午後四時半を過ぎた頃、救急車が最後の負傷者を運び出した。
造成地では捕獲された草食恐竜の周囲を獣医師と警察官が動き、駆除された個体の搬送準備も始まっていた。その少し離れた場所では別の班が、逃げた二頭の肉食恐竜について新しい捜索範囲を地図へ書き込んでいる。
榊原は、その地図をしばらく黙って見ていた。
右袖は裂け、靴には泥がこびりついている。朝からまともに休んでいない。それでも普段の榊原なら、必要な人員を確認し、次の指示を出して終わるところだった。
「……ふざけるなよ」
低い声だったため、最初は誰も自分へ向けられた言葉だと思わなかった。
御門だけが資料から顔を上げると、榊原は地図ではなく、搬送準備をされている草食恐竜を見ていた。
「異常行動が肉食だけじゃねえのは知ってた。報告も読んでる」
そこで一度言葉を切った。
「でもな。何で今なんだよ」
御門は何も言わなかった。
「長野で五頭だ。三頭は現地のハンターが仕留めてくれた。そっから必死で探して、警察も消防も自治体も引っ張り出して、道路を止めて、学校まで閉めて、死人まで出して、ようやく残りの二頭をここまで追い込んだ。あと数秒だったんだぞ」
榊原の声が少しずつ大きくなる。
誰かを責めているわけではない。草食恐竜が乱入したとき、人間を優先して二頭を逃がした判断についても、間違っていたとは思っていなかった。もう一度同じ状況になれば、同じ命令を出す。
だからこそ、ぶつける相手のない苛立ちだけが残った。
「そこへ草食が八頭だ。ハンターを数人足せば済む話じゃねえ。ここ数日で何人動いたと思う。交通規制、避難誘導、航空監視、救急の待機、連絡要員。全部どこかから引き抜いてきてるんだ。自衛隊は北海道と九州に出たきりで、こっちには一個小隊も回ってこねえ」
榊原の拳が地図台の縁を叩いた。
大きな音ではなかったが、近くにいた何人かが振り返った。
「同じ時間に甲府でもう一件起きたらどうする。長野でまた出たら。東京で出たら。そこへ、あの足跡の主まで出てきたら。この国は、こういうのが同時に起き続けることを前提にできてねえんだ。海の向こうじゃ、もう軍だの州兵だのが街に出てる。同じことが、ここでも起きるぞ」
誰も答えなかった。
一時間ほど前に宮下が無線で読み上げた数字は、造成地にいた全員の耳に、まだ残っていた。肉食恐竜と思われる足跡、八十二センチ。登録なし。
「一件なら回せる。二件でも、場所次第で何とかなる。だが同時に起き続けたら、予備を出し切ったところに次が来る。交代のいない班を休ませずに回せば、どこかで判断を間違える」
榊原は乱暴に息を吐いた。
「……一頭倒せるかどうかの話じゃねえんだよ」
榊原はそう言って、ようやく口を閉じた。
御門にも否定できなかった。
恐竜一頭を倒す能力があっても、同時に十か所で事件が起きれば、必要な人員は十倍増えるというわけではない。現場の人員だけでなく、輸送、医療、通信、交通規制、住民避難まで含めた体制全体に限界がある。これまで積み上げられてきた対策は、一頭あるいは一群の危険な恐竜をどう封じ込めるかというものだった。複数の地域で異常個体が続けて発生する状況を、吸収できるようには作られていない。
それは、日本だけの話でもなかった。御門が毎週参加している海外の研究者とのオンライン会議では、この数か月、報告の数が回を追うごとに増えていた。北米でも、欧州でも、南米でも、人工恐竜が人間を避けなくなっている。どこの国も対処に追われ、原因を調べる余力のある研究者は、ほんの一握りしかいなかった。画面の向こうの顔ぶれは、会議のたびに疲れていくように見えた。
榊原の発する覇気はおおよそ歴戦のハンターすらも一歩退かせ、揺らめくような怒りが目に見えるような圧を放っていた。
「だから、発生そのものを減らす必要があるんです」
それにひるまず御門は静かに言った。
「対処能力の増強は必要です。でも、それだけではいずれ頭打ちになります。原因を特定して、発生を予測するか、発生条件を潰す。少なくとも、どの個体が危険なのかを事前に評価できるようにしないと」
「いつまでに?」
うなるような榊原の問いに、御門はすぐには答えなかった。
分からないものを、分かるとは言えない。
「期限は言えません」
「だよな」
「ただ、今日までより調べられることは増えました」
