬉しくてモチベーションが上がります。作品の投稿頻度や面白さにも繋がりますので、ぜひお願いいたします。