平野は人が多すぎる。
埼玉県西部まで来た男は、そのまま市街地へ近づくことを避け、秩父の山から山梨県東端をかすめるように南東へ抜ける道を選んでいた。地図の上ではずいぶんな遠回りだが、道路や住宅地を横切る回数を減らせるなら、そのほうがいい。人間に見つからずに移動することの難しさは、青森からここまでで嫌というほど思い知らされていた。
その山へ入ってから、血の匂いを何度か嗅いでいる。
最初は遠かった。冷えた山の空気の底に、意識しなければ分からない程度に混じっているだけだったから、鹿か何かが怪我をしたのだろうと思っていた。ところが尾根を一つ越えたあたりで、急に濃くなった。血だけではない。獣の体臭と、裂かれたばかりの肉の匂いが、谷のほうから風に乗って流れてくる。
二号が足を止め、谷へ顔を向けた。鼻先がひくひくと動いている。一歩、そちらへ踏み出しかけた。
(そっちには行かないぞ、嫌な予感しかしない)
男は二号の前へ身体を入れた。食べ物には困っていないし、他の捕食者の獲物へわざわざ近づく理由もない。熊かもしれないし、別の恐竜かもしれない。何より昨夜のニュースでは、人間を襲った灰褐色の肉食恐竜が二頭、このあたりのどこかを移動していることになっていた。
危険なものからは離れる。青森からここまで来る間に、身体に叩き込んだ原則だった。
短く二度、喉を鳴らす。二号は名残惜しそうに一度だけ谷を振り返り、それから男の後ろについた。男は獣道を外れて斜面へ入り、谷とは反対側の尾根筋を、風下を保ったまま南東へ進んだ。
◇
谷を一つ挟んだ向こう側では、灰褐色の肉食恐竜が二頭、倒れた鹿の上にいた。
一頭は腹へ深く頭を突っ込み、もう一頭は少し離れたところで首を上げている。鹿はもう動かない。周りの落ち葉は踏み荒らされ、逃げた群れの足跡が四方へ散っていた。
首を上げていた一頭が、不意に向きを変えた。
尾根の上で、枝が一本折れる音がしたのだ。
灰褐色の頭が、音のしたほうを見据える。肉を食んでいたもう一頭も顔を上げ、血に濡れた口を半開きにしたまま、同じ方向へ視線を向けた。
尾根の向こうでは、黒い大きな身体が斜面を登っていた。距離はそれほど離れていない。ただ、尾根の稜線と密な木立が、互いの姿を完全に隠していた。風は谷から尾根へ吹き上げている。黒いほうの匂いは、谷底へは降りてこない。
黒い身体も、ふと足を止めた。谷のほうへ頭を向け、しばらく動かない。
灰褐色の一頭が、斜面へ一歩踏み出した。その瞬間、すぐ下の茂みから小さな草食恐竜が飛び出した。
鹿の血の匂いと捕食者の気配に耐えきれなくなったのだろう。小さな身体は茂みを突き破り、谷沿いへ転がるように逃げていく。二頭の頭が、そろってそちらへ向いた。動くもの。小さいもの。一頭が数歩追いかけ、小さな恐竜が倒木の向こうへ消えたところで、ようやく足を止めた。
二頭が再び尾根を見上げたとき、そこにはもう何の気配もなかった。黒い影は、とうに稜線の向こうへ消えていた。
互いの姿を見ることは、一度もなかった。
◇
昼を過ぎると、山の傾斜は少しずつ緩くなった。
人の生活圏が近づいていることは、匂いと音で分かる。遠くを走る車の音が途切れなくなり、山の中にも舗装された林道や送電線の鉄塔が現れ始めた。人目を避けて道路から距離を取ってはいるが、もう山深い場所ばかりを選んでいられる段階ではない。
東京は近い。
そう思うたびに、歩幅が勝手に広がった。長野から群馬にかけて脱走した肉食恐竜のニュースも頭から離れない。二頭が本当に八王子へ向かっているのかは分からないし、自分が戦う理由もない。それでも同じ方角へ近づいている可能性があるなら、できることは一つだけだった。
(あのニュースのやつらがもし都内に進むなら、先に八王子に着きたいな)
家族に何かが起きると決まったわけではない。何も起きない可能性のほうがずっと高い。分かっていても、足は前へ出たがった。
二号はそんな事情などおかまいなしだった。少し先へ走っては戻り、茂みに鼻先を突っ込み、今度は落ち葉の下から何かを掘り出そうとしている。男が歩き続ければ慌てて追ってきて、追いついたと思えばまた横へ逸れる。
(どうした、落ち着かないな)
二号がこちらを見た。何か返事をしたつもりらしく、鼻を一度鳴らして、また茂みへ戻っていった。
しばらくして、休めそうな場所が見つかった。使われなくなった資材置き場らしく、錆びた波板と古い木材が積まれていて、その裏側なら道路からも見えにくい。新しい人の匂いがないことを確かめてから身体を伏せると、二号も近くの落ち葉を前肢で何度か掻き、自分なりに具合のいい窪みを作って丸くなった。