榊原が視線を向けると、御門は確保された草食恐竜のほうを見た。
「三頭、生きています」
「そういうときだけ嬉しそうに言うなよ」
「嬉しそうには言ってません」
「言ってる」
「研究上重要なんです」
御門は少しだけ声を強めた。
その反応で、榊原の険しかった表情がわずかに緩む。
「……悪い。あんたに怒っても仕方ねえな」
「構いません」
「構えよ。俺が嫌な奴みたいだろ」
「今さらです」
榊原が顔を上げた。
「お前な、ちっとは年上を敬えよ」
「少し戻りましたね」
御門はそれだけ言うと、手元の資料を開いた。
榊原は何か言い返そうとしたが、頭を書きながら所在なしに周囲を見て、結局やめた。
◇
対策本部へ戻った御門が最初に求めたのは、今日現れた八頭の個体記録だった。
八頭は同種で、発見された時点では同じ群れとして行動していた。それにもかかわらず、六頭が人間や車両への異常な接近と追跡を示し、残る二頭は騒ぎが激しくなると人間から離れて山へ逃げた。
現在の生息環境だけを比べれば、条件はかなり近い。
「この二頭が鍵です」
御門は大型モニターへ、山側へ逃げた二頭の映像を表示した。
「異常行動を示した六頭からは、生体三頭の試料と、死亡三頭の病理解剖資料が得られます。ですが、それだけでは異常個体に共通する特徴しか分かりません。正常な回避行動を示した二頭と比べられれば、異常個体に特有の要因を絞り込める可能性があります」
研究班の職員が頷いた。
「同一群内の症例対照比較ですね」
「ええ。ただし、同じ群れにいたからといって、出生環境まで同じとは限りません。それにこの逃げた二頭は他の個体と比べて、やや幼いように見えます。まず個体識別と履歴の照合が必要です」
御門は、これまでに集めた資料を開いた。
出生地、孵化時期、幼体期を過ごした施設や地域、移送記録、飼育環境の変化。異常個体については、発見時点の状況だけでなく、それ以前の履歴を可能な限り遡る作業を進めていた。
「優先順位を言います。まず八頭の由来の確認。標識、既存の個体識別記録、遺伝情報、使えるものはすべて照合してください。そのうえで、孵化時期、出生地、初期飼育環境、移送履歴を比較します」
「生体三頭は、どの検査を優先しますか」
「一般血液検査と生化学検査、内分泌系の評価、感染症スクリーニングを先行。神経学的評価は、鎮静の影響を除外できる条件で実施します。薬剤投与直後の反応を、本来の行動特性として扱わないように」
御門は画面を切り替えた。
「死亡三頭は病理組織検査を優先。特に中枢神経系は、採取部位と保存条件を統一してください。採取時刻、保存方法、薬剤投与歴を記録して、後から比較できなくならないように」
担当者が記録を取りながら尋ねた。
「異常行動と神経組織の変化を対応させる方針ですね」
「それも一つです。ただし、組織に変化がなかったからといって、神経機能に異常がないとは言えません。逆に、何か所見が出ても、それが攻撃行動の原因とは限らない。関連と因果関係は、分けて考えてください」
御門は八頭の番号を並べた。
「今回の事例で最も価値があるのは、異常行動を示した個体と、同じ環境で通常の回避行動を示した個体が、同時にいたことです。発生地点だけを調べるより、ずっと多くの比較ができます」
壁際で聞いていた榊原が資料を覗き込んだ。
「要するに、どこで違いが出たのかを調べるわけか」
「そうです。ただし、違いが見つかっても、それが原因とは限りません」
「分かりにくいな」
「例えば、異常な六頭の出生地が同じだったとします。でも、その場所で生まれた個体がすべて異常になるとは限らない。逆に正常な二頭の出生地が違っても、ほかの条件が効いている可能性があります」
「じゃあ、何が分かれば原因だと言える?」
「少なくとも、別の集団でも同じ関係が確認できること。発生時期や条件に矛盾がないこと。そして、その要因で異常が起きる仕組みを説明できることです」
榊原はしばらく考えた。
「……先は長そうだな」
「はい、それでも進まなければ永遠に答えにはたどり着けません」
御門は否定しなかった。
「でも、調べる順番は決められます。闇雲に検体を増やすより、そのほうが早い。そしてそれをするのが我々研究者の仕事です」
担当者が別の資料を開いた。
「山へ逃げた二頭については、追跡を依頼しますか」