男はスポーツバッグを引き寄せた。
地図を出そうとして、手前に入っていた缶に爪が当たった。昨日、自販機で買った温かいお茶だ。とっくに冷めている。かつて人間だったころに誰に渡したのか思い出せないまま、なぜか捨てられずにいる缶だった。
その缶を脇へ寄せたところで、前肢が止まった。
(……そろそろ、練習しとくか)
家まで帰れたとして、その先をどうするか。そこについては、まだろくに考えていなかった。
玄関の前に四メートルを超える肉食恐竜が突然現れて、母親が「あら、おかえり」で済ませてくれるとは思えない。父なら警察を呼ぶ。妹なら、たぶんその前にスマートフォンを構える。
そもそも、家族が自分だと気づく保証などどこにもない。声は出せない。顔も違う。身体に至っては、人間だったころとの共通点を探すほうが難しい。頭を下げる癖ひとつで「息子です」と押し通すには、さすがに無理がある。
なら、書くしかない。
男は土の露出した平らな場所を選び、前肢の指で地面を引っかいた。
最初に書いたのは、「た」だった。
――のつもりだった。
地面には、何かの爪痕にしか見えない線が三本、斜めに走っていた。熊が木で爪を研いだ跡のほうが、まだ字に見える。
(汚いな)
大きすぎる前肢で、細かい線を引くのは難しい。以前にも文字を書いたことはあるが、誰かに読ませるための字をきれいに書こうとすると、まるで勝手が違った。爪の先を使えば土に深く刺さりすぎ、指の腹を使えば線が太く滲む。中間を探して、男は爪の背を寝かせてみた。
二回目の「た」は、ぎりぎり「た」に見えた。
続けて「だ」を書くと、濁点がずいぶん遠くへ飛んでいった。これは「た」の隣に虫が二匹いるだけではないかとしばらく悩んだが、読めないことはないので先へ進む。「い」は二本線なので比較的楽だった。問題は「ま」で、最後に輪を作って払うところで爪が土に引っかかり、線は大きく右へ曲がって、そのまま地面の外まで逃げていった。
男は四文字を眺めた。
た だ い ま
読めなくはない。少なくとも、自分には読める。問題は、自分に読めても意味がないことだった。男は前肢で土を均し、もう一度最初から書き始めた。
二号が起き上がった。何をしているのか気になったらしく、とことこと近づいてきて、男が二回目の「た」を書いている横から鼻先を伸ばす。土の匂いを確かめ、首を傾げ、それから「た」の真上に前肢を置いた。
(おい、猫かお前は)
文字の半分が消えた。
二号は自分のしたことにまったく興味を示さず、積まれた木材の隙間へ鼻先を突っ込んだ。何か虫でも見つけたらしい。
(……まあ、練習だからな)
男は土を均した。
三回目は、最後まで書けた。そこで少し欲が出た。「ただいま」だけでは、恐竜が覚えた芸だと思われるかもしれない。家族しか知らないことも書けば、信じてもらえるのではないか。
男は考えた。
家族しか知らないこと。妹が中学のころ、冷蔵庫に入れていたプリンを食べたのは自分で、父のせいにしたこと。父は三日間、身に覚えのない罪で妹に口をきいてもらえなかった。真相は、まだ誰にも言っていない。
(あの話なら通じるか? どうだろ、まぁやってみるか)
男は張り切って、「ぷ」と書いた。
半濁点の丸が、思ったより大きくなった。
次に「り」を書こうとしたところで、地面の残りが足りないことに気づいた。四メートルを超える身体で書く字は、一文字が人間の顔ほどもある。ここで「ぷりんをたべたのはおれです」と書き切るには、資材置き場の敷地がまるごと要る。そのうえ、恐竜が玄関の前で長文の自白を始めたら、それはそれで別の通報が入りそうだった。
男は「ぷ」を消した。
(……長いのは、無理だな。「ぷりんをたべた」で終わったら謎すぎる。何の報告だ、肉食恐竜が)
短く、それだけで分かる言葉でなければならない。
結局、戻ってくるのは同じ四文字だった。
自分の名前を書ければ一番早いのだろう。けれど肝心のそれだけは、今も頭の中から抜け落ちたままだった。家族の顔は思い出せる。家の玄関も、台所の窓も、廊下の軋む場所も覚えている。それなのに、自分が何と呼ばれていたのかだけが、どうしても出てこない。
それでも、「ただいま」なら覚えていた。
何度使ったか分からない言葉だった。実家の玄関を開けながら言ったこともある。妹には聞こえていなくて無視されたこともあれば、母が台所から返事をしてくれたこともある。父は聞こえているのかいないのか分からない声で、いつも何か応じていた。