「お願いします。ただし、行動観察を優先してください。捕獲を目的に追い回せば、人間への反応そのものが変わってしまいます」
「生体試料は必要では?」
「必要です。でも、比較対象を得るために正常な個体へ強いストレスを与えたら、検査結果の解釈が難しくなる。安全な捕獲機会がなければ、まず遠隔観察と非侵襲的な試料採取で行きます」
「捕まえられるなら捕まえたいんだろ?」
榊原が訊いた。
「当然です」
「ずいぶんと欲張りだな」
「研究者ですから、真相にたどり着くためには何でもしますよ」
「そういうところは冷静なんだな」
「どういう意味ですか」
「別に」
榊原は視線を逸らした。
御門は追及せず、八頭の孵化時期と出生地を照合するための依頼を追加した。
依頼の最後に、もう一行だけ書き足す。南東林道、第二沢の大型足跡。石膏型の採取と、周辺の糞、皮膚片、体液の回収を最優先で。
「それも、こっちで見るんですか」
担当者が訊いた。
「見ます。今、ほかに見る人がいないなら、なおさら」
御門は足跡の写真をもう一度大きく表示した。三本の指のうち、いちばん外側の一本だけが、わずかに内側へ曲がっている。古い怪我か、生まれつきの癖か。どちらにしても、国内に登録されたどの大型個体の記録とも一致しなかった。
「……どこで生まれたのかしら」
小さく呟いた問いに、答えられる者はいなかった。
「榊原さん」
「なんだ」
「大型は、中型より成熟が遅いんです。小型、中型と来た順番が、もし本当に卵の時期の何かと関係しているなら」
「次は大型だ、って言いたいのか」
御門は答えなかった。答えないことが、そのまま答えになっていた。
榊原は、画面の中の足跡を見下ろした。
「……北へ行ったんだったな」
「はい」
「北には何がある」
「町です。人がいます、それも数万人単位で」
御門は地図に目を移した。
「そして、まだ何の注意喚起も出ていません。中型肉食恐竜の件はともかく、この超大型とも言える何者かについては」
原因を探す場所は、現在の生息地だけではない。異常な行動が観察されるより前に、何かが起きていた可能性もある。
ただし、それはまだ可能性にすぎなかった。
同じ群れにいた八頭のうち、なぜ六頭だけが人間を追ったのか。その違いがいつ生まれたのか。生まれつきのものなのか、成長の途中で生じたものなのか、あるいは現在の環境に対する反応なのか。
御門は、そのどれも決めつけなかった。答えにはまだ遠い。だが、同じ問いを繰り返しているわけでもなかった。
◇
午後十一時を過ぎても、灰褐色の二頭は見つかっていなかった。
群馬県内では複数の道路へ監視要員が置かれ、周辺自治体にも情報が共有されている。南東方向の市町村には注意喚起が出され、夜間の不要不急の外出を避けるよう呼びかけられた。
捜索は警察による道路監視と、ハンターによる山林側の警戒を中心に組み直されていた。航空監視も継続していたが、夜間の山林では樹冠や地形によって熱源を見失うことがある。発見したとしても、それが逃走個体なのか、同じ程度の体格を持つ別種なのかを確認しなければならなかった。暗視装置を積んだ自衛隊のヘリが一機でもあれば話は違ったが、県の派遣要請は、今夜も順番待ちのままだった。
それでも山は広く、二頭には道路を使う理由もなければ、県境を避ける理由もない。沢を渡り、林を抜け、人間なら迂回する斜面をそのまま越えていけば、監視網の隙間はいくらでも生まれる。
午後十一時二十七分、山中を通る県道沿いの防犯カメラが二つの影を捉えた。灰褐色で、ほぼ同じ大きさ。
二頭は道路を横切っただけで立ち止まらず、六秒後には画面から消えた。映像が対策本部へ送られる。担当職員は時刻と位置を確認し、体格、体色、移動方向が逃走個体の特徴と一致することを報告した。
「逃走個体二頭の可能性が高いです。映像上、個体の確定識別まではできませんが、体格、体色、移動方向は一致しています」
「位置は?」
「最終確認地点から南東です」
職員は地図へ新しい印を置いた。
「……また南東か」
その先にも山地は続いていた。
そして、その向こうにはさらに多くの町があった。
北側の監視カメラには、その夜、大きな影は一度も映らなかった。八十二センチの足跡は、沢の合流点から北へ二百メートルほど続いたあと、岩場へ入ったところで途切れていた。
◇
同じ夜、男は日中に見つけておいた埼玉県西部の小さな公園へ、暗くなってから戻っていた。
休憩所に設置されたテレビが、外からでも見えることを覚えていたからだ。建物には近づかず、植え込みと木立を挟んだ暗がりへ身体を伏せる。二号も少し離れたところで、昼間に拾っておいた木の実を噛んでいた。
「長野県で違法輸送中に逃走した中型肉食恐竜二頭は、現在も行方が分かっていません。本日午後、群馬県内でハンターらが二頭を包囲しましたが、付近に生息していた草食恐竜の群れが現場へ侵入し、作戦は中断されました」
画面には灰褐色の二頭が映った。男はしばらくそれを見た。
「現場では草食恐竜八頭のうち六頭が人間や車両への攻撃的な行動を示し、三頭が駆除、三頭が捕獲されました。残る二頭は山林へ逃走しましたが、人間への攻撃行動は確認されていません」
ニュースは続いた。
「専門家は、同じ群れの中でも行動に違いが見られたことについて、今後の原因究明につながる可能性があるとしています」
「続いて、全国の恐竜被害です。北海道東部では、自衛隊の災害派遣が二週間目に入りました。九州では、山間部の集落で異常行動を示す個体の駆除が続いています。また、海外でも被害が相次いでおり、欧州の一部の国では非常事態宣言が出されています」
地図のテロップが、次々と切り替わっていく。日本の地図の上に、赤い印がいくつも灯った。それから、世界地図の上にも。
(……どこもかしこも、かよ)
男は、暗がりの中で目を細めた。自分が山の中を歩いているあいだに、世の中はずいぶん騒がしくなっていたらしい。
男は画面に映った角竜類を見た。
種類は違う。それでも、人間を見ても退かず、一度向かってくるとなかなか止まらないという説明には覚えがある。
二号と出会った日、岩壁の前でこちらへ突っ込んできた五頭もそうだった。
そして、昼に防災無線が言っていた長野の二頭も、同じ質のものだという。
(……あれの肉食版かよ、ゾッとしねぇな)
勘弁してほしかった。
こちらは青森からここまで来て、ようやく東京が目の前まで来ている。危険な恐竜を探して戦う仕事などしていないし、するつもりもない。ハンターも警察も動いているのだから、任せておけばいい。……任せておける、はずだった。
男は前肢でスポーツバッグを引き寄せ、中から折り畳んだ地図を取り出した。
長野から群馬。
ニュースで示された南東という方角を大まかに重ねながら、その先へ視線を動かす。
危険なものがいるなら、自分たちは少し離れた道を選べばいい。これまでだって、そうやって面倒を避けながら青森からここまで来た。
経路を確認していた前肢が止まった。
東京都の西側。
そこには、ずっと目指してきた地名があった。
八王子。
男はしばらく地図を見たまま動かなかった。
二頭が八王子へ向かっているとは限らない。南東などという大雑把な情報だけで、そんなことは分からない。途中で方向を変えるかもしれないし、明日にでもハンターが仕留めるかもしれない。
昼に防災無線を聞いたときは、ただの嫌な予感だった。地図の上に線を引いてみて、それが少しだけ形を持った。
二号が木の実を食べ終え、こちらを見る。
男は地図を畳んでスポーツバッグへ戻すと、短く二度、喉を鳴らした。二号がすぐに立ち上がり、その横へ寄ってくる。
男はもう一度だけ、暗い休憩所のテレビを見た。
画面では、灰褐色の二頭の映像が繰り返されていた。公園を離れようとしたとき、風向きが変わった。
西の山のほうから、冷えた夜気に混じって、知らない匂いが流れてきた。
獣の匂いだった。それも、ひどく重い。これまで嗅いできたどの恐竜とも違う。福島で戦った赤い恐竜の匂いに、どこか似ている気もした。けれど、もっと古く、もっと乾いていた。
二号が、男の脚に身体を押しつけてきた。小刻みに震えている。
匂いは一度きりで、すぐに風に散った。遠い。たぶん、ずっと遠い。
(これは……ずいぶんな化け物がいるみたいだな)
男はしばらく、西の暗い山を見ていた。何も見えなかった。何も聞こえなかった。テレビは、その匂いについて何も言っていなかった。
男は二号に短く二度喉を鳴らし、山とは反対側の木立の中へ入った。
東京は、近い。長い旅の道のりも、わずかとなってきた。
第32章 真相への道のり 了