一人で住んでいた部屋でも、言っていた。誰もいないのに。
なぜそうしていたのかは、うまく思い出せない。ただ、言わないと、どこかで一日が終わらない気がしていた。
たった四文字だった。けれど、今の自分が家族へ最初に伝えたいことを考えると、ほかには何も思いつかなかった。
四度目の「ただいま」は、少しだけきれいに書けた。最後の「ま」だけは、やっぱり少し右へ曲がった。
二号が戻ってきて、書き上がった四文字の上で丸くなった。
(……そこで寝るのか)
二号は目を閉じた。どうやら、ちょうどいい寝床だと判断されたらしい。
男はしばらく、その寝息を聞いていた。
◇
夕方になる前に、男は再び歩き始めた。
山の中を進んでいるとはいえ、道路から完全に離れることはもうできない。どこかで川を渡り、どこかで線路や幹線道路を越えなければならない。人間だったころなら地図アプリに目的地を入れれば済んだ距離を、今は人目と地形をにらみながら、少しずつ詰めていくしかなかった。
二号は相変わらず忙しい。前を歩いていたかと思えば急に止まって落ち葉の下を掘り、男が追い越せば後ろから走ってきて、今度は道路脇の排水溝を覗き込む。何がそんなに面白いのかは分からない。それでも、青森から一頭で黙々と歩いていたころに比べれば、この落ち着きのなさも悪くなかった。
やがて、木々の隙間から道路が見えた。
交通量は多くない。男は斜面の上で車が途切れるのを待ちながら、道路の向こうに続く地形を確かめた。
そのとき、大きな青い標識が目に入った。
いくつかの地名と矢印が並んでいる。その中の一つを、見間違えるはずがなかった。
八王子。
男の身体が止まった。
(…………あった)
地図では何度も見ていた。ニュースでも見た。青森を出た日から、頭の中ではずっとその名前を目指してきた。それでも、道路標識に白く抜かれたその三文字は、まるで別のものに見えた。地図の上の点ではない。この道の先に、本当にある場所だった。
(八王子だ)
もう一度読む。やはり八王子だった。矢印までついている。こっちですよ、と言わんばかりに。
男の尾が、大きく左右へ振れた。
自分では気づいていなかった。最初に気づいたのは二号だった。道路脇をうろうろしていた小さな身体が戻ってきて、揺れる尾をしばらく見上げ、それから、ようやく面白いものを見つけたという顔で追いかけ始めた。右へ振れれば右へ跳び、左へ振れれば左へ跳ぶ。
三往復ほどしたところで、男はやっと自分の尾が動いていることに気づいた。
尾を止めると、それを追っていた二号も止まった。
男がもう一度標識を見る。尾の先が、勝手にぴくりと動いた。二号もぴくりと動いた。
(やめろ、噛むなよ、しっぽって感情に連動して勝手に動くのかよ)
もちろん通じない。二号は期待に満ちた目で尾を見つめている。
道路を車が一台通り過ぎた。男は身体を木陰へ引いた。それでも、標識から目を離すことはできなかった。
青森から、何日歩いただろう。およそ4か月を超えていることはわかっている。
山を越えた。町を避けた。地図を拾い、温泉に入り、コーラを買った。自分より大きな恐竜と戦い、人間を助け、気づけば二号までついてきていた。夜中に何度も、もう無理なんじゃないかと思った。それでも朝になれば、南へ向かって歩いていた。
遠かった。本当に、遠かった。
その道の終わりが、ついに標識に名前が出るところまで来た。
(もうすぐだ、青森から比べたら目と鼻の先)
あの町に、家族がいる。母がいて、父がいて、妹がいる。
自分のことをどう思っているのかは分からない。そもそも、この姿を見て自分だと信じてもらえるのかも分からない。信じてもらえなかったときのことは、考えないようにしてきた。
それは、帰ってから考えればいい。
まずは家まで行く。そして、書く。
さっき何度も練習した四文字を、男は頭の中でなぞった。最後の「ま」が、やっぱり少し曲がった。
(ただいま、いい感じだ)
男は矢印の向きを目に焼きつけ、道路を渡れる場所を探して木々の中へ戻った。
二号は少し遅れてついてきた。途中でまた何かを見つけて横へ逸れ、数秒後に慌てて走ってくる。男は短く二度、喉を鳴らした。
二号が顔を上げる。今度は寄り道をせず、まっすぐ男の横まで走ってきた。
男はもう一度だけ、木々の向こうの青い標識を振り返った。それから、八王子の方角へ歩き出した。
第31章 ただいまの練習 